第7話




 まさに練習終わりのタイミングを見計らったように野球部のグラウンドへ真奈が姿を見せても、俺はさして驚きもしなかった。

 その隣に野笛がいても、まあいつものことだと思うだけだ。

 だが、その反対側に開人まで連れている、となると……これはもはや“普通”のことでは在り得ない。



 そもそも昨晩、俺の部屋へ駆けこんできたところからして、真奈は様子がおかしかったのだ。

 まさに“帰宅途中に寄っちゃいました”っていう姿で俺の家に来るのは、今や別に珍しくも何ともないことだ。ウチの両親とも身内なみに仲がいい真奈は、何かにつけちゃのほほんと来て、そのままウチで夕飯まで食べていくことだってしょっちゅうである。

 だが、昨晩の真奈は違った。

 なんかドタドタ走るただならぬ足音が聞こえるなあ…と思った途端、バンッと俺の部屋のドアが開けられ、同時に『ヒロちゃん!』と、まさに“転がり込む”というのがピッタリの様相でもって、制服姿の真奈が入ってきたのである。

 その時、ちょうど俺も帰宅したばかりで、まさに着替えようとしていたところだった。

『おい、だからノックくらいしろ、って毎回……!』

 振り返りながら咄嗟に条件反射のごとく言いかけた俺だったが、しかし真奈は全く頓着してくれない――のはいつものことではあるものの。

 手にしていた学生カバンやスポーツバッグを無言でその場に投げ捨てるや、まさに部屋へと転がり込んできた勢いそのままに脇目も振らず一目散に俺へと飛びついてくる、なんてのは、俺の知る限り初めてのことだった。

 挙句、着替えるために脱ぎかけていた俺の制服のシャツを、中に着ていたTシャツごと、力まかせに捲り上げてまでくれやがったのである。

 さすがの俺もそれには驚き、咄嗟に避けることも抵抗することも忘れ、されるがままとなってしまった。

『――やっぱり……』

 やがてぽつりと洩らされたその呟きにハッとして、慌てて真奈の手を振り払う。

 その手で捲り上げられたシャツを引き下げるも、もうガッツリ見られてしまったのは明白だった。

 ついさっきまで暴行を受けていたという証拠を。

『いや、真奈、これは、その……』

 咄嗟に言葉を出しかけるも口ごもる。

 いくら無頓着が服を着て歩いているような真奈でも、こうなった原因の一端が自分にあることを知れば、さすがにいい気分はしないだろう。

 俺の方こそ、昼のアレをまだ許す気にはなれないし、それによって引き起こされたといっても過言ではない謂れない暴行にも未だ腹立たしさが冷めやらないが、とはいえ、真奈にその事実を突き付けることで溜飲を下げようと思えるほど鬼じゃない。そんなのはあまりにも大人げないしな。

 ゆえに、ここは何か気の利いた事情を捏造しとかなくてはと口を開いてはみたのだったが、しかし一向に何も浮かんできてくれやしない。

 更に、無言のまま俯き唇を噛み締めた、そんな真奈の様子を目の当たりにしてしまったら、ますます何も浮かばなくなる。

 そもそも、どうして真奈がこのことを知っていたのかは知らないが、まさか、こんな反応をされるとは思わなかった。

 どうせ今回も、知ったところで『あーあ、まーたやられちゃったねえ』と、そう他人事のようにのほほんと言ってくれやがるのが関の山だと踏んでいたのに。

 少なからず俺はうろたえ、動揺する。

『だから、つまり、えっと……』

『――ヒロちゃん』

 相変わらず意味ある言葉を何も出せずにいる俺の口を、そう、おもむろに真奈が遮った。

『明日の日曜日、野球部、練習は……?』

 そして唐突なまでに発された、その問い。

 それには、ようやく発する言葉の糸口を見つけたとばかりに、『ああ、午前中』と、気が付けば口があまりにも素直に答えていた。

『そう……わかった』

 そして真奈は、小さくそれだけを呟くと、おもむろに踵を返す。

 そのまま、あろうことか夕飯も食わないままに、俺の家から出て行ってしまったのだ。



 ――という昨晩のことを思い返してみれば。

 ああ訊いてきた以上、今日の練習後に真奈が来たとしてもおかしくはないなーと、思ってはいた。

 野笛が付き合わされてきたとしても、まだ想定の範囲内だ。

 だが、開人の存在までは、完全に俺の予想の範疇を超えていた。

 練習が終わったのを見計らって俺に声をかけてきた真奈へ、一体どういうつもりなのかと視線で問うも、一向に応えてくれず。

 しかも案の定、『星先輩に会いにきたの』などと、いけしゃーしゃーと言ってのけた。

 そして俺は今、先輩へと向かって歩いていく真奈の後に、なぜか付き従わなければならないハメとなっている。

『ああ星先輩ならアソコに…』と指で示しかけるや途端にそちらへと歩き始めた真奈の背中を、もちろん俺はその場で見送ろうとしていたのだったが。

 突如、『ほらアンタも行くのよ!』と、野笛にガッシリ腕を取られてしまったのである。

 何が何やら分からぬうちに野笛に連行されながら真奈を追って歩く俺の隣りでは、諦めたような表情で開人もそれに続いている。

「…おい、これは一体どういうことだ?」

「…俺に訊かないでくれ」

 タメ息と共に肩をすくめた、そんな開人の様子では、本当に何も知らないらしい。

「コイツら二人がタッグ組んできたからには、大人しく連行される道を選ぶほか無いだろう?」

「……ソウデスよネー」

 やはり小学生の時分から付き合いがあるだけあって、開人もコイツらをよく知ってやがる。

 ならば仕方ない。真奈はアレだし、唯一事情を知ってそうな野笛も何を言ってくれそうな気配が無いし、俺もとっとと諦めると、ここは成り行きを見守るしかないかと腹を括った。

