初めてのバーは危険な香り(2)


 先輩A女史との交渉に成功してすぐの週末、早速、問題の会合が行われることになった。


 彼の行きつけのバーとやらは、職場の最寄り駅から歩いて十分ほどのところにあるらしい。「××ビルのちょっと裏手のほうだよ」とクソ男は気取って言うが、私は××ビルを知らない。そう言うと、彼は「へえ……」と妙に興味深げな顔をした。いちいち癇に障る奴だ。


 私が最寄り駅周辺の地理さえ把握していないのには、正当な理由がある。

 職場は二つの駅のちょうど真ん中に位置していたため、「最寄り駅」は二つあったのだが、彼の言う「最寄り駅」は、私が普段の通勤で使っていないほうの駅を意味していた。めったに行かない駅の周りを知らないのは、致し方ないところだろう。たとえ、その二つの駅の間が五百メートルほどしか離れていなくても……。

 都心という所は、地下鉄の駅が多すぎる。


 クソ男の話では、そのバーで食事もできるのだという。バーと言ったらキスチョコくらいしか出さないようなイメージだが、彼の行きつけの店は、レストランがメインのダイニングバーというやつなのだろうか。

 大きい店なら、それなりに大きな通りに面しているだろう。地の利のないエリアにあるとはいえ、奴について行ったらいかがわしい歓楽街のど真ん中だった、なんてことには、さすがにならないだろう……。



 初めての「都心」の夜は、それはもう華やかだった。

 高いビルが立ち並ぶ街には、窓灯りが宝石を散りばめたように輝き、四車線の広い道は行き交う車や人で恐ろしく賑わっていた。星のない夜空に浮かびあがる東京タワーが、やけに近く見える。

 まさにテレビドラマそのままの世界。


 そこを、クソ男と先輩A女史と私の三人で歩く。


 人の流れに身を任せるように進み、しばらくすると、首都高速の橋桁を見上げつつ大きな交差点を渡った。横断歩道の先には、待ち合わせ場所として有名な洋菓子店があり、周囲には多くの人が滞留していた。


 男も女も皆、お洒落な服を着て、なぜか金持ちそうに見える。


 クールビューティのA女史も、そんな街の風景にしっくりと溶け込んでいる。ぼんやりしていたら、見失いそうだ。


「ほら、こっち。ちゃんとついてこいよ」


 クソ男に脇から声をかけられ、左肩を叩かれた。やっぱり、大して仲がいいわけでもない私に気安く触るくらいには女慣れしている奴だ。

 不快に思うものの、自分がぼっとしていたのは確かなので、「すいません」と言うしかない。彼は、ほんの少し得意そうな顔を向けてくる。


 ああ、こうやって主導権を握っていくんだ。汚いやり方だ。慣れない状況に置かれるというのは、それだけで不利だ。


 私の「警戒モード」が少し復活したところで、クソ男は突然、細い脇道に入った。

 急に街灯が少なくなり、車も人通りもぱたりと減る。三人で世間話をしながら数回も道を曲がれば、もはや自分のいる場所がどこかすら分からなくなってしまった。


 これはマズい。

 一人では地下鉄の駅までたどり着けない。


 第1話でも書いたが、この当時、スマホはなかった。地図に現在位置を表示して知らない街を歩くという術はない。地の利がなければ一巻の終わりなのだ。タクシーを呼ぼうにも、周辺の地理に疎ければ、自分の居場所を説明することもできない。


 先輩A女史が同行してくれて本当に良かった。安堵した次の瞬間、別の心配が頭をよぎった。

 三人で飲んでいたところで、彼女の帰り道が別だったら、店を出てすぐに私はクソ男と二人だけになってしまう。


 いやいや、どう考えても、私は「そそる」タイプじゃない。童顔で背も低いし、地味な顔に地味なボディだから。女慣れしてる奴なら、間違っても私に物理的な興味を向けることはないだろう。


 いやいやいや、暗くてよく見えなければ、男にとっては、相手の顔も体つきも関係なく、ただ一義的な目標を達成できればいいのか……。


 「都心」の街でありながら、ずいぶん暗い静かな通りを、男の先導で歩いて行く。A女史は平然とついて行く。私に、選択肢はない。



 クソ男は、裏道へ裏道へと入り込み、ようやく、古ぼけたビルのひとつを指さした。五階建ての建物の三階に彼の行きつけのバーがあると言う。

 エレベーターを待ちながら、階段の位置を確認する。退路は常に確認しておかなければならない。



 普通のマンションの一室を思わせる飾り気のない鉄の扉を開けると、確かにそこはバーだった。

 七、八人が座れるほどのカウンター席と、テーブル席が三つほど。窓はない。とても小さな空間だ。部屋の一角にピアノが置いてある。生演奏でもやっているのだろうか。


 店員は二人いたが、どちらもドラマに出てくるようなバーテンダーの服は着ていなかった。

 カウンターの中にいるマスターらしい四十代前半の男性は、チェック柄のシャツを腕まくりしているし、我々三人をにこやかな笑顔で迎えてくれた女性は、ピチピチのTシャツを着ている。彼女は、二十代には見えなかったので、もしかするとマスターの奥さんかもしれない。


 その二人と、クソ男はなかなか親しげに話している。どうやら彼がこの店の常連客であることは嘘ではないらしい。


 クソ男の「エスコート」で、初めてカウンター席というものに座った。こちらは、ドラマで見るのと同じく、椅子の脚が長い。背の低い私は当然足も短いわけで、こういうタイプの椅子に座るのはなかなか大変だ。絵的には、「座る」というより「よじ登る」という格好になる。

 その様子を、右隣にいるクソ男が面白そうな顔で見ている。本当に腹立たしい奴だ。


 一方、それなりに背のあるクールビューティの先輩A女史は、てっきりクソ男を挟んで向こう側に座るかと思ったが、クールな顔色ひとつ変えず、私の左側にさっさと座った。新人の私が真ん中になるように気を使ってくれたのか、クソ男の隣には意地でも座りたくないということなのか、そこは良く分からない。


 カクテルメニューを開いたクソ男は、気取った顔で「何にする?」と聞いてきた。そう言われても、メニューには見慣れない言葉がカタカナで書かれているばかりで、何がどういう飲み物なのかさっぱり分からない。

 その当時は甘いドイツワインが好きだったので、つい「甘いものがいい」と口走ってしまった。


 これは完全に自殺行為だ。


 酒を知らない女性に甘く口当たりの良いアルコールを勧め酩酊状態に陥らせてから×××……、という話はリアルでもドラマでもたくさんある。


 都会知らずの私にそのことを教えてくれたのは、父親だった。私が大学に入学する時、これからは酒の席に顔を出すことも多くなるだろうから、と予備知識を授けてくれたのだ。


 よく考えると二年早いような気もするが、細かいことはさておき、この教えはなかなかに重要だ。

 己の身を守るためには、「自分が何を飲んでいるか」ということ、言い換えれば「何がどれくらい強いのか」ということを、事前に把握していなければならない。「何を飲むか」と尋ねられて自分で選べないようでは、話にならないのだ。

 

 一杯目をクソ男に選択させるというミスを犯した私は、背筋に悪寒を感じるほど戦慄した。

 やはり、私がバーに行くのは十年早かったのか……。


 そんなことを悶々と考え出した時、ジャズの生演奏が始まった。



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