第3話;再挑戦

 妙な期待感を抱き、待たされ、焦らされる毎日を送っていた。新学期のせいではない。あの日の冒険から数日が経った。だけど以来、小百合ちゃんからのお誘いがない。忘れられたのか、母親が僕を警戒しているのか…それとも、妖精の挨拶が来ないだけなのか…?彼女は部屋の真下にいるのに、その距離を遠くに感じる。何気に自販機へ足を運んだり、夜には山を眺めて蒼い光を探してみたり…。昔買ってもらった本を開いたりして、春休みを過ごしていた。


 本とは…世界中の幻想生物を紹介した、図鑑のようなものだ。幼い頃に父親が買い与えてくれたもので、当時は毎日のように開いていた。

 中学生になった頃には…ファンタジーの世界は好きだったものの、本を開く事はなくなった。引越しの荷物を纏めている時に見つけ、捨てずに新居に持って来た。

 冒険に向かった晩に荷物を解いた僕はその本を、本棚の一番見え易い場所に保管した。


 自ら小百合ちゃんの家に行く事は気が引ける。また遊びに行くと約束したものの、『もう1回妖精を探しに行こう!』と、小学生の女の子を誘う事はおかしな話だ。母親が警戒しているかも知れない事も気に掛かる。知らなかったとは言え門限を破り、暗くなるまで小百合ちゃんを外で遊ばせた。

 でも…あの日以来、僕の冒険心には火が付いてしまった。未だに2人の性格を飲み込めていないし、どう対応したら良いのかも分からない。だけど、また一緒に冒険したいと言う気持ちでいっぱいになっていた。…何だかんだで僕は幼い。体格だけは充分大人だけど、いや、下手すれば中年親父だけど、頭の中はまだ大人になりきれず、ファンタジーな話を嫌いになれない。



 今日も何かしらの期待と不安を抱きながら、何気に家を出る。例の自販機へ向かい、飲みもしないジュースを眺めては時間を稼ぎ、広場に向かい、彼女の姿を探す。

 広場で遊んでいるのは幼い子供達で、側には母親達の姿も見える。彼女と同じ年頃の子供は見当たらない。もう、こんな場所では遊ばないのだ。勿論、裏の山でも遊んでいない。それぞれの家で、テレビゲームにでも夢中なのだろう。女の子は勿論、野球やサッカーをしている男の子の姿も見当たらない。

 …当の小百合ちゃんは、冒険をしない日はどう過ごしているのだろう?母親の世話をしているのだろうか?昼も夜も関係なく窓から山を眺めて、妖精からの挨拶を待っているのだろうか?…ここ数日、彼女の事が頭から離れない。


「あら、井上さん家の…」


 ベンチに座って広場を眺める僕に、年配の女性が声を掛けてきた。隣に住む、深川さんの奥さんだ。引越しの当日、母親と挨拶に行った時に知り合った。


「博之君…だっけ?ここ、座らせてもらうわね?」


 深川さんは隣に座り、僕と同じく広場で遊ぶ子供達に目を向けた。


「羨ましいわね…子供達…。私には子供がいないから、たまにこうして遠くから眺めるのが楽しみなの。本当はね、あの子達の相手をしてあげたいんだけど…最近の母親は近所付き合いが疎かで、私から声を掛け辛いのよね…。」


 その言葉に、広場の母親達へ目を向ける。子供が若いから当然だけど、母親達の年齢も若く見える。20代半ばから後半ぐらいで、母親同士の会話は見られない。子守も適当な感じだ。確かに僕が幼い頃は、もうちょっと母親同士の会話や付き合いがあった。自分の子ではない子供も、一緒に面倒を見たり叱ったりしてくれた。だけど広場に集まる母親達は子守よりも、自分のお洒落と若作りに必死だ。

 後で母親から聞いた話だけど、深川さんは過去に病気を煩わして、子供が産めない体になってしまったらしい。旦那さんのサポートもあり、今は幸せに暮らしていると言う。ちなみに旦那さんは、僕とは無縁な名門大学の、有名な教授との事だ。


