第5話 不穏

「では、本日はここまで」

 学堂の主である安住あんじゅうがそう告げるなり、周りは一斉にがやがや騒がしくなった。

 背伸びをする者、後ろを向いて友人と談笑を始める者、すぐに師の元に駆け寄る者等々。行動は様々だ。海里は皆のそんな様を何一つ気にすることなく、机に広げていたものを片付け始めた。

 

 毛羽立った筆。いつ、はらはらと破れ散ってもおかしくはない書物。

 他の者達のまだ真新しいそれらとは違って、海里の物はぼろぼろと呼ぶにふさわしい状態だった。もちろん初めは綺麗だったのは言うまでもない。こうなったのは使い込んでしまった結果だ。


 筆記具も教書も全て、学堂に通うより以前に都の父から送り付けられてきたものである。勉学に励んでおけという簡単な文と共に受け取った書物は、優にこの学堂で使う分の数倍はあった。目の回るような量ではあったが、元々学ぶことが好きであったため、海里は結局、大した時間も要せずにそれらを全て読破した。

 今、手元にあるこの書にいたっては、既に何十回、何百回と読み込んでおり、中身も解釈も全て頭の中に叩きこんである。そうして独学で学んでしまった内容は、安住に改めて講義されるそれよりもずっと深く、高度だった。

 薄っぺらい表面だけの講釈しか出来ない彼の講義の時間は、退屈凌ぎにもならなかったが、海里は欠かさず訪れていた。玖波の屋形から離れられる折角の機会を無駄にするのは、非常に勿体ないからである。


 国府のすぐ隣にあるこの学堂は、先代の造によって建てたれたものである。師は、海里の父親と共に西から流れてきた安住という渡来人だ。

 彼もまた政局によって表舞台から引き摺り降ろされた人間だった。もう初老の域に達している彼は学識こそあれ、往年の体力や気力は失われてしまっているようで、大和の政界に戻る気はさらさらなかった。海里の父親は、そんな安住のために居場所を作ったのである。

 彼は若い芽を育てるべきだと造に説き、遂には自身の監督でこんなに立派な学堂を造ることまでやってのけた。その過程でそれなりに無茶をした場面もあったのは言うまでもあるまい。加えて彼がその建設途中で西に戻ることになってしまい、学堂は結局、未完成なまま始動してしまったのである。


 学問というものの価値のわからない者達は、内心で無駄な事だと舌打ちしていたことであろう。そんな背景も相まってか、若者が数多く集まっているというのに、誰一人として海里の興味を誘うような者はいなかった。

 少しでも好意的に非難するとすれば向上心が無い。本音をぶちまけてしまえば、馬鹿すぎて話にならない。

 けれど所詮、都から遠く離れた東国ではこの程度が限界であるとわかっていたから、周りの人間には何の期待もしていなかった。安住も内心で海里と同じような考えであったが、そこは年の功で表には見せないようだ。


 いつものように学友達に挨拶することもなく席を立とうとしていた時、海里は自分の名を呼ぶ安住の声に、嫌々ながらも壇上を振り返った。

「待ちたまえ、海里」

 堂内にいる者達の視線が一斉に向けられ、居心地の悪さを感じるのはいつものこと。海里は何を気にすることもなく、軽く会釈を返した。

「相変わらず素晴らしい解釈だった。全く、君はどこまでその才を見せ付ければ気が済むのだ」

 安住は貼り付けたような笑みを浮かべながら、堂中に聞こえるほどの高らかな声を張り上げた。

 都の父に恩義があるからなのか、それとも単に石賀への媚びなのか。内心は定かでないが、彼は毎回のようにこうして世辞を言う。だが、彼が海里の才を妬んでいることは火を見るより明らかだ。

「御褒めの御言葉ありがとうございます」

 海里はいつも通りの挨拶を返したが、そこに心などこれっぽっちも入っていない。その場凌ぎのための権力に取り付かれた敗者など、誰が尊敬出来ようか。東国で安定した生活を得てからというもの、安住の堕落ぶりは目に余るものがあった。


 なまじ学識がある故に、要領もいい。造はもちろん、石賀や各郡の司の懐に入り込み、彼らの財を増やすための策を次々と編み出しては実現してきた。そして自分はそのおこぼれを頂戴しては、せこせこと財を成してきたのである。

 中でも、石賀や谷田とは妙に気が合っているようで、しばしば玖波に出入りしては余計な知恵を授けていた。敢えて言えば此度の神職者への厳罰も、元々は安住の言い出した事なのである。


「都の父君も、さぞかし、」

「父は関係ありませんから」

 海里は彼の言葉を遮ると、きっぱりそう言った。

 自分を捨てたも同然の父親には何の感情もなかったが、それでも今の安住からその名を口にされると虫唾が走った。正確な事などわからないが、父親が認めた頃の彼とは違うであろうことは何となく感じられる。

 あくまでも素っ気ない態度を貫いていると、安住はわずかに表情を歪めたが、何もなかったかのように再び笑顔を向けてきた。

「君ならば、今すぐにでも国府で要職につける。どうだ、誰かに仕官しては?」

「いえ、私など未熟者でございます。まだまだ先生の教えを乞わねばなりません」

 珍しく殊勝な言葉が出てきたことに自分でも驚いたが、それ以上に安住は度肝を抜かれたようである。彼は顔を思い切り引きつらせると、慌てて取り繕った声を出した。

「何を言うか。海里、もう私から教えることなどほとんどなくなってしまったよ。これからは実践で政治を学んでいったほうが君のためだろう」

 言われずとも、そんなことはわかっている。安住から学ぶべきことなどもう何もない。けれど所詮自己保身のための言葉を素直に受け入れるのは、何となく癪だった。


 安住の内心など手に取るようにわかる。これ以上海里を下において講義をしていけば、確実に自分の首を絞める事態に陥るであろうことを察しているのだ。それを危惧しているから、彼は海里をさっさと手放してしまいたいのである。

 海里は彼の言葉に、目を伏せながらゆっくりと頭を左右に振って見せた。すると安住は猫なで声でこう続けた。

「海里、お前ほどの者がいつまでも学堂に入り浸っている必要はないのだぞ。玖波では石賀殿も首を長くして帰りを待っているに違いなかろう。早く親孝行するのも大事だぞ」

 親などではない。海里は心中で冷笑を浮かべながらそう反論した。

 石賀から、親どころか叔父並みの愛情を受けたことなど一度たりともない。だが、それを嘆くほど幼くなかった。

「玖波には優秀な弟がおります。私の力など不要でしょう。それでは」

 海里はそう言って会釈をすると、足早に堂を出た。



「お戻りになりますか」

 門前で主の帰りを待っていた勇は、海里が現れるなりそう問いかけた。

 いつもなら彼はこんな問いをしない。と言うのも、海里が真っ直ぐ帰るわけがない事を知っているからだ。今日に限ってそんなことを口にしたのは、玖波の屋形に来客があるからであろう。

「今ならまだ充分間に合いますよ」

 勇はそう言いながら荷を引き受けると、馬上の海里に微笑みかけた。

「別に。私には関係なかろう」

 素っ気なくそう言ったものの、どうにも勇には曲解されたようだ。彼はくつくつと笑うと、何の迷いもなく馬の鼻面を玖波の方角に向けさせた。

「でも、ほら。急がないと陽様が御帰りになってしまわれます」

「会う義務はない」

 海里の縁談相手の一人と目されている荒居の姫。けれどそれは相手方が勝手に騒いでいるだけであり、海里にはそんな気はさらさらなかった。だから彼女が玖波の屋形にいたところで自分には何の関係も無い。

