彼女の家族

「ちゃんとわたしの後ついてきてくださいね」

少し先を歩く彼女の後を俺は数メートル後ろからついていく。

「なあ、どこ行くんだ?」

彼女に尋ねる。

「わたしの家ですよ。さっき言ったじゃないですか」

「それはわかるんだけど、さ。その……」

俺は少し言い淀む。だってさっきの話を聞く限り、彼女は村唯一の生き残り。つまり彼女もまた、家族をなくして身寄りのない身になっているはずだ。その彼女がいったいどんな生活をしているのか、とても気になる。だがそれを聞いてしまっても良いものなのか?  もし辛い生活を強いられていたら……

「大丈夫ですよ」

だが俺のそんなを不安を打ち消したのは彼女だった。

「わたしが住んでいるのは町の児童養護施設です。まあ、普通の子とはちょっと違う生活かもですけど、でもちゃんと楽しく暮らせてます。……なので、そんな顔しないでください」

そう言ってこちらを振り向く彼女。

「あっ……ごめん」

「いえ、謝ってもらわなくても……慣れてますから」

慣れてるから。さらっと彼女は言ったがその言葉に一体どれだけの重みがあるのだろう。一体どれだけの人に同じ言葉をかけられ、同じ悲哀の視線を向けられたのだろう。それを考えただけで俺は彼女のいままでの十何年生きてきた人生の一部を垣間見た、そんな気がした。

「……そうだよな。哀れむとか何上から目線で見てるんだっての。君のことまだ何も知らないくせに。俺自身そんなこと出来る立場でもないくせに……」

そう言って俺は頭を垂れる。

「あっ、いやですから、別に気になさらずに……」

そんな俺に彼女は優しく声をかけてくれる。

「……よし、わかった!」

そう言って俺は顔を上げる。そして彼女を真っ直ぐに見て宣言する。

「俺はもう君のこと哀れんだりしない。可哀想だとかそんなこともう絶対思わない。……だから、今だけはもう一度謝らせてくれ。ごめん!」

そう言って俺は大きく頭を下げる。

「……ぷっ、あはははっ!」

暫く頭を下げていた俺の耳に笑い声が届いた。顔を上げると彼女が腹を抱えながら笑っていた。

「え? 俺なんか変だった?」

「いえ、ごめんなさい。そういうわけじゃないんです。ただそんなこと言われたの初めてだったので」

そう言いながらクスクスと笑みを浮かべる彼女。

……本来だったら怒ってもいい場面だと思う。でも俺にそんな気持ちは微塵も浮かばなかった。だって彼女の笑った顔が雪菜にとても似ていたから……

「やっぱり親子、なんだな」

「え?」

彼女の反応を見て俺は自分が思ったことを思わず声を出してしまっていたことに気づいた。

「あっ、いや、その……笑った顔が雪菜にそっくりだったから……ごめん」

「い、いえ、大丈夫です。ただそんなこと言われるのも初めてだったから……ちょっと驚いてしまって。そっか、お母さんに……」

彼女はそう言って慈しむように両手をギュッと胸に抱いた。

「雪菜のこと、知らないのか?」

そんな彼女の小さな呟きを聞いてしまった俺は彼女に問い掛ける。

「……ええ。母は村からほとんど出なかったらしく、生前の母を知っている人は誰も……私も幼かったのでほとんど覚えていませんから、知っているのは写真での姿だけです」

「そうか……」

あの事件で彼女は幼くして母を亡くし、そして雪菜を知る人は誰もいなくなった。くそっ、一体どこのどいつが……

「あの、歩さん?」

「え?  ああ、大丈夫、なんでもないよ」

心配そうにこちらを見つめている彼女に慌てて言葉を返す。

やめよう、そんなこと考えるのは。俺自身まだ整理が出来てないのに感情に任せて行動するのはよくない。今はただこの現状をちゃんと理解していくことが重要だ。俺が二十年後の世界にいるという事実を。

「それよりも、さ。さっきから気になってたんだけど、なんで敬語なの?」

「え?  それは歩さんは年上ですから……」

そういうことになるのか。二十年間眠っていたと言っても戸籍上俺の年齢は三十五歳ってことになるんだからな。

「うーん、確かにそうだけど、でも普通に話してくれないかな? なんていうかこれでも一応体と気持ちは君と同い年なんだし」

「それはそうかもですけど……でもやっぱり年上ですから。それに母の幼馴染なんですし……」

そう言って断固とした姿勢を示す彼女。ま、そりゃ母親の幼馴染だって人にいきなりタメ口とか無理だよな。それにしてもそんな少し頑固なとこも雪菜そっくりだな。

「うーん、でも俺敬語とかそういうのどうも苦手なんだよなー」

というか俺の村にそんな文化がほとんどなかったと言ってもいい。村の人は皆知り合い、みたいな小さな村だったので形式上の催し物の時を除いて老若男女問わずほとんど皆タメ口で接してきたし。ま、さっきの先生とのやり取りの時はなんとか自分の出せる精一杯の丁寧な言葉で対応したけど。

