第4話 想

「はぁ。疲れたわねぇ」

 竹の屋形から出るなり、葉那はそう言いながら、肩をごりごりと回した。

「どうして毎回毎回、あんなにお説教する材料があるのかしら」

 信じられない、と言って顔をしかめた彼女に浅海は思わず空笑いを漏らした。

こんこんと説教される事、数刻。その中身の半分以上は、その場の葉那の振舞に寄るものだった。

「御婆様は私の事が嫌いなのかしらね。久しぶりにお会いしたのに小言ばかり」

 葉那は嫌そうにそう言ったが、浅海はちくりと胸が痛んだ。

 

 竹の屋形は、浅海の父である伊佐と葉那の母親の生家である。

その名の通り、竹藪に覆い繁られているその屋形は玖波郡の南方にあった。玖波郡司の一族とは遠縁にあたり、それなりに由緒ある家柄といえよう。だから佐間郡司の一人娘であった阿木の元に、伊佐が入婿として収まったことに対しての風当たりは、なかなか強かったと聞いている。

 そんな経緯があるせいか、竹の屋形での浅海と葉那との扱いはあからさまに区別されていた。久しぶりに顔が見たいと請われたからこうして訪れたというのに、歓迎されたのは葉那一人である。


 祖父母にとっては同じ孫。この屋形の後継である伯父にとっては同じ姪。喧しい事を言われるのは二人とも同じだが、浅海に対してはどこか遠慮した様な、やたらと丁寧な態度なのだ。

「浅海殿。そなたはいつか佐間の姫として名士に嫁ぐことになるでしょう。来るべき時に備えて、常日頃から色々な事に気を配れるようにしておかねばいけませんよ」

 気のせいかもしれないが、祖母は幾度となくこう告げた時『佐間の』という部分をやたら強調していた。それが浅海を余所者として撥ね退ける様な意味合いに取れて、居心地の悪さを覚えたのは一度だけではない。

 

 やはり完全に佐間の後継として婿に出した息子の子と、何度となく里帰りが許されてきた娘の子とでは、愛情の度合いが異なるものなのだろうか。赤子の頃をこの地で過ごした葉那と、司の娘として佐間の屋形でしか育てられたことのない自分では、そもそも立場が違うことはわかっている。わかっているけれど、何となく寂しかった。

「どうしたの。気分でも悪い?」

 葉那は黙りこくった浅海の顔を覗き込むと、そう尋ねてきた。

 心配そうに自分を見つめている彼女に、こんなどろどろした感情を打ち明けられるわけがない。浅海はわざと疲れた様な声を出して、本音を誤魔化した。

「何でもない。大丈夫よ。久しぶりに外に出たから、ちょっとね」

 言い終えるより先に、葉那は白くてほっそりとした手をすうっと伸ばして、浅海の額に手を当てた。もう片方の手で自分の額にも手を当てて、熱がないことを確認する。そうして何ともないとわかると、彼女はほっとしたように息をついた。

「まぁ、仕方ないわね。随分屋形から出ていないんだもの」

 同情するようにそう言われ、浅海はこくりと頷いた。馬を駆けるどころか、外を歩いて土を踏んだのも一月ぶりだ。

「あの日は本当にびっくりしたわよ。あなたがあんな大胆な行動を取るなんて思わなかったもの。伊佐様や阿木様なんて、卒倒する勢いだったんだから」

 葉那は腕を組みながら、如何にも大事であったかのようにそう言った。その言葉でここ一月弱の監獄の様な生活を思い出して、また気分が悪くなる。


 あの日浅海は、焼け落ちた社の灰の中で一しきり泣き終えた後、玖波の人間によって屋形に連れ戻されたのだ。その時、佐間の屋形中が上を下への大騒ぎとなったのは、言うまでもあるまい。

 いつもは娘に甘過ぎるくらいの伊佐も、今回ばかりは容赦をしなかった。父があんなに顔を真っ赤にして怒ったのを見たのは、あれが初めてだ。数日間は人一人入るのがやっとの程度の小部屋に押し込まれ、着替えはおろか、ろくな食事すらも許されない罪人のような生活をさせられたのである。


 疲労と鬱憤は、負の感情を助長させる。浅海は光のあまり届かない薄暗い部屋で、巫女の死と燃え盛る社の夢を何度も見ては、その度に涙が枯れんばかりに泣き喚いた。悪夢が怖くて眠れず、そうかと言って起きていても余計な事を考えてしまう。心が壊れるという感覚はいまいちわからないが、ずっと震えが止まらなかったのだけは確かだ。

