第34話アートタイム

「ふう……これで洗い物は終わりですね」

 きゅっと。

 蛇口の水を閉め、最後の食器を乾燥かごにしまいます。

 手早く調理台の上を拭き、濡れた手をぬぐうと、私は一息つきました。

 

「さてと……。片付けは、こんなところでしょうか」

 やり残したことはないかと、ぐるりと厨房を見回します。

 と。


「え……あれ?」

 厨房の奥。

 冷蔵庫の、その横に。

 何の変哲もない扉があるのが目につきました。

 ごく自然に、ひっそりと存在している、その扉。


 ですが、それは明らかにおかしいのです。

 なぜならこの厨房に、そんな扉は今までなかったのですから。


「な……何ですか? ウロさんのいたずらですか?」

 ウロさん聞いたら、人聞きが悪い、と怒られそうなことを、ついつぶやいてしまいます。

 ……そういえば、蛇さんの耳って、どこについているのでしょう。

 

 そのとき。

 キィ……と微かな音を立てて、扉がわずかに開きました。

 それはまるで私に、入っておいでとでも言うかのように。

 扉の向こうからは、嗅ぎなれない、何か不思議な匂い。


 普通ならばこんな扉は気味悪く思い、避けようとするのかもしれません。

 けれど私は、避けることはできません。逃げることもできません。

 私には、私が過ごすのは、この場所しかないのですから。


 それに、嫌な雰囲気は感じませんでした。むしろ、引き寄せられるかのようで。

 私は、そこに行かなければならない。

 そんな直感に導かれるように、その扉へと足を踏み入れました。

 

***


 ほの暗い一本道を歩くことしばし。

 行き先に、一つの扉がありました。


(おや……この感じは、前にも経験があるような……)

 おそるおそる、その扉を開けると。


「わあ……!」

 目に飛び込んで来たのは、鮮烈な色彩。

 赤、青、緑、黄、紫、橙……。

 めくるめくような、冴え冴えとし、あるいは混在した、色の断片が、その部屋からあふれるように、視界へと押し寄せました。

 その源は、そこら中に散らばった絵の具。

 そして、おびただしい数の水彩画、油絵、デッサン。

 額縁に入り、あるいは無雑作に投げ出されたそれらは、瑞々しく彩られ、その部屋を鮮やかに染め上げています。 

 そして、インク、絵の具、それに紙や、キャンバスの匂い……。


「あれえ? シュガーちゃん?」

 いきなり名前を呼ばれ、驚いて振り返ると、そこには。

「フィーニスさん!」

 ウロさんのお友達の、フィーニスさんが、目を丸くして私をみつめていました。

「驚いたなあ……まさか、自力でここまで来ちゃったのかい?」

「自力で――って、やっぱりここはフィーニスさんの道なんですか?」

「そうだよ。僕が居たから道がつながりやすくなってたんだろうけど――きみは、もうそこまで、この空間になじんでいたんだね」

「あの、私……、知らない扉を見つけて、気になってつい……」

「ふふ。きみの行動力を甘く見ていたってことか。――かまわないよ。ちょうどいい機会だ。紹介しよう。――アート! ちょっと来てごらん!」

 そんな風に、部屋の奥に向かって、フィーニスさんが声をかけると……。


「ああ! もう、何だっていうんだよ! 今いいところなのに!」

「はは、悪いね。でも、きっときみも気に入るから。来てごらんってば」

「フィーニスが来るといつもこうだ……。僕は絵を描いていたいのに――」

 奥から嫌々そうにゆっくりと歩いてきたのは、

 目をみはるほどの輝きを放つ長い金髪と、深い海のような紺碧の瞳をもつ、美しい青年でした。


 その方は、私と目が合うと、一瞬絶句されました。

「あの。は、はじめまして。私は、シュガーと申します」

 おそるおそる、ご挨拶をすると。


「月夜のすみれ草だ!」

 目を丸くして、叫ばれました。

「……は?」


「月の光を紡いだように静かに光る銀色――、砂糖菓子みたいにふんわりした髪の毛、やわらかいすみれ色の瞳……なんて綺麗なんだ。まるで静かな森の奥にほのかに光る一輪の花みたいな――」

