その二


 月はまだ雲の上にあるのか、ホテルの中は暗いままだ。


 トミーはイノンから渡された燭台の蝋燭の明かりだけを頼りに、二階の廊下を歩いていた。一緒に渡された二〇一号室の鍵を右手でわざと揺らしながら進む。

 異様なまでに静かなホテル内に自分の足音と鍵が揺れる音が反響し、不安だらけのトミーの心を、少しだけ慰めることができた。


 しばらくして、やっとトミーは自分の部屋に着いた。

 二〇一号室はホール入口から見て左側の、正面の階段から一番遠い場所にあった。


 すぐに休めると思ったが、想像以上に歩かされてしまった。

 でも、もう部屋は決められているのだから、仕方のないことだと、トミーは自分に言い聞かせながら、号数の書かれた金色のプレートの貼られたドアの鍵穴に、借りた鍵をさした。


 部屋の扉は、玄関のそれに比べると、酷くあっさりと開いた。燭台で周りを照らしながら、トミーは部屋に入る。

 二〇一号室は、入り口に立って全体を見渡せるほど、小さな部屋だった。

 扉と向かい合う形で窓が置かれ、星明りが僅かに漏れている。


 家具も、ベッドとその横にある小さな机、それらと向い合せになった一人掛け用の椅子がそれぞれ一つずつと、一階に比べるとずっと単調だ。

 それでも、それら家具一つ一つが、高級で歴史あるものだということは、トミーにもよく分かった。


 そんな部屋の窓辺、そこに見知らぬ少女が立っていた。

 彼女は白いワンピースを着て、それに負けないくらい白く透き通るような肌をしていた。


 髪も透明に近い白色で、少し大人びた顔をトミーの方を向けて、絶えず満面の笑みを浮かべている。

 よく見ると、足には何も履いていなかった。


 トミーは現実離れした彼女の姿にしばし見とれ、やっと彼女がなぜここにいるのだろうかと考えだした。もしかすると、彼女か自分が部屋の番号を間違えているのかもしれない。

 トミーは、まずは彼女と話しをしてみることが先決だとし、一言も物を発せずにその場に立ったままの、彼女の前へと数歩近づいた。


「あの、すいません、この部屋は……」


 彼女にそう言いかけて、何か変だと思い始めて、トミーは口を閉じた。

 ふと、トミーがホテルを誉めた時に言った、イノンの言葉が脳裏をよぎる。


 ……「滅多に人が来ない」


 その後、チェックインする際に部屋の暗さをトミーが指摘した時の、イノンの言葉を思い出す。


 ……「他のお客様の迷惑になる」


 このホテルには、滅多に人が来ないはずではなかっただろうか?


 それとも、今日はたまたま、トミー以外の人が入っていたのだろうか?


 「滅多に来ない」というのは、今までの客数を平均して言ったのだろうか?


 ホテルには今、何人が宿泊しているのだろうか?



 「滅多に」という認識が変わらないのなら、彼女一人だけ?


 それならば、なぜイノンは部屋の番号を間違えたのだろうか?


 十四部屋もあるはずなのに。何故、彼女は部屋を間違えたのだろうか? 十四部屋もあるはずなのに……。


 そもそも、彼女は何者だろうか?