 いつの間に気を失ったのか、次に浅海が気付いたのは自室だった。今度はそこで二十日ばかりを過ごしただろうか。その間、会えたのは母と伯母だけ。部屋の前、そして外側の壁には伊佐の腹心の警護兵が置かれ、葉那や浅海と気心の知れている侍従は一切近付けられなかった。

 もちろん、葉那がそんなことで引き下がるわけはなく、何度か浅海の脱出を試みたらしい。しかしあまりの厳戒態勢に悉く失敗し、四度目に見つかった時は彼女自身も自邸の部屋に軟禁されてしまったそうだ。彼女は浅海と再会した際に、けらけらと笑いながらその話をしてくれたが、手首には傷を隠すよう布が巻かれており、それなりに厳しい罰を受けたのだろうと察しはついた。


「とにかく、ようやく御許しが出たのよ。この機を逃す手はないでしょう」

 浅海を元気づけるように、葉那はそう能天気な声を張り上げた。

「せっかく、玖波まで来たんだし、市にでも行ってみない?」

 彼女のくりくりとした瞳には、生き生きとした悪戯っ気がたっぷり映っていた。

 こう言う場合は提案というよりも、むしろ命令だ。下手に逆らえば、機嫌は急降下するだろう。

「私はいいけど。そうはどうするのよ」

 浅海は小声でそう返しながら、前を行く草の背をちらと眺めた。結局いつも葉那に押し切られるとは言え、それでも彼が一度で首を縦に振った例は無い。二人の押問答は、葉那がぷいっと顔を背けて勝手な行動を始めるまで続くのが常だ。

「大丈夫。いざとなったら、撒いちゃえばいいんだから」

 葉那はこそこそとそう告げると、彼の隣に馬を並べるべく、少し速度を上げた。浅海は二人から少しずつ離れ、事の成り行きを見守るつもることにした。


「ねぇ、いいでしょう」

「駄目です」

 予想通りの二人の会話が始まり、浅海は思わずくすっと笑い声を漏らした。

 当然の流れだ。草が葉那の我儘を一度で聞き入れるわけがない。

「御屋形様は寄り道の御許しなど出していませんよ」

「だから、言わなきゃわからないって言っているの。市を訪れるくらいなら、伊佐様だって、」

「何度言っても、駄目です」

「いいじゃない。せっかく浅海が外に出られたのよ」

 草があまりにもきっぱり断るものだから、葉那は段々苛々してきたようである。甘え口調が一転して、荒くなってきた。

「たまにはね、こうして出掛けることも大事なんだから。じゃないと、浅海が可愛そう。そうは思わないの」

 そんな会話をしながら街道を北上することしばらく。燦々と日の照りつける一番暑い時刻に、三人は玖波の市に着いていた。


「流石は玖波ね」

 勝手に逃亡するという葉那の強硬手段によってたどり着いたそこは、やはり佐間のそれとは格段に違った。道に広げられた台には、所狭しと珍しい品物が並べられている。

 往来の人の多さ、店の多さ。何を取っても東国一かもしれないが、中でも柄の悪さは群を抜いている。店の主同士の諍いは常だし、風体の悪い者も少なくない。浅海は余計な顰蹙を買わぬよう、草の後ろに隠れるようにして歩いていた。

 浅海がこんなに神経質になっているというのに、葉那はここにいなかった。彼女は到着するなりふらふらとどこかに飛んでいってしまったのだ。いつも通りの振舞に慣れっこの二人は、特に捜すこともない。


 宝玉のはめられた首飾りに、鈴のついた髪飾り。佐間では中々御目にかかれない凝った代物に、装飾には興味の無い浅海もついつい興奮する。

「ねぇ。草。見てみて、これ、」

「草殿ではないか。久しいな」

 見知らぬ男が草に話し掛けてきたのは、浅海が髪飾りを彼に見せようとしたのと同時のことだった。

「おお。これは荒居の信太殿。お久しゅうございます」

「こんな処で何をしているのだ」

 草が信太と呼んだ青年は、浅黒い肌がいかにもたくましそうであった。

 軽く頭を下げた草に倣って、浅海は自分も多少なりとも礼をとろうとしたが、信太は浅海を全く無視するかのようにこちらをちらとも見てこなかった。彼は草にその大きめの頭を近づけると、ひそひそとこう告げた。

「そういえば聞いたかい。司の馬鹿息子がまたやらかしたそうだ」

 声を低めてはいるものの、あまりにも無遠慮だ。さすがに草はちらとこちらの表情を伺ってきたが、浅海は首を小さく横に振って、気にするなと合図し返した。

「何でも屋形に入った盗人をその場で処刑したんだってよ。それも理由も何も聞かずに。まったく怖ろしい奴だよ」

「立飛様は気性の激しい御方ですからね」

「そういう問題じゃないだろう。あいつは要するに馬鹿なんだよ。後先も考えられない、ただの愚か者だ。少しは父親の計算高さを学んだほうがいいだろうよ。あの兄貴みたいに、な」

