フランダースの三浦

にぽっくめいきんぐ

悲劇なんて望んじゃいない

原作:『A Dog of Flanders and Other stories』

原作者: ウィーダ(Ouida, 1839年1月1日 - 1908年1月25日)

原作発行日: 1872年, イギリス


 フランダースの三浦


 帰郷したネロに、村の子供達が一斉に飛びつきました。みな、キラキラとした憧憬の目で彼を見上げています。

 子供達の瞳に映るネロは、まるで絵画の中から飛び出してきたかのようでした。黒目がちな凉しい瞳に、つややかな髪。

 子供達だけではありません。村人がこぞって集まり、ネロを称えます。

 ネロは、穏やかさと自信とが同居した目で、

「ルーベンスを称えなさい。ルーベンスがいなかったら、今の僕はいないのだから」と言いました。

 その後、自分の右隣にいる老犬に目をやり、

「この犬が、私のたった1人の友達だったのです」と、皆に紹介しました。

 そして今度は、左隣にいる人へと視線を転じ、こう付け加えました。

「今では、友達は2人になりました」と。


  ◆


 15歳の頃のネロには、パトラッシュの他にもう1人、話相手がいました。12歳の女の子、アロアです。

 アロアは、丘の上にある風車の家の一人娘で、粉挽屋を営む父親のコゼツは、村一番のお金持ちでした。

 アロアはよく、ネロやパトラッシュと遊びました。野原で鬼ごっこをしたり、野菊を摘んだり。

 ある日コゼツは、アロアがネロと遊んでいるのを見かけました。アロアがパトラッシュの頭をその膝に乗せ、それをネロが、松のキャンバスに写生していたのでした。

 コゼツは立ち止まり、キャンバスを眺めました。娘のアロアによく似ています。

 ふいにコゼツは、アロアを叱りつけ、家の方へと追いやりました。そして振りかえって、ネロの手から、キャンバスを取り上げました。

「なぜ、こんなばかげた真似をしているんだ」

 ネロは、「僕は写生が好きなんです」と小さい声で言いました。そんなネロに、コゼツは銀貨を差し出しました。

「この金をやるから、絵はワシにくれ」

 するとネロは顔を上げ、

「旦那様、お金はいりません。どうぞお持ちください」そう言って、そこを立ち去りました。

「銀貨があれば、教会の絵が見られるのに。でも僕は、自分の絵を売ることはできない」と、ネロはパトラッシュに向かってだけ、つぶやくのでした。


 その夜コゼツは、妻に話しかけました。

「ネロをアロアと遊ばせちゃだめだ。心配事が起こっても困る。ネロは15で、娘は12だ。それにネロは、なかなかの顔つきでもあるし」

「それにまじめで。結構なことですわ」

「だから女は困るんだ」と、コゼツは怒り出しました。

「あいつは乞食じゃないか。おまけに画家になるなどと自惚れているから始末が悪い。もう決して、アロアと遊ばせてはならんぞ」

 コゼツの妻は、ネロを可愛がっていましたが、気も弱く、コゼツに反論できませんでした。


 こうして、しばし疎遠となったネロとアロア。

 ある日の午後、村への帰り道で、ネロが可愛い人形を拾いました。落し主が分からないので、アロアにあげたら喜ぶだろう、とネロは思いました。

 ネロがコゼツの粉挽屋の前を通った時には、もう夜になっていました。

 アロアの部屋はよく分かっています。ネロは屋根によじ登り、小窓を叩くと、明かりがつきました。アロアが窓を開けて顔を出し、びっくりしています。屋根上のネロは、人形をアロアの手に握らせ、小さな声で言いました。

「お人形だよ。雪の上で拾ったの」

 ネロは屋根をすべり降り、アロアがありがとうを言う間もなく、闇の中に消えていきました。

 そのネロの姿を、偶然見ていた者がいました。コゼツと、時計屋のミウラッシュです。

 時計に限らず機械の修理が得意なミウラッシュは、この日、コゼツに頼まれて、調子が悪くなっていた風車の点検に来ていたのでした。

 油をしっかりさして、風車を回しておけば直るだろう、となったのですが、結果的にこれが失敗でした。風車の回転による摩擦熱により、塗りすぎた油に引火。粉挽場を火事にしてしまいました。母屋は助かりましたが、納屋と大量の麦が焼けました。

