第8話




 少年野球チームにいた小学生の頃は、ただ純粋に野球をすることが楽しくて仕方がなかった。

 中学生になると、自分の技術が上達していくことが楽しくなった。

 ――そう、俺は調子に乗り過ぎていたんだ。

 そんな俺の裏側で、開人が一人密かに苦しんでいたことになんて、全く気付きもしていなかった。



 だからこそ……が起こってしまったんだ―――。



「――洋、大丈夫か?」

 その声でハッと気が付いたら、俺はピッチャーマウンドの上に立っていた。

 目の前には、プロテクターで身を固めた開人のキャッチャー姿。

 久々に見たその姿に、ぎりっと大きく心臓が悲鳴を上げた。

「開人……!」

 呼んだ途端、唇が震える。歯の根が合わずにカチカチ細かい音を立てる。

「ダメだ……!」

 声までが震えているのに、それでもなお、唇は言葉を迸らせる。

「ダメだよ俺、投げられない……!」

「洋……」

「無理だよ、無理無理無理無理、絶対に無理だ―――!!」



 目の前にフラッシュバックするのは、腕を押さえて蹲る開人の、苦痛で歪んだ表情―――。



「――洋!!」



 ふいに耳を劈いた怒鳴り声と、両肩にもたらされたガッとした衝撃で、我に返った俺の瞳は目の前の光景を映し出した。

 俺の両肩を掴んで真剣な瞳でこちらを覗き込んでいる、開人の顔を。

「大丈夫だ、安心しろ」

 そして、ふわっとその表情が緩む。

「俺に捕れない球なんて無い」

 その言葉は、妙に自信に充ち溢れて俺の耳へと届いた。

「俺を、ただのガリ勉だと思うなよ? おまえだって知ってるだろ、こう見えて身体は人一倍頑丈なんだ。それに、今でも筋トレだけは欠かしてないしな。現役の頃には及ばなくても、そうそうナマっちゃいないから心配すんな」

「開人……」

「だから安心して投げてこい。どんな球でも受け取ってやる」

「でも、俺は……」

「いいか洋! つべこべ言わず、おまえはただ自分を信じろ! んでもって俺を信じろ! それだけでいいんだ!」

 言いながら開人が、まるで喝を入れるかのごとく、再びバンッと俺の両肩を叩く。

「シャキッとしろよ。おまえなら投げられる。俺はおまえを信じてる。だから、おまえも俺の言うことを信じろ。――いいな?」

 だが、それでもなお返事を返せずにいる俺に開人は、最後に付け加えるかのように、それを言った。



「いい加減、目ェ覚ませ。――誰よりも何よりも、一番おまえのことを信じて待ってる柏木のためにも」



 マウンドから去っていく開人の背中を見送って、やおら右手に握りしめたボールへと視線を移す。

 その手は、まだ小さく震えていた。

 この震えを止める方法など、マウンドから降りること以外、俺は知らない。



『真奈は知ってるよ。――ヒロちゃんが、本当は誰よりもマウンドに立ちたがってる、って』



 ふいに真奈の声が耳に響いた。

 このボールを俺に手渡した時だ。

 それを受け取った震える俺の右手ごと両の掌で包み込むと、いつもよりも静かな声で真奈が、それを言ったのだ。

『ヒロちゃんは、ずっと真奈のヒーローだよ。でも、みんなのヒーローでもあるんだから。そうでなきゃダメなんだから』

 その瞬間、ふっと何かが記憶のどこかをくすぐった。――そんな気がした。

『真奈……』

『だから、もう逃げちゃダメ』

 その何かが思い出せないことで何となく呼びかけてしまった俺を、ふいに見上げた視線と、きっぱりとした言葉で、真奈は遮る。

『ちゃんと向き合わなきゃダメ』

 俺の右手を包み込んだ掌に力が籠る。

『――ねえ、思い出してヒロちゃん』

 こちらを見上げてくる真剣な真奈の瞳が、どこまでも強く深く、俺を射抜いた。



『真奈は、お魚になるために、ここに、いるよ? ――ヒロちゃんは……? 何になりたいから、ここに、いるの?』



 その言葉が、うるさいくらいに耳の奥に響く。

『お魚になる』――そのために、この学校を選んだ真奈。

 ――俺は……?

 どうしてこの学校を選んだ? どうして野球部に入った?



 に居るのが苦しいと、もうずっとずっと思い続けてきたのに……。

 なのになぜ俺は、まだ野球を続けているんだ……?



 再び視線を上げれば、既に開人は定位置に付いており、今まさに星先輩が左バッターボックスへ入らんとしているところだった。

 軽くバットを振りながら、先輩がひたと俺を見据えてくる。

 周囲を見渡してみれば、ダイヤモンドの外からギャラリー連中が、対峙する俺たちを見守っていた。

 その群衆の中に、真奈の姿もあった。



 ――『』、だって……?