「信太殿、口をお慎みください。ここは玖波、それに往来ですよ。誰に聞き耳を立てられていてもおかしくありません」

 慌てて彼の口を塞ごうとする草をひらとかわしながら、信太は一人うんうんと話を続ける。

「いや、だってそうだろう。兄貴の方はあの馬鹿とは比べ物にならないさ。うちの姫君も相当入れ込んでる様子だぞ」

「姫君とおっしゃりますと、陽様ですか?」

「ああ、俺達には石みたいに冷たい彼女が、奴の話を聞いただけで頬を紅くするんだぜ。信じられねえだろう」

 信太はそう言うと、大袈裟に驚いてみせた。おどける彼を可笑しそうに見ている草の隣で、浅海は冷めた視線を信太に注いでいた。

 

 体格が良くて、声が大きくて、思った事をぽんぽん話してしまう様な元気な男。はっきり言って、苦手な部類の人間である。どちらかと言えば草も彼に近くはあったが、それでもまだ暑苦しくないだけマシである。

 如何にも体力任せの武人といった感じの、礼もろくに取れず、きちんと筋の通った話も出来ない様な男と親しくお喋りをする気にはなれずに、浅海はそっぽを向いた。すると、彼はそんなこちらの心中を悟ったかのように、値踏みするような目を向けてきた。

「そう言えば、あんたは誰だい。草の女か?」

「信太殿。とんでもございません。こちらは我が佐間の一の姫、浅海様でございます」

 浅海が答えるより早く、草が口を開く。すると信太は急にわたわたと慌てだした。

「一の姫って、おい、そういうことは早く言えよ」

 彼はあたふたしながら自らの衣服を正すと、浅海に向き直ってがばっと頭を下げる。

「申し訳ございません。私、荒居で警護兵を務めております、信太と申します。草殿とは以前、武術の練成場でご一緒させて頂いて以来の友人。以後、お見知りおきを」

 正式な挨拶を受けた今、ここは佐間の姫として、当然気の利いた言葉を返すべき場面だ。だが浅海は、硬くなった作り笑顔を浮かべることしかできなかった。やはり苦手なものは苦手である。

「浅海様、ご加減でもお悪いのですか?」

 強張った顔の浅海に、草は心配げにそう問うた。何でもないと答えるも彼はますます詰め寄ってきた。

「顔色が優れませんね。もう戻りましょう」

「そうですよ。うん。そうされた方がいい。姫君に何かあったとなれば、司様が卒倒してしまいますから」

 冷静に対処する草とは打って変わって、信太はまるでそうなったのが自分の所為であるかのように焦っていた。眉毛をへの字にさせながら、おろおろしている様子は武人らしからなくて、少しだけ好意的になれる。

 

 まだ大丈夫、と浅海が答えようとした時だった。辺りに怒声が響き渡って、三人は思わず顔を見合わせた。

「何事でしょう」

「さぁ。とにかく行ってみよう」

信太はそう言うなり、駆け出していってしまった。残された浅海達は、どうしたものか顔を見合わせていたが、突然、草の体が傾いた。

「何してるのよ。早く行くわよ」

 どこからか急に涌いて出た葉那が、無理矢理彼の腕を引っ張ったのである。痛い、と言う草の訴えなど聞き耳持たずで、彼女はどんどん先へと進んでしまう。こうなればもう、浅海も追う他なかった。

 

 遠巻きに騒ぎを静観している群衆達を掻き分け、ざわめく中でも安全そうな場所を確保した。そうして人々の視線の先を見てみれば、通りの真ん中で叫ぶ男達とそれに叩頭している一人の男が目に入った。

「おいお前、この方が誰か知っているんだろうな。少しばかりわけて欲しいと言っておられるだけだ。全部奪うわけじゃない、いいだろう」

「恐れながら、これは神殿に収める供物でございます。何卒お許しを」

「だから全部じゃなくていいさ。ほんの少しその酒を分けてくれ」

  地に平伏している男は、もはや泣き出しそうだ。しかし、威張り散らしている青年達はそれを楽しむかのように、けらけらと嘲笑を浮かべていた。

「随分柄が悪いわね」

 野党崩れのような振る舞いに嫌悪感を覚える。飛び出していって、後ろから頬を張ってやりたい衝動に駆られたが、正直そこまでの度胸はない。

「あの人達、どこかで見た顔だわ」

 葉那がそう言うなり、浅海と草は同時に顔をしかめた。少なくとも浅海と共通の知人に、ああいった輩はいない。彼女は一体、どこであんなろくでもない男と知りあう機会があったというのか。