「子供と言えば…小百合ちゃんって子、ご存知ですか?同じ棟の、1711号に住んでる…」


 引越し当日に冒険に誘われ、半日の子守をした事を話した。深川さんが子供と遊びたいなら、彼女に声を掛けてみては?若しくは既に、彼女の相手をしたのでは?と思った。


「あぁ、小百合ちゃんね。可愛い子でしょ?博之君、もうあの子に誘われたんだ?」


 深川さんの返事は早く、その一言で色んな事を知った。だから僕は、更に色んな事を質問してみた。彼女の事に関して、色々と聞き出したかった。


「あの子とは、2回ほど山に登ったわ。2回とも…妖精を探しにね。でも私には、ちょっと山登りがきつくて…。」


 深川さんは母親と同じくらい年配の方で、ただ病気を患ったせいか対照的に、過ぎるくらいに痩せている。確かに、山登りはきつい作業かも知れない。


「楽しかったんだけど、やっぱり山登りの後は調子が悪くなってね…。そしたらね、小百合ちゃんが私に気を遣って、『おばちゃん、今度は私の家に遊びに来て!』って言うの。『妖精と友達になったら一緒に山から下りて、家で待ってる』って…。『それまで待っててね』って言うの。」


 それ以来、彼女は深川さんに会う度に『ゴメンね。まだ妖精さんと会えないから、もうちょっとだけ待ってね』と、申し訳なさそうに謝るらしい。


 僕は、あくまで自然体を心掛けて幾つかの質問を続けた。深川さんは話し相手が欲しかったのか、彼女が可愛くて仕方がないのか、僕を警戒する事なく何でも話してくれた。

 深川さんの病気は完治したのだけれど、少しでも養生出来るようにと、自然が多いこの地域に、2年前に越して来た。それから間もなく、彼女と冒険に出掛けたらしい。深川さんは優しい人だ。現実離れした小百合ちゃんの夢を受け止め、上手に相手をしている。

 小百合ちゃんの母親の事も聞きたくなった。彼女のファンタジー好きは百歩譲ったとしても、あのような子育てはどうか?と思ったからだ。母親が教えた、ドラゴンに関した話はかなり受け入れ難い。小百合ちゃんは10歳…。そろそろ、幻想の話から卒業しなければならないのだ。

 結局、教育方針に関しては聞き出せなかったけど、母親の事情を少しだけ知る事が出来た。深川さんは、親子共々知った顔同士なのだ。彼女は病弱で肺に問題を抱えており、週に1度顔を伺えたら良い方で、殆どの日は家で過ごしていると言う。小百合ちゃんも冒険をする日以外は母親の下を離れず、いつも一緒に過ごしているとの事。

 父親の話は聞けなかった。僕が家にお邪魔した時にも、父親の姿は見えなかった。


「大体…1ヶ月に1回かな?小百合ちゃんが冒険に出掛けるのは。2日連続で冒険する時もあれば、2ヶ月以上、冒険に行かない時もあるんだって。小百合ちゃんは妖精からの挨拶がない限り、自分から山へは行かないのよ。」

「……。」


 続く深川さんの話に安心した。どうやらこの棟の人達は彼女に優しいようだ。深川さんはこれまでに2回しか相手していないにも関わらず、彼女の冒険スケジュールを把握している。住人同士のネットワークがあって、皆で彼女に協力しているのだ。僕が変質者に見られる事もなくなった。でも一番安心したのはそこではなく、彼女は僕を避けていた訳ではなかったと言う事だ。冒険に誘ってくれないのは、妖精からの挨拶がなかっただけなのである。…多分。


 僕は再度、小百合ちゃんと冒険したがっている自分を確認した。でも、その理由は不確かだ。冒険遊びがしたいのか、ただ彼女と遊びたいだけなのか…。言える事は、僕だけでなく彼女の相手をする人全員が、彼女が持つ不思議な魅力にまんまとはまってしまっていると言う事だ。


「あぁ、ちょっと無理をしちゃったわ。私、そろそろ帰るわね。まだ、あんまり無理をしちゃいけない体だから。」


 深川さんが席を立つ。僕も腰を上げ、お礼と挨拶を兼ねて頭を下げた。おかげで色んな事を聞けたし、心も晴れた。


「博之君。」


 立ち去る前に、深川さんがこう語った。


「早く妖精を見つけてね?私、とっても楽しみにしてるから!」


 そしてニコッと笑い、家に帰った。

 僕は深川さんを見送った後、力が抜けたように腰をベンチに落とした。


(…………。)


 数日前、僕を惑わせたあの感覚が戻ってきた。小百合ちゃんがここにいるなら話は分かる。彼女の夢は壊せない。だけど僕しかいないこの場面で、あたかも妖精は実在するかのように振る舞う必要があったのだろうか?