「……そうだ! ならまずはそのさん付けやめようよ。俺のことは歩って呼んでくれていいからさ」

「は、はぁ……まあそれくらいなら」

「そっか、じゃそれでよろしくな。雪歩!」

「ゆ、雪歩っ!?」

俺の言葉にあからさまに驚いた顔をする彼女。

「なんかおかしかったか?」

「あっ、いやその……いきなり呼び捨てだったので驚いてしまって……」

「そうか? こっちが名前で呼んでもらうんだからこっちも名前で呼ぶのが普通だと思ったんだけど」

「それはそうかもしれませんけど……」

「にしてもいきなり過ぎます」「不意打ちは卑怯です」などとぶつぶつと呟いている。

「そんなに嫌だったか?」

「べ、別にいやとかではないですけど……なんていうか名前で呼ばれるのが新鮮で」

「そうなのか?」

「そうですよ! 女の友達とかならまだしも、知り合ったばかりの男の人にいきなり名前で呼ばれるなんて……」

「でも俺は村の人は皆名前で呼んでたぜ? 男とか女とか関係なく」

「それはある程度人間関係が出来ている間柄だから出来ることでしょう? 普通の社会じゃそんなこと出来ませんよ」

「そういうもんなのか?」

村からほとんど出たことがないから村の外の社会がどうなっているのか俺にはよくわからない。

「なんとなくですけど、あなたがどんな環境で育ってきたのかわかった気がします」

彼女ははぁーと諦めにも似た溜息をつく。

なんだ?  それじゃまるで俺が残念な子みたいじゃないか。

「なんかもういいや。……わかりました。これからあなたに敬語は使いません。いや、使わない。これでいいんでしょ? 歩」

「お、おう」

突然の彼女の心境の変化に驚きつつも俺は頷く。一体この少しのやり取りで彼女にどんな変化があったのだろう?

「ま、いいや。とりあえずよろしくな、雪歩」

そう言って俺は彼女に向かって右手を差し出す。

「……こちらこそ、よろしく」

そう言って彼女は俺の手を握る。その誰かを優しく包み込むような柔らかい手の感触も雪菜そっくりだった。

「それで。その施設っていうのはどこにあるんだ」

「大丈夫。もう着いたから」

雪歩が視線を斜め後ろへと向ける。その視線の先には平屋建ての建物があった。どうやら話しながら歩いているうちにいつの間にか目的地に着いていたようだ。

「じゃ、行きましょ」

手を離し、先を歩く彼女に続いて俺はその施設へと足を踏み入れるのだった。



「ただいまー」

玄関の扉を開けると共に中に向かって挨拶をする雪歩。

「あっ、お姉ちゃんが帰ってきた!」

「おかえり、雪歩姉ちゃん」

彼女の言葉が合図になったかのように玄関にぞろぞろと小さい子供たちが集まってくる。そして子供たちは雪歩を取り囲むようにして覆い尽くす。

「ははっ、ただいま。皆仲良くしてた?」

そんな子供たちを一人一人優しく見つめる。

「ねぇねぇ、今日はあたしと遊んで!」

「違うよ!  お姉ちゃんは僕たちと遊ぶんだ!」

やあやあと子供たちが雪歩を取り合うように言い争う。

「はいはい。大丈夫、皆と遊んであげるから。だから仲良く、ね?」

その子たちをなだめながら優しく撫でる雪歩。なんて言うか本当にお姉ちゃんって感じだな。

「おらおめぇら、玄関で騒いでんじゃねえぞ」

そんな微笑ましい光景を眺めていると酷く乱雑な言葉と共に奥から一人の女性が現れた。

「だってユウキがー」

「違うよ、むっちゃんがー」

そう言ってそれぞれの主張をその女性に伝える子供たち。

「はいはい、わかったわかった。とりあえず飯の準備が出来たから皆台所へ行け。遊ぶのはその後だ」

「「はーい」」

そして皆その人の言葉に従い、奥へと走っていった。

「おらっ!  走るんじゃねぇ! って聞いてやしねぇ」

そう言ってその女性はやれやれといった顔で頭を掻いた。

「ただいま、春香さん」

そんな彼女に雪歩は子供たちに向けたのと変わらぬ笑顔でただいまと挨拶をする。

「おお、おかえり。遅かったから少し心配したぞ」

「ごめんなさい。少し先生のところに寄ってたから」

「ああ、さっきあいつから連絡あって聞いたよ」

そんな感じで会話をする春香さんと呼ばれたその女性と雪歩。口調はキツい感じがするがその女性の言葉はどこか優しさが含まれている感じがする。家族を思いやるような優しさが……

