【短編】水蜜桃

甲斐ミサキ

水蜜桃

 

『水蜜桃』



 こんな日は歯が痛むほど甘いお菓子を口にしたい。

――今朝、家を出たときには、思わず吸い込まれそうになるほど真っ青なそらだったのに。

 高い空に千切った綿菓子を一面に広げたような雲が薄紅色に染まり、青空の気配はとうに夜への片隅に追いやられていた。――背もたれたポールから見あげた窓の向こう。

 学生の人波から逃げ出すように電車を降りる。

 もみくちゃにされ、折角の一張羅が台無しだ。改札前の全身鏡に姿を映すと、半日ですっかりくたびれた自分の影がむっつりとしたまぶたで私を見ている。


 頼みもしないのに、SPIのテストセンターには私と似たり寄ったりのスーツ姿の学生がひと山なんぼで掃いて捨てるほどいた。受検企業先が被っているのか、とんちきな恰好をした学生の姿は見ない。

 試験解禁になった頃は派手な私服姿があったものだけど今は昔。

 空調が効いているはずなのに酸素を求めて喉が反る蒸した熱気籠る会場。細かく区切られたパーテーションに据え置かれた検査用PCで自分じしんの問題を解く。さながら閲兵する軍隊の整列に飲み込まれた錯覚が起きるのも無理はない。じゃあ今の私はさしずめ、戦いに敗れて惨めな敗残兵かよって思う。

 

 か、こーんと感極まって、思わず備え付けのクズカゴを蹴飛ばす。

 自分が予想したような小気味よい音なんかしなくて、痛さがパンプスの爪先に残っただけだ。

「あーあ、何やってんだろ自分」

 堂々巡りの自己嫌悪。

 そんな私を、さざめきながら隣りを通り過ぎる女子高生たちが指差して笑ってる。ツィッターのネタにでもしようっての?

 ええ、ええ笑ってれば? どうせあんたたちもこうなるんだから。いーや、もっと酷いかもだな。頭の中でありったけ、思いつく限り残酷で被虐感サディズム溢れる彼女らの行く末を妄想して溜飲を下げてる自分がまた馬鹿らしい。

「悪いのは出遅れた私なんかなー」はぁっと人知れず吐息が洩れる。

 少なくともリクルートの間だけは、溜息はつかない、弱音は吐かない! って決めたのに自然と出るのはしょうがない。意識すると余計出る気がして、忘れようにも他のことなんか考えられない。最近なんて夢にも出る始末。ため息は幸せを逃す悪手。

――青田買いの企業が悪いんだ、と思ってみたところで、詰まるところ、誰を採用するかなんて向こうの勝手には違いない。そんなこんなで振りあげた拳のやり場にも困り果ててしまう(先刻は気持ちが突っ走ってクズカゴを思わず蹴っちゃったけど……)。

「内定決まった?」と互いに聞きあっていたのは適性検査の盛況なゴールデンウィーク明けくらいまで。六月過ぎ、七月が過ぎ、そして夏休みを過ぎ、決まってないことが人にばれ、彼、彼女らが一たび口を開けば『えーっまだ決まってないん』とか『ワイ将、自宅警備員を解雇、か?』なんて遠慮容赦のない叱咤叱咤。

 恥ずかしながら、それに返す言葉もなし。中には『今年は考えてないよ。目標は来年だから』とあっさりと標準を切り替えている奴もいて、その上、それが計画してのことだったりすると、何の当てもなく活動してる自分はひたすら肩身がせまい。


 思い余って、女だてらに刀鍛冶っていうのに憧れもしたけど、十年も二十年も修行した挙句、婚期を逃すなんてシャレにもならず、ゾッとしない。

 そういえば、同い年で既に子供こさえて結婚しちゃったのもいる。就職を通り越して一足先に、いわば節目を迎えてしまったわけで『なるほど、こういう手もあったか!』と考える自分と『でも射倖的過ぎるなー』とひねくれた目が同居してる自分の心内が妙に可笑しい。