 火事で村中は大騒ぎ。保険がかけてあったので大損害は免れましたが、コゼツはかんかんです。

「きっと誰かが、つけ火をしたに違いない」と、コゼツは怒鳴りました。

 この時、ネロも小屋から駆けつけて来ましたが、コゼツは荒々しくネロの肩をつかんで、


「お前は昨夜もこのあたりをうろついていたな。火事に覚えがあるはずだ!」と怒鳴りました。

 ネロは、あまりのことに驚き、口がきけませんでした。

 時計屋のミウラッシュも、コゼツの旦那のあまりの剣幕に、口を出すことができませんでした。

 粉挽屋の主人であるコゼツは、翌日になっても、大っぴらにこの「ネロ放火説」を口にしました。

 村人は、コゼツの言葉を鵜呑みにはしませんでしたが、狭い村で一番のお金持ちに逆っても損です。ネロに親切にしているのをコゼツ見られても面倒だ、と、申し合せたように、ネロを避けるようになったのでした。

 それからというもの、ネロとパトラッシュが、アントワープへ運んでいく牛乳の御用を聞きにまわっても、村の牧場主達は、以前のように親切には計らってくれず、素気なくネロをあしらうのでした。

 コゼツの妻は、涙ぐんで、

「ネロはほんとに無邪気な正直者ですもの。そんな悪いことをする子ではありませんわ」と、おそるおそる主人に言いました。

 しかしコゼツは頑固者。一度、自分の口から言い出したことを、曲げるわけにはいかないのでした。たとえ心の奥底で「ワシが悪かったのでは」と気がついていたとしても。


 ミウラッシュは、自宅で後悔の淵にいました。

 火事の原因は過失であり、結果、ネロに放火の罪をきせてしまいました。強烈な罪悪感が心によぎります。

 ミウラッシュは、ネロとはそれほど深い間柄ではありませんでした。しかし、道でネロ達に出くわせば、「おう! 牛乳運びがんばってるね!」と、フランクに話しかけることはしていました。

 今は、それも許されないような雰囲気に、村中がなっています。

 自分が火を起こした原因であると、申し出るべきなのではないか?

 でも、申し出たら何が起きるか。今、村人がネロにしている仕打ちが、それを明確に示しています。

 人は、容易に態度を翻す。

 そのことを知ったミウラッシュは、誰にも言い出すことができませんでした。


 ネロは、村人にも、ネロのおじいさんのジェハンにも、言い訳をしません。

 でも、いつも一緒のパトラッシュの前でだけは、別です。

「僕の絵が入選したら、村の人達だって、少しは僕に同情してくれるだろう」そう自分を鼓舞しても、パトラッシュとふたりきりの時には、ネロの目から涙があふれるのでした。

 一方、ミウラッシュは、不自由の無い暮らしをしています。しかし、自分の秘密を打ち明けられる者が、そもそも、誰もいないのです。時間が経てば経つほど、本当のことが言い出しづらくなるのでした。


 雪が降り続き、村人は炉ばたに集まります。ネロとパトラッシュは除者でした。

 隙間風の多い小屋で、ふたりはジェハンおじいさんのお守りをします。

 小屋の炉は火が消え冷たく、食卓には食べ物もありません。

 アントワープから毎日、牛乳を買い出しに来る商人が、あらわれたのです。

 商人にではなく、ネロ達の小さな緑の牛乳車に牛乳を置いてくれる家は、減ってしまいました。

 少しの牛乳を乗せた車で、アントワープまで三里の道を行くネロとパトラッシュ。

 この道で、ミウラッシュはふたりに出くわしました。ミウラッシュは、目を背けてしまいました。

 そんなミウラッシュの心情を察したのでしょうか。パトラッシュも、ミウラッシュから目を背けます。ネロは、いつも通り素直に「おはよう」と声をかけます。ミウラッシュは、あいさつもそぞろに、そそくさとすれ違って行きます。

 そんな日々が、しばらく続きました。


 クリスマスが近づきました。寒さは厳しく、雪もたいそう積もりました。村の家々には暖かな御馳走が並び、部屋はクリスマス用に飾られ、笑声があふれます。ネロの小屋だけが、暗く冷たいのでした。