「お会いになりたくはないのですか」

 勇は不思議そうにそう尋ねてきたが、海里は無言で馬の向きを変える。どちらへ、と問うてくる彼に、海里は一言だけ答えた。

「夕刻までには帰る」



 山の社に到着した浅海は、沈む気持ちを一気に吐き出した。

 海里と密かに落ち合うのはいつもここだ。彼の顔を見ればこのもやもやした気持ちも消えるかもしれない、そんな期待を抱いてここまで来たが、その姿はまだなかった。


 随分昔に祀るものを失くした寂れた社には、人はおろか獣の気配すら感じられない。さわさわとそよ風が吹く以外、何の音もしなかった。それなのに耳の奥では未だに葉那の少し甲高い怒鳴り声が木霊している。

「いい加減にしてよ。そんなに自分に自信がないわけ?この佐間で誰よりも恵まれているあなたがそんな風に思うなんてどうかしているわ」

 ちくちくと刺さる嫌味に耐えかねた彼女は、そう言って本気で迷惑そうな顔を浅海に向けてきた。そしてそのまま戸を乱暴に閉めて浅海の前からいなくなってしまったのだ。


「どう考えても私が悪いわね」

 浅海は青空を見上げ、きつく目を閉じた。

 葉那の言い分は正しい。自分でもそれをよくわかっているからこそ、こんなに後悔しているのだ。けれど最近妙に大人びた彼女に嫉妬してしまうのは、どうにも止められなかった。

 白い衣に青い帯、大人っぽい着こなしで薄化粧も様になってきた彼女は、浅海の目から見ても美しいと思う。ここ最近で一段と大人びた彼女は、とても同い年には見えなかった。そんな彼女に引け目を感じて、つまらない嫉妬心を持つのは自分の幼さだ。

 浅海は両腕を思い切り伸ばすと、大きなため息をついた。不安なものは不安なのだ。青空にそう言い訳して背を近くの木に預けると、硬い感触が自分を拒絶しているようで余計に悲しくなる。


 不意に後ろから聞こえた草のかさかさという音に、浅海はびくりと体を硬くした。振り向いてそろそろと相手を見たところで、ほっと胸を撫で下ろす。

「待ったわよ」

 暗い顔を見られたかもしれない。そう思った浅海はわざとらしいほど明るい声を出した。しかし彼はすぐに元気の無さに気付いたようである。

「また喧嘩か」

 海里はそう言いながら浅海の隣に腰を下ろした。一人が座れる位のちょっと小さな岩だ。そこに二人となれば距離は寸分の隙間もない。浅海は甘えるように彼の体にぴたりとくっつけた。

「今回は派手に怒られたわ」

 ぷいっとそっぽを向かれた時の事を思い出して、また、きゅうっと心が痛む。

 海里は泣きそうな声を出した浅海の頭を抱えるように、その腕を回してくれた。丁度目の前にきた彼の右腕には、浅海を庇ったときに負った火傷の跡が残っている。浅海はそれを指でつうとなぞってみた。

「残っちゃったわね」

 申し訳なさそうにそう言った浅海に、彼は目を細めただけで何も言わなかった。けれど、その瞳には温かな色しか映っていない。浅海はそっと海里の頬に手を当て、くすりと微笑んだ。


 小川のせせらぎと時折吹く風の音。穏やかさがとても心地良くて、ようやく気分も落ち着いてきた。しばらくぶりの二人きりの時である。

 目に映るのは、秋独特の彩りで染められた向かいの山々。そして枯れた稲穂と土の二色が所々入り混じった平野がだだっ広く広がる秋の大地。特段面白みも無い眺めだが、浅海にとっては最高の空間だった。大好きで仕方がない相手とこんなにも近くにいられる。まさに至福の時である。


「浅海。お前は東国が好きか?」

 海里の不意な問い掛けに、浅海はちらとその横顔を伺った。彼はこちらの答えを待たずにこう続ける。

「最近、国府では物足りないと思うことがよくある」

 落胆というよりも焦りのような口調だった。浅海には彼が何を言わんとしているのかが即座にわかった。

「西に、大和に行きたいのね」

 微かに頷いた海里に、浅海は思わず目を瞑った。

 海里がこの国に納まる様な器でないことは、充分わかっているつもりだ。学問においてこの近辺で彼に勝る者などいない。武術だってそれなりだ。何をしても他者より抜きん出ており、その優秀さは皆が認めるところである。だが、それは海里にとって面白みに欠けることなのだろう。

「まだ仕官もしていない人間の戯言だ。そう重く取るな」

 顔を曇らせた浅海を気遣ってか、海里はそう後付けする。

「ただ、最近よく思う。いつまで玖波に身を寄せていることが出来るだろう、と」

そう言って黙り込んだ海里の脳裏には、ついこの間の出来事が思い出されていた。それは安住に連れられ、国府の正殿に赴いた際の出来事だ。


「中ノ海里か」

 開口一番そう問いかけてきた造の頼りなげな声に、海里は下を向いたまま眉をひそめた。

 まだ老年という年齢には程遠いはずなのに、病弱なせいか覇気というものが少しも感じられなかった。これが本当に東国を治めるという責を負った者なのだろうか。まるで気弱な態度や口調に心中でそう毒づいたが、そんな海里の心情など露知らず、造は明るい声で続けた。

「成程、父君によく似た風貌だ。その才も彼譲りなのだろう。そなたの優秀ぶりは様々な方面から聞いている。もう教えることがないと安住師匠も愚痴を漏らしていたぞ」

「お褒めに預かり、恐縮にございます」

 海里が当たり障りのない答えを返すと、安住が言葉を繋げた。

「さすがは石賀殿の甥御、血は争えませんな」

 石賀など何の関係もない。内心ではきっぱりそう否定したが、表面上は無言を貫いた。造の前で石賀を批判するなど狂気の沙汰だ。目の前にいるこの男は、石賀の言葉だけで何の罪もない者達を罰することの出来る人間なのである。数多の罪人の最期を思い出した海里は、知らずのうちに奥歯を噛み締めていた。

「海里は必ずや、東国に欠かせぬ人材になりましょう。その節はどうぞ、よろしくお頼み申します」

「それは勿論だ。だが海里は玖波の嫡子であろう。国府に招くとあっては、石賀が何と言うか。海里ほどの者をそう易々とは手放したりはしないだろう」

 安住の言葉に造は顎に手を当てて真剣に考え出した。海里はその様子を見ながら、口角をわずかに上げる。

 確かに石賀は海里を放さないだろう。海里の行動一つ一つが鼻について仕方ない彼のこと。国府で海里が力をつけることを喜ぶわけがない。

「海里、顔を上げよ。いつかお前に政治を任せる日が来よう、その時まであらゆる知識や力を身につけておけ。期待しているぞ」

 造は人のよさそうな笑顔を浮かべながら、穏やかにそう告げた。


 海里を真っ直ぐに見つめてくる彼の目には、一点の曇りも見られない。そこで海里は彼が余りにも無垢で世間知らずであることを初めて理解した。人を疑うこと、自分が窮地に陥ることを知らぬ純な人間。だから石賀達豪族に好い様に利用されるのであろう。