 トミーは、押し寄せる疑問の洪水に、身動きが取れなくなっていた。急に恐ろしくなり、燭台を持った手も細かく震えだした。

 すると、今まで笑いながら立っていただけの少女が、トミーの方へと歩き出した。


 トミーは、「ひぃ……」と小さな悲鳴を上げて、思わず後ろにのけぞってしまう。しかし、このような態度を取るのは、彼女に失礼だと、必死で恐怖を押し戻した。

 それでも、この場からは動けない。


 歩きながら少女は、トミーに向かってほっそりとした左手を伸ばしてきた。満面の笑顔は、このまま固まってしまったかのように全く変わらない。

 トミーは、彼女の白く淡い光を放っているようにも思える左手に、知らず息を呑んでいた。


 そして、トミーの胸に、少女の手が触れた。

 だが、トミーは彼女の手の感触を感じなかった。

 少女は、まだ笑い続けている。


 トミーは、ゆっくりと視線を下に向けた。

 少女の手は、トミーの胸に、手首まで、すっぽりとのめりこんでいた。


「あ、あ、あ、あ……」


 トミーは言葉を失いながらも、後退りした。自然と、トミーの体から少女の手が離れる。

 少女は、黙ってにこにこと笑うだけ。しかし、もう一歩、足を前に出した。


「ひい……!」


 トミーは自分の右手が背後の扉の取っ手に触れると、間髪入れずに扉を弾き、わずかに空いた箇所から滑るように部屋から出た。直後、素早く両手で扉を閉めた。

 今のは一体……。取っ手を固く握ったまま、トミーは思案する。体中に鳥肌が立っていた。


 つい先ほど起きたことなのに、恐怖のためか少女の顔すらあやふやになっていた。

 はっきりと思いだせるのは、少女の手が自分の胸に入ったあの一瞬だけ。


 とにかく、この部屋で起きた出来事を、他の誰かに話そう。

 トミーはそう決心して、やっと動き出した。


 まず目に飛び込んできたのは、隣の二〇二号室の扉だった。

 誰もいない可能性も高いが、下のホールに行くことよりもずっと気が楽だった。


 二〇二号室まではたった数歩の道だったが、トミーは恐ろしくて一度も後ろを振り返ることができなかった。






   ☆






 二〇二号室の前、できる限りあの部屋の方を見ないようにしながら、トミーは扉を二回ノックした。


「どーぞー」


 室内から、間延びした緊張感のない声が聞こえて、トミーは拍子抜けした。慌てて、部屋の中に入る。

 二〇二号室も、二〇一号室と内装はあまり変わらなかった。もちろん、あの少女はいなかったが、その事実はトミーを安心させた。


 少女の代わりに、メイド服を着た若い女性がいた。灰色の短い癖のある髪型で、意志の強そうな金色の瞳をしている。背は女性の中では高い方だろう。

 真夜中というのに、彼女はベッドの足側に屈んで、せっせとシーツを整えていた。


 だが、今のトミーにとっては、今はそんなことどうでもいい事であった。


「お客さん、どーしたの?」


 彼女は手を止めると、トミーの方を向いてにっと笑って見せた。歯を見せたその笑顔は、鋭い犬歯がよく目立った。

 トミーは、彼女の乱暴で気さくな話し方すら意を介さずに、早口で先程の出来事を話した。

 彼女は腕を組み、興味なさそうな顔でトミーの話を聞いていた。


「お客さん、それ、見間違いとかじゃないの?」


 彼女は不快そうに眉をひそめて、はっきりとそういった。


「見間違いなんかじゃありませんよ! 僕はちゃんと、あの幽霊の手が僕の体を通り抜けるのを見たんです!」

「うーん……。でも、このホテルで幽霊を見たって噂、聞いたことないしなー」


 トミーが必死に訴えても、彼女は頭を掻きながらそう答えるだけで、全く信じてくれない。もう一回、同じことをさらに語調を強めて話しながら、トミーは段々涙目になってきた。