 おっと、妄想が過ぎた。

 そもそも彼氏がいないじゃないか常考。

 いや、家庭に収まりたい、だとか結婚願望がどうこう、というわけじゃなくて、ただ、周りで既に今後のレールをひき終わった者は、紺色の殻を脱ぎ捨てて、蝶よ花よと、残り少ない学生生活の中で恋愛談義を咲かせている。

 無心でそれを眺められるほど悟ったり、恋愛に絶食なわけじゃなかったけど、就職活動に出遅れたという後ろめたさと他人に対する気後れ、何よりそんなこと言ってられない自分が――恨めしいだけ。

 駅前の喧騒を抜けたとたん、夕餉の匂いをあちこちで知覚する。

 当たり前だけど、自分の就職なんて関係無しに世の中は普通に動いている。

「……お腹減った」朝から何も口にしてない。牛めしでも食べればよかったか?

 嗅覚が空腹中枢にすまう腹の虫どもを痛撃したようでグルグルわめき立て始めた。

結婚するとしたら相手は断然、主夫がいい。

――カッコいい旦那さんが部屋の掃除をして、美味しいご飯作ってくれて、洗濯もアイロンがけもしてくれて、お風呂も用意してくれて、風呂上りの肩揉みもしてくれる、そんな人が家に着いた私に『お帰りなさい』って微笑んでくれる。――なんて願望を同じく一人組の名取に言ったら、「旦那を奥さんに換えたら、それこそ独身社畜男の妄想の完成じゃないか」とはねつけられ、

――休日には二人でお菓子作って、ゲームして昼寝したい――とも言ったら「普段のまんまじゃろ!」と呆れられた声を出される。でもなるほどと納得。ようするに男の身勝手な願望にも一理あるってわけだ。

 調子に乗って「メイドさんでも可」なんて言ったら、

「自宅警備員のドリームですね、わかります!」とダブル敬礼される始末。裸にエプロンがどうこう言ってる君にそんなの言われたかないって……。

 そうこう煩悶しているうちに、

 シャッターが閉まった馴染みの本屋を抜ければ、楽しい我が家のご到着。

〝メゾン・ド・パピヨン〟。名前が象徴するようにモダンな女子寮で、同じ棟に寮長さん家族が住んでる。実際、大家さんのことなんだけど、門限にはうるさいし、何かと世話焼きな性格から〝寮長〟と呼ばれもし、そう呼ばれることを気に入っているみたいだ。

 夜目に鮮やかなオレンジの小さな星空がアスファルト一杯に零れ、甘い匂いを放っている。寮の庭からせりだした金木犀の花骸。それらを踏まないように大股で玄関にたどり着く。軒先には今朝方には無かった、南瓜をくりぬいて作ったジャック・オー・ランタンが吊ってある。それを横目に共同の下駄箱に行儀悪くパンプスを放り出し、自前のスリッパを突っ掛けながら入外出帖の〝帰宅〟に丸をする。

「……ん?」

 ポストを覗き込んだら、スマホの請求書に黄色のポストイットが貼り付けてある。

『南瓜の煮付け作りすぎたので、お裾分け取りにおいで』

 配給だ! 大家さんからだった。

 ちょっとしたオカズを作ってはお裾分けしてくれる。このことを皆は〝寮長の配給〟と冗談交じりに呼んでいた。といっても料理上手な大家さんのお手製は配給というには美味しすぎる代物で。家賃を払いに行ったときなんかに『これ持っておかえり』なんて包んでくれるのはホントに嬉しかった。

