第三話

「お母様!」

 背後から聞こえた声に、騎士団の編成を急いでいたネルゴットは振り返る。そこにいたのは小柄な少女、ネルゴットの一人娘であるネミールだ。

 周りでは完全装備の騎士たちが走り回り、耳障りな金属音と怒鳴り声でうるさい。

「イヴュル帝国が本当に攻めてきたの? 戦争になるの?」

「戦争じゃないわ。ちょっと山賊たちをやっつけに行くだけよ」

「私も行く! 私もつれてって!」

「それは無理。危険すぎるもの」

「どうして! やっぱり私が魔法を使えないから……?」

 ネミールは強く下唇を噛み、今にも泣きそうな顔で母親を見つめる。ネルゴットは微かに笑い、ネミールの髪を撫でた。

「心配しなくていいわ。知っているでしょう、私が強いってこと」

「そうだけど……帝国は三千人もいるんでしょ?」

「大丈夫。私の力で三千だろうが五千だろうが蹴散らしてみせるわ」

 ネルゴットの言葉には、それだけの自信があることを十分に理解できるだけの力強さと確信が込められていた。母親の強さを知っているネミールは、彼女のその言葉が嘘ではないとわかる。それでも心配になるのは仕方がないことだった。

 ネミールは涙目で、ネルゴットは優しい笑顔を向け合っていると騎士の声がした。

「ネルゴット様、騎士団と傭兵達の準備ができました!」

 ネルゴットの表情が一瞬で引き締まる。さきほどまでの優しい母親の顔は消え、一人の騎士の顔となった。

「では行こう」

「お母様……」

 すがるようなネミールの声に返事をせず、最後にもう一度髪の毛を撫でてネルゴットは規則正しく整列する騎士たちの前へ歩いていく。騎士が引いてきた馬に、颯爽と飛び上がり鞍へ跨る。

「目標は敵三千、イヴュル帝国軍! 詳細は不明だが騎士の数は少ないようだ。おそらく半数以上は傭兵か徴兵した農民たち。恐れることはない。私達の財産を奪う山賊どもなど、さっさと片付ける! 勧め!」

 馬上のネルゴットがさっと手を振ると、騎士たちが剣や槍を掲げて歓声をあげた。

「開門!」

 城壁に取り付けられた巨大な門が徐々に開いていく。全開になるとなると、隊列を組んだ騎士たちが行進して外へ出て行く。門は大きく、二十人が横に並んだ状態でも楽に通ることができるほどだ。

「お母様……」

 ネミールは一人、その勇壮な後姿を見守ることしかできなかった。


 次の日の朝、ネミールは寝不足ではっきりしない頭であくびをしながら目を手で擦る。母親のことが心配でなかなか眠れなかったのだ。

 ベッドで体を起こしてぼうっとしていると、部屋のドアが開いてメイドが入ってきた。メイドの名前はアイリーン。幼少のころからネミールの世話をしている。十年以上仕えているはずだが、少なくともネミールが物心ついたころから外見は変わっていない。