 すると彼女は、何か名案を思いついたかのように、ぽんと両手を叩いた。


「分かった! ここで話しても埒が明かないし、一回、二〇一号室に幽霊がいるかどうか、一緒に確かめに行こう!」

「えっ?」


 もう一度、あの部屋に戻る。それを想像すると、トミーの体中からみるみる血の気が失われていった。

 次は手を伸ばされるだけじゃ、済まないのかもしれない。トミーの膝が、がくがくと震えだした。


「大丈夫だって、お客さん。ちょっと、見るだけだから」

「それじゃあ、僕は見に行かなくても……」


 意気揚々と話す彼女と違って、トミーの声は小さくて震えていた。

 そんなトミーの言葉が届いていなかったのか、彼女は後ろを向いて暗いままの窓の外を眺めていた。そして、静かに口を開いた。


「ねえ、お客さん」

「な、なんでしょう……」

「今夜は、満月でしたよね?」

「へ? ……ええ、そうですけど……」


 夜空は黒い雲に覆われているが、金色の大きな満月が登っていたのを、トミーは確かに見ていた。

 と、唐突に雲が途切れ、女性の横顔のような陰もはっきりと見えるほど、巨大で眩しく輝いている月が、窓の外に現れた。


 彼女は不意に窓へ歩み寄り、それを開け放した。強い風が入ってきたかと思うと、トミーの持っていた燭台の火を消した。

 その時になってやっと、トミーはこの部屋にカーテンが無いことに気が付いた。


「安心してよ、お客さん……」


 彼女は、今までよりもずっと低くなった声で言った。

 そして、ゆっくりと、トミーの方へ振り返った。


 彼女の両目は、狼のそれと同じになっていて、爛々と光っていた。

 動けなくなったトミーの前で、彼女の体は変化していった。


 ばきばきという音を立てて、背や手足が伸び、顔や体は灰色と白が混じった毛に覆われていった。

 耳が尖がりその位置が頭の上へと移動し、口には鋭い歯が並び、彼女の特徴的だった犬歯はさらに大きくなった。強くしなやかな、鞭のような筋肉に身を包み、背を曲げながらも堂々と立っていた。