(やっぱり引越しを機会に、知らない世界に越して来たのか…!?)


 頭の中を整理する為に、もう1度広場を見渡す。子供達と、側で携帯電話に夢中な母親達を観察する。出掛けもしないのにお化粧をして、生活感がないファッションをする彼女達の姿を見て、僕は頭に浮かんだあり得ない可能性を消し去った。


「先日は、うちの小百合がお世話になりました。」

「!?」


 何とか頭の中をすっきりさせたと同時に、今度は深川さんが立ち去った方向とは逆の方向から、聞き覚えがある声が聞こえた。驚いて振り向くと、小百合ちゃんの母親が立っていた。


「あっ…。こちらこそ、ご迷惑をお掛けしました。」


 もう1度腰を上げ、彼女に挨拶をする。そして表情が気になった。彼女は、深川さんよりも疲れて見えた。天気は今日も肌寒い。


「お体、大丈夫ですか?」

「ええ、用事がありまして…少し外出しましたの。家に帰ろうとしたら、博之さんの声が聞こえたもので…。」


 彼女はそう言い、持っていた買い物かごをベンチに置いた。

 僕は挨拶の後、彼女から目を逸らした。深川さんとの会話を聞かれていたかも知れない。…気になるけど、ばつが悪く聞き出す事が出来ない。


「小百合の事ですけど…」


 少しの沈黙が続いた後、彼女の方から話を切り出した。


「不思議な子だとはお思いでしょうが、良かったら相手してやって下さい。無理にとは言いません。お時間やご都合が宜しければ、あの子の遊び相手になって下さい。」


 彼女はそう言うけど、僕には目の前にいる彼女が不思議だった。ドラゴンの件が頭を横切る。


「私は、あの子がしたいと思う事をやらせてあげたくて…。ただ、私が無理を出来る体ではないので、ご迷惑でしょうけどここに住む方達に、あの子の遊び相手をお願いしていますの。」


 彼女は、具合が悪いのを隠すように話した。早く家に帰してあげたかった。まだ聞きたい事があるけど、1つの心配事はなくなった。それだけで充分だ。


「お体に触りますから、今日はもう…。僕は、意外と楽しかったです。小百合ちゃんも素直で可愛い子ですし…。実を言うと僕もどうやら、ファンタジーの世界がまだ好きみたいで…。また小百合ちゃんと遊べるのを、楽しみにしています。」


 僕は何気に、『本当に遊び相手になっても良いんですか?』と言う意味合いの返事をし、彼女の帰宅を急がせた。


「ありがとうございます。また今度、家に遊びに来て下さい。小百合も、きっと喜びますから。」


 すると彼女は精一杯の笑顔を作り、体の向きを家に向けた。僕は手仕草で帰宅を促した。


「博之さん…」


 しかし彼女もまた数歩歩いて立ち止まり、こちらを見て話し始めた。


「ファンタジー…。確か、幻想って意味ですよね…?博之さん、幻想かどうかは、まだ分かりませんよ?小百合が本当に妖精を見つけた時は、その時は…信じてくれますか?」

「……。」


 僕は、またまた惑わされた。彼女は言葉を続ける。先ずは返事を待った後、返事が出来ずに戸惑う僕に笑ってこう言った。


「信じてあげて下さいね?約束ですよ?そうすれば小百合も喜びますし、私も嬉しい…。」

「……。」

「あっ、後それと、多くのドラゴンは火山でしか生息出来ません。しかし残念ながら、日本の火山に彼らはいません。ヨーロッパやアフリカ辺りの、人が余り足を踏み込まない火山に生息しています。彼らは人間が嫌いなのです。博之さん、お勉強が足りませんよ?」


…。

……。

………。もう…勘弁してくれ~~~!




