第10話

 リビングで夜更かししてテレビを観ていた私は、海外ドラマがCMに入った後、ふと視界の隅っこに何か奇妙なものを捉えた。

 白いリビングの壁に、黒い亀裂のようなものが走っていた――おいおいどうした冗談じゃないぞ、まさか我が家が欠陥住宅か、と思いながら立ち上がって近付こうとした。

 いや待て亀裂じゃないな、影でもないなあ……。

 次の瞬間、私はその正体に気付くと同時に声を上げた。

「あぐごぶぇぇっ」

 汚い。キャーとかギャーとか可愛い感じで言いたかったが、まるでブタの鳴き声のような叫び声である。百年の恋も冷めること請け合い。相手がいないのがせめてもの救いだ。

 亀裂の正体はムカデだった。それも結構長めの。

 大体の人がそうであるように、私もご多分に漏れず虫が苦手だ。素手で触れるのは蚊とアリのみ。アリもちょっと怖い。我が輩、巨大ムカデなどという怪物と渡り合えるほどの戦闘力は持ち合わせておらぬぞよ!

「おのれ曲者! 出会え! 出会えぇぇー!」

 時代劇の悪代官よろしく助けを求めようとしたが、時刻はすでに深夜一時半。父親はとっくに寝室へ引っ込んでいる。ついこの間、全然違うことで「もー、それぐらい自分で何とかしてよ」と私が父親に結構な文句を言ったことがあったため、今ここで叩き起こしたら完全にブーメラン状態になってしまう。

 頼れるのは自分だけ。やるしかない。

 軽く泣きそうになりながらも、私は意地でどうにか行動を開始した。幸い、敵はじっとしたまま動かない。他人の家で勝手に寝よって。しかしある意味チャンスだ、起きる前に勝負を付けてやる。

 そう思い殺虫剤を取りに行こうとして、ふと気付く。スプレー噴射で攻撃したとして、このサイズのムカデは果たしてすぐに絶命するのだろうか。今は壁に張り付いているが、床にぽとりと落ちて暴れ回り猛スピードで逃亡を図ったりしないだろうか? そうなったら私には完全にお手上げである。考えただけでも恐ろしい。

 白馬の王子様が現れて退治してくれないだろうかと半ば本気で思ったが、こんな深夜に馬が室内に出現したらそっちの方が問題だ。

「待たせたねミヤビ! もう大丈夫、助けに来たよ」

「来て下さったのね王子様! ……ってあの、馬ごと?」

「心配いらない。この富士川号は僕の相棒、気のいいヤツでね」

「めっちゃ和風な名前……そうじゃなくて王子様、部屋の中で馬はちょっと」

「うーむそうか、しかし僕とコイツは一心同体。残念だが帰るしかないな。では失礼!」

「いや降りてよ! あー馬が花瓶に当たるぅぅ! わあああ花食べてるぅぅ!」

「安心してくれ。富士川号は神の使い、物を食べても排泄はしないんだ。ごくたまにしか」

「帰れ!」

 虫だけでなく動物にも気を配るような余裕などない。諦めよう。

 具体的な作戦立案に入る。

 例えばムカデのちょい下にビニール袋をテープで壁に貼り、スプレー後に落ちたムカデがそこにすぽっと入る、というのはどうだろう? これは我ながら策士だと思ったが、後でそのビニール袋を壁から剥がして口を縛るという作業が必要じゃないか。怖い。怖いよ。そのまま朝まで放置してたら父親が片付けてくれるかなあ。

 うーん、と悩みながらとりあえず殺虫剤を取りに行った私は、そこで凄い発明品を見つけた。同じスプレーではあるのだが、殺虫成分ではなく冷却剤を吹き付けマイナスの温度で虫を凍らせてしまうという。

 なんて素晴らしい発想だろうか。これならムカデが暴れ回ることもない。だって凍るから。

 もはや伝説の武器を装備した気になった私は少しだけ気が大きくなり、いざムカデの前へ。

 テレビではCMが終わりドラマの続きが始まっていたがそれどころではない。壁に向けスプレーを構える。気分は拳銃の引き金に手を掛けたFBIだ。いつの間にかドラマよりドラマしている。

 意を決してスプレーを噴射すると、ガスによりムカデが水に濡れた感じになったが別に凍ったような風でもない。あれっと思いレバーを離したら、時間差なのか今度は一気にパキパキと凍り付き始め、瞬時にドライアイスのように真っ白になった。うわ凄い、めっちゃ凍ってるやん!

 ムカデは最初こそちょっと動いたが、パキパキ状態になってからは完全に停止した。素晴らしい。ついに人類の英知が勝利したのだ。

 いぇー、と小躍りしたところではたと気付いた。で、これどうすんの?

 ムカデは凍死しているであろうが、パキパキ状態で壁にくっついたままである。今からビニール袋作戦をすべき? ていうかいつ氷が融けるのかしら。

 思案の末、壁際の床に新聞紙を広げて置き、手には丸めたチラシを持ってムカデを床に落とすことにした。凍っているとはいえちょっとドキドキ。ちょん、と触ると意外にもポロッと落ちてくれた。

 段々と真っ白状態が元に戻っていき、ヤバい直視したくないぞ、と急いで床の新聞紙ごとムカデを拾い、窓から外へ出した。

 最後に新聞紙を捨てて任務完了。やった……終わったんだ。

 長い戦いが終わり人類は平和を手にした。気付けば汗をかいていた。

 こちら側の損害は数枚の新聞紙に、着替えが必要となった私のパジャマ、そして結末がよくわからないまま終わってしまった海外ドラマと実に甚大なものであった。

 だが得た物もまた大きい。

 ヤツらに通用する新たな武器があるのだとわかった、これは収穫だ。ネットで調べたところ、ムカデ専用の殺虫剤もあるらしく、これならより成果が期待できるだろう。

 人類は負けてはならない、常に進化し、前進するのみ!

 グッと拳を突き上げた私であるが、次回の生物災害は父親が寝ていないときにお願いしたい。

 ていうかそもそも私を現場に遭遇させないでくれ。

 私の見ていないところで富士川号あたりが虫をやっつけておいてくれるといいのだが。


 というような内容を友人Yとラインしていたら、彼女は同じスプレーでGと戦ったことがあるという。

「マジで? 倒した?」

『それが、スプレーの風圧で飛んでった』

 要するに、スプレーの噴射の勢いが強すぎて、凍らせる前にGを吹き飛ばしてしまったらしい。驚いたGは逃げ回り状況は悪化、結局Yの父上が駆り出され、今度は上手くGを冷凍したそうである。

 おそらくスプレーする角度などが重要なのだろう。私が上手くいったのは壁に向かってスプレーしたからで、どうも敵が床にいると難しいらしい。もしあのムカデが床で寝てたらどうなっていたことか……ああ恐ろしい。

 いかに優れた武器でも使い手がポンコツでは効果が薄い、というマンガでよくある理論がこんな身近に。

 どうやら私が対決するのは諦めた方がよさそうである。

『たまに家の中に小さいクモがいるじゃん。あれGを食べるらしいよ』

「マジで?」

 なんて役に立つのだクモよ。

 蜘蛛の糸(お釈迦様のあの話)を読んだときからクモだけは殺さずにおこうと誓った私だが、改めてその決意を強くした。

 でも捕食シーンは、やっぱり私の見ていないところでよろしくどうぞ。

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