 ぼう然としたようにつぶやくと、その方は猛然とフィーニスさんを振り返り、問いかけました。

「ちょっと、フィーニス! この子だれ!?」

「その子が今自分で自己紹介しただろうアート……。シュガーちゃんだよ。きみと同じように、この子はお菓子やさんを営業している」

「シュガー! いいね、よく似合ってる。はじめましてシュガー! 僕はアートだよ!」

 そういうとがっしりと握手をされます。

「は、はい。はじめまして……」

 私が目を白黒させていると、

「びっくりさせてごめんね。アートは綺麗なものに目がないから……。きみのことも気に入ったんだろう」

「失礼だな! 僕は綺麗なものだけが好きなんじゃない。魅力的なものは全て好きだよ。雄雄しい美や、寂しげな美というのもある」

「はいはい。ようするに節操がないんだな」

「なんて言い方をするんだ!」


 節操がないかどうかはともかく……たしかに、アートさんのその空間は、数え切れないほどの絵画で極彩色に彩られていました。

 しんとした深い森や、幻想的な海の中、ほとばしるような激しさを感じる抽象画、吸い込まれるような透明感のある人物画、切ないほどの懐かしさを覚える風景画――。

 ありとあらゆる美が、そこにあるようでした。


「本当に、魅入ってしまいます……」

次々に並んで、あるいは積み重なっている絵画に見とれながら、ふらりと歩いていた私は、ふと足を止めました。

「鏡……?」


 ふと、壁のある一面に視線をとられたのです。

 なぜでしょう。

 そこには、銀色に光る一枚の――。


「いえ……鏡では、ありませんね。これは――」

 まるで鏡のような美しいしろがね

 丸く切り取られ、そこだけが月光を受けてまばゆく光る銀盤。

「――湖」


 そこには、一枚の風景画がありました。

 木々に囲まれ、月夜の下、静かに存在する、湖。

 その風景に、なぜか私の心は大きく動かされ、そこから視線を外すことができなくなりました。

 動くことが、できなくなりました。


「それ、気に入った?」

「アートさん」

 近づいてきたアートさんにも気付かず、声をかけられて、慌てて振り向きます。

「はい……とても、綺麗で――」

 いえ、違います。

 ただ綺麗なだけなら、他にも綺麗な絵はいっぱいあります。

 この一枚だけが、なぜ特別だったのでしょう。


「うん。いいね。この絵は君に、とてもよく似合ってる」

 考える私をよそに、アートさんは絵と私を見比べて、ひどく満足そうにしています。

「気に入ったのなら、持っていくといいよ」

「ええっ!?」

「君のお店には、この絵はよく映えるだろう。君のイメージにもぴったりだ」

「でも……こんな素敵な絵」

「気にしないで、シュガーちゃん」

 フィーニスさんが言います。

「もともと、きみたちの交流は物々交換が目的だ。きみは絵を飾り、その代わりにお菓子を提供する。ギブアンドテイクだ。それがきみたちのお店に来る、お客様のためにもなるんだよ」

「なんだかフィーニスにそういわれると、思惑に乗ってるみたいで気に入らないな」

天邪鬼あまのじゃくな……」

 とたんに言うアートさんに、フィーニスさんは呆れ気味です。

「冗談だよ。シュガー、君にあげるって言ったのは本当だ。君のそばに、その絵を置いてあげて」

「……はい。ありがとうございます。アートさん」

 そうしてその絵は、私のものとなりました。


***


 ティーさんの紅茶。ムジークさんの音楽。そして――アートさんの絵画。

 新しく加わったその仲間を壁にかけ、私はもう一度それを見つめます。

「綺麗……それに」

 ……それに?

 それに――なんでしょう。


 私の思いは空回る一方で、その銀盤は、ノン・シュガーの店内に、あつらえたようにぴったりと収まり、輝いていました。

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