 そうこうしているうちに、星先輩も、自分のもとへと近寄ってくる真奈の姿に気が付いたらしい。

 無言のまま視線を合わせた二人は、そのまま真正面から対峙した。

「どうしたの、真奈ちゃん? こんなところで」

「先輩に会いたくってきちゃいましたーっ」

「へえ、それは嬉しいね」

 まるで何のゴタゴタ事も無かったかのように表面上ニコヤカ~に交わされる、いかにもカップルっぽい二人の会話。

 でもって、その場にいた部員の誰もが遠巻きにして、でも興味深々で、それをコッソリと見守っている気配がわかる。

「この際、いっそ決着つけちゃおーかなと思ってー♪」

 だが、それを真奈の物騒なセリフが台無しにした。

「決着……?」

 星先輩がオウム返しに繰り返すと同時、コッソリに徹していたはずの周囲がどよっと小さくさざめき立った。

「ええ、決着つけましょう先輩。昨日みたいなことがもう無いように」

 更に真奈が繰り返せば、まるで水面に波紋が広がっていくように、ざわざわと空気が震えて揺れる。

 そんな中でも、相変わらずニコヤカ~な態度と声音を崩すこともなく、真奈は続けた。

「だから、賭けをしませんか? 先輩が勝てば、真奈は先輩が望むようにちゃんと“お付き合い”でも何でもします。でも真奈が勝ったら、先輩は……」

「――もう君に付きまとうな、って?」

「さすが先輩、話が早くて嬉しいなぁっ♪」

 それ、そうニコヤカ~に言ってのけていいセリフじゃー間違ってもないだろーよ? ――と思ったのは、きっと俺だけじゃないに違いない。

 あまりにも真奈の声がニコヤカすぎて一見すると気付かないまま流しそうだが……キッパリ別れ話だよなコレ?

「つーか、勝手な言い分だな。そんな賭けに、俺がホイホイ乗ってくるとでも本気で思ってるワケ?」

 あきらかにムッとした調子で先輩が返しても、しかし真奈は、「思ってますよー」と、やっぱり相変わらずの調子を崩さずにしゃーしゃーと言ってのける。

「さすがの先輩だって、野球部を公式戦辞退に追い込みたくはないですよね~?」

「なに……?」

「先輩にだって、後ろ暗いことの一つや二つ、ありますよね~え?」

 そしてチラリと、背後の俺たちに視線を投げる。

 あきらかに……“先輩が昨日ヒロちゃんにしたこと知ってるんですよぉ”とでも言いたげに、その事実をチラつかせて。

 このためか、とそこでようやく俺は理解した。

 真奈が、開人までをもこの場に連れてきた理由。

 何故だかは知らないが、どうやらあいつは、開人が俺を助けてくれたことまで知っていたってワケか。ゆえに、ここに証人も用意しているから言うことを聞け、と、暗に先輩を脅し付ける道具にしたのだろう。

「先輩が賭けに乗りたくないのならぁ、真奈はそれでも構いませーん。でも、ヒロちゃんのステキな腹筋を足蹴にした償いは、キッチリ受けてもらいまぁーっす!」

 ――久々に見たかも……ここまで全開の、真奈の悪魔モード。

 真奈の、あくまでもニコヤカ笑顔を貫き通す様子には、一瞬だけ憎々しげな表情を覗かせたものの……だが、やおら先輩は無理矢理のように口許だけに笑みを浮かべ、「わかったよ」と、吐き捨てるように答えを返した。

「その賭け、乗ってやるよ」

「さっすが先輩、話が早い人って真奈ダイスキ~♪」

 またもやイヤミなくらいにニコヤカ~に返した真奈へ、今度こそハッキリきっぱり憎々しげな表情をもって、先輩は応え返した。

 だが、そんなことでメゲる真奈だったら、最初からこんなところへ乗り込んではきていない。

「では先輩?」

 相変わらずの声と態度で、また清々しいくらいなまでにニコヤカ~に、まさに何事でもないかのように、それをヤツは、いともアッサリ言い放ったのである。



「――この二人と勝負してくださぁ~いっ♪」



「「は……?」」

 意図せず、俺と開人の声がハモった。

 だって、真奈の手が『この二人』と指し示したのは、あきらかに俺と開人だったのだ。

 傍観者に徹していたところに突如ご指名がくれば、そりゃ誰だって驚くに決まってるではないか。しかも、指名の内容が先輩との勝負。――冗談じゃない。

「おい、真奈……!」

 なんで俺がオマエの都合に巻き込まれなければならないんだと、慌てて反論しかけた俺の口が、そこでおもむろに塞がれる。

「はーい、アンタは黙ってよーねー?」

 背後から俺を羽交い絞めするかの如くそれを為したのは、案の定、野笛である。

 ――チクショウ、おまえはコレ要員か!