 ああでもない、こうでもないと、ぶつぶつ何かを呟いている葉那を、急かすように見つめていると、突然、浅海の体にどんっと人がぶつかってきた。

「悪い、ちょっとどいてくれ」

 ぶつかった男は、その後も無理やり人を掻き分けて、騒ぎの只中に飛び込んでいく。その無遠慮な様に文句を付ける者もいたが、彼は適当にすまないとだけ告げて先を急いだ。そして転がるような勢いで、二人の前に躍り出ると、大声で彼らを怒鳴りつけたのであった。

「立飛様、いい加減になさいませ。家名に傷がつきますよ」

その言葉を聞いた葉那は、ぽんっと手を打つ。

「そうよ、思い出したわ。玖波の立飛様よ」

うんうんと一人納得している葉那の横で、浅海は更に顔を歪ませる。

「まさか、石賀様の?」

「ええ。私、この間の祭で一緒に踊ったもの」

 余計な情報も交じっていたが、この際それは置いておく。石賀が溺愛しているという話は聞いていたが、これほどまでに酷いとは思わなかった。発する言葉もなく、浅海はひたすらぽかんと問題の二人を眺めた。

「容姿は良いんだけど、行動の評判はまずよくないわね。こんな諍いは日常茶飯事だって聞いているわ」

 そう告げる葉那の言葉を呆れ返りながら聞いていると、事態は急に動き出した。二人の内の一人が立ち向かっていった男に向かって指を差して、嘲るようにこう吐き捨てたのである。

「勇、またお前か。主に言いつけることしか能がないお前に、何を言われても痛くも痒くもないわ」

 あれはたけよ、と葉那がこそこそ耳打ちしてくる。額がやたらに広く、目つきの悪い男だ。見た目はともかくとしても、あの横柄な態度は、浅海が最も嫌いな部類の人間である。石賀と言い、立飛といい、玖波にはどうにもろくな人間がいないように思えた。

「大体お前、何様の積りだ。所詮、奴の犬の分際で、きゃんきゃんとよく吠えるわ」

 群衆が彼の言葉でざわめく。すると何を勘違いしたのか、丈は調子に乗ったようで更に威勢よく文句を言い始めた。

「あんな余所者。いなくなったところで、誰も悲しむ者などいまい」

 げらげらという馬鹿笑いが白く凍りついたのは、そのすぐ後の事だった。目に何か白い光が飛び込んできて、浅海は反射的にぱっと目を閉じた。

「もう一度言ってみろ。あの方がどうなると言うのだ」

 剣を天に向かって振り上げた勇は、激情のままにそう叫んだ。日に照らされた銀色の影を見るなり、丈の顔はたちまち恐怖に歪む。

「いや、さ。悪かったよ。だから、その」

「もう一度、それを口にしてみろ。次はこれを振り下ろすぞ」

「待て、いさむ。済まなかった。今日のところはこれで勘弁してくれないか」

 腰を抜かして立てなくなった丈の代わりに、立飛は案外素直にそう謝罪した。痛ましげな声色を遣い、心底反省しているかのような口振りである。人懐っこく、くりっとした瞳の彼がそうすると、その場にいた人々はまるで毒気を抜かれた様に納得顔になってしまった。

「立飛様。このようなことは」

「うん。わかっているよ。もうしない」

 立飛は早口でそう捲し立てると、丈を肩に担いで、そそくさとその場を去っていった。あんなにも屯っていた群衆達も、あっという間にさぁっといなくなる。あまりにも呆気ない幕引きに、浅海は思わず首を傾げてしまった。

「とりあえず、何事もなくてよかったわね」

 何と感想を述べようか思案した揚句、出て来たのはこんな言葉だった。しかし返事どころか、相槌も返ってこない。怪訝に思って隣を見てみれば、話かけたはずの相手はいつの間にかいなくなっていたのである。

「葉那は?」

 また、いなくなった。

 放っておいてもいいのだが、あんな騒ぎを見た直後では、そうもいかない。面倒な事を引き起こされでもしたら、たまったものじゃなかった。浅海は掴んだ草の袖をぶんぶんと上下させながら問いかける。

「どこに行ったの?」

「わかりませんよ。ちょっと目を離すとすぐこれだ」

 草はそう言って鼻筋に皺を寄せると、頭をぐしゃぐしゃと掻き上げた。

 何でいつも、とかなんとか文句をぶつぶつ呟きながら、彼はその上背を生かして、辺りをぐるりと眺めた。

「いた?」

 しつこく尋ねてみるも、草は面倒そうに首を振るだけだ。背伸びをしてみたが、小柄な浅海では背伸びをしたところで、見える範囲なんてたかが知れている。

あっ。そう声を上げた草の視線の先を追う。すると先程の人だかりの中心に、良く見なれた光景があった。何を心配することもない。彼女は勇の隣でにこやかに微笑んでいたのである。