「……んで?」

とそんなことを思いながら二人を見ていた俺に彼女の目が向けられる。

「お前が例の子か?」

「え?  いや、その……」

いきなり睨むような目つきで見られてたじろぐ俺。

「あぁ?  違うのか?」

「いや、違わないと思う……思います」

「んだよ、男のくせにはっきりしねぇな」

俺がそんな返答をしてると彼女の視線がより一層俺を強く睨んできているような気がした。

「ちょっと春香さん。怖がられてるよ」

「おっと、そうか。わりぃわりぃ。つい昔のくせが出ちまった」

そう言って彼女は俺を睨むのをやめた。それでも眉間にシワが寄ったままになってるけど。というか彼女がここに来てから眉間のシワがなくなったことがないんだけど。

「先生からどんな風に聞いたかわからないけど、とりあえず彼を暫くここに泊まらせて欲しいんだけど」

「ああ、それに関しては問題ねぇよ。部屋も余ってることだしな」

そんな不機嫌そうな顔の彼女だが雪歩の言葉にはいとも簡単に頷く。

「ま、詳しい話は飯食ってからだ。じゃねぇとガキ共がうるせぇからな。お前らも台所に行きな」

そんな風に言われた俺は靴を脱ぎ、雪歩の後に続くようにして中へと足を踏み入れたのだった。



「んじゃ、改めて自己紹介といこうか。あたしは東山春香。ここの責任者だ」

夕食を終えた後、テーブルを挟んで向かい合う形になった俺に自己紹介をする春香さんと名乗る女性。ちなみにその春香さんは未だに眉間にシワを寄せている。

「本郷歩……です」

俺はそんな春香さんに先程先生と話した時以上に細心の注意を払いながら自己紹介をした。

「ん?  なんかお前ヒビってね?」

「っ!? べ、別にそんなことない! ……です」

「そうか?」

そんな俺のことをじーっと見る春香さん。なんかいちゃもんつけてきたヤンキーに睨まれてるみたいで……正直気圧されてます。

「それは春香さんの顔が怖いからです」

そう言って話に割って入ってきたのは俺の隣の椅子に座っている雪歩だった。

「いつも言ってるでしょ。春香さんはすぐ眉間にシワが寄るんだから気をつけてって。だからいつも初対面の人に怖がられるだよ」

「ああ、そうだったな」

そう言って眉間をほぐすように揉む春香さん。そしてよしっ、と言って揉むのをやめる。

……いや、さっきと全然変わってませんけど。というかさっきより一層不機嫌そうな顔になったような……

「ていうかよ、そんなに怖いか? こんぐらいでビビってたら世間で舐められちまうぞ?」

「世間で舐められるとかどうかというよりも初めて会う人に対する態度をもうちょっとちゃんとしてください。春香さんってばいつも喧嘩越しになるんだから」

「それは相手がそうなるようなこと言ってくるからだ。こう見えても温厚だからな。出来れば穏便な話し合いで済ませたいといつも思ってる」

「本当ですか?」

「ま、相手が穏便じゃないのをお好みだって言うならそれ相応にやり合ってやるけどな」

「……やっぱりね」

春香さんの言葉を聞いて雪歩ははぁーと大きく溜息をつく。

でも今の話を聞いてなんとなく二人の関係がわかったような気がする。子どもたちと雪歩は年の離れたお姉さんって感じだったけど、春香さんと雪歩の関係はどちらかというと年の近い姉妹って感じがする。それでいて出来の悪い姉の面倒を見る出来る妹みたいな……