 ネロとパトラッシュは、ふたりきりになりました。クリスマス一週間前、ジェハンおじいさんが息をひきとったのです。寝ている間に旅立ちました。

 夜明けのうす明りで、ネロとパトラッシュはそれを知りました。

 おじいさんは長い間、病床にいました。ネロ達にあげられるのは、親切な言葉と、やさしい笑顔だけでした。その言葉と笑顔も、もうありません。

 粉挽屋のコゼツは、ジェハンの葬式の列が、家の前を通り過ぎるのを見ても、何も言いませんでした。

 小屋に戻ったネロ達を待っていたのは、家主からの督促でした。

 家主である靴屋のおやじは、1月遅れになった家賃を今払え、払えないなら明日限り立ち退け、と、宣告したのでした。ネロ達は、なけなしのお金を全て、ジェハンおじいさんの葬式代として支払ってしまったばかりです。

 その晩、ネロとパトラッシュは、火の気の無い炉ばたで、ただ抱き合って過ごしました。ジェハンおじいさんとの3人の思い出がたくさんつまったこの小屋での、最後の晩でした。


 夜が明けました。クリスマスの前日でした。ネロは震えながら、パトラッシュを抱きしめました。大粒の涙が、パトラッシュの額にかかります。

「パトラッシュ、行こうよ。ね、行こう?」

 ふたりは小屋を出ました。置きっぱなしの緑色の牛乳車は、もう、ふたりの物ではないのでした。

 通いなれた道を、アントワープへと向かいます。村には人影が少し。誰も、少年と犬の方を振り向く者はおりません。

 その日の十二時には、アントワープで、ネロが応募した絵画コンクールの審査結果が発表されることになっていました。

 会場の入口にいる少年達はみな、父母に連れられて来ていました。

 町の大鐘が十二時を告げます。当選の絵は、会場の台の上に飾られています。

 ネロは、目がくらみました。気を静め、もう一度、飾られた絵を見ました。それは、ネロの描いた絵ではありませんでした。やがて、当選した絵は、埠頭場の子、キイスリングの作であることが告げられました。


 ……ネロが気がついた時には、彼は会場先の石の上に倒れていて、彼を正気づかせようと、パトラッシュが鼻をすりよせていました。少し離れた所では、受賞したキイスリングの周りに集団ができ、埠頭場の家まで向かっていこうとしています。

 ネロは立ち上がり、パトラッシュを抱きしめました。

「もう、だめだ。パトラッシュ、もう、何もかも」

 お腹が空いて耐えられない程です。でも、村へ引き返すしかありません。

 ネロの後に続くパトラッシュの足も、もう疲れ果てています。


 雪は降りしきり、北風が吹きつけました。やっとの思いで村に近づいた時、パトラッシュが立ち止まりました。一吠えしたパトラッシュが雪の中から見つけたのは、小さな革袋でした。コゼツという名が書かれており、六千フランもの額が入っていました。ネロは革袋を懐に押しこみ、歩き出しました。パトラッシュも小走りに続きます。

