僕らの仕事に必要なのは、冷静な判断、確かな腕

ささべまこと

第1話

僕らの仕事に必要なのは冷静な判断、確かな腕。

それは確かにそうだと思う。でも先輩はいつもこれにも一言付け足して言う。

必要なのは冷静な判断、確かな腕。それだけだ、と。

僕はこれには反対だ。扱うものの大きさを考えれば完全に責任を負うと言うのは無理だと思うが、その大きさを意識すること、そして最善を尽くし誠意を見せることも必要だと思うからだ。この仕事が人助けの一面を見ている限り、本人や家族の気持ちを受け止めて忘れない事はたとえ辛くても僕らの務めの1つだと思う。

だが、先輩はそうは思ってないらしい。彼は優秀で、冷静で自分のすべきことを正確にやり遂げる人間だ。彼の仕事は信頼されていて、僕もその点では彼を尊敬している。しかし、僕は彼が好きになれなかった。反感を抱いていると思う。あの時「残念です」といった口調に、前の患者のことなどなくなった時点でもう関係ないと言わんばかりのあのそっけない態度に。あの言葉がただの形式文句になったのは彼の振る舞いの声だ。ひいては、その振る舞いをさせた、彼の心の声だ。


今日、僕が初めて担当した患者がなくなった。

その患者は初老の女性だった。娘と息子がいて、それぞれに子供がいた。つまり、その患者から見て孫にあたるわけだ。それに、夫がいた。彼女の症状は平たく言えばのにできものができて、そのせいでいつか失明するというものだった。僕の勤める病院では、僕のいるので彼はいわば看板だ。それに当社の診断では比較的簡単な手術ですぐに摘出できると判断された。

「簡単な手術ですから」

そう言って僕らは…彼女と彼女の家族を説き伏せたんだ。脳外科における、盲腸の手術のようなものだと。

いくら簡単な手術といっても、もちろん新米の僕は助手で、執刀医は先輩だった。担当も先輩と2人でだった。手術は5、6時間で終わる予定…。


まさか、あの腫瘍が、あんなに密接に脳内の組織に絡みついているとは。


手術が進むにつれて初めて知った事実に僕は戸惑った。だが、頭を開けてしまったからにはもはや途中で止める事はできない。まず、切除しかけていた腫瘍をそれに絡み付く毛細血管を傷つけないようにとってしまうことが必要だった。先輩は冷静で、最新の注意を払って作業をした。真剣な眼差しで作業中の手先外は微動だにしなかった。そんな先輩を見て僕は何とか落ち着きを取り戻してはっきりとした意識を患者の脳へと戻すことができた。

そして、先輩の指先で大変なことが起こっていることに気がついた。

毛細血管が絡み付いていたのは表面だけではなかった。その中にも潜り込んでいたのだどんなに慎重にあっても血管が切れて出血を起こすのは必至だった。

自立、先輩の手元で出血が始まっていた。

きっと僕の顔面は蒼白だったと思う。一方先輩は治療に専念するあまりなのか、その事実に眉一つ動かしすらしなかった。

ー今は治療が先なんだ。しっかりしろ、お前は医者だろう。

僕はひとつ息を吸い込んで何とか先輩を手伝える状態なるよ自分の感情を押し殺した。

先輩と僕はとにかく腫瘍切除して破れてしまった血管の修復に取り掛かった。だが、血管自体も細く、また血管同士が絡み合っている。1カ所を直すのに治療すべき箇所を新たに2つ作ってしまうような状態だった。

それでも、それでも、僕と先輩は何とか仕事終わらせた。5、6時間のはずだったが、ゆうに12時間はかかっていた。

最後に予定より長引いた手術に不安を隠しきれない患者の家族に出ない終了を告げた。

「もう大丈夫ですよ」と、そう言って。

神経をすり減らし体力も気力も尽きて、一応の成功に僕はほっとした。


でも、それで終わりじゃなかったんだ。成功なんてしてなかった。

それがわかったのは手術後2日目だった。


患者の個室から呼吸補助装置の警告音が鳴り響いて最初に看護婦が駆けつけた。この装置は患者の自発呼吸が、ある一定値より弱まると警告音を出す。これだけなら、大した異常ではない。患者に酸素を送るため喉に繋がれたチューブが外れただけでもなることがある位だ。看護婦は大した覚悟もせず病室に入り原因を調べた。


