初めてのバーは危険な香り(3)

 バーも初めてなら、ジャズも生演奏も初めてだ。


 私の座る席からそう遠くない場所にあるピアノを、カジュアルな格好をした男性が弾き始める。ピアノの前にはボーカルの女性が立ち、その傍には大きな弦楽器を抱えるように持って座る男性がいる。

 バイオリンが巨大化したようなあの楽器、何だろう。チェロに似ているが音色は違う。低音なのに、軽やかなリズムを刻んでいる。


 手が届きそうな距離にいるアーティスト達が、しっとりと歌い、奏でる。その迫力に、雰囲気に、圧倒され、飲み込まれる。


 おそらく口をぽかんと開けて彼らを見ていた私を、クソ男がそっとつついてきた。不思議なことに、それを不快には感じなかった。

 ムーディな音楽に導かれるように彼のほうを見ると、彼は背の高いグラスを手に、乾杯をしようというジェスチャーをした。目の前に視線を移すと、ミルクティ色の飲み物が置いてあった。A女史もすでにグラスを手にしている。


 演奏の邪魔にならないよう、三人でそっと乾杯をした。心地よいリズムに体を委ねながらグラスに口をつけると、コーヒー牛乳がとろけたような味がした。


 ああ、甘くておいしいなあ。甘いお酒を勧められるままに飲んではよろしくないんだっけ。あれ、どうしてよろしくないんだったっけ? 


 グラスが空になると、隣に座る殿方が、次は何にしようかと聞いてくる。艶っぽいボーカルを聞きながら、「はあ、どうもカクテルは分からなくて。でも美味しいですねえ」なんて答える。


 二番目に来たグラスは、柑橘系の色をしていた。これは甘さ控えめで、でもやはり飲みやすい。

 そうだ、カクテルの種類を覚えたいから、飲んでいるものの名前を知っておきたいな。お隣の殿方に聞くと、すぐに答えが返ってくる。



 これは「スクリュードライバー」といってね、ロシアの酒とオレンジジュースでできてんだ。油田で働く男たちが酒とオレンジジュースをドライバーで混ぜて飲んだからこの名前がついたって話だよ……。



 わあ、いろいろ物知りだなあ。そういえば、お酒のことを語りつつグラスを傾け合うデート、なんてのに憧れてたんだっけ。カクテルのうんちくを控えめに語る彼氏なんて、最高にカッコイイ……。



 いつの間にか生演奏は終わっていた。いつの間にか、私は三杯目のカクテルを八割がた飲んでいた。

 隣にいる殿方は、それに気付いたらしく、私に四杯目の飲み物を頼んでくれた。そして、「ちょっと」と言って立ち上がった。


 彼がお手洗いの中に消えると、やおらA女史が「あいつ、食べ物頼む気配ないね」とぼそりと呟いた。そして、私に「どのくらい飲んでるか、分かってるよね」と聞いてきた。


 クールビューティな表情はいつもと同じだが、やや警告めいた彼女の口調に、さきほどまで感じていた不思議な気分は一気に吹き飛んだ。


 私の右隣に座っていたのは、カクテルの逸話を語るお洒落な殿方ではない。馴れ馴れしいだけのクソ男だったはず。


 あれ、何か幻想を見ていたかな。まさか酔いが回っちゃった?


 自分が飲んだのは三杯だ。大丈夫、ちゃんと覚えている。最初のが「カルーアミルク」とかいうコーヒー味で、二番目が「スクリュードライバー」というオレンジジュースで、今飲んでるのが「キール」というワインみたいな色の……。


「それ、基本ワインだから」


 A女史にぼそりと言われて、手にしたグラスを思わずカウンターに戻した。別の客のカクテルを作っていた女性店員が、「さっきおっしゃってたお酒は、みんな十度以上はありますよ」と教えてくれた。


 その当時に好んで飲んでいたドイツワインのアルコール度数が、だいたい十度。友人と外でドイツワインを飲むときはグラス一杯だけにしているし、家で「一人酒」を楽しむときも二杯までしか飲まない。

 あの甘い白ワインと同程度の強さのアルコールをグラス三杯、しかも「いつの間にか」体に入れてしまっていたとは、我ながら信じ難い。酔いはあまり感じないが、己の行動を把握していなかったという時点で、すでに緊急事態だ。


 しかし、A女史は「分かってるならいいよ」と言って、カクテルメニューに手を伸ばした。そして、嬉々として次の飲み物を選び始めた。


 そういえば彼女は、最初から自分の飲み物を自分で頼んでいる。しかも、私よりハイペースだ。彼女こそ、そんなに飲んで大丈夫なのだろうか。

 歩けなくなったら、あのクソ男に介抱される運命だ。バーに行く話を持ってきたのは私だから、何があっても見捨てるつもりはない。しかし、残念ながら、私は小学六年生の体格だ。あのクソ男をぶん投げて先輩を担いで逃げるのは、絶対に無理だ。


 私はよほど心配そうなそぶりをしていたのだろう。A女史はメニューを見たまま、「今日は二十度ないやつばかり飲んでるから、全然酔わないよ」と言った。A女史は、間違いなく、私など足元にも及ばない酒豪だった。

 彼女は、「今日は彼のおごりでいいんだよね」と言ってメニューを閉じると、私にそれを渡し、微かに口角を上げた。


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