 このままであれば、東国は確実に傾いていく。海里は目前に迫っているであろう国の腐敗を直に感じた。


「国府ではあなたの望みには程遠いのでしょう」

 浅海は海里の両頬をそっと手で挟むと、そう問いかけた。すると彼はほんの一瞬だけ動きを止め、ふっと息をついた。

「自分の言う意味をわかっているのか」

 からかうように話す海里に、浅海は意気揚々、もちろんと答えた。

 海里の望み。それは今はまだ大きすぎて彼自身も口に出すことはない。けれど彼が不意に滲ませる空気から、浅海はそれが何を意味するのかを漠然と察していた。

 海里の心中に渦巻くのは、とてつもなく大きな野心だ。彼が時折漏らす政治論からは、そんなに学のあるわけでない浅海にも彼の目指すべきものが薄々察せられる。だが、だからこそ彼の評判は芳しいものではないのだ。

「当り前じゃない」

 騒がしい心臓を抑えながらそう答えると、海里の大きな手が浅海の頭を優しくなでてくれた。大きくて暖かい海里の手、浅海はこの手が大好きだ。嬉しくてつい顔が緩む上に、全身までが熱くなる。浅海は海里の手に触れながら、彼の耳元にそっと告げた。

「私は誰よりもあなたを解ってる。多分、あなた以上に」

「私以上に?」

 そう問う彼の声は面白がっているようであったが、その半分は真剣だった。

 浅海は彼の灰色の瞳を見つめながら、自信たっぷりに頷いてみせた。すると次の瞬間、体はぐらりと傾いて、海里の胸にすっぽりと納まっていた。

「浅海」

 名を呼ばれることでこんなに心が満たされるのは、相手が海里だからである。自分だけに注がれる愛情や優しさ。海里を独占できること、逆に縛られること。それが嬉しくて仕方なかった。

「海里。私、今とっても幸せよ」

 浅海はそう言うと、思い切り彼の背に腕を回した。

「あなたは私にとって東国一、ううん、この国一の人間よ。そんなあなたの傍にいられること、それだけで充分幸せじゃない」

 傍にいられる、そう強調した浅海に海里は儚げな笑みを見せた。不意打ちのその表情に、浅海の頬は一瞬で朱に染まる。彼のこの表情を見られるのは、この世で浅海だけの特権だ。こんな時、自分が間違いなく彼に恋していることを思い知らされる。これほど複雑な感情は他の誰に対してもありえない。


 時折、海里の何に惹かれたのだろうと考えてみることもあったが、割り切った答えなど出て来ない。必ず行きつくのは全部なのだ。

「海里、もしね。あなたにとって私が必要でなくなった時が来たら、その時は正直に教えてちょうだい。私はあなたが幸せならばそれでいいの」

 浅海が海里の胸にそう告げたとき、彼の心臓がびくりと跳ね上がるのがわかった。

 心中を言い当てられたからか、それともそんなことはないという否定の意味か。そのどちらであっても浅海にとっては大差ない。今の浅海には海里が全てなのだ。彼が良ければ自分の幸せなどどうでもよかった。

「でも、あなたが私を必要としてくれる限り、私は絶対にあなたの傍にいるわ」



「さぁ。呑め、呑め。百合も遠慮するな」

 伊佐はそう言って、智の杯に並々と酒を注いだ。息子が自分の代わりを務められるほどまでに成長したことが嬉しいのであろう。伊佐の顔は始終緩みっぱなしだ。

兄の隣で、すでに薄らと赤くなっている義姉は困ったように微笑んだ。彼女とつい目が合ってしまった浅海は思わず俯いた。

 祝言を挙げてから、兄がこちらの屋形で夕餉を共にするのは初めてである。だから浅海が彼女とじっくり会うのも、これでまだ数度目だ。未だに慣れなくて、時折不審な態度をとってしまう。


 百合はふんわりとした愛らしい女性だった。そんな彼女を妻に迎えた兄は、昔よりは多少分別が付く大人になったようである。きちんとした挨拶も出来るようになったし、感情に任せて失言を吐く事もなくなった。たまに国府で顔を合わせるという海里も、その点は同意している。

「それで国府の様子はどうだった」

「相変わらず賑やかでしたけれど、やはり多少の混乱はございます」

「だろうなぁ。玖波も今は不穏な様子だ」


 先代の造が病で亡くなったのは、つい先日の事である。石賀ら有力な司達に好き勝手を許していた傀儡の造の死は、東国に大きな影響を与えることになった。

 次の造として名を告げられていたのは先代の嫡子。父のだらしなさぶりに常日頃から心を痛めていた彼は、自らが信頼する者達だけをそばに置き、司達を中央から遠ざけようと画策した。そんな中で最も存在感を浮き彫りにしたのは、智にも武にも長けた造の実弟、武項ぶこうであった。

 武項は石賀への嫌悪感を隠すことなく大っぴらにしたため、彼に同意する者達はこぞってそちらの方に意を寄せた。当然、石賀は面白くない。玖波の屋形は今まで警護が厳しくなっており、東国はいつどこで火蓋が切って落とされてもおかしくない状況だった。

「我が郡も方向性を見誤らないようにしなければいけませんね」

 智の言葉に、伊佐はううんと呻った。方向性も何も佐間の取るべき道は一つしかない。今更、佐間が石賀を裏切るわけにはいかないのだ。


「そう言えば国府では中ノ殿のお噂で持ち切りでしたよ」

「ほう」

 どんな噂か、と伊佐が酒をあおりながら尋ねる。偶々智の方に視線を向けていた浅海は、兄の予想外の発言に思わず箸を取り落とした。

「ほらほら、食事中にぼうっとするな」

 浅海の気持ちになど絶対に気付いていない伊佐は暢気なものだ。簡単にそう嗜めると、上機嫌で酒を飲み続けている。

「まぁ、他愛もないものから悪評まで様々ですよ。私も一度お会いしましたが、成程、噂も頷けるというものです」

「悪評か。それでは石賀様も心穏やかではなかろう」

「どうでしょうね。何しろ玖波には実子の立飛殿がいらっしゃる」

 智はそう言って、ちらりと浅海に視線を寄越した。何かを確かめるような兄の態度が気に障り、浅海は無言で彼を睨み付けた。智はそれを軽く受け流すと、続きを話し出した。

「彼の才は国府でも相当に有名でしたが、どうにも性格の方が評判を落としているようです」

「まぁ気難しいところはあるが。だが、それも若さゆえだろう」

「それはそうでしょうが、彼の場合は度が過ぎております。安住師が褒めようと、学友に尊敬の眼差しを送られようと、それが当然とばかりの顔しか見せません。それでは周囲の気分も良くないでしょう」


 浅海は苛々しながら、兄の話を聞いていた。

 確かに海里は何事においても冷めている。功績を鼻にかけるでも嬉しがるでもない彼の態度は、人間味に欠けるともっぱらの悪評であるということを、本人も重々知っているのだ。けれどそれもこれも全ては、いつ揺らぐかもわからない不安定な立場で生きていくための手段である。それにたとえ海里がもっと柔軟で素直な性格であったとしても、きっと世間の風評は良くはならないだろう。彼らの心中にあるのは結局、優秀すぎる海里に対しての妬みと恐れなのだ。