患者の自発呼吸、心臓はすでに止まり、瞳孔も開かけていた。口が半開きになり中からだらりと舌がでかかっている。


そこからはもう戦争だった。看護婦はすぐさま僕たちに連絡し、緊急手術が行われる。

患者は脳内出血を起こし、たまった血液が脳を圧迫していた。出血が止まらず、さらに新たなカ所で出血が起こる。この前の手術で治療したはずの箇所がまた敗れる。

前回と同じだ。治療しても治療しても新たな出血が起こる。それも前回以上のスピードで。


もう無理だと、本当にそう思った。

ーどうやったって、助かりこない。

心が乱れ、もう何もかも投げ出したくなった。次々と起こる手の打ちようのない出血を見ていたくはなかった。


だが、その一方で僕は分かっていた。感情に流されて手術中に諦める事は言語道断だ。それだけでなく、後できっと後悔する。それも怖かった。

どっちに転んでも僕に逃げ場はなかった。

だが、それが幸いした。しばらくしてとにかく最善を尽くそうと思えたからだ。初めての患者に、私なりたくは無い。

先輩が黙々と手を動かしていたが、全然間に合わなかった。結果の破れていく速さが速すぎる。

先輩は…眉一つ動かしすらしなかった。表情もなく、ただ手先だけが動いていた。


患者はなくなりますなかったが、極めて悪い状態だった。ある程度の処置はできたが、全てを治す事は不可能だった。血液は取り除いたがまたすぐに溜まるだろう。すべての出欠を止めてから縫合したわけでは無いのだから。運がよければ後は避けられるかもしれない。

手術室から出ると電話で連絡を受けた家族が駆けつけていた。皆一様にすがるような目をして僕たちを見る。特に患者の息子は自制しきれない不安をその目に浮かべていた。

どうですかと問われて、先輩は答えた。

「手術が成功か失敗かまだわかりません。これからの経過を見ないことには。うんがよければ、元気になられますよ。」

最後の一言に僕は、僕たちの世界で言う「元気」の意味と世間一般でのそれとのギャップを知った。そして、その言葉を聞いたときに息子が見せた表情は一生忘れられないものとなった。


僕たちの病院はいわゆる完全看護ではない。入院患者の身の回りの世話は患者の家族に任せている。いつ意識が戻るかもわからない、いや、実際にはいつ脳死するかわからない彼女の世話を主にしていたのは息子の嫁だった。

手術の次の日、嫁は幼い女の子を連れて看病に来ていた。僕が巡回した時、孫娘は病室の端に小さくなっておびえていたようだった。祖母の様々な器具を取り付けられ、生気を半分をしなったような姿が怖かったのだろうか。その次の日からは孫娘が来る事はなかった。

嫁も毎日は無理だった。そんな時は夜になると息子がやってきて交代して止まった。患者の娘は家が遠いらしく、また、夫は半身麻痺があるらしく土日なるとやってきた。


そんな日々が続く中、患者の容態はゆっくりと悪くなっていった。


ある日、ナースコールが入って看護婦が様子を見に行ってその後戻ってきて先輩と僕を呼び出した。患者の尿が出ないと息子と嫁は見るからにおろおろしてそういった。

先輩はそれにうなずくと患者の体を調べてやがて顔を上げて言った。

「しばらく様子を見てみましょう」

息子にこの言葉はあまりに軽く聞こえたようだった。

この時はそうこうするうちに脳が出て、先輩は、

「ああ、もう大丈夫です。」

と言った。その言葉が合図となって、先輩と看護婦はさっさと病室を出て行ってしまった。僕は息子の表情に不信感を見た。


この日の晩、僕は先輩に患者や、その家族への接し方について意見したが取り合ってはもらえなかった。

患者は良くなるのだろうか。体の機能が1つずつ悪くなっていく脳死は避けられるのだろうか。


一ヶ月以上経って、家族側に疲労の色が見えるようになった。それは、そうかもしれない。毎晩誰かが泊まっているのだ。昼間は看護サービスがあり、人を雇える。実際、そんな日もあったが夜はそんなサービス自体がない。誰も病室に泊まらない日が出始めた。病状は悪化していくが、それは徐々にであり急変と言う事はそれまでなかったからだろう。