 ただ一点、服装だけは変わってなく、そこだけが妙にちぐはぐだった。

 若い女性の姿は、影も形もなくなった。狼と人間を合わせたような、この世のものとは思えない生き物が、そこにはいた。


 トミーは、この訳の分からない現象に、瞬きも忘れて見ていることしか出来なかった。頭の中は真っ白だった。

 そんな様子のトミーを睨みながら、狼人間はにやりと笑い、言った。


「満月の夜のあたしを見たら、幽霊も人間も、逃げ出すから」

「わあああああああああああああああああ!」


 やっと身の危険を感じ、トミーの喉から悲鳴がほとばしり出た。力の抜けた手から燭台が滑り落ち、ごとんと鈍い音を立てた。

 ぶつかるように扉から出て、トミーはどこに行けばいいのか分からないまま、走り出した。


 するとなぜだか二〇三号室の扉が開いていて、何も考えずにトミーはそこへ飛び込んだ。

 トミーの視界は突然、影になった。しかしそれは、二〇三号室の入り口に立つ巨大な人影だった。


 二階の天井に届きそうなほどのその巨大な男は、髪の毛のない頭も含めて、体中がツギハギに覆われていた。

 ツギ目のある部分によって肌の色は異なり、緑色の右目と違って左は白目をむいていた。


 年季の入った、裾や袖がぼろぼろの茶色いコートを着て、同じくぼろぼろのズボンを穿いていた。そして、足の長さが異なっているのか、左右で底の厚さが違う靴を履いていた。

 彼は長さの違う両手を出して、力いっぱいに叫んだ。


「うがーーーーー!」

「ぎゃあああああああああああああああああ!」


 同時に、その大男よりも長く、トミーも叫んでいた。


 転がるように部屋から出て、トミーは手すりにぶつかって止まった。そこで、また信じられない光景を見た。

 ホテル内は、怪物たちで溢れかえっていた。


 ふわふわと浮かぶ火の玉、大量の色とりどりの蛾の群れ、踊り続けるいくつもの黒い影、ぞろぞろと地面を這いずり回る蜘蛛や百足や蜥蜴……。

 その場に立っているだけのもの、走り回るもの、空を飛んでいるもの。どれもこれも、トミーの理解の範疇を超えていた。


 早くここから逃げなければ、命が危ない。それはよく分かっているはずなのに、体が動かない。

 目の前の手すりの上に、タキシードを着てシルクハットを被り、背中に蝙蝠のような巨大な羽を生やした悪魔が立っていた。


 肩を過ぎるほどの長い金髪を揺らしながら、右の指先で空気を切るように動かすと、シャンデリアに火が灯った。

 彼は真っ赤な瞳を、トミーに向けた。


「どうした? もう帰るのか? せっかく明るくしたというのに」

「ひゃああああああああああああああああ!」


 トミーはやっと走り出すことができた。途中で、何度も転びそうになる。


 階段を降りようとしたトミーの目の前に、大量の蛇が降ってきた。と思うと、それは蛇の髪をした女が、天井の縁にぶら下がっているからであった。

 女は、目を黒い布で隠していたが、トミーを見詰めていることはよく分かった。薄地の黒いドレスのような服を着た彼女は、真っ赤な唇で妖艶に微笑む。


 頭の蛇はその一匹一匹に意志があるように、別々に動き、息をしていた。

 女が布と目の間に、細く白い指を入れた。その時、トミーは思い出した。蛇の髪をした怪物の目を見ると、石にされてしまうという伝説を。


「ワタシ、まだ自分の目を見たことないのよォ。アナタ、代わりに見てくれるゥ?」

「うわあああああああああああああああ!」


 トミーは女の頭の下を必死に潜り抜けて、階段を下りていった。

 一階のホールは、カウンター代わりの台が消えていて、いくつのも円卓と椅子が並んでいた。その椅子にも、怪物たちが座っている。


 トミーがその場を走り抜けようとすると、誰かに左手首を掴まれた。

 見ると、椅子に座ったワインを片手に持ったこい茶色の髪の男が、青紫の瞳で査定するようにトミーを見ていた。歳はまだ若そうで、黒のスーツに青いネクタイを締めている。


 ここまで見てきた怪物と比べると、ずっと話が通じそうだと、トミーが安心したのもつかの間だった。

 男は二本の牙を見せるよう笑い、唇を真っ赤な舌で舐めた。


「ワインよりもずっと、人間の血がうまいこと、知ってるか?」

「ひいいいいいいいいいいいいいいいい!」


 トミーは夢中で吸血鬼の手を振りほどき、再び走り出した。

 しかし、何かにつまずき、トミーは前に転んでしまった。トミーは反射的に後ろを見た。


 目の前に、長い影が立っていた。

 それはよく見ると、闇のように真っ黒なマントを着て、フードを目が隠れるほど目深に被った死神の姿だった。彼が両手で持っている、三日月形の大鎌の柄に、トミーの足が引っ掛かってしまったようだ。


 死神は無言でトミーを見下ろしている。ただそれだけなのに、トミーは恐怖のあまり、呼吸のやり方を忘れてしまったかのように喘いでいる。

 死神は、そのような状態のトミーに対して、にやりと不敵に笑った。


「そう急がなくてもいいんじゃないか? 人間、いつかは死ぬわけだから」

「あああああああああああああああああ!」


 トミーは尻もちをついたまま後退りして、不恰好ながらもなんとか立ち上がり走った。


「うまそう」「おいしそう」「たべたい」


 右側から、三つの声がした。

 すぐ横で、三人のゴブリンが、トミーと並走していた。小さな体に、二本の角、尖がった耳と黒い目、痩せ細った体は灰色の肌で覆われていた。


 なぜだか、三人ともコックの格好をしている。

 一番奥にいるのから順々に、口を開いた。


「みんなで食べよう」「全員でいただこう」「皆さんで召し上がろう」

「いやあああああああああああああああああ!」


 トミーは彼らを振り切ろうと、さらに加速した。

 ホールの扉まであと数歩だ。トミーは最後の力を振り絞る。


「お客様」


 耳元で、聞きの覚えのある、しかし極端に冷たい声がした。トミーの体中に鳥肌が立った。

 イノンが箒に跨り、トミーのすぐ横を飛んでいた。息がかかりそうなほど、顔を近づけている。


 イノンの口元は、最初にトミーを出迎えてくれた時のように優しく笑っていたが、反対にその眼は、トミーを馬鹿にするように睨んでいた。


「もう、チェックアウトのお時間ですか?」

「…………!」


 トミーにはもう叫ぶ力も残ってなく、ただ顔を引き攣らせるだけだった。それでも夢中で走り、イノンを振り切った。

 びたん! と大きな音を立てて、トミーは扉にぶつかった。震える手で取っ手を掴もうとするが、背後で「アオーン」という遠吠えが聞こえて、トミーは振り返ってしまった。


 狼人間が、いつの間にか下に降りていたのか、テーブルの一つに上って、シャンデリアに向かって吠えていた。

 幽霊の少女もテーブルの間を漂い、大男も階段の側で仁王立ちしていた。


 ホテル内にいる全ての怪物が、トミーを見ていた。

 立ったまま、座ったまま、空に浮いたまま。笑い掛けるものも、無表情に眺めるものも、ずっと睨み続けるものもいた。


 トミーは、脂汗が止まらなくなりながらも、ようやく右手で取っ手を探り、掴むことができた。そのまま乱暴に押して、廊下に出る。

 廊下には何もいなく、むしろすべての燭台に火が灯っていたため、明るく温かった。


 しかしトミーは一息つく間もなく、出口の扉に向かって突進していた。

 トミーは外に出た。森は静かに佇み、月は空から光を投げかけ、トミーがホテルに入る前と何も変わらない。

 トミーは後ろを振り返らずに、古い道を泣きながら走っていった。





















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