「………。」


 多くの収穫と、それ以上に大きな疑問を抱えて家に戻った。夜になり、夕食を済ました僕は、まだ残っている引越しの荷物を整理する事にした。

 本棚を整理し始めると、例の本が目に入る。僕は手を止めてその本を開き、ドラゴンのページを読んでみた。


『ドラゴン。

 見た目が蛇のような、日本やアジアで知られる竜とは違い、肩幅もあり、恐竜やトカゲにその姿は似ている。つまり彼らの生息地はヨーロッパ、若しくはアメリカに限定される。(日本を始め、アジア地域で広く知られる竜、若しくは龍は、西洋で言うドラゴンとは種類が違う。)

 また、ドラゴンは彼ら独自の言語や文明を持ち、それは人間のものを凌駕する。秀でた頭脳だけではなく特殊な能力も持っており、鳥や蝙蝠のような羽を操って空を自由に飛び回り、口から吐き出される熱や火、冷気や光線は、強力な武器として扱われる。そして彼らが扱う独自の言語で唱えられる呪文もあり、それは火や氷の雨を降らし、竜巻や大地震などの天変地異を起こさせる。

 彼らは極端に人間を嫌っており、人がドラゴンと遭遇する事は、つまり死を意味する。』


 おぞましい解説の他に、様々な姿をしたドラゴンの絵が描かれていた。羽毛をまとった、鳥の姿にも似たドラゴンや、トカゲに似たオーソドックスなドラゴン…。大きさや肌の色、質も様々だった。


 僕は、数年振りに本を開いた。そしてドラゴンは、確かに日本にはいないようだ…。


(彼らが人間を嫌い、未開の土地を好むのは…彼らよりも頭脳や文明が低いにも関わらず、広く繁殖した人間を忌み嫌っての事か…?)


 そんな推理をしながら、何故ドラゴンは火山に住むのか?と言う疑問にぶつかった。また本ではアメリカ…しかし小百合ちゃんの母親は、アフリカで彼らを見かけると言っていた。


「………。」


 本を開いたまま、あらゆる推察をして可能性を考える。だけど、それがとても現実離れしたものである事に気付き、やっと我に返った。


(僕は、何を真剣に考えてるんだ…?)


 本を閉じ、荷物の整理を再開した。


 荷物の整理は数十分で終わった。正確に言えば大体の場所に荷物を移し、細かい整理は明日以降にする事にしたのだ。

 深呼吸をして、台所へと足を運ぶ。何かで喉を潤したかった。しかし残念ながら冷蔵庫には、飲み物どころか食べ物もない。ふと1階の自販機を思い出す。…気が進まない。こんな時間に会うはずがないだろうけど、小百合ちゃんや彼女の母親の姿を想像してしまう。もう、頭の中がいっぱいだ。現実離れした話を聞く事は勿論、2人の顔も見たくない。先ずは、頭の中を整理したかった。


 冷静になって考えよう。僕の幻想好きを前提に、今日までの会話が正しいものだったかどうか、判断してみるべきだ。

 この棟に、小百合と言う名の女の子がいる。幻想の世界が好きで…いや、信じていて、妖精やドラゴンのような生き物と会いたがっている。…ここまではOKだ。

 そして彼女の夢を壊さないようにと周囲には協力者が多く、一緒に幻想の生き物を探しに出掛けたりもする。僕が出会ったのは2人。彼女の母親と、隣に住む深川さん婦人だ。…と、これもOKだ。

 だがしかし彼女達は僕の前でも、僕しかいない状況でも、あたかも幻想の生物は実在するかのように振る舞う。

 ここだ!ここがおかしい!彼女達の行動原理が読めない。僕の前では、もうちょっと現実的な話をしても良いのでは?小百合ちゃんを騙す感じで、『子守、頑張ってね』とか、『こう聞かれたら、こう返せ』のような会話で良いはずだ。それなのに聞かされた話と言えば、『妖精を見つけたら会わせろ』だの、『ドラゴンはヨーロッパにいる』だの…。ここがどうしても解せない…。