「依ちゃん今帰り?」

 チャイムを鳴らすと大家さんは直ぐに出てきた。

「ごちそうくれなきゃ、いたずらだトリック・オア・トリート!」

 胸を張ってダブル敬礼。ちょっと違うか。

「はいはい」とエプロン姿で手のひらにキットカットを乗せてくれたあと、ノリの良い大家さんがすかさずダブル敬礼を決める。

「ただいま、大家さん」

「寮長でいいのに……。依ちゃんだけだったわ、ハロウィン気付いてくれたの。も一つオマケ」ともう一包み。

「大家さんが作ったんですか? 表の」

 ジャック・オー・ランタン。

「そう、最初、ポタージュにしようかとも思ったんだけどね、煮付けの方が配りやすいし。まあ入って」

 玄関からのぞく大家さんの台所は、唯一の趣味とばかり、料理器具がちらばっており、南瓜と格闘した痕が随所に見られる。そして無造作に転がっている失敗作たち。

「なかなか上手にくり貫けなくて。この子たちの慣れの果てがコレ」と苦笑しながらさしだされたタッパーには琥珀に色づいた皮無しの煮付けがこれでもかと詰まっていた。

「依ちゃんが最後だったからね。お鍋の中身全部投入したから。少々お焦げも入ってるけど愛嬌、ご愛嬌」

「こ、こんなに? 有難うございます」

「要領がいいんだから、今度教えてあげるわ。甘いもの好きだったでしょう?」

「ハイ、それじゃあ」と長い話を聞くような気分でもなく、早々にいとまを告げる。

 すぐさま、あなたにお客さん来てたわよーっと紺地の背中に含んだような大家さんの声がぶつかった。

 いったい誰だろう、ぺったぺったと疲れた足をひきずって薄暗い階段を上りきる。

 なんでも節電期間とかで、廊下にはルームライトほどの淡い灯りしかついてない。そんなのじゃ、光の恩恵など、突き当たりにある私の部屋までは到底届きそうもなく、事実届いていない。まぁ許可無しには入れない建物なので痴漢とかの心配がないのが何よりだった。