 またか、と大きなため息をついて、草はゆっくりと彼女の元に向かっていく。浅海もその後を追おうとしたが、何か嫌な予感がして二の足を踏んだ。

 もう少し様子を見よう。そう考えて少し離れた場所にさっと身を寄せた。


「あなた、とっても勇敢ね」

 葉那は上目遣いで彼を見上げると、可愛らしく小首を傾げた。その女らしい仕草に勇はさっと頬を染める。彼は背が高く、がっしりした体躯でなかなか見目の良い青年だった。華やかな顔立ちの葉那と二人で並んでいると結構お似合いだ。

「私、佐間の葉那です」

 聞かれてもいないのに名を名乗るな。明るい声でそう告げた葉那を、浅海は心中で咎めた。

「先程の御姿、とても勇敢でしたわ。思わず惚れ惚れしてしまいました」

 聞いているこちらが気恥ずかしくなる様な言葉に、浅海はくらくらしてきた。 いっそこのまま置いて帰ってしまおうかとさえ思えてくる。

 ちらりと草の方に視線を遣ると、彼はどうしようかと言った顔でこちらを見ていた。彼は二人に近づいたものの、話しかける機会を掴めないでいたために、微妙な位置取りに立っていたのである。

 早く連れ戻して。

 浅海は顎をしゃくって、草にそう合図した。彼は相当に嫌そうな顔をしてみせたが、命令であれば仕方ないとばかりに二人の間に入って行く。

 あのぅ、と急に割って入って来た彼を、葉那があからさまに睨みつけた。

「何よ。戻るんなら先に行きなさい」

 勇に対する態度とは大違いな気の強い振舞いに、面白そうに二人を見ていた周囲の人々も思わずぎょっとしたようだ。勇もその表情を胡散臭げなそれに改める。

「おいおい。どこの御姫様か知らないが、随分じゃないか」

 彼は窘めるようにそう言うと、葉那から少し距離を取った。

「せっかく迎えが来てくれたんだ。大人しく帰ったらどうだい」

「いえ、あの。彼はただの」

「残念だが、俺は忙しいんだ。あんたみたいな女とお喋りしている暇はないよ」

「私のような、とは?」

「頭の軽そうな女ということさ」

 余りの言い様に、葉那の機嫌の悪さは一気に最高潮に達したようだ。彼女はそれまでの媚びる様な態度を一変させて、彼に掴みかかった。

「頭が軽そうで悪かったわね」

「葉那様、お止め下さい」

 突然の暴挙に慌てて草が制止に入る。けれど葉那は掴んだ手を離さなかった。勇はそんな彼女を睨みつけると、火に油を注ぐかのように更にきつく言った。

「男に掴みかかるとは、お前は礼儀というものを知らないのか」

「その言葉、そっくりお返しするわ。その態度、私が誰だか知っての事なのかしら」

 あのなぁと勇が呆れて溜息をつく。

「あんたが誰でも俺には関係ないんだよ。ただ、その礼儀知らずな振舞をやめろ」

「それはこちらの台詞よ。謝罪しないのなら、あなたの主に直接抗議させてもらうわよ」

 葉那はふんっと鼻を鳴らすと、高飛車な口調でそう言い返した。

「主に恥をかかせる前に、さっさと謝ったらどうかしら」

「馬鹿馬鹿しい。こんな下らぬことで、あの方を煩わせられるか」

勇は吐き捨てるように言うと、軽蔑の眼差しを葉那に注いだ。

「いいか。海里様はお前のように暇じゃないんだよ」

 そう怒鳴った彼の言葉に葉那は目を見開いたが、それは浅海も同じだった。社が焼かれたあの日、泣き疲れて精根果てていた浅海を送り届けてくれたのは彼なのだ。



「村外れにいたのを見つけて、お連れ致しました」

 海里は浅海が社に来た事には触れず、そこら辺で拾って来たかのようにそう言った。

「昨今は物騒です。どうか、むやみに一人歩きなされぬよう」

 海里にそう告げられた伊佐は、顎が外れるのではないかと思うほどあんぐりと口を開いた。その横で阿木が何度も何度も頭を下げていたが、浅海はそれを他人事のように馬上から眺めていた。

「これ。いつまでそこにいるんだ。さっさとこちらに来なさい」

 動かない浅海に、伊佐は相当慌てた様子で、早く降りろと身振り手振りで命じてきた。それでものろのろとしか動かない娘に業を煮やして馬に近づこうとした彼を、海里がさっと制する。