 ネロはコゼツの粉挽小屋へと駆けつけ、戸を叩きました。コゼツの妻は泣きはらしていました。

 事情を聞くと、コゼツが馬で帰宅途中に、大金の入った財布を落としてしまい、今、探しに出かけているとのことでした。

「うちの人が、お前さんに辛くあたった報いが、来たのですよ」と、泣きながら、コゼツの妻が言いました。

 ネロは懐の革袋を取り出し、パトラッシュを家の中に呼び入れてから言いました。

「この犬が、見つけたんです。この犬も老いぼれて来たから、どうかこの犬だけ、宿を貸してやってください。おねがいです。僕の後を追おうとしたら、なだめてやって」

 ネロはそう告げ、犬に接吻すると、止める間もなく、すばやく扉を後ろ手に閉め、闇の中へと走り去って行きました。


 しばらくして、粉挽小屋にコゼツが帰って来ました。どっかと腰を下ろすと、「ああ、もうだめだ」と言って動きません。

 コゼツの妻は、革袋を差し出して、事の次第を話しました。

 話を聞いたコゼツは、両手で顔を覆ってしまいました。

「ワシはあの子に辛くあたった。ワシのような人間が、どうしてあの子の好意を受けとることができようか」と、コゼツはうめきました。

 娘のアロアは、父のそばへやってきて

「ネロはもう、家へ来てもいいのね。明日呼んでもいいのね、昔みたいに」と聞きました。

 娘を抱きしめたコゼツの顔は、涙にぬれていました。

「ああ、いいとも。明日のクリスマスには、必ず招待するんだよ。いつでも遊びに来てもらうといい」

 アロアは嬉しそうに、パトラッシュのもとへ駆けていきました。

「パトラッシュに御馳走してあげても?」

「たんと御馳走しておやり」

 しかし、パトラッシュは御馳走にありつこうとはしませんでした。お腹が空き切っているはずなのに、扉のそばに座りこんだままでした。

「あの子もいないといかんのだな。夜が明けたら、ワシがネロを迎えに行ってやるからな」コゼツはそう言いました。

 やがて、食卓の上には御馳走が並べられ、お客達が席につきました。

 その時でした。パトラッシュは、新しく到着したお客が扉を開けたそのタイミングを見逃さず、開いた扉から、風のようにぬけ出しました。

 この老いたフランダースの犬は、忘れてはいませんでした。かつて、おじいさんと、小さな男の子とが、道ばたで倒れていた自分を救い上げ、見守ってくれた、10年以上もの、遠い昔を。


 ミウラッシュが扉を開けると、1匹の犬が扉めがけて飛んできて、そのまま風のように外へと走り出ていきました。

 家主のコゼツ達から、ミウラッシュは事情を知らされました。

 話を聞くミウラッシュの顔に貼りついた驚きの表情は動揺に変わり、やがて決意の色が取って代わりました。

「どこに行く? 暖かいシチューもあるんだぞ」

 そんなコゼツの声を振り切って、今来た扉をまた開け放ち、ミウラッシュも、外の闇へと消えていきました。


 外は吹雪でした。

 もう夜の十時頃でしょう。ネロの足跡は雪でだいぶ消えて、匂いで足跡を辿るパトラッシュの苦労は大変なものでした。ようやく足跡を見つけても、すぐ消えている。また探し出す。また見失う。何度も繰り返しながら、パトラッシュは吹雪の闇の中を走り続けました。飢えと寒さでよろめきながら、ネロを見つけようと、前に進むのでした。ネロの足跡は、吹雪にかき消されてはいるものの、アントワープへと向かっていることだけは分かります。

 アントワープの町はずれに辿りつく頃には、真夜中になっていました。町も真っ暗で、家の戸の隙間から光が漏れているだけでした。酔っぱらいの歌声がどこかで起こり、そして消えていきました。

 町の中では、ネロの足跡は、通行人の足跡と混じり合っています。辿るのは困難でした。寒さが骨にしみ、足は凍えて傷つきました。しかしパトラッシュは、決してあきらめず、ネロの跡を嗅ぎ求めていきました。

 パトラッシュは遂に、町の中央にある旧教寺院の入口まで、辿りついたのでした。


 外は吹雪でした。

 夜の十時を超えているでしょう。ネロの足跡は消え、人間であるミウラッシュには全く見えません。匂いを辿る鼻もありません。しかし、つい先程出て行ったばかりの、パトラッシュの足跡が残っています。ミウラッシュは、これを必死に追いかけました。

 途中、パトラッシュの足跡があちこち乱れている所が、何度もありました。ネロを探しての行動でしょう。ミウラッシュは、この一寸先も見えない吹雪の夜を、ライトの明かりを頼りに、追跡を続けるのでした。このまっすぐな道は、ネロとパトラッシュが毎日牛乳を運んだ、アントワープへ向かう道です。ミウラッシュは途中でそのことに気付き、パトラッシュの足跡を先読みできるようになりました。老犬とはいえ、犬のパトラッシュに、スピードではかないません。あまり引き離されると足跡が分からなくなってしまいます。ミウラッシュは、早鐘のように拍動する自らの心臓も構わず、走り続けました。

 アントワープの町はずれに辿りつく頃には、真夜中を過ぎていました。町も真っ暗で、家の戸の隙間から光が漏れているだけでした。酔っぱらいの歌声がどこかで起こり、そして消えていきました