「あ?  なんだ?」

「い、いや、なんでもない……です」

春香さんに睨まれて、慌てて顔を逸らす。

「……それで、そろそろ本題に入りたいんですけど」

「おお、そうだったな」

呆れられるような感じで雪歩が見つめると春香さんはようやく睨むのをやめて、斜めっていた体を直し、こちらに正対する形に座り直した。

「で、先生からはなんて聞いたんですか?」

「ああ、それなんだがよ。あの野郎いきなり電話してきたかと思ったら親戚の子を暫く預かってほしいとか言って電話切りやがったのよ」

そういって不機嫌そうに舌打ちをする春香さん。

おいおい。これちょっとマズいんじゃ……

「ま、部屋は余ってるし、ウチは元々行く当てのない奴らが集まる場所だからな。いさせてやるのは別にいいんだけどよ」

ホッ

なんだ、この感じなら大丈夫そうだな。先生も肝心なところは言わないでくれてるみたいだし。

俺は安心して胸を撫で下ろした。

「そこまで聞いてるなら大丈夫だよね」

「いや大丈夫じゃねぇ」

そう言うと再びギリっとした目が俺に向けられる。

「泊めてやる。だがここに泊まるってからにはそれ相応の理由ってのが必要になる」

「それ相応の……理由?」

「そうだ。つまりなんでお前は家に帰れないのか、そういうことだ」

あっ……そうか。ここにいるのは皆帰る家がない子なんだ。そんなところに俺は泊まろうとしている。だったら春香さんの言うようにそれ相応の理由ってのが必要だ。お前はなぜここに泊まらなければいけないのかという理由が。

「あっ、えっと春香さん。それはね」

「雪歩は黙ってな。俺はこいつに聞いてるんだ」

今までで一番真剣な瞳で俺を見つめる春香さん。

「で、でも……」

「いいよ、雪歩」

なおもなんとかしようとする雪歩を手で制して、俺はうんと頷く。大丈夫だ、と。

「……実は俺、両親がいないんだ……です」

「……そいつはどういうことだ」

「はい、俺の両親は俺の幼い頃に母は病気で、父は事故で死んだ……亡くなりました」

俺は一つ一つ言葉を選ぶようにして真剣な表情の春香さんに言葉を返していく。

「それから俺は祖父母に預けられて、そこでずっと暮らしてた……いました。両親が死んだのが物心つく前だったから俺の生まれてから記憶はほとんどじいちゃんばあちゃん……祖父母と過ごしたものばかり。でもその祖父母も病気で……」

他界した。俺ははっきりとそう言った。

「そうして身寄りのなくなった俺のことを親戚たちは厄介がるんだ……です。誰が預かるんだ、ウチに来ては困るって」

だから俺は逃げた。

「俺だってそんな人たちと暮らしたくなんかない。一人でもいいから祖父母と過ごした家でずっと……でもそれすら叶わないのならいっそ一人で生きて行く方がマシだって、そう思って……」

ただただ話し続ける俺。そんな俺の言葉を春香さんは口を挟むことなくジッと黙ったまま聞いていた。

「……そうか」

そして俺が話し終えたと察すると小さく頷き、立ち上がった。

「さてと、そろそろ風呂の準備しねぇとな」

「え?」

呆気に取られる俺を他所に春香さんは台所を出て行こうとする。

「ちょっ!?」

慌てて立ち上がる俺。だが、

「ああ、お前の部屋な、廊下の一番奥だから」

春香さんは一度だけこちらを振り返り、それだけ言って台所から出て行った。

え?  今のは……

「良かったね。泊まっていいって」

戸惑う俺に雪歩が話し掛ける。

「泊まっていいって、え?  今ので?」

「うん、だって言ったでしょ。お前の部屋は一番奥だって」

「確かにそう言ったように聞こえたけど……」

それが泊まるのを許してくれたことになるのか?

「そうだよ。だって春香さんめっちゃ優しそうな顔してたよ?」

「どこが!?」

むしろ俺にはずっと不機嫌そうな顔……というか人を殺そうとしているようにしか見えなかったんですけど。

「そう? ま、春香さんあういう人だからね。初めてだとわかりにくいのかもね」

いや、俺には何年かかってもわかりそうにないけど……

「でも、さっきの説明で本当に納得してくれたのかな?」

「それは大丈夫だよ。本気かそうじゃないか、話してる時の目を見ればわかる。春香さんいつもそう言ってるもん」

「……そっか」

本気かそうじゃないか、ね。

「ま、部屋は使っていいみたいだし、とりあえず行ってみるよ。少し休みたいしな」

「あっ、うん。そうだよね」

雪歩は何か考えるような顔をしていたが、俺の言葉を聞くとその顔をやめてこちらを向いた。

「じゃあ案内するよ」

「いや、大丈夫だよ。廊下の一番奥だろ? それくらい一人で行けるって」

「でも……」

「いいから、お前も少し休めよ。お前だって疲れただろ?」

「それは、少しは疲れたけど……」

「だろ?  俺なら大丈夫だから」

だがそれでも複雑そうな顔をする雪歩。

「んじゃ、行くわ。何かあったら言ってくれ」

俺はそれだけ言って台所を後にした。



俺があてがられた部屋は建物の一番端にある部屋だった。広さは約四畳。ベッドはあるがそれ以外に何もない質素な部屋。なんでもだいぶ昔にいた人が使っていた部屋で長い間使われていないらしい。でもそんなところでも泊めてもらえるだけありがたい、俺はそう思った。