「伊佐殿。私が手を貸しましょう」

 海里はそう言うと、上にいる浅海に手を伸ばした。

 ぼうっとしていた所為で体重の掛け方を誤った浅海は、飛び降りに近い形で転がり落ち、抱きつく様な恰好で海里に受け止められた。その時、彼に耳元で囁かれた言葉は今でもはっきり覚えている。

「いいか。二度と、社を訪れるな」

 誰にも聞こえない様な微かな声だったが、口調は厳しかった。浅海がごくりと唾を飲み込むと、彼は小さく首を縦に振って見せ、こう続けたのである。

『でないと、私はお前を守れない』

 あの時の抱きとめられた温かさは、しっかりと体が記憶していた。浅海はそれを思い出すように両手で自身を抱きしめる。


「中ノ様」

 会いたいと何度願った事だろう。時と共に悲しみが薄らいでくる一方で、膨れ上がって来たのは彼への思慕の情だった。その想いは日を御追うごとに強さを増して、もはや爆発寸前にまで膨れ上がっている。

 社を焼いた憎い男。けれど、もう怒りも憎しみもなかった。初めて会ったその時から、心の片隅にずっと在った想い。それは段々と形になって、今でははっきりと答えが出ている。彼は浅海を色々なものから救ってくれたのだ。


「さぁ、どうする。まだ騒ぎ立てるか」

 勇が一際大きな声を上げたことで、浅海ははっとして二人の様子を伺った。

相手が悪いと踏んだのか、葉那はあれから余計な口を叩いていないようだ。彼女の目には、うっすらと悔し涙も浮かんでいる。浅海は急に彼女が心配になって、そちらに駆け寄ろうとした。

「葉、」

「もういいわ。草、帰りましょう」

 浅海の呼び掛けは、彼女の怒鳴り声で掻き消された。彼女はぶすっとした顔のまま、さっと衣を翻すと、さっさと通りの脇に向かう。

「葉那様、御待ち下さい。ああ、もう」

 後ろ姿に呼び掛けるものの、彼女はどんどん進んでいってしまう。草は仕方ないとばかりに、早口で勇に謝罪した。

「この度は大変失礼いたしました。どうか、この件は、」

 草が大きな体を縮込ませながら告げると、その必死さが伝わったのか、勇の顔に同情の色が濃く映った。

「それは構わんが、あんたも大変だなぁ。あんな我儘女に振り回されて」

 勇の呆れた様な言葉に、草は苦笑いをして見せると、そのまま一礼して葉那の後を追っていく。追いつこうと駆け出そうとしたその時、視界の端に勇の姿が映った。

 

 これは好機かもしれない。そう思った浅海は思わず足を止めた。

 海里に会いたい。そう誘惑に駆られるけれど、理性が邪魔をする。ようやく謹慎が解けたばかりなのだ。ふらふら寄り道をすれば、大人達に叱られるのは必至。今日だって竹の屋形からの要望がなければ、浅海が隣郡に出向くなど許されるはずがなかったのである。

 伊佐は草に二人を甘やかさぬよう相当厳しく命じていたし、葉那だってわざわざ正座をさせられたまま母親からの注意を聞かされていた。浅海自身、泣きそうな顔の阿木に散々勝手な振る舞いはしないように言われている。

 これで尚、軽率な行動を取れば叱責や謹慎だけでは済まないだろう。けれど…


 浅海は、玖波の屋形の正門から少し離れた林の中にいた。

 反り建った大屋根の両端に付けられた豪勢な飾り。入り口となる大木戸に描かれた彫物。屋形をぐるりと囲む塀は、佐間のそれの二倍の高さはありそうで、厚みも相当なものだ。まるでここが東国の中枢であるかのような顔をした屋形は、さすがは玖波の郡司のものだけの事はある。

 建国以来の有力豪族であり、東国随一の軍事士族。強力な軍事力と豊かな国土を武器に伸し上がった玖波氏は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いであった。鬼ですら恐れ戦くという荒武者達を率いる彼らは無敵といっても良いだろう。

 とは言え、それを快く思わない者がいないわけではない。表立って反抗心は見せないものの、内心では石賀を憎んでいる者も当然いるのだ。そういった輩に牽制を掛ける意味でも、頑強な門の両脇に造られた物見櫓には、武装した屈強な兵がそれぞれ数人ずつ置かれていた。

 浅海は門を警護する兵に気付かれぬように様子を伺った。今から戦でも始めるかのような物々しさは、威圧感というより、むしろ圧迫感。この敷地内にいるだけで、押さえつけられたような息苦しさで呼吸困難に襲われそうであった。

