ホテルの怪物たち

夢月七海

第一部 ホテル・トロイメライへようこそ

第一章 ホテルの怪物たちと旅人

その一


 金色に輝く巨大な満月が浮かんでいるため、木の幹のささくれだった皮もよく見えるほどに明るい夜だった。


 しかし、強い風が絶えず吹き続けているため、大小様々な黒い雲に月が隠されると、突如地の底に落ちたかのように、辺りは暗くなった。

 鬱蒼と茂る木々も、不気味なざわざわという音を止めようとしない。


 旅人のトミー・グリーンランドは、森の中が真っ暗になる度に、言いようのない不安に包まれた。ただでさえ、見知らぬ場所に迷い込んでしまい、心細いというのに。

 トミーはリュックサックを背負い直し、歩く速度を上げた。


 昼間まで滞在していた町から、隣町の間に横たわっているこの森を、すぐに通り抜けられると思っていたのが間違いだった。 

 道が途中で途絶えているなんて全く知らなかったからなあ……と、後悔から出るため息を吐きながら、トミーはまた一歩伸びきった草の上に足を踏み出した。


 今夜中に森を抜けるのは諦めて、どこかで野宿しようと、トミーは闇に包まれ、木々が立ち塞がる視界の中で思った。

 どこかにいい場所はないのかと辺りを見回すと、右手の方向に明らかに木とは違う、のっぺりとした壁のような陰が見えた。その時、雲が途切れて月が現れ、トミーはその陰の全容を把握した。