 それをオマエが言うのかよ。

 本当に……いつもいつも勝手なヤツだ。自分の都合ばかり俺に押し付けてきやがって。

 ――でも、違うよな。今日ばっかりはそうじゃない。

 真奈は、ただ俺に“土産”をくれただけだ。

 ただそれだけのことだろう?



 再び視線を落とし、右手の中のボールを見つめる。

 まだ震えの止まらないそれに、俺はギュッと渾身の力を籠めた。

 おもむろに前方へ視線を向ければ、開人の構えるミットが、まるで睨むように俺を待ち受けている。

 ――そう……こんなだったよな……。

 マウンド上の俺はいつも、こんな開人の姿に安心を覚えていた。

『俺に取れない球なんて無い』『どんな球でも受け取ってやる』――そう事あるごと自信タップリに繰り返されてきたヤツのセリフの全てを、疑ったことなんて一度も無い。

 開人がキャッチャーとしてそこに居る、ただそれだけで、俺は安心して投げられた。

 マウンドから見下ろす昔と変わらないその姿は、あまりにも懐かしくて、こんなにも泣きたくなるくらい切なくて……、

 そして心が折れそうになるくらい、どこまでもどこまでも痛かった。

 おもむろに唇を噛み締める。



 ――『目ェ覚ませ』、か……。



 あれから今日これまでのことが全部、ただの悪い夢であったなら、どんなに良かっただろう。

 でも、現実は俺に突き付けた。

 悪い夢などではないと知らしめる代わりに、俺の隣りから開人を奪った。

 その瞬間から、もう目なんてとっくに覚めている。



 ――なのに、それでも……おまえは俺に『目ェ覚ませ』と言うのか。



 いつも何かしら置き土産を残していくみたいに。

 今日は、ボールを、そして開人を、真奈は俺にくれた。

 開人も、そうされることを承諾した。

 その瞬間から、真奈のくれたそれは、俺にとって“チャンス”という名のものとなった。

 ピッチャーとしてマウンドに立ち、再びキャッチャーの開人へと投げられるチャンス。

 そして同時に……どうしても逃れられない過去と向き合うためのチャンス。



 渾身の力を籠めてもなお震えを止められない右手は、その過去の証。

 それが、イコール今の俺の現実。

 逃れることなんて、もう絶対に出来ないと諦めていた。

 でも……どうしても諦めきれないからこそ、俺は野球を続けてきたのではないだろうか。野球部にも居続けてきたのではないだろうか。

 どうしても開人との繋がりを諦められなかったからこそ、俺は進学先に、開人と同じこの学校を選んだのではないのか。



『――野球、続けろよ』



 そんな言葉一つで俺だけを野球に縛り付けて、自分一人だけサッサと野球から離れていった、勉強という別の道を見出した開人。

 一人だけで野球を続ける苦しさのあまり、そんな開人を恨みたくなったこともある。

 でも、いつしか俺が、野球の傍ら勉強にも真剣に取り組むようになっていたのは……心の底で、そんな開人に追い付きたいと願っていたからなのかもしれない。

 これ以上、一人で置いていかれたくなくて、何とか必死に縋ろうとしていたのかもしれない。



『――ヒロちゃんは……? 何になりたいから、ここに、いるの?』



 真奈が『お魚になりたい』と願ったように。

 俺の願っていたものが、真奈の置き土産として今、目の前にある。

 過去からは逃れられない。現実には抗えない。そんなことは百も承知だ。

 しかし、それでも……! それでも、俺はまだ捨てきれないでいるのだ。

 諦めたフリをしながら、こんなにも意地汚く、そこに齧りついていた。



 真奈に差し出されたものは、何も聞かずに黙って受け取る。

 それが、普段の俺のスタンスだ。

 だから今も、そうするべきなんだろう。

 それが“目を覚ます”ために必要であるならば―――。



 おもむろに深く大きく、息を吸い込む。



「――開人ぉおおおおおっっっ!!」



 ふいに上げた俺の雄叫びで、どよっと周囲がざわめいた。

 開人も何事かと立ち上がりかけたが、すかさず俺は握ったボールを前に突き出し、それを押し止める。

「おまえは絶対に動くな! 絶対にミット動かすな! 絶対に外さねえ! 構えたとこに絶対に投げ込んでやる! おまえは、ただ信じて待ってりゃいい!」

 そして高らかに宣言した。



「ど真ん中ストレートだ!」



 言い放った途端、ただでさえざわめいていた周囲が、よりいっそう湧き上がる。

 バッターボックスの星先輩があからさまに怒りの表情を浮かべたのが、こんなに離れた距離にいてさえ、ありありと分かった。

 そりゃそーだろう。あらかじめ来るコースが分かってれば、打てない球なんて無いに等しい。

 しかも、ど真ん中ストレートなんて絶好球。

 バカにしてんのか、と怒りを覚えても不思議じゃない。

 案の定、こちらを見据えて何事か言っているのが、口の動きで分かる。