 勢い余ってやって来たは良いが、正面切って中に乗り込むわけにもいかない。第一、目当ての人物がいるかどうかもわからないのだ。仮にいたとしても、浅海に会ってくれる保証などどこにもなかった。

「逃げちゃだめ」

 震えだしそうな膝をぺしぺし叩き、自分を叱咤する。

 せっかくここまで来たのだ。何もせずに逃げ帰るなんて無駄足もいいところ。覚悟を決めた浅海はごくりと唾を飲み込むと、服の裾をぎゅっと握った。その時だ。

「浅海」

 聞き覚えのある低めの声で背後から名を呼ばれ、浅海はばねのように顔を上げた。

 相手を見たその瞬間、心臓はどっくんと大きく跳ねる。顔を隠すように布を巻いていたが、その中にはちらちらと形の良い眉が見える。切れ長の目元とその中にある灰色がかった瞳は、他ならぬ彼の証である。

「中ノ様」思わず名を呼び返したが、海里はぎゅっと眉を寄せた。

「静かに」

 浅海の唇にそっと指を当てて黙らせる。けれどその命令口調とは相反して、涼しげな目元には柔らかな色が映っていた。

「声を大きくするな。門兵に気付かれる」

「あ、あの、」

 とりあえず挨拶を。そうは思ったが二の句が続かない。

 海里に会いに来た。けれどまさか思いが叶うとは思っていなかったもの本音だ。会いたくて堪らなかった相手なのに、実際に彼を目の前にすると固まってしまうだけの自分が歯痒い。

 海里はもごもごと口籠る浅海に向かって、すうっと手を伸ばした。そして男にしては少し細めの指で浅海の手を取ると、こっちへと通りの裏へと誘った。


 二人が向かったのは、ここから更に奥の林の中だった。

 当てもないようにふらりと先へ進む彼を、浅海は早足で追っていく。だが足元は柔らかくて、途中何度も足を取られそうになった。

 湿地とまではいかないが、それに近い場所だった。ぐにゃりとした土は踏んでいて心地良くないばかりか、歩き辛い事この上ない。しばらく進んで、ようやく彼の目当てらしい場所に着いた時には、浅海の息はすっかり上がっていた。

 こんな林の中には不釣り合いの荒削りの大岩。ぽつりと置かれたそれは何となく奇妙だったが、海里は慣れた様子で寄り掛かる。浅海は彼から人一人分ほど離れた場所で、じっと立ちつくした。

「ここならば、そうそう人は来ない」

 海里はそう言うと、巻いてあった布をするりと外した。その姿はこちらがどきりとするほど様になっており、浅海の胸は勝手に高鳴る。

 彼は布を簡単に畳んで懐に戻すと、それが癖なのか両腕を組んだ。そして咎める様な視線を浅海へとどっぷりと注いで来た。

「そう。ここなら、たとえ佐間の姫君が勝手に他郡にいらしていようと、誰にも悟られまい」

「あの、私」

 口籠る浅海の答えを待たずに、海里は別の問いを口にする。

「姫君が一人であんな処にいるのは、些か不用心ではないか」

 静かな口調ではあったが、こちらの非常識さを責める様な言葉に、浅海の顔は自然と俯く。

 彼の言う事は尤もだ。仮にも浅海は司の娘。そんな自分がいつまでも余所の郡、それも郡府付近をふらふらしているのは、褒められた行動ではなかった。その常識は、いくら盟約を結んでいる佐間と玖波でも当然当てはまる。

「…すみません」

 俯いて謝る浅海に、海里は大きな溜息をついた。煩わしそうな態度を見せつけられ、胸がちくちくと痛んだが、彼はそんなこちらの心情には気付いていないようで、遠慮なしに言葉を続けた。

「何をしに来たのだ?」

「…あなた様に会いに」

 同じ言葉を以前にも告げた。けれどその意味は全く異なる。

「ご迷惑でしたか」

 浅海は恐る恐る尋ねた。そしてすぐに後悔した。こんなことを問えば、彼から出てくる答えは二つしかない。否か、それとも。

「ああ」

そう聞いた瞬間、目の前は真っ暗になった。


 海里に抱き締められていることに気が付いたのは、体が温かくなったのを感じてから、少し経ってからだった。凍りついた様に硬くなった体は、いつの間にかすっぽりと彼に包まれている。