 それは、巨大な城のような建物の側面だった。驚いた顔のまま、トミーはその城の正面とおぼしき場所へ、小走りで回った。

 そして、その場で直立し、短い金髪を風で揺らしながら、茶色い二つの目でじっくりと城の外観を観察した。


 そこは茶色の四角く、表面が凸凹した石を重ねて作られた、古い型の城だった。

 長い年月と風雨にさらされたためか、灰色の石で出来た基礎の辺りから、小さな亀裂が覗いている。


 その一方で、玄関部分からは細長い塔が凛々しく立ち、紺色の屋根や窓の周りには、細やかな意匠が残っていた。

 城は一棟しかなく、窓の数から二階建てのようだったが、高さと横幅があるためか、トミーが今まで泊まってきたホテルよりも遥かに大きく感じられた。


 改めてトミーが自分の背後を見てみると、その城と同じ幅の道のようなものが伸び、そこには木が一本も生えてなく、町に向かって見えなくなるまで続いていた。

 しかしその道も、森の中ほどではなかったが、草がよく伸びていて荒れ果てていた。


 城の窓の中は真っ暗で、少しの光も漏れてこない。

 歴史を感じさせられる建物、城と町を繋がる古い道から、ここは廃墟なんだろうとトミーは判断した。


 それでも未だ轟々と鳴り響く風を遮ることができるのなら、ここで一晩を過ごそうと、トミーは扉に歩み寄った。

 城が近付くと、その大きさに圧倒される。ただの廃墟ではないように思え、トミーは妙な緊張感をはらんだまま、そろそろと三段だけある外階段を登った。


 そして、鈍い鳶色に錆びついた取っ手を握りしめ、分厚い木の扉を力いっぱい押した。

 すると、小さな蝋燭の光が、トミーの目に飛び込んできた。


「いらっしゃいませ」

「う、わっ!」


 銀の燭台を持った人影に、そう話し掛けられて、トミーは思わず取っ手から手を離した。

 例の人影は、内側の取っ手を素早く掴み、ゆっくりと扉を開け放した。


「驚かせてすいません。大丈夫ですか?」


 城の中にいたのは、申し訳なさそうな笑みを浮かべる、一人の青年だった。

 トミーは、彼が一瞬だけ自分を睨んでいたような気がしたが、邪心のなさそうなその笑顔から自分の考えを打ち消して、慌てて頷いて見せた。


「はい、少し驚きましたが、大丈夫です」

「それは良かった。私、当ホテルの案内役を務めます、イノン・ニクロムと申します」


 青年は背筋を真っ直ぐに伸ばすと、丁寧に頭を下げた。


「え? ホテル、ですか?」


 初見からこの建物を廃墟だと決めつけていたトミーは、目を丸くした。


「はい。我がホテル・トロイメライは、この広い森の中で迷ってしまった方が一休みできる場所として、とある貴族の別荘だった建物を使っています」

「へえ。長らく旅を続けていましたが、全く知りませんでした」


 トミーは素直に感心しながら、案内役の青年、イノンの姿を観察した。


 イノンは濃い赤毛に金色の瞳を持ち、中肉中背だったが身長はトミーの方が僅かに上回っているように見えた。

 二十一歳のトミーと、年齢もさほど変わらないだろう。


 引き締まった顔立ちだが、柔らかな笑顔がよく似合っている。

 服装は、紺色の背広とズボンで、布のネクタイを締めていた。


 背広のボタンは全て占められ、夜の中でも白さが分かるシャツは皺ひとつ無かった。

 都のホテルでも、ここまできっちりとした服装は珍しい。


 トミーの中には、ここは盗賊の基地などで、旅人を騙そうとしているのかもしれないという疑いがまだ残っていた。

 しかし、これほど気持ちの良い対応と服装をしている従業員がいるのなら、本物のホテルだと、すっかり信用していた。


「こんな夜更けに歩き回って、お疲れでしょう。では、さっそくお部屋にご案内いたします。中へどうぞ」

「あ、はい。失礼します」


 イノンは優しく微笑みかけながら、トミーをホテル内へ招き入れた。


 ふと、トミーが玄関の塔を内部から見上げると、たった一つだけの窓から月光が漏れていた。

 窓の下には足場となる部分が僅かだがあり、そこから小さな岩の突起が階段のように並んでいたが、途中で途切れていた。

 おそらく、二階からそこへ上ることができるようになっていたのだろう。


「お客様? どうしましたか? そのまま置いていきますよ?」


 イノンの声が前方から聞こえて、トミーは慌てて前を向いた。

 イノンはトミーよりも数歩先に進み、少し振り返って訝しげな顔を蝋燭で照らしていた。


「すいません、あまりに立派だったので、見とれてしまいました」


 トミーは恥ずかしそうに頭を掻きながら、細い廊下を歩きだした。


「そうでしたか。このホテルを誉めていただいたのは久しぶりですね、ありがとうございます。私たち従業員一同も、ここで働いていることに誇りを持っているので、とても嬉しいです」

「そうなんですか? 都でもここまで歴史と尊厳のある建物は見ないので、誉められないというのは意外ですね」

「ええ。まあ、森の中にあるので、滅多に人が来ないというのも大きな要因ですが、やはりいらっしゃった方々も『古い』という印象を持たれるようでして……」

「あー、確かに、僕も初め見たときはそう思いましたけど、中はそうでもありませんからね」


 トミーは、今自分が歩いている廊下を見回した。

 廊下に敷かれた赤黒い絨毯は、踏むと沈み込むほど柔らかく、目立った汚れもない。


 茶色い縦縞模様の壁紙も、よく見ると細かい模様が描かれている。壁の側面に並んだ、火のついていない蝋燭の刺さった燭台も、新品のような銀色に凝った意匠が施されていた。

 廊下全体が、月の光の中で、重苦しいながらも威厳のある美しさを表していた。


「僕もいろんなホテルに泊まってきましたが、このホテルほど美しいホテルはありませんよ」

「ははっ、お客様はお若いのに確かな目をお持ちのようで」

「は、はあ……」


 イノンが突然声をあげて笑ったので、トミーは少し驚き、続いたその誉めているような小馬鹿にされているような言葉に、思わず下を向いた。

 そして、自分とあまり変わらないはずのイノンから、若いと言われるのには、違和感を覚えた。


「さあ、ここから先が一階のホールですよ」


 トミーがあれこれ考えている間に、先に進んでいたイノンは扉の前に立ち、振り返って見せた。玄関の扉と同じ材木だが、こちらはニスが塗られて滑らかな表面をしている。

 トミーがイノンに追いつくと、彼はまた微笑んで、扉を開けながら中へと入っていった。


「おお」


 目の前に広がる光景に、トミーは息を呑んだ。

 まず、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが見えた。蝋燭に火がついていないものの、月の光を受けて、細かい部分まで金色に輝いていた。

 そして、広いホール全体が見えた。白い大理石の床が、光を反射させている。


 一階の壁には、等間隔で窓がはめられていた。その二、三箇所が僅かに開いており、そこから月光と共に微かに風も入ってきていた。

 横幅の広い階段に付いた手すりも、二階の柵も、どちらもニスで塗られた木でできていて、様々な模様が丁寧に彫られている。


 二階は、下のホールの部分が吹き抜けとなっており、壁を囲むように廊下といくつもの扉が並んでいた。それらが宿泊客の部屋となるのだろう。左右同じ位置に、扉が七つずつ配置されていた。

 玄関、廊下を見て期待していたが、それを遥かに超える豪華さだった。ただ一つ、一番手前にある細長い木の台だけが、安っぽくてこの場には浮いていた。


 トミーはあちこちに首を巡らしながら、イノンに続いてホール内に入っていった。

 どこを見ても、いつまでも見ても、飽きることはないように思われた。


「ではお客様、こちらで手続きをどうぞ」


 いつの間にか、イノンが台の後ろに立ち、トミーを待っていた。

 燭台は台の上に置かれ、火が風にわずかに揺れている。その近くに、署名をするための紙と万年筆が無造作に置かれていた。


「こんな質素なカウンターで、申し訳ございません。こちらは食堂も兼ねていますので、カウンターとテーブルは自由に取り外しができるようにしているのです」

「いえ、それは構いませんが……。さっきから、何故壁の燭台やシャンデリアに火をつけないのですか? 今は月明りで周りがよく見えますけれど……」

「ああ……そうでしたね……。すみません、こんな夜遅い時間なので、明るくすると他のお客様の迷惑になると思いまして」

「はあ、そうですか……」


 トミーは何かがおかしいような気がしたが、考えすぎだろうと思い直した。


 その時、満月が雲に隠れ、ホテル内は急激に暗くなった。

 残された光は、カウンターの上に乗った蝋燭の火、ただ一つ。その頼りない明りが、イノンの顔を、微かに照らしている。


「改めまして、ようこそ、ホテル・トロイメライへ」


 イノンはトミーの瞳を真っ直ぐに見据えながら、冷たく笑った。


 直後、ホールの扉が大きな音を立てて閉まる音がした。

 トミーには何故かそれが、檻の扉が閉まる音のように聞こえた。















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