「おはようございます、お嬢様。よくお眠りに……はならなかったようですね」

 アイリーンの手には温かいお湯が張られた容器と、柔らかい布があった。これはネミールの洗顔のためのものだ。それをベッドのすぐ横にある小さな台へ置いた。

「どうぞ」

 ネミールは無言で布団から抜け、ベッドの縁へ移動して顔を洗う。その様子をアイリーンは笑顔で、どころか陶酔した表情で見ている。

「ああ、よい目覚めのはっきりしたお顔もいいですが、寝ぼけ眼でだらしない雰囲気のお嬢様は格別です! ほつれた髪も素晴らしい!」

 行き過ぎたネミールへの忠誠心と愛情以外は、メイドとしてアイリーンはかなり優秀だ。 

「……お母様は?」

 ネミールの言葉に、溶けていたアイリーンの顔が真顔になる。

「何も報告はありません。まだ帝国側と接触はしていないでしょう。心配することはありません。ネルゴット様は無事に帰ってきます」

「私も……お母様みたいに魔法が使えたら連れて行ってもらえたのかな……」

 痛みに耐えるかのように眉間へしわをよせて容器の水面を睨むネミールに、アイリーンは沈痛な眼差しを向ける。しばらく静かな時間が過ぎると、にわかに城が騒がしくなった。

「何があったのでしょう?」

 じっとしていることができず、ネミールはベッドから飛び降りて走り出す。

「お嬢様! まだ着替えが終わっていません! 髪の毛も!」

 アイリーンの叫びは耳に届かない。必死でネミールは音がする方向へ走る。城の外から音は聞こえるようだ。窓からの景色が見え、足を止める。その眼下には何百人もの武装した人間達が見えた。追いかけてきたアイリーンも横に並ぶ。

「あれは……」

「掲げられている旗の紋章は、隣のノゴ領のものですね。昨日援軍を要請して今日ですから、迅速に対応してもらえたようです」

 ノゴ地方領はここエル地方領のすぐ西に隣接している。特徴は広大で肥沃な平原で、ボラス王国の主な食料である麦の一大生産場所だ。騎士団の人数も段違いで多い。

「しかし、早すぎる気もしますね。早くても四日はかかると思っていましたが。あちらの領地は広いので、領主様の場所までは片道二日はかかりますし。領主様への報告は後回しにして、町の騎士団の方が対応してくれたのでしょうか? でもたしか、あちらの方とは良好とは言えない間柄だった気がします」

 アイリーンの言葉は通り抜け、ネミールは武装した騎士たちを凝視していた。良く見ると騎士の数は少ない。ほとんどは装備がバラバラな者、傭兵たちだった。騎士は町の守護の要だ。それを出すことを惜しみ、そのかわりに傭兵達を多く派遣したのだろう。

「あ、もうすぐ出て行くようですね。昨日のうちに出発しましたから、ネルゴット様たちに追いつけるのでしょうか? ……お嬢様?」

「私も行く」

 ネミールの言葉に、アイリーンは聞き間違いかと思い問いかける。

「今、なんと言いましたか?」

「私もお母様のところへ行く」

「危険です! ネルゴット様は帝国の兵士達と戦いに行ったのですよ!」

「心配なのっ!」

 ネミールの自らを傷つけるような痛切な叫びに、アイリーンは言葉が出ない。

 目には零れ落ちそうなほど大量の涙をため、唇は固く引き結び、握り締められた両手は震えている。それは子供が癇癪を起こしている様子ではない。母親が傷つけられ殺されるかもしれないという恐怖、そしてその母親を助けに行くことができないという自分の弱さへの怒りが抑えきれず、全身からあふれ出していた。

「しかし、お嬢様……」

「私が行っても何もできないってわかってる! でも、でも! もしお母様が死んだら、私の知らないところで死んじゃったりしたら! そう思うと怖くて怖くて仕方がないのっ! お願いアイリーン!」

 叫びながら頭を振り回したことで、髪の毛がボサボサになってしまったエミールをアイリーンはじっと見つめる。ネミールはついに涙が零れ落ちた瞳を逸らさない。

 負けたのはメイドだ。いや、敬愛する主人の願いを断ることなどメイドたる彼女には最初からできなかった。ふっと唇をほころばせる。

「わかりました。準備しましょう。私達が出るのは彼らが出発してからしばらく後にします。見つかると面倒ですから」

「ありがとう、アイリーン!」

 感激のあまりネミールはアイリーンへ飛んで抱きつく。

「お、おおおう! お嬢様が自分から抱きついてっ! しかも、薄い寝衣装で! ああ、薄い布一枚隔ててお嬢様の肌が、胸が、腰が、へそが! ここは天国です!」

 今にも鼻血を噴出しそうな夢見心地で、アイリーンは人生最良の時間を味わっていた。

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