そんな、誰も泊まらない日は僕が泊まった。死なせたくは無い。元気になってほしい。それが、世間一般でのレベルでなくて、僕たちの世界での「元気」のレベルでも死なれるよりマシだ。



泊まったところで大した違いはないかもしれない。患者は脳死する可能性が高かった。

辛かった。

それでも、2回目の手術の時、すべてを投げ出したくなったときに感じた恐怖に押されて僕は家族のいない日は必ず泊まった。

あの時、僕はとっさにすべてを投げ出した後のことを想像したんだ。そして、最善を尽くさなかった時に感じるであろう罪悪感を仮想体験した。

怖かった。あんな思いはしたくない。実際の体験となれば、もっと…。


そんな僕の行動を知っていたのだろう、先輩は何か言いたげにこちらを見ることが多かった。鋭い視線に怖じ気づきそうになったもののそんな時僕は必ず相手の目をまっすぐ見返した。結局先輩は何も言わなかった。何も言わなかったが、視線だけで彼が言いたい事は、はっきりと伝わってきていた。それは、この前僕の訴えを一蹴したこの一言と同じだったろう。

「余計な事は考えるな」


彼女が脳死したのは手術後3ヶ月経った頃、体育の日だった。

それまでの間、彼女ははっきりと意識を取り戻す事はなかったが、呼びかけに対して、笑うような表情をする事はあった。医者である僕らには、彼女の体のどこがどう悪くなっていくのが分かったが素人の家族にははっきりとはわからない。月日が経つにつれて彼女の表情が乏しくなり、目をつむり話の日も多くなることに家族は漠然とした不安を感じていたようだった。特に娘と、そして息子のやつで方はひどかった。

彼女の脳死の原因を先輩は家族にご説明した。今まで全く触らなかった小脳内の血管が破れて、流出した血液が脳幹を圧迫したからだと。そして、小脳は手術ができない、手の打ちようがない、と。

脳死が分かった時そばにいたのは娘だった。娘が、呼吸がおかしいと看護婦に訴えたことでわかったのだ。はじめ、看護婦はなんともないと思ったらしいが、もう一度言われて見に行き、確かに呼吸が止まりかけているのを発見した。看護婦は僕らに連絡を入れるとすぐに人工呼吸器を持っていったがそれが壊れていたらしく、先輩と僕が駆けつけた時、彼女は、まだ何もつけていなかった。彼女の顔はどんどん地黄色に変わっていた。とにかく、人の手で動かす応急処置用の人工呼吸器でその場をしのぎ、新しいものを持って来させて…。そしてそのまま彼女に脳死の判断が下された。

「会わせたい人がいたら連絡してください。」


自発呼吸の止まった患者は10日間生命維持装置よって生き続け、今朝、死亡した。


赤くなった目を隠そうともしない息子が、仕事があったのか、最後に駆けつけ、遺族が揃う。

個室で、ベッドを囲んだ彼らに、

「残念です」

先輩がそう告げた。

息子が、まだ温かさの残る患者の手を握っていた。

夫は目頭を押さえ、娘は周りなど気にせず泣いて患者の体をさすっていた。

「ありがとうございました」

夫がそう言って頭を下げた。続けて、家族が頭を下げた。

だが、顔を上げた息子の目には、何かがあった。悲しみに圧倒されて、はっきりとはわからなかったが、「残念です」に反発する何かが。

お辞儀も形ばかりであったのではなかろうか。

そして、先輩の言葉も彼らにとって同じようなものではなかったのだろうか。僕ならそう感じただろう。形ばかりだ、と。

先輩は軽くお辞儀をして、立ち去った。僕もそれに続く落とした。

その時、

「先生」

行ったのは息子だった。呼び止められて、立ち止まる。先輩はもう出ていた後だ。

彼は、僕に向かって、

「ありがとうございました。」

そして、彼はゆっくりと確かに頭を下げた。


きっと今日は一日気が重い。今日だけではないかもしれないいろんなことが心の中にあるのがわかるけど、向き合う記録は残っていない。お昼も食べようと言う気にならなかった。幸い、というか、担当していた唯一の患者がなくなったからなのだが、今、僕には見なくてはならない患者はいない。午後もずっと患者のことを考えていた。と言うよりも、頭を離れなかった。そして、息子の最後の言葉が。