「とは言っても、形式上は玖波の嫡子。そろそろ、縁談も纏まりそうだとか」

「それはおめでたいですわね。相手はお噂通り?」

 阿木が尋ねると、智は愉しそうに答える。

「ええ。荒居の陽姫とのことです。確か、浅海と同じ位の年頃でしたね」

 勝ち誇った様な顔をした智は、こちらを挑発するようにそう言った。

「荒居の姫なら妥当な選択でしょうね。身分も器量も申し分ない娘です。野心の塊であるような彼が娶るには相応しい」

 浅海が反論できないことを見越しているのか、智は言いたい放題である。両親も義姉も、彼の言い分が最もだという顔をしていた。

 

 冗談じゃない。思わずそう叫んでしまいそうになった。やっぱり、小憎らしい兄の性格はそう簡単に治るものではないようだ。この場に二人きりだったら、きっと手当たり次第に物を投げつけてやったことだろう。

 噂があろうがなかろうが、どうでもよかった。海里が浅海以外の誰かを選ぶはずがない。たとえ縁談が事実であっても海里が話を受けるわけはないのだ。浅海はそう絶対の自信があった。

 


 石賀は見るからに苛々していた。

 夕餉の後、いつものように谷田から一日の報告を受けていたのだが、その間中ずっと指で床を打っている。

「昨年建設した水路ですが、予想以上に良い出来栄えでございます。来年の収穫にも良い影響が期待できるでしょう」

「そう焦るな。どちらにせよ先の話であろう」

 直近にごたごたが待ち受けているせいか、それより先の話は聞く気がなさそうである。

「結果が出るまでは、いくら話し合っても無駄だ。違うか」

「おっしゃる通りでございます」

「そんなことよりも、海里の縁組を早く進めよ」

 谷田が平身低頭で答えると、石賀はいきなり話題を変えた。というよりも、彼はこのことしか話し合う気がなかったのであろう。

「武項がしゃしゃり出てきた今、暢気に事を構えている暇はないからな」

 場合によっては全面戦争も在り得る。石賀は苦々しそうにそう言うと、ばんっと酒瓶を置いた。

「戦となれば、浦やその近隣は必ず武項側に就く。早々に荒居を抱きこんで、頭数を揃えねばならん」

「御安心ください。東国の軍事は玖波に在ると言っても過言ではありません。今、国府に出している我らの子飼いの兵達は、間違いなく玖波に戻ってまいります」

「青二才が。調子づきおって」

 石賀は額に青筋を浮かべたまま、酒を一気にあおった。


 自分に面と向かって刃向ってきたのは、武項で二人目である。一人目は言うまでもなく、海里の父親である都人だが、あの頃は石賀自身まだ駆け出しの身であった。だからこそ、我慢できていた面があるが、今は違う。東国に石賀あり、と言われる程の権を得た彼にしてみれば、目の前をちょろちょろする若い邪魔者が目障りで仕方がないのだろう。

 加えて武項は若いだけあって、あからさまな敵愾心を隠したりしなかった。庁堂での議の際も堂々と石賀に反対意見し、周りの者達を焦らせたほどだ。

谷田は、これから述べる提案を受け入れられ易くするために、もう一段頭深く頭を下げた。

「石賀様。今こそ、佐間としっかり手を組んでおくべきではありませんか。弱小とは言え、彼らとて兵は有しております。背後から襲われないよう、守りは固めておくべきでしょう」

「無論だ。伊佐には再三、その旨伝えておる」

「そうなりますと。私はやはり、立飛様の正妻には佐間の姫君がよろしいかと」

「佐間の姫?浅海か?」

 予想通り石賀は食いついて来た。谷田はこの時とばかりに、熱弁をふるう。

「そうです。今のままでも、佐間は玖波の手中に在るも同然です。けれどそれは実質であり、形式ではない。もしこの縁談が成功すれば、佐間から玖波にかけての広大な土地が手に入ります。さらにもういくつかの郡を味方につければ、西方への領土拡大が図れる。西一帯を制圧してしまえば国府といえども、おいそれと手出しはできないでしょう。後々を考えれば色々と有利になるのではありませんか」


 谷田の言葉を、石賀はふんふんと納得しながら聞いていた。素直に考えれば、谷田のこの考えはこれ以上ない最善策だ。石賀とてそれが解らないほど馬鹿ではない。彼はしばらく目を瞑って呻っていたが、突然だんっと床を叩いた。

「良いだろう。谷田、お前の方でその話を進めよ」

「畏まりました」

 成功を確信した谷田は、表面上こそは平静を装っていたが、心中では飛び跳ねて喜んだ。東国西部を固め、更に石賀にさえも秘めたまま進めてきた奈須との同盟が成れば、玖波は向かう所敵なしとなろう。そうなれば谷田自身の立場も、より向上するに違いない。

 自らの欲もしっかりと満たし、更には郡の発展にも繋がる。彼にとっては、まさに一石二鳥だった。

 

 谷田は石賀の部屋を出たその足で、早速立飛に祝言の話を持ちかけることにした。夜も更けた時刻、谷田は自室で武具の手入れをしていた立飛の元を訪ねたのだった。

「立飛様、よろしいでしょうか」

「何だい?」

 立飛は弓を磨きながら、気さくに返事をする。彼の機嫌が悪くないことを確信した谷田は、すぐに本題を切り出した。

「実は立飛様に縁談がございます」

 案の定、彼は不快気な顔をみせたが、想定内の行動である。彼がすんなり承諾することなどこれっぽっちも期待していない。難航して当然なのだ。だからこそ谷田は昨晩寝ずに、彼を説得する文句を用意したのである。頭から否定される前に、谷田は急いで次の句をつないだ。

「とてもいい話でございます。父上様もいたく満足して」

「相手は誰?」

 谷田に最後まで言わせずに、立飛はそう問い返した。

 相手を聞いたところで、どうせ嫌がるだろうに。谷田は心中でそう思いながらも、出来るだけ明るく答えた。

「佐間の郡司、伊佐様の一人娘でございます」

「それって浅海のこと?」

「そうでございます。お知り合いでしたか」

 意外にも立飛は彼女の名をさらりと口にした。更に驚くべきことに、立飛は谷田の方を向き直って、いいよと告げたのである。

「彼女とならば幾度か面識がある。なかなかかわいらしい娘だし、俺に不満はないよ」

 立飛はそう言ってにっこりと微笑み、谷田の肩を叩いた。

「こんなに素晴らしい話をまとめてくれたことを感謝する。父上にすぐにでも佐間に伝えるように言ってくれないか」

 立飛は弓を手元に置くと、さくっと立ち上がった。谷田は思わず身構えたが、立飛は彼に構わず部屋を出ていく。

「どちらへ」

「兄上に報告だ」

 彼はひらひらと手を振りながら、その場を離れていった。あまりにも予想外の展開に驚き過ぎて、谷田は頭を下げることすら忘れてしまった。


 立飛が海里の元にやって来たのは夜半過ぎだった。いつになく殊勝に伺いを立てる彼に、海里は書物を閉じて応対した。

 大事な話がある。そう告げた彼の表情は愉悦で歪んでおり、それだけでも不快だったが、話の内容は最悪だった。

 途中からは全く覚えていない。適当に相槌を打ち、適当に会話をしただけで、いつ去ったかもすら定かではない。あとはただただ呆然としていた。まるで体が鉛になったように重くて、考える力は皆無。思い浮かぶのは立飛の勝ち誇ったような顔と、浅海の笑顔であった。