「中ノ様」

 海里が近い。名を呼び、その端正な顔をじっと見つめたが、不思議な事にあまりはっきりとは見えない。

「これで三度目だな」

 海里はそう言って浅海の頭を撫でた。最初は彼が何の事を言っているのかわからなかったが、頬に冷たさを感じてその理由がわかった。浅海はいつの間にか泣いていたのだ。

「涙するそなたを見るのは、三度目だ」

 言いながら、空いているもう一方の腕を浅海の背に回す。

「中ノ様」

「いい加減、終わりにしないか。私はそなたの泣き顔しか見ていない」

 彼は浅海を抱く腕に力を込める。

「さすがに見飽きた。もういいだろう」

 温かな彼の胸が心地よく、浅海の感じた冷たさは少しずつ解けていく。彼の鼓動が早いのがわかったが、浅海のそれも負けてはいなかった。

「ごめんなさい」

「何を謝る」

「私があなた様にご迷惑をかけるのも、これで三度目です」

 初めては大祭の日。二度目は社が焼かれた日。そして、今。どれも浅海の勝手な行動だ。

「けれど、どうしてもお会いしたかった」

 浅海はそう言いながら、彼の服の胸元辺りをぎゅっと掴んだ。肌触りの良い布地に、浅海の涙がどんどん浸み込んでいく。

「佐間には遣いを遣ってある。多少戻るのが遅れても大丈夫だ」

 泣きじゃくる浅海を宥めるように、彼はそう言った。

「市でお前を見つけた。勇を追いかける様子から、屋形に向かうだろうと予測できたからな」

 その機転の良さに浅海は思わず顔を上げた。彼にはこちらの短絡的な行動なんて全てお見通しのようだ。

 

 ならば、私の想いも御存じでしょう。そう問いたかったが、さすがに口には出来なくて、その代わりにじいっとその灰色の瞳を見つめた。すると彼は再度浅海を胸の中に閉じ込めた。

「迷惑だと言ったろう。こうして会ってしまえば、歯止めが利かなくなる」

 さっきまでとは打って変わって、上から降って来る海里の声は苛立っていた。けれどそれは浅海に向けられたものではなく、自分への強い苛立ちのようだ。触れてはならないものを、好奇心から手中にしてしまった時のような罪悪感。そして自らを抑える事が出来ない自己嫌悪。そんな感覚が体越しに浅海にまで伝わって来る。

「私にはまだお前を護るだけの力は無い」

 海里はまるで情けない己を叱咤するようにそう言った。

「父親が都人であろうと何だろうと、私自身は玖波の厄介者だ。少しでも隙を見せればすぐに付け込まれる。なまじこの身に利権が絡む所為で、どれほど苦しめられたことか」

 海里の父親は、有事の際に東国での足掛かりをつくるために彼をこの地に残し、石賀は西への恩を売るために育てた。政の情勢に詳しくない浅海ですら、そんな話は知っている。加えて海里自身が玖波の誰よりも優秀だった事で、更に状況は悪化した。

 中ノ海里に求められたのは、その存在と立場だけだった。それらが誰からも必要とされている一方で、彼自身の能力が評価される事もなければ、周囲の人間から愛される事もなかったのだろう。尤も彼が周りからの愛情表現に、気付いていないということもあるのかもしれないが。

「人は私を野心の塊だと蔑むが、それでも構わない。権力さえ手に入れれば全てが変わる。恐れるものはなくなるのだ。違うか」

 目的以外に心をふらつかせている自分が許せない。そんな口振りだった。感情を剥き出しにした今の彼は、怜悧冷徹と評される世間の噂からは想像もできない。

浅海はそっと海里の頬に手を触れた。

「あなたは安らぎを欲しているのではありませんか」

「安らぎ?」

「ええ。私には、あなたが感じてきた痛みまではわかりません。けれど、あなたが感じている空虚さは何となくわかる気がします。荒波を潜り抜ける事も時には必要でしょう。けれど、穏やかな凪の海に漂う時間も、また必要なのですよ」

 浅海はそう言うと、微笑みを彼に向けた。心も体もぽかぽかと温かい。この感情は間違いなく嬉しさと喜びだ。

「知った様なことを」

 海里はそう言うとふっと小さく笑った。そして急に強い眼差しを向けてきたかと思うと、こう続けたのだった。

「浅海。もし、お前に心を寄せる男がいたとしたらどうする?」

 彼の瞳の灰色が濃くなる。そこには浅海の笑顔も写っていた。

「それがあなた様でしたら、御心のままに」

 当然の答えだ。けれど、海里は嬉しそうに笑ってくれた。思わずその笑顔に見とれた浅海は、自分が彼に恋していることを改めて思い知らされた。

 

 海里を全て知りたい、海里に自分を全て知って欲しい。浅海は海里を真っ直ぐに見つめると、少しだけ震えながら問うた。

「そばにいてもよろしいですか」

「ああ」

 たった一言であった。けれど海里は彼なりの優しさで、浅海の想いを全て受け止めてくれたのだ。二人は互いの想いを確かめるよう腕に力を込め、思い切り抱きしめ合った。

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