僕は、彼らの役に立ったのだろうか。


ひょっとしたら、そうなのかもしれない。

それとも、その言葉にすがりつきたいだけなのか。

ぼんやりと、実習で初めてラットを殺したときのことが頭に浮かぶ。瓶詰めにして、麻酔をかけたとき、僕はなんだかショックだったの思い出した。


僕は患者の個室から戻ってきて以来ずっと自分のデスクにいた。気がついた頃にはもう夜だった。診察時間も終わって、外来は来なくなる。

何にもの患者を見ている先輩は、あの後も忙しくしていたのか、部屋には1度も戻ってきていない。

気づかなかっただけかもしれないけど、きっと帰ってきたら気付いたと思う。

帰ろう。

今日は久しぶりに寝られるじゃないか。

もう、後日に泊まらなくていいし、いつなるともしれないナースコールのために待機する必要もない。

神経の使う仕事だから、寝られる時に寝ておくべきなんだし。


でも、眠れるだろうか。


ぐずぐずしているとドアが開いて、入ってきたのは疲れた顔した先輩だった。やはり、あの後も忙しくしてたんだろう。手術でもあったのかもしれない。


僕はだるい体を引きずって、すぐさま立ち上がった。彼とは、今日は顔を合わせていたくはなかった。

重たい気分がさらに滅入る。

急いでロッカーに向かおうとした。が、

「おい」

先輩に呼び止められて、振り返るしかなかった。今の僕に彼に向き合う気力はなかったけど。彼はゆっくり近づいてきた。そして、僕の前で止まって、じっと正面から僕を見た。僕のほうはまっすぐに見返す気にもなれなくて視線を外して先輩の次の行動を待った。

やがて、彼はまるでノックするかのように僕の胸骨のあたりをコツッと叩いて言った。

「辛いか。」

彼はそう訊いたがそれは今まで僕がずっと感じてきたことだった。そして、先輩が全く感じてこなかったように見えることだった。

ー今更…。

でも、僕はちゃんと答えた。こんな腹立たしさは小さなことだ。それ以上にも力が抜けきって…声はきっと低くて頼りなかったと思う。目線も下がりがちで…。

「…はい。」

四分休符のような間の後、

「それでいい。」

思わず下がった視線が彼の顔へと向かった。目を見張って彼を見た。まともに目があったけど、ぶつかったと言う感覚はなかった。彼の目は複雑なものを秘めていて、深かった。何か同じものを感じて、今までの反感はこの時なくなったと思う。彼も僕も視線を外さなかった。いや、正確に言うと僕は外せなかったんだ。時間の感覚はなかったけど、きっと一瞬の間だった。

「もう忘れろ」

前の台詞と同じように彼は静かにそれだけ言うと1つまばたきをして、もう仕事を始めていた。彼の振る舞いは変わらなくても、僕の目にはもう今までのようには映らないだろう。反感を跡形もなく消えていた。彼はてきぱきと仕事をしていたが、僕はしばらくぼうっとしてたと思う。

「次の患者だ。今は川村が1人で見てる。手伝ってやれ。」

何をぼうっとしてるんだと彼にカルテを突き付けられた。

ー仕事だ。

受け止めて忘れないのと引きずるのとは違う。僕らの仕事は、失敗は許されない。判断を鈍らせるようなことをしてはいけない。そのために仕事の間は僕の過去の責任を頭の片隅に追いやって忘れるのは、必要なことかもしれない。とにかく、今はこのカルテだけに集中しよう。この患者のことを考えよう。ふと僕がこの職に就いた理由がよみがえって今まですっかり頭になかったことに気がついた。そしてもう一つ大事なことを思い出した。そうだ、少なくとも最善を尽くそうとしなかった事はなかったんだ。

「はい。」

少しは声に張りが戻ったろうか。僕は川村と話し合うため部屋を出た。

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僕らの仕事に必要なのは、冷静な判断、確かな腕 ささべまこと @spatz1109

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