「ふはぁー」

俺はベッドに倒れ込みながら大きく息を吐く。当然だ。今日一日でいろいろなことがあったからな。

「いろいろ……か」

いや、違う。俺の知らない間に起こってしまった。そう言った方が正しい。俺が二十年もの間眠っている間に……

「……くっ」

先生に聞いた話を思い出し、俺は奥歯を噛み締める。村の皆が……雪菜が殺された。なんで、そんなこと。どうして俺だけ生き残って……俺が眠ってさえいなければ雪菜を守れていたかもしれないのに……

「くそっ!」

どうにもならない怒りと自分の無力感を感じて突き出した拳は空を切る。何も出来なかった俺自身を象徴するかのように……

コンコン。

そんな自分に嘆いた俺の耳にドアを叩く音が響いた。

「入ってもいい?」

それは雪歩の声だった。

「ああ、いいぞ」

先ほどまでの湧き上がっていた感情を抑え込み、努めて普通な感じで俺が返事をするとゆっくりとドアが開き、雪歩が顔を覗かせた。

「どうした? なんか用か?」

「えっと、別に用ってほどのことじゃないんだけど、少し気になって……」

「気になる?」

「うん、さっきの……春香さんにしていた話。なんか作り話にしては出来過ぎてるっていうか……歩があまりに真剣な目をしてたから」

そうか、そんな顔をしてたのか、俺は。

「まあ、それはそうだろうな。あの話ほとんど真実だから」

「真実……ってことは歩の家族は……」

「うん、いない。父さんも母さんもじいちゃんもばあちゃんも……皆死んじまったからな」

そう、さっき話したことはほとんど真実なのだ。俺は家族を失い親戚からも厄介がられた。ただ一つ違うのは、

「でも逃げた俺を引き留めて守ってくれた奴がいたんだ。それが雪菜、お前の母親だよ」

「え? お母さん?」

「うん、そう。親戚に引き取られるぐらいなら村から出て一人で生きていく。そう考えてた俺の手を無理矢理掴んでさ、『歩はわたしの家族だから』なんて言って親まで説得して、俺の保護者代理にしてくれた。おかげで俺は祖父母の家に住み続けることが出来たんだ」

そう、家族と言ってくれたあいつのおかげで俺は救われた。だからこそ俺はあいつを……

「そっか、お母さんが……」

雪歩は胸に手を置きながら微かに笑った。まるで知らない母の思い出を懐かしむかのように……

「でもそっか。わたしたち同じ、だったんだね」

「同じ?」

「うん、本物の家族はいないけど、でもちゃんと家族がいる」

「あっ……そう、かもな」

俺には雪菜とその家族、雪歩にはこの施設の皆。どちらも血の繋がりはないけど確かに家族だ。俺は少し見ただけだけど雪歩と施設の皆の繋がりの深さが良くわかる。

「歩も、だからね」

「え?」

「だから、歩も家族だと思っていいからね。皆のことも、わたしの、ことも……」

そう言って顔を赤らめる雪歩。

ああ、そうか。こいつなりに心配してくれてたんだ。本当の家族も、家族みたいな存在もなくしてしまった俺のことを。

「……ありがとう。うん、そうだな。家族……になれるといいな」

二十年も未来で目覚めてしまって何もない俺に出来た繋がり。まだすぐに切れてしまいそうなほど細いものだけど、でも、この繋がりは大事にしていかなきゃと思う。雪歩と俺。それは俺と雪菜との繋がりでもあるように思えるから。

「話はそれだけ。今日は疲れただろうかゆっくり休んで」

「ああ。つっても二十年も眠ってたけど」

「あっ、それもそっか」

そう言って雪菜は微笑む。それにつられるように俺も少し頬が緩んだ。

「じゃあ私はこれで」

「あっ、雪歩」

出て行こうとする彼女を呼び止めると振り向いた彼女に俺はもう一度言う。

「ありがとう。心配してくれて」

「……ううん。おやすみ」

優しげな顔を向けながら彼女は部屋を出て行った。

「……おやすみ、か」

ついこの間も同じ言葉を同じような声で聞いた気がする。でもそれもここでは二十年以上も前の話だ。

そんなことを考えながら俺は布団を被り、瞳を閉じる。その瞼の裏に大好きな雪菜と同じ顔の少女の姿を思い浮かべながら。

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