 隣室に控えていた勇は、主の部屋に入った途端、思わずぎょっとした。蜀台の弱弱しい明かりに浮かびあがる、魂の抜けた様な主の姿。憂鬱を通り越して地獄にでも落ちてしまいそうな程なほどのその様に、勇は慌てて傍に寄った。

「祝言を挙げるそうだ」

海里は蚊の鳴くような声でようやくそう告げた。勇がおずおずと問いかける。

「立飛様ですか。お相手は?」

 海里は答えられなかった。その名を告げれば自分は壊れてしまうかもしれない。そんな馬鹿げた恐怖に取り憑かれて、言葉が出て来なかった。

 たかが女一人。

 そのためにこれほどまでに自分が憔悴すると思わなかった。

 黙り込む海里に勇は全てを察した。海里は基本的に何も打ち明けてはくれない。だから勇が、佐間の姫君と主が恋仲だと知ったのはつい最近のことだった。

荒居の姫には見向きもしない彼を不審に思い、そっと後を付けたのである。そこで見たのは穏やかに微笑む海里と、そんな彼に心の底から甘え切っている浅海の姿だった。初めて見る幸せそうな彼に、木蔭からそっと覗いていた勇は心がじんわりと温まったものである。

「何故、急にそんなことに…」

 勇は怒りに震えながらそう呟いた。

「谷田の差し金であろう。今の状況では玖波は後ろを固めるしかないからな。それに佐間は使い様によっては大きな成果をあげるはずだ」

 海里は現実を淡々と話した。

「けれど。浅海様はあなた様と」

「知っていたのか」

「申し訳ございません」

 いい、気にするな。海里はそう言うと目を閉じたまま、天を仰いだ。

「浅海を連れて、どこかへ逃げようか」

 本音だった。彼女が誰かのものになる。そんな様を見るくらいなら、今、彼女の心が自分に在るうちに、連れ去ってしまいたかった。

「正気ですか」

 あまりに突飛な主の発言に、勇は前のめりになりながら詰め寄る。海里は乾いた声でくつくつと笑った。

「さぁな」

「この期に及んで冗談は、」

 勇が諌めるようにそう言うなり、海里は拳で机を殴り付けた。ばんという重い音は夜の静けさの中で、激しく際立った。

「わかっている」

「海里様」

「だが浅海は決して誰にも渡さん」


 

 石賀から、佐間の娘達を宴席に招きたいと告げられたのは、それから間もなくのことだった。

「姫君達もさぞかし、美しくなったことだろう。せっかくの機会に、是非お会いしたい」

 そう言付けを受けた伊佐は、飛び上がらんばかりに喜んだが、反対に浅海の気分はどんよりと落ち込んだ。名目はどうであれ、実質は立飛の相手探しだ。佐間の娘などが選ばれることは無いとわかっていても、喜ばしい話ではない。

 ちっとも行きたくなんてなかったけれど、そんな我儘が通るわけがなかった。結果、浅海と葉那は伊佐に連れられて玖波の屋形の中にいる。

 「さぁ、こちらへ」

 きつい香料を纏い、濃過ぎるほどに化粧を施した侍女は、鼻にかかったような声でそう告げると、佐間の面々を置いたまま、さっさと進んでしまった。

 出遅れた浅海達は小走りでそれを追い掛ける。

 案内されたのは、ここぞとばかりに高価な調度品がぞろりと並べられているせいか、御洒落を通り越して、まるで倉庫のような客間だった。侍女が付けていたのと同じ香料がこれでもかというほどに焚かれており、匂いに敏感というわけでもない浅海も思わずくしゃみが出そうになる。

「おお、これは皆様。よくぞいらした」

「此度はお招き頂き、誠にありがとうございます。大変嬉しく思っておりますぞ」

 伊佐はそう返答を返すと、丁寧に頭を下げた。石賀は満足そうな様子でうんうんと頷く。

「ほう、そなたらが佐間の姫君か。随分大きくなったものだなぁ。ほれほれ、そんなに硬くならずに。もっとゆるりとしなさい」

 何枚もの敷物を重ねた上に、どかりと腰を下ろした石賀は、その野太い声を精一杯の猫なで声にしている。

 決して醜いといった容貌でもないのに、太り過ぎているせいか、嫌悪感が否めない。形の良い円のように真ん丸とした顔は一見穏やかな人格者風だが、浅海にはそれが薄っぺらい仮面にしか見えなかった。

「本来なら、我が息子達も同席させるべきであったのだが…どうにもふらふらとした奴らでな。今日ばかりは屋形に居れと言いつけたのに、気がつけば飛び出していた始末。また、機会があれば会ってやってくれ」


 息子達という言葉で、浅海は不覚にも眉をぴくりとさせてしまった。見咎められたかと一瞬焦ったが、そんな気配はなさそうだ。彼は困ったような顔を作ることに集中していたようである。

 石賀の息子は言うまでもなく、長子である立飛ただ一人である。そして彼が養子である海里を息子とは認めていないことなど、周知の事実だ。

 石賀にとって海里は唯の駒。わざわざ中ノの姓を名乗らせているのも、都にいる彼の父から恩恵を受けるのに都合が良いからである。何かにつけて邪険にする一方で、必要な時ばかり彼の立場を利用しているに過ぎない。

 けれどそれがどうして?石賀は何故、敢えてこの場で彼を息子と称したのだろうか。

 ちらと顔色を窺って見るも、相手は老獪な政治家である。膨れるだけ膨れた彼の腹の内は、そうそう容易く探れない。


「いやいや。お二人とも、何かとお忙しい年頃でしょう。お気になさらず」

 ぴりっとした石賀の感情をいち早く察した伊佐は、わざとらしいほど明るくそう告げた。

「何と言っても、我が娘達をこうして玖波に招いて頂いただけでも光栄なことですから」

 玖波郡と縁続きになれば、自然、今後の道も決まる。伊佐にしてみれば、今日が佐間の命運を分けるとばかりの意気込みであった。佐間を出る時分から、彼はこの場を何とか成功させようと必死だったのである。

 石賀もそんな彼の心情を汲んだらしく、元の作り笑顔に戻した。彼は横に侍らせた若い侍女に酒を注がせると、杯を顔の位置まで高く掲げる。

「それ、まずは乾杯といこうか」

 石賀がそう告げて、全員が杯に口を付けたその時、がらっと戸が開かれた。

「ごめんなさい。遅れてしまいました」

 へらへらと笑いながら登場したのは立飛だった。遅いと叱りつける石賀もなんのその。彼は当然のように父親の隣に腰を下ろした。

「兄上の所為ですよ。荒居の姫がいらしたというのにどこにもいないから、捜しまわっていたのです。全く困った方だ」

 自分も遅刻しているというのに立飛は悪びれる風もなく、抜け抜けとそう言った。石賀は苦々しげに息子を見たが、それ以上の叱責はしない。

「まぁ、何とか見つけて引っ張って行きましたから、とりあえずはご安心を」

 立飛は満足そうにそう続けると、浅海達に微笑みかけてきた。それを受けて葉那の顔は真っ赤に染まる。彼女はぽうっとしたまま、彼をじっと見つめた。

「やっぱり、素敵な方ね」

「そうかしら」

 娘受けしそうな綺麗な顔立ちは、海里のそれとは似ても似つかない。正直、素敵だとかどうとかは全く思わなかったし、興味もなかった。そんなことよりも今の浅海の興味は、彼が先程口走った『荒居の姫』と言う方に集中していたのである。