 これだから170㎝オーバーの高身長女は厄介だ。やっと170㎝に届くか届かないかっていうちまい俺なんか簡単に押さえ込まれてしまうではないか。

 いっそ目には目を! とばかりに180㎝オーバーの開人に視線で助けを求めてみるも、ヤツはヤツで、既に俺なんざとっくに眼中に入れちゃいなかった。難しい表情を作り、発される一言でも聞き逃すまいといった態勢で、真奈と先輩とを見守っている。

 ――これだから無駄に冷静な高学歴男は……!

 仕方なく涙を飲んで、ようやく俺も大人しくその場を見守ることにした。――というか、それ以外どうすりゃいいってんだよこの状況で!

「一打席勝負です」

 そんな状況下であってさえ、相も変わらない真奈の声が、無情なまでに耳へと響く。

「3ストライク取れた時点でピッチャーの勝ち。一球でもヒット級の当たりを出してそれを阻止すれば、バッターの勝ち。――もちろん先輩には、バッターとして打席に立ってもらいます」

「へえ…俺が打っていいワケ? どう考えてもそれ、バッターのが有利じゃん。こう見えても俺、四番だよ?」

「そのくらい、ちょうどいいハンデよね」

 さすがにその不敵なセリフには、その場の空気が一斉に凍りついた。

 あきらかにウチの四番を見下げ果てた、その言葉。

 さっきまで“俺の実力知らないのかよ?”とばかりに揶揄まじりで応えてた先輩だって、そこまで馬鹿にされれば顔色だって変えようってモンだろう。

「そうまで言われちゃ、俺も本気出さないわけにはいかないよなァ……?」

「あははっ! どうぞどうぞ、本気出してくれちゃって全然大丈夫ですよ~んっ!」

 ボク精一杯怒りを堪えてます! って雰囲気マンマンの先輩のセリフを、なのに、そう軽々と笑っては余裕シャクシャクに一蹴してのける真奈。

 そして、いつもながら突然、ぺいっと軽く爆弾を落としやがってくれたのだった。



「だぁって、ヒロちゃんが負けるワケないも~んっ♪」



 ――ちょっと待て……? オマエ今、なんつった……?



 聞くやパッキリ硬直した俺へ、その場にいた皆の視線が一斉に集中した。

 特に星先輩の視線がスサマジイ。もはや“真奈の暴言は俺の暴言”な空気になってしまっていて、マジ痛すぎるったらない。

 そんな先輩も、だが次には、へっと小馬鹿にしたような表情を浮かべた。まさに“オマエごときに何ができるよ?”とでも言わんばかりの表情。

 それが徐々に周囲にも波及する。誰も彼もが小馬鹿にした表情をするか、でなければ逆に心配そうな表情。

 そりゃそーだ……だって俺の実力なんて、入部の際に監督や部長をはじめ先輩たち立ち会いのもとでテストさせられたんだから、部員全員の知るところではないか。

 投げさせてみて、打たせてみて、二、三年生以上に突出した部分が無いとみなされたからこそ、俺は他の一年生たちと共に球拾いや雑用に明け暮れる日々を送っているのだ。

 そんな俺が、仮にも四番を打っている星先輩を相手にストライクを取れるハズなんて、万に一つも無いではないか。

「へえ……投げるのは小此木か」

 だが、そんな馬鹿にしたような先輩のセリフにも真奈は、「そうよ」と、自信満々で答えてのける。



「もちろん、ヒロちゃんがピッチャー。――でもって、キャッチャーが開人くん」



 ―――え……?



 それを聞くや、さきほどとは違った意味で、再び俺の身体が硬直した。

 ――いま……なんて……?

 どくどくと心臓が鼓動を早める。呼吸が不規則なリズムを奏で出す。右手に走る小刻みな震えが止められない。

 そう、まさに昨日、開人に会った時と同じ―――。



「おい、柏木……!」

「お願いね、開人くん」

 そこでようやく差し挟まれた開人の言葉は、そんな真奈のヒトコトで捩じ伏せられた。

「だって、このバッテリーで先輩に勝てないなら、ここに居る誰がやったって同じでしょう?」

 その言葉で再び周囲にどよめきが走ったが、もう開人は何も言わなかった。

 しばしの間、それを言った真奈をじっと見つめて……ようやく「わかった」と、それだけを返した。いつも通りの淡々とした口調で。

 そして今度こそ、真奈が俺の方へと向き直る。

 呆然と立ち尽くす俺のもとへと歩み寄ってきた真奈は、おもむろに片手を持ち上げて、俺の練習着の裾を掴んだ。

 そのまま肩に額を寄せてくると、耳元近くから、それを囁く。



「信じてるよ、ヒロちゃん。――






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