間章『天才少女』

にこり、と花が開くように彼が笑う。つられるようにして、彼を囲む大人達が笑った。彼女はそれを御伽噺のような、素晴らしく美しい光景だと思ったし、だからこそ同じように微笑んでみたのだけれど、彼女の心臓にはその時刺さった冷たい棘が、未だ深く刺さったままになっている。





がばり、と身を起こす。そこが幼少より慣れ親しんだ部屋でないことに気がついて肩を震わせ__次いでその場所が最近慣れ始めた学寮の自室であることを認識して肩を撫で下ろした。

そっと己の手を見下ろして、拘束痕が消えていることを確認する。ベッドからするりと降りた後窓の外を覗くと既に日は高く、普段の起床時間から考えるとだいぶ寝過ごしていたらしい。

クローゼットから地味なワンピースを見つけて身につけた。普段であれば侯爵家の令嬢としてもう少し良い物を選んだだろうが、どうせ今日はまだ部屋から出ることはできないのだし、見るとしても侍女として一緒に入学することになったベルタだけであるのだから、外面的には特に問題ないだろう。

静かに椅子を引いて腰掛ける。引きこもり二日目にしてはやくもやる事がなかった。つまりは暇だ。授業に遅れてはいけないと開いた教科書は既に一通り読んで予習まで終わってしまったし、図書室で借りていた本は昨日の時点で読み終わってしまった。

(昨日、)

フェレーナは眉を寄せた。


『君が無事で良かったよ、フェレーナ嬢』


熱の籠らない、作り物の様な、紅玉の瞳がフラッシュバックして、フェレーナは震える。季節はまだ春で暖かい。特段薄着をしているわけでもないのに体が震えるのは、生物としての本能的な恐れからだろうか。

甘やかでいてその実突き放す様な色を過分に含んだ声色の、男の冷たい美貌を思い出した。





「やぁ、フェレーナ嬢」

昨日__つまりフェレーナが何者かに攫われてその後速やかに保護された次の日という事だ__早朝訪ねてきた男は温度のない顔でにこりと笑ってフェレーナを見た。こんな朝早くにレディの部屋を訪れるなど紳士としてあるまじき行為で、被弾されても文句の言えない行為であったのだが、エンゲルハルトこの男の身分と立場がそれを許さない。

「おはようございます、殿下」

嫌味を言う様に、声に棘が混じったのは流石に許されてしかるべきだった。エンゲルハルトもそこには触れず「ああ」と頷く。

「昨日は災難だったね」

「ええ、ですが素早い対応のおかげで大事はありませんでした」

「それは良かった」

「それはそうでしょう。これでも何かあると面倒事が増える身分ですもの。何もないに越したことはありませんわ」

「うん。それに君は義姉になるかもしれない人だからね」

何かあったら大問題さ、とエンゲルハルトは肩をすくめる。いつもは気にならないであろうオーバーな動作に苛つきを覚えたのは単に時間帯の所為もあっただろうが、兎に角フェレーナは苛ついて、話を急かした。

「それで、犯人はどうなりましたか」

そのことについて話しにきたのだとばかり思っていましたが。フェレーナの厳しい視線がエンゲルハルトへ向かうが、相手は気にした風もない。「ああ、そうだったね」と笑った。

「君が思っている通り犯人はうちの貴族だよ。先程使者が迎えにきてね、こちらで知りたいことはもう聞き出しているから後は兄上に預けた。あの人にも無関係な話ではないしね」

「そうですか」

「うん。君が攫われた理由も見当がついてるだろうけど、兄様関連だよ」

「でしょうね」

「おや、反応が薄い」

「仰っていた通り見当はついていましたから」

「そうかい。流石侯爵家が誇る才女。深窓の天才少女といったところなのかな」

その言葉に含まれた嫌味を正確に理解して、フェレーナは頬をひくりと引きつらせた。

「初日の事は、出来れば忘れてくださいませ」

「そうかい。君が言うならそうしてやるのも吝かではないよ」

フェレーナはにこやかな顔を崩さないままのエンゲルハルトからどうにも逃げ出したくなったのだけれど、残念なことにここは彼女の部屋で、彼女は二日ばかりの安静を言いつけられていて、逃げる事は許されていなかった。

「それにしても、大事な娘を態々兄