 町の中では、パトラッシュの足跡は、通行人の足跡と混じり合っています。辿るのは不可能でした。寒さが骨にしみ、足は転んで傷つきました。

 しかしミウラッシュは、パトラッシュには無いものを持っています。人語を解する耳と、口です。ミウラッシュはあたりの人を片っ端から呼び止めては、

「おい! 犬がこっちに走ってこなかったか?」と尋ねまわりました。

 ほとんどは「さあ?」という素っ気無い返事ばかりで、また、酔った勢いで殴りかかってくる荒くれ者もおりましたが、その中に、目撃者がおりました。犬がつい先程、アントワープの町の中央、旧教寺院の方へ向かったことを、遂につきとめたのです。

 こうしてミウラッシュもまた、旧教寺院の入口まで、辿りついたのでした。


 パトラッシュが到着した寺院の門は、扉が閉じていませんでした。求める足跡は、そこからてんてんと白い雪を落として奥へ続いていました。その白い一筋を辿って、聖堂の入口まで来ると、倒れているネロを見つけました。パトラッシュは、よろめくようにかけより、ぴったりと顔をすり寄せました。

 ネロは身を起こし、犬を抱きしめながらささやきました。

「パトラッシュ、可哀想なパトラッシュ。ふたりで一緒に死のう。世界の人は、もう僕達には用が無いんだ。ここで、横になって死のう」

 パトラッシュは、ネロの胸にその頭をおしつけました。ふたりは、しっかりと抱き合って、横になりました。

 建物の広い内部は、野ざらしよりも寒さがひどいのでした。触れるものを凍らせずにはおかないような強風。体はしびれ、眠気が襲って来て、ふたりは次第に気が遠くなっていきました。

 ふたりの心には、過ぎ去った、楽しい日のことが、たくさん浮かびました。

 白い光が、聖堂の中を照らしました。いつしか雪は止み、雲を逃れた月の光が、2つの名画を照らしました。ネロが憧れてやまない、ルーベンスの「キリストの昇天」と「十字架上のキリスト」です。ネロは、かすかに残る力で立ち上がり、両手を絵に差し出しました。感極まった涙が、その青ざめた頬にあふれ落ちました。

「僕は、とうとう見た」少年は叫びました。「神さま、もうこの上は何もいりません」

 ふるえる膝で身を支えながら、なおもネロは喰い入るように、荘厳な絵に見入りました。

 やがて月は雲に隠れ、聖堂には再び闇が広がりました。ネロの両手が、再び犬の体を抱きました。

「神さまのお顔が見えるだろう? あそこに」ネロの唇の動きは、もはや、かすかなものでした。

 ふたりに、天からのお迎えが迫りました。


 寺院の門は開いていました。ミウラッシュが中に駆け込むと、少年と犬が抱き合って倒れていました。寄り添ったまま、動きません。

 ミウラッシュは、血が凍る思いでした。あわてて駆け寄り、ネロの頬を何度も叩くと、「ううん」という、とても弱々しい、かすれた声が返って来ました。

「まだ、かろうじて息がある!」ミウラッシュの心は、一気に沸騰しました。

 建物の広い内部は、野ざらしよりも寒さがひどく、ネロ達の体温を容赦なく奪っていきます。まだかろうじて息があるのは、ネロとパトラッシュとが、離れずに寄り添っていたからでした。ふたりは、お互いの残り少ない体温で、相手を暖めていたのです。

 しかし、その熱ももはや、風前の灯火と思われました。既に真夜中。これから助けを呼びに行く間に、ふたりはきっと、凍死してしまうでしょう。そう思ったミウラッシュは、懐から、マッチを取り出しました。

 ミウラッシュの心には、過ぎ去った、ある日の過ちが、浮かびました。

 あの日。自分が最初から白状していれば、このふたりは今も、村人の暖かい見守りを受け、貧しいながらも、幸せな毎日を送っていたはずです。

 そして、その幸せが、もう、すぐそこまで、訪れようとしているのです。

 このふたりは、お互いだけを頼りに、やってきたのです。そしてこれからも、ふたりは一緒であるべきなのです。この世界で。命の続く限り。


 ミウラッシュは外に出て、教会外庭の小枝を折り取り、枯れ葉を採取し、急いで戻ると、枯れ葉に火をつけました。この種火を小枝に燃え移らせて徐々に大きくし、たき火を作りました。薪の代わりに教会内の木製いすも火にくべて、大きな火を作り、ネロとパトラッシュを暖めました。