 だが、その言葉は俺には届かなかった。

 先輩の声だけじゃない。周囲のギャラリーのざわめきも、喚声も、何の音も一切、今の俺には聞こえなくなっていた。

 ただ静かなだけの空間の中で、俺の呼吸だけが、うるさいくらい耳に響く。

 ――そう、あの時も。

 こんな風に、一切の音が聞こえなくなった。

 音だけじゃない。あの時は、目に映る世界の色さえも失われた。

 でも今は、視線の先にちゃんと景色が見えている。

 おもむろに俺は投球フォームをとった。

 そうしながら、右手に握りしめていたボールを、改めてぐっと握り直す。

 そして……、



 ズバン! ――白球がミットに吸い込まれる気持ちいい音が響き渡った。



 その瞬間、ギャラリーの誰もが一斉に声を噤んだのが分かった。

「――す、ストライクっっ……!」

 ややあって届いた球審の声も、まるで信じられないものを見たかのように揺れている。

 そこでようやく、周囲からも次々に声が湧き上がった。

 これは、おそらくその場にいた誰もが予想し得なかったことだったろう。

 この俺が、よりにもよって投げるコースを予告した上で、あの星先輩からストライクを取ってしまうだなんて。

 そして……あの星先輩が、コースを予告された絶好球でさえ、よりにもよって棒立ちで、見逃してしまったなんて―――。

「おい、誰かスピードガン! 持ってこい、早く!」

 いっそ滑稽なくらいに慌てて指示を飛ばす、そんなギャラリーの中にいる部長の姿を横目で見やりながら、でも、まだどこかそれが現実のものとは思えない自分も、そこにいた。

 落ち着き払って足元を均し、ロージンバッグを手に玩ぶ自分の姿が、まだどうしても信じきれずにいた。

 だって、今の俺の手は全く震えてない。相変わらず鼓動は大きく聞こえてくるけど、呼吸に乱れは全く無い。

 まるでそれだけ欠落してしまったかのごとく、怖い、という感覚そのものが、俺の中からなくなっていた。――ということ自体、今の俺には全く知るべくも無かったことなのだけど。

 そんな俺に、二球目を投げろとコールがかかる。

 だから投げた。

 すぐに再び球がミットに吸い込まれる音が小気味よく耳に届いてくる。

 バッターボックスの星先輩は、今度は大きく空振った。

 ギャラリーのどよめきが、また更に大きく膨れ上がる。

「いいぞーヒロちゃーん! さっすが妖怪バッテリーっっ!」

 その中で、真奈が叫んでる声が聞こえた。

「『妖怪バッテリー』? ――って、え、それ、もしかして……!?」

 津田の声も聞こえる。

 まさに“何かに思い当たりました”って色を多分に含んだその声には、さすが腐っても野球少年は知ってるもんだなーと、やけに冷静に、それを思う。

「俺らが小六ン時に全国優勝したチームの、あのバケモノバッテリーか!?」

 張り上げられた津田の言葉で再び大きくなったどよめきの中、

「スピードは!?」

「ひゃっ……ひゃくごじゅうに、です……!」

「はあ!? マジか!?」

 そんなやりとりも聞こえてきたけど……なんだろう、かつての名前のことといい、どうしても取るに足らないこととしか思えなかった。

 やっぱり、とことん現実感がない。どことなく足元がふわふわしているような気さえする。〈地に足が付いていない〉とは、こういうことを云うのかもしれない。

 そんなことを考えている頭の中の中心あたりが、なんだか痺れてボーッとしているような感じもする。

 今なら何でもできそうな気がした。出来ないことなどないようにさえ思えた。

 過去の栄光が何だっていうんだ? 球速152km/hが何だというのさ? ――そんなんじゃ、まだまだ足りない。

 俺は、まだまだ上へ行ける。

 俺の球は、まだまだもっと速くなれる。



 ――そして響き渡る三度目の音。



「ストライック、バッターアウッ!!」

 高らかに響いた球審のコールで、どっと歓声が湧き上がった。

 すかさず立ち上がった開人が、満面の笑みで俺へと走り寄ってガッと力強く抱きついてくる。

 横で見ていたギャラリー連中も、次々に走り寄ってきては俺と開人をモミクチャにした。喚声に包まれて、もはや誰が何を言っているのかすら分からない。

 ――俺……3ストライク、取れたんだ……。

 まだ痺れているような思考の中で、ぼんやりと、それを思う。

 ――勝ったんだよな、先輩に……。

 じわじわと広がってくる、その実感。その嬉しさ。

 そして同時に、思い出したように今サラぶり返してくる恐怖。

 それらを自覚した途端、張りつめていた緊張の糸が切れたのが分かった。

 ――ああ、やっぱりコレって、現実、だったんだ……。

 そしてそのまま俺の意識は、フッツリと、途切れた。






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