 海里が、自分以外の娘と共にいる。

 彼の事情もわかってはいるものの、やっぱり良い気分はしなかった。ましてその相手は、正式な縁談の相手として選ばれた娘だ。彼を信じる気持ちはあるが、心が波立つのは抑えられない。

 

 酒も大分入り、宴もたけなわになった頃、立飛は浅海と葉那の間に割り込んで来た。無遠慮なその態度にむっとしたものの邪険にするわけにもいかない。浅海は仕方なく少し場所を空けてやった。

 娘二人を両脇に侍らせた立飛は、それからひたすら自慢話をし続けた。ほとんどを聞き流してはいたが、隣でずっと話をされていれば、時折は嫌でも耳に入ってくる。その内容は二転、三転。彼の話には筋が通っていないばかりか、一貫性すらなかった。

 どうやら、見た目と同様に頭の中身も同様に薄っぺらなようだ。思ったことをすぐ口に出してしまうその軽さは、どうにも好きになれそうにはなかった。もっとも浅海が比較している相手は、優秀さで名を馳せる海里である。ただでさえ、軽薄な立飛に真似できようはずもない。


「聞いているか」

「まあ、それは素晴らしいこと」

 何の話であったかはさっぱりわからなかったが、葉那がそう言ってくれたため、浅海もとりあえず曖昧に笑って見せる。すると立飛は満足そうに笑ってみせ、杯を浅海のほうへ差し出して来た。

「そう言えば兄の話はしていないな」

「兄上様ですか?」

 葉那が媚びるように問う。それに気を良くしたのか、立飛は嬉しげにこう答えた。

「身内贔屓は褒められることじゃないが、兄の優秀さは相当だ。けれど…もちろん欠点も多々ある。あれは野心しか抱いていない男だ。心根があんなだというのに入れ込んでいるのだから、荒居の姫も物好きなことだな。世間の楽しみを何一つ知らないなんて、つまらないとは思わないか」

 彼はその問いを葉那ではなく、浅海に向けた。何かを期待するようなにやけた表情に虫唾が走る。お前に何がわかる。怒りに任せてそう反論したかったが、浅海はやんわりと否定するだけに留めた。

「…そうは思いませんけれど」

「どうして?あんなつまらない男より、俺のほうがずっといいとは思わないか」

「海里様は造様にも認められていらっしゃるとか。荒居の姫君もそこに惹かれたのではないでしょうか」

 荒居という言葉など口にしたくもなかったが、仕方ない。浅海は自分に我慢を言い聞かせて、ぐっと腹に力を込めた。

 自分以外の誰かが海里に想いを寄せているなど、考えるだけでも吐き気がした。彼女が海里のどこに惹かれたかなど考えたくもないし、それに海里を想っているという事自体も許せない。だが今はそんな嫉妬よりも、立飛なんかに海里を貶される事の方が余程腹立たしかった。

「お前もそうなのか?」

 立飛は浅海の耳元で挑発するようにそう問いかけた。彼の小声は宴の騒ぎのおかげで、浅海にしか聞こえていないようだ。彼の向う側では葉那が怪訝そうな顔をしている。

「あの男のどこがいいのか教えてくれ」

 生温かい息が直に当たり、気持ち悪さにぶるっと震える。浅海は不快感を吐き出すように大きく息をついた。


 海里との事は二人だけの秘め事のはずだった。しかし人の噂に戸は立てられないようで、兄も薄々とは感づいている。とは言え、何もこの場で明らかにする必要はない。浅海は隠し通すことを選んだ。

「何のお話ですか」

「惚けるな。お前たちの尻尾は掴んでいる」

 動揺した割には上手くかわせた気もしたが、そうでもなかったようだ。彼は確信を得たかのように笑みを濃くすると、じりじりと距離を詰めてきた。

「まぁいい。どちらにせよ、お前は私の妻になるのだ」

「勝手に決めないで」

「これは私の一存じゃない。父はもう腹を決めているのだ。奴がこの場にいないのがその証拠だろう」

「冗談、」

「か、どうかはあの男に聞いてみるがいい。あいつ自身も今頃は荒居の姫との縁談でも纏めているのではないか」

「嘘よ」

「ふん。どうしても信じられないというのであれば、自分の目で確かめるといい」

 立飛に触発された浅海は、適当な口実で退座の辞を述べると、その場を離れた。そして彼に言われた通りの道を進み、海里がいるであろう近くの小川へと向かった。


 見つけた。

 傾き始めた日に照らされながら一人で寝転ぶ海里の隣に、浅海はそっと腰を下ろす。

「何のつもりだ」

 海里は夕空へ呟いた。その声にはどこか棘があったが、浅海は気付かぬ振りをした。

「気分が悪いのよ」

「偽りだろう」

 舌打ちをしてからの冷めた口調は、彼が物凄く苛立っている証拠だ。火に油な事はわかっていたが、浅海は問いかけずにはいられなかった。

「荒居の姫君はどうしたの?」

 答えはない。

「後ろめたいことでもあるのかしら」

 余計な事を言わなければいいのに。解ってはいるが、口からは勝手に言葉が飛び出した。

 浅海が信じるべき相手は海里だ。立飛の言う事なんて信じるものじゃないというのに、それでも疑惑の思いは膨らんでいく。

 浅海は気分を変えようと、彼の傍を離れて何とはなしに川の水に手を浸した。思った以上に冷たかったが、何となく抜く気になれない。

 しばらくして感覚が麻痺してきそうになった頃、浅海の手は乱暴に川から引き上げられた。

「いい加減にやめろ」

 いつ起き上がったのか、海里は浅海の腕をしっかり掴んでいる。真っ白になった自分の右手が妙に寒々しい。浅海は低い姿勢のまま、海里を一心に見つめた。

「何で、何も言ってくれないの」

 一瞬海里の顔には悲痛な表情が浮かんだ。だがすぐ元の無表情へと戻る。そして彼は短くだが相当強く言い切った。

「戻れ」

「嫌よ」

 正面から彼を見据え、こちらもきっぱり言い返す。

「話も出来ないうちに戻るなんて、絶対に嫌」

「いいから戻れ」

 感情を荒立てた海里に浅海は耐え切れず、目に涙を浮かべた。けれど彼は無情にもこちらに背を向ける。ここまで拒絶されたのは初めてだ。

「ねぇ。私、そんなに頼りない?」

 浅海は涙を流しながら、掠れる声でそう訴えた。海里はその言葉にわずかに反応したが、依然として背を向けたままである。

 浅海は海里の正面へと回り込むと、無理やり彼の胸に飛び込んだ。いつもと同じ温かくて安心できる浅海だけの場所。いつもと違うのは彼の心臓が恐ろしい位の早鐘を打っていたことだった。