 火は隙間風に揺らいで、2つの名画を照らしました。名画の中のキリスト様は、まるで動き出したかのような躍動感に満ち、キリスト様がかつて、我々の罪を代わりに背負ってくださったことを、ミウラッシュに思い起こさせました。


 夜が明けました。既にお昼を過ぎたアントワープ。人々が、寺院に集まっています。

 ミウラッシュが昨夜つけた火は、やはり燃え広がったのです。火事騒ぎを聞きつけ集まった群集の中には、コゼツの一行が混じっていました。


 コゼツの村で昨夜、ライトを持った男が、アントワープへ続く道へと消えていくのを、目撃した村人がおりました。コゼツはその村人の話を聞き、早朝に村を出発。アントワープに着いて一休みしていたところ、なにやら寺院の方が騒がしかったのです。

 そのコゼツの目には、毛布にくるまれて眠ったままのネロとパトラッシュ、そして、その前に座っている、すすまみれのミウラッシュとが見えました。

 コゼツがミウラッシュに近寄り、話しかけると、ミウラッシュは、わんわんと泣き叫びました。


 旦那様申し訳ありません。あの夜、粉挽場を火事にしたのは私です。

 風車にさした油に、引火したのです。

 このことを話せば、どのような仕打ちを受けるか、怖くて、怖くて。ずっと言い出せずにいたのです。

 そのせいで、ネロとパトラッシュをここまで追い込んでしまったのです。

 それだけではありません。私は、この教会にも火をつけました。

 ふたりを救うには、それしか無かったのです。

 私は罪深き人間です。


 それを聞いたコゼツには、一瞬、怒りの色が見えましたが、その色はすぐに収まりました。

 コゼツは地面に両膝をつき、すすだらけになったミウラッシュの頬に両手をかざしました。


 ミウラッシュよ。ワシが悪かったのだ。

 ワシは、ネロを悪者にしてしまった。素直な良い子であったのに。

 途中でうっすら気付いていたのに、言い出せなかったのだ。

 そのワシの傲慢さを、神は罰したもうた。非は、ワシにあるのだ!


 コゼツの瞳にも涙があふれました。


 まだ目覚めないネロとパトラッシュ。しかし、体温はだいぶ回復してきました。このふたりを、コゼツが引き取ることになりました。


 そこへ有名な画家がやって来て、言うのでした。

 コンクールは、本当の値打から言えば、この子が選ばれるべきだった。あの夕暮れのきこりの絵。あの絵には天才のひらめきがあった。将来、きっと優れた画家になれる子だ!


 そこへ、教会の者達がやってきて、放火の件で、ミウラッシュを連れて行こうとしました。

 コゼツは「しばし待ってくれ。ワシも一緒に行かねばならぬ」と言いましたが、これをミウラッシュが制しました。

「旦那様、私は、償いをしてまいります。旦那様はどうか、ネロ達のそばに、ついていてあげてください」

 そう言って、ミウラッシュは連れて行かれました。


 その日の夕刻。

 太陽はオレンジ色にアントワープを照らし、鐘の音が鳴りわたり、華やかに着飾った人々は、往来に群がって、よろこんでいます。

 ミウラッシュは、教会を取り仕切る、査問官長の前へと連れて行かれ、審問を受けました。

 教会の、延焼を免れた薄暗い一室で、ミウラッシュはひざまずき、法衣をまとった査問官長を見上げました。

 ミウラッシュは、包み隠さず、全てを審問官長に話しました。

 事情を聞いた審問官長は、厳しい表情で言いました。

「教会に火を放つなど、断じて許されない。たとえ、人死にも出ず、また、少年を救うのが目的であったとしてもだ。しかも、この地の偉大な芸術家、ルーベンスの絵画を危機にさらすとは」

 ミウラッシュは何も言わず、頭を垂れて目を閉じ、審問官長の言葉を、ただただ受け止めています。

「しかし……そなたは、老犬を救った。そなたが火を放たなければ、少年と共に、老犬もまた、凍死していただろう。その功績に比べれば、教会に火を放ったことなど、とるに足らないことだ」


 審問官長の予想外の言葉に驚いたミウラッシュは、はっと目を開けて見上げました。

 目の前には、審問官長の、やさしい笑顔がありました。


 あの「犬公方」として知られた江戸幕府第5代将軍、徳川綱吉の生まれ変わりの「ツナヨッシュ」の笑顔が。



〈了〉

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