 受身の薄暗さは余計に気が滅入る。かといって〝自己嫌悪の陥穽〟なんて口にしようものなら『灯りの消した闇風呂なんぞ感傷に酔ってるだけ』なんていう奴もいるけど……。

 今は誰と会うのも億劫だ。大家さんの言う通り、確かにドア付近に人影がある。お客さんって誰じゃろう。暗がりな上、視力の弱い私には男女の区別すらつかない。

「どな、どなた?」物だるげに投げかけた声に、壁にもたれるようにして膝を抱えていた影がのそりと起き上がる。

「我が麗しの君、ようやくのご帰宅か」大げさな言い回しで差し伸べられる手。

「……何バカやってんの?」

――名取だった。大学で同じゼミの。こいつも私と同じくリクルートスーツを着ていた。

「なんで此処に入ってるの?」

「あれ、エトランゼ名簿に記帳してあるの、確認してない?」この男はよくもまぁ、いけしゃあしゃあと。口から産まれた口太郎か。

「はいはい、人のいい大家さんに親戚とか言ってまんまと騙くらかしたわけ」名取は笑うだけで答えない。

 「そんなことよりほら。陣中見舞い」

 はいっと声に出して名取が駅前にあるコンビニエンスの袋を突き出す。――知ってたけど、ホントに人の話を聞かない奴。

「……何入ってんの?」

 思わずもう片手を添えるほど、手渡された袋はずしりとした手ごたえ。

「海苔塩のポテトチップスに、ホワイトチョコに、おせんべ、炭酸にユンケル」

「……ちょっと」

「もしかしてチューハイもあった方が良かった?」

「デブらせたいわけー? 私を」

 名取の言葉どおりそれらが無造作に詰め込まれている。手で探ると、ペプシのボトルに隠れるように底には缶詰が入っていた。どうりで重いはず。

 中身は白桃の缶詰。

「あ……モモ缶」

 最後に食べたのいつだっけ。思い出そうとしたが今はそれどころではなく。

「〝安寿〟の柿羊羹や御萩でも良かったんだけど、行った時には閉まってたから」と名取。

「なんで?」

「ええっと近くまできたし」

「どうして……?」

「受けたところ、この近所なんだって」

「……」

「――残念会。圧迫面接って文化、忌むべき時代錯誤だよな……はっちゃけたわしかし。いやいやいや。そういえば今日、操木も適性検査だったなと……一人だとへこむし」

 決まり悪そうにぽそりと目を合わせないようにして名取が呟く。

「だーれが残念会なんてしなきゃならんのさ!」 

 鼻の奥がつんとする。たかがこんなことで。――泣きたい気分だった。なんだか名取にはメロウな自分を見せたくなくて、返す言葉もつい意固地になる。

「あーっもう、先刻から質問ばっか、入れてくれんの、くれないの?」

「偉そうに言わないでよね。私んちなんだから」

 寒さの所為なのか、俯いて唇を噛んだ名取の身体が少し震えている。

「えっと……」どのくらい、こうして座っていたんだろうか。

「……仕方ない、お行儀良くしなさいよ」

 自分でも少し震える指先で漸く部屋の扉に鍵を差し込んだ。

 瞬間、名取がダブル敬礼を決める。片方のおつかれさま、では足りなくて両手で示す最敬礼。まったく誰が流行らせたんだか。

 身体が冷えたじゃないかーなんてぶつぶつ言いながらも、あっという間に名取はお茶請けに南瓜の煮付けを勝手につまみながら、あたかも自分の部屋にいるかにくつろいで、いつも以上のマイペースを取り戻している。

 先程まで感じた変におちゃらかした様子も消え果て、緊張などすっかり溶けて無くなったみたいに〝レタス倶楽部〟なんか読んだりして。今では却って私の方が緊張しているくらいだ。なんだか決まり悪く、コンタクトを眼鏡に替えるタイミングを完全に失してしまう。

「これ、秋色の焼き菓子だって」

「勝手に見んなーっ!」手を伸ばせば雑誌をひったくれるほどの距離なのについついと声が高く上擦る。

 ――本棚の本を物色されるほうが、素裸を眺められるより恥ずかしいなんて思ったのは初めてだった。――顔から火が出る。剥き出しの心を鷲掴みされるような感覚。そもそもこの部屋に男性が入ること自体、稀有のことだってこと名取は分かってるんだか、はなはだ疑問の余地があるところ。

「キャラメルりんごタルトなんて美味そう」

「……言っとけ」力が抜ける気がして、のんきな声を極力、気にかけないように缶詰を開けるのに専念する。

 オープナーの刃をスチール缶の縁に添わせ、ぐっと力を入れると、プシっという小さな音と同時に甘やかな桃の香りが仄かに立ちのぼる。

 手首をスナップさせる毎にじわりじわりとシロップが溢れ出、蓋を開けきった頃には指がすっかり濡れてしまっていた。さっそく菜箸で桃を陶器の深皿に移し変え、缶詰を傾けてシロップも全部あけてしまう。

 摘み上げた指を伝う雫にそっと唇をあてる。白桃の透明な膚からとろりと滴り落ちる雫、それはまるで背徳的な恋愛小説みたいに官能に溢れ、ぞくりと甘く、そして愛しい。

歯をあてがうと、なんの抵抗も無くさっくり噛みきれ、黄昏の染み込んだ甘い繊維が舌先に絡みつく。

「桃って好きなんだよ。キングソルダムとか。旬の季節は過ぎちゃったけどな」隣りで名取が美味しそうに顔をほころばせながら爪楊枝で器用に白桃を割ってる。

「……なんだか」

 不思議と肩肘の力を抜けるような――

 案外こんな日も悪くない。

「ん、何か言った?」爪楊枝を咥えたまま名取が振り向く。そこには間抜けなほど警戒心もない笑顔。

 今に思えば柄でもないことを言った。

「水蜜桃――お返しに桃の実の季節になったら、リキュールたっぷり使った大家さん直伝の桃のシロップ漬けご馳走してあげる」

 何のあてもなく、口唇を突いて出た不用意な言葉。驚き、狼狽えてしまったのは不覚にも自分の方だった。

 みるみる頬がぽってりと桃色に染まる。汗ばむ手のひら。

 そんな私の様子などいっかな気にする風でもなく、ええ本当? 来年が愉しみーっと名取は子供のように無邪気な声をあげた。

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