 突き放されるかもしれない。そんな思いが脳裏をかすめたが、絶対に離れないという意思を込めて、その背に腕を回してみる。すると海里の方でも抱きしめてくれ、いつものように浅海の頭に片手を置いた。

「私は荒居との、お前は立飛との縁談が纏まる」

「だから何よ」

 辛そうに声を絞り出した海里に、浅海は震える声でそう言い返した。だが彼は首を横に振る。

「お前の我儘が通る状況ではない」

「そんなのは知らない。私はあなたがいればそれでいい」

 濡れた涙声はくぐもって、自分にさえよく聞き取れない。

「このままどこかに連れてってよ。ねぇ」

 海里と一緒なら死んだって構わない。本気でそう思った。



 夜明けはあっという間に過ぎて朝になる。左手に広がる眼下の景色も光を浴びたせいでその様を一変させた。

 夏の独特の真緑と土色。その二色が所々入り混じった平野がだだっ広く広がるだけの何の特徴もない地形には、面白みの欠片も無い。もっともそう見えるのは、気分の問題もあるだろう。

 昨日は結局、海里は何も言ってくれなかった。何も言わないまま、浅海を置き去りにしてどこかにいってしまった。

 しばらくして草と葉那が迎えに来てくれるまで、ずっと暗い川辺で一人膝を抱えていた。海里か立飛が何かをどうにか言ってくれたのかもしれないが、彼女達は何も聞いて来なかったし、戻って父に叱られる事も無かった。

 そこからのことは、よく覚えていない。連れられるままに行動し、気付いた時は自室の床の中だった。夢の中の彼はいつも通り優しく抱きしめてくれた。

 


「海里様がお待ちです」

 主からの内密の命を受けた勇が浅海を訪ねて来たのはその三日後だった。

 彼とのこれからに一人あれこれ悩んでいた浅海は、それを聞くなり、家を飛び出したのである。

 なりふり構わず走ってきただけあって、いつもの高台に着いたときには、息はあがっていたし、身なりも散々に乱れてしまっていた。

 海里は相変わらず、無表情で木に寄りかかっている。彼は浅海の姿を認めると、すぐに険しい顔つきになった。

「一人か」

「ええ」

 海里はふぅっと息をつくと、つかつかと浅海の元へやって来た。そうして若干の距離を置いて向き合うと、彼は幾度かためらったそぶりを見せた後、何かを決意するかのように目を閉じた。

「ここへ来るのは、これで最後だ。お前たちの祝言を止めることは出来そうにない」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。

「意味が…わからない」

 正確にはわかりたくなかった。わかってしまえば、ただ苦しいだけになる。

「すまない」

「嫌よ。絶対に嫌」

 彼のこれほど弱弱しい声を聞いたのは初めてだ。気圧されそうになるのに負けまいとそう告げたが、海里は首を横に振るだけである。

「お前の我侭でどうにかなるものではない。そんなことはわかっているだろう」

「誰が何と言っても従わない。たとえあなたがそうしろと言ってもね」

「無理だ」

「あなたはそれでいいの?」

 掠れた声で話す海里に、浅海の思考は止まりかけたが、頭を振って弱気を捨て去る。咎めるようにそう問い詰めると、彼は予想だにしなかった言葉を告げた。

「私は、都へ行こうと思っている」

「み、都?」

 あまりの驚きに浅海は、目をぱちくりさせる。

「ああ、父のいる西の都だ」

 海里は視線を地面に落とすと、辛そうにそう言った。浅海は昨日と同じように海里の胸に縋りつく。

「そんなの嫌よ。絶対に離れない」

 彼の背に回した腕に力を込め、浅海は必死に想いをぶつける。しかし海里はゆっくり浅海を引き離しにかかった。

「離さないって言ったでしょう」

 意地になって抱きしめるが、彼はいいからといって無理やり引き離した。泣きそうな顔をしている浅海をよそに、海里は懐から小さな袋を取り出してこちらに押し付けた。受け取った浅海は、中身を見るなり小さな悲鳴をあげた。

「首飾りじゃない」

 翡翠の首飾りだった。澄んだ綺麗な翠の石が美しい円に仕上げられている。

「どうしてこれ。こんな高価なもの」

 目を丸くする浅海に、海里は緊張した声で告げた。

「妻問いだ」

 海里は真剣な表情で浅海を見つめ、硬い声で話を続ける。

「私を選べばもうここには戻れない。お前がそれで良いといってくれるならば、受け取って欲しい」

「…」

 答えなど考えるまでもない。けれど意思とは裏腹に、なかなか声は出てこなかった。

 返事をしない浅海に海里は優しく告げた。

「何を選ぶかはお前の自由だ」

「…馬鹿ね」

 思いがけない浅海の発言に、海里は怪訝そうな顔をする。

「私に何を選べっていうのよ。」

 浅海は海里の頬を撫でながら、大人びた口調で告げる。

「あなたと一緒に行くに決まっているじゃない」

 満面の笑みを浮かべ、海里の首に勢いよく抱きついた。

「本当にいいのか」

「もちろんよ。私はあなたとずっと一緒にいる」



 空には雲一つなく、文句なしに快晴だ。見渡す限りに広がる青空に向かって、浅海は思い切り手を伸ばした。

「気持ちいいわね。こっちに来たら?」

 冗談じゃないと言いたげに、葉那は木陰から手を振ってみせた。彼女はさも暑そうに、手を団扇にして風を煽っている。

 太陽がさんさんと降りしきる晩夏の昼間。誰もが気だるくなる刻である。そして今日は特に暑い。ほとんど無風で、時折気休め程度のそよ風が吹くだけなのだ。

「そんなに光に当たると馬鹿になるわよ」

 あまりに無邪気にはしゃいでいたせいか、葉那から嫌味が飛んでくる。

「ねぇ。いい加減に話してくれないかしら。無駄にこんな遠くまで出てきたわけじゃないでしょう」

 葉那はそう言って軽く笑ってみせた。自信たっぷりのその様子からすると、彼女は既に浅海の胸中を読んでいるのかもしれない。相変わらず恐ろしく勘が良い親友だ。

「ああ、ええと、ね」

 浅海は葉那の顔を見ることが出来ずに、背を向けたまま言葉を濁した。けれど背中に突き刺さる彼女の視線が痛い。葉那は厳しい声色で浅海を問い詰める。

「私に何か言いたいことがあるんでしょう」

 浅海は心を決めると一気に打ち明けた。話を進めるにつれて顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかる。だが葉那はそんな自分とは対照的に青くなっていった。

「本気で言っているの?」

 話を終えたとき、葉那は呆然とした顔で浅海に問いかけた。その声は恐ろしく低い。彼女の瞳には若干の軽蔑と、かなりの驚きが映っていた。

 もし彼女がこの話に反対して浅海の家族に打ち明けたならばどうなるか、考えるまでもない。真夏であるにもかかわらず、浅海はわずかばかりの寒気を覚えた。

「もちろんよ。だから葉那にもわかって欲しい」

 言ってしまった以上、もう後には引けない。彼女がいくら反対しようと、浅海はこの想いを諦めるつもりなど毛筋もなかった。

「…あなたの気持ちはよくわかるわ。どれだけ中ノ様を想っているのかも、十分知っている。離れるくらいなら共に行きたいと願うのは当然だわ。でもね、突然二人で西へ旅立つなんて、いくらなんでも無謀よ」