 少し前まで住んでいた場所の、よく知る人達に同じような話を聞かされたら、迷わず馬鹿呼ばわりしているはずだ。環境が変わり、僕の中の幻想好きが再度目覚めた。不思議な女の子と出会ったからだ。…それだけだ。ただそれだけなのに、当たり前な反応が出来ない、あり得ない話を、否定出来なくなった僕がいる。


(…そうか、そうなんだ…。)


 今までの僕なら、そんな幻想話を信じなかった。鼻で笑って一蹴した事だろう。それが出来れば悩んだりする必要もない。僕が今、こうして頭を悩ませている理由が分かった。

 僕は、彼女達の話を否定出来なくなっている。少しでも信じている自分がいるから…これまでの僕がそれとぶつかり、悩んでいるのだ。


(…?いや、違うぞ…。)


 悩んでいる理由は充分に分かった。でもこれは、求めている回答ではない。僕が知りたいのは、周囲の人達までもが小百合ちゃんのように、幻想の生き物が実在する事を前提に話をするのか?…だ。一瞬だけ頭がすっきりしたのに、また何かに引っ掛かり混乱し始めた。


「無理!理解不能!」


 僕はベッドに飛び乗り、早く眠りに就こうとした。羊は数えなかった。頭の中で羊がドラゴンに変身して、その巨体で柵を越える姿を想像したくなかったからだ。代わりに新学期からの事を想像した。新しいクラス、新しい担任や級友、春になると学校中に咲き乱れて散る、桜の光景を想像した。




 そして次の日、眠気が覚めない朝を迎えた。喉も乾いていた。冷蔵庫には何もなかった事を思い出し、寝間着のまま1階の自販機へと向かった。


 突然だが、僕は炭酸飲料が大好きだ。特に朝一番を、乾いた喉をそれで潤す事は最高だ。喉に痛みを覚えながら、むせ返るような圧力を押し殺して一気に飲み干す。そして汚らしい話だけどお腹に溜まったガスを、長く大きなゲップで吐き出すのが日課になっている。

 ラグビーをしていた頃は、炭酸飲料は禁物だった。炭酸が骨を溶かし、弱い体を作ると言われていた。許されたのは、誕生日や催事がある時だけだった。親に内緒でこっそり飲みもしたけど、僕自身が噂を信じていたのでそんなには飲まなかった。だけど今は、この話が事実無根な迷信だと判明している。それからと言うもの、僕には歯止めが利かなくなっていた。勿論、母親も文句を言わない。


 家を出て、エレベーターに乗る。直ぐ下の階を通る時、緊張が走った。緊張の理由を思い出した僕は自販機までの道程を、警戒しながら歩いた。だけど幸いにも、自販機周辺には誰もいない。安堵の溜め息を吐き、お気に入りの炭酸飲料を買い、その場で蓋を開ける。350ミリの、ほぼ全てを一気に飲み込む。1口、2口…いつものペースで飲んでいた。


「あっ!お兄ちゃん!」

「!!」


 突然の呼び声に、口に含んでいた炭酸飲料を全て吐き出した。顔は水浸しになり、胸元までが濡れた。喉はむせ返り、大きな咳を何度も繰り返した。


「さっ、小百合ちゃん!?」


 真後ろではなく、彼女の背丈に合わせた角度で振り向いた。そこには間違いなく、彼女の姿があった。服装は先日と違っていたけど、見覚えがあるリュックサックを背負っていた。


「お兄ちゃん、大丈夫??」

「う、うん…。」


 どうにか声は出せたものの、咳がまだ止まらない。彼女は心配そうな声を掛けてくれるけど、声のトーンと態度が違っている。早く、次の言葉を掛けたくて仕方がないのだ。

 僕は…治まりかけていた咳を無理から続けた。時間稼ぎがしたかった。それでも咳は治まってしまう。背筋を伸ばし、深呼吸をした。それを確認した小百合ちゃんが、予想通りの言葉を掛けてきた。


「お兄ちゃん!妖精さんに、会いに行かない?昨日、妖精さんから挨拶されたんだ!」

「………。」


 それは…待ちに待った言葉だった。そしてまた、聞きたくない言葉でもあった。

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