 葉那の切り込むような視線が、浅海をまっすぐに捉える。

「家族はもちろん私にも二度と会うことは叶わず、佐間にも戻って来られない。都に行ったって成功するとは限らない。それでも行くの?」

こくりと頷いてみせると、葉那は怒りが溢れたような大きなため息を吐いた。髪を荒々しくかきあげ、唇を真一文字に結ぶ。

「第一、東国を無事に抜けられるかもわからないじゃない。見つかったらあなたも中ノ様もどうなることか」

「そのときはそのときよ。もう覚悟は出来ているわ」

「…私は反対よ。もしあなたが本当にそうするというのなら、私にも考えがある」

 葉那は声を荒げてそう叫ぶと、そのまま浅海を置いて先に戻ってしまった。


 それから数日の間、葉那は徹底的に浅海を避け続けた。浅海が何を話しかけても、つんけんとあしらわれるか、無視されてしまう。が、そんな二人の様子を心配する者は誰もいなかった。浅海たちの喧嘩は珍しいものではないし、それに今は祝言の準備で誰もが忙しかったのである。

「この衣はどう?」

 にこやかにそう話す阿木の顔を見た浅海は、心が重く沈むのを感じた。

 佐間に慎重策を取らせないためか、立飛との縁談はとんとん拍子で進んでいった。日取りも決まり、こうして衣装合わせの段階にきている。阿木は様々な布地を広げながら、ああでもないこうでもないと吟味を始めた。

「明日、立飛様がいらっしゃるそうよ。二人で話すといいわ」

「また?」

 つい、嫌な声を上げてしまった。阿木が目敏くそれを叱責する。

「何です、その言い方は。お忙しい中わざわざ足を運んでくださるのだから、もう少し嬉しそうにしなさい」

 来るなと浅海は内心で毒づいた。立飛は最近やたらと佐間にやって来る。海里への牽制であろう。だから海里も警戒して、直接佐間を訪れる機会が作れなかった。そのため西への旅立ちも、今のところは二人の口約束でしかない。

「母上。私は本当に玖波に行かねばならないのですか」

「今更何を言っているの。当り前でしょう。何か不満でもあるの?」

 不満だらけだ。むしろ良点を見つける方が難しい。

「縁組はそれほど悪いものでもないのですよ。それに相手は玖波の立飛様。家柄はこれ以上ないし、見目も麗しい。良き話ではないですか」

 傍にいた百合が優しくそう諭してきたが、浅海はぶすっとした態度を和らげなかった。

「義姉上、私もただ我侭を言っているわけではありません。母上もよくお考え下さい。仮にも玖波は浦に次ぐ名家でございましょう。それがこんな片田舎の娘よりを望むのには、それなりに理由があるのではありませんか。石賀様であればより玖波のためになるような縁組を望むはずです。これには何か玖波側の野心が働いているとは思いませんか」

 浅海はとっさに思いついた言い訳を、それらしく述べた。無論海里の話し振りを真似ているだけであるが、これが予想外に上出来だったようだ。大人達は呆気に取られ、間の抜けた顔で浅海を凝視している。だがすぐさま、どこからともなく嫌味ったらしい言葉が聞こえてきた。

「まるで、中ノ殿のような言い草だな」

 また出た。いつも通りふらっと現れては海里の名を出す兄を、浅海は軽く睨み付けた。彼はそんな妹をふふんと一瞥するとこう続けた。

「すぐに物事を疑い、理由を探ろうとする。そうして綻びを見つけたと思うと、すぐさまそこを崩す戦略を考える。中ノ殿の常套手段よ。浅海よ、奴に何か入れ知恵されたのか?」

「まさか。どうしてそう思われるのですか?」

「油断のならないやつだからさ」

 訳知り顔であっけらかんとそう告げる彼が腹立たしくて仕方がなかったが、ここで地雷を踏むわけにはいかない。浅海は拳を握りしめて、ぐっと怒りを堪えた。智はそんな妹を小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、何事もなかったように去っていった。

「何の用があったのよ」

 彼の背中に向かって浅海がそう毒づくと、百合はくすりと微笑んでみせた。

「智様もお寂しいのですよ。可愛い妹がはなれてしまうのですから」

「そんなわけありませんわ。兄からすれば、私なんてただの厄介者でしょうに」

 智が浅海と離れることを寂しがるなんて、天地がひっくり返ろうとあり得ない話だ。年がそこまで近いわけでもないのに、可愛がってもらった記憶など皆無である。なぜ心優しい百合が兄などに惹かれたのだろうか。さっぱりわからない。浅海は穏やかにほほ笑む義姉の顔をまじまじと覗き込んだ。

「何?」

 彼女の問いに浅海はふるふると首を横に振った。

 

 葉那から会いたいと告げられたのは、その日のことだった。夜半過ぎ、浅海は告げられた刻にそっと寝所を抜け出して、待ち合わせ場所に向かっていた。

幸運にも月は雲の中。辺りは星明りに照らされるだけでほとんど暗闇だ。足音を忍ばせながら、一歩一歩慎重に進む。やがて小川のせせらぎが聞こえ始めた頃、それらしき人影を見つけた浅海は、ようやく息をついた。

「遅かったわね」

 川縁に座っていた葉那から発せられたのは、予想通り、冷えた声だった。開口一番に仲直りの言葉を期待していたわけではないが、呼び出したからにはもう少し愛想よくして欲しい。

「こんなところで、何の用?」

 浅海は喧嘩腰にならないよう、努めて軽やかにそう問いかけた。すると彼女はすっと立ち上がって、こちらに向き直った。

「…昼間にね、こっそり玖波に行ったの」

「は?」

「中ノ様にお会いしてきた」

 予想外の言葉に浅海は思わず息をのんだ。

「浅海をどうなさるお積りですかって聞いてきたわ」

「…」

「『浅海は東国の人間です。あなた様について行って、本当に幸せになれるのですか』って聞いたの。そしたら彼ね、『先のことに保障は出来ない。浅海もそれはわかっているはずだ』って言ったわ」

 葉那はそう言うなり、ふっと笑った。

「彼は本気だった。あんな顔を見せられては、それ以上何も文句なんて言えなかったわよ」

 何かを諦めたような、または悟ったような彼女の態度に、浅海はぎゅっと胃が締め付けられるような感覚になった。何か言わないと。そうは思うが、うまく声が出てこない。そうしているうちに、葉那はゆっくりと歩み出していて、浅海の眼前で止まった。そして何の合図もなしに、浅海の頬を力一杯引っぱたいた。

「何するのよ」

 ひりひりする頬を擦りながら、浅海は思わず怒声を上げた。けれど彼女はしれっとした態度で、ちっとも悪びれる様子はない。

「殴りたかったから殴ったのよ。悪い?」

「悪いに決まっているでしょ。痛いじゃない」

「…必ず幸せになりなさい。でないと絶対に許さないから」

 浅海の言葉には返事をしないまま、葉那は震えるような声でそう告げた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 不意にものすごい寂しさが湧き上がってきて、浅海は思い切り葉那を抱きしめた。腕に力を込めると、葉那も同じように返してくる。二人は一斉に顔を上げて微笑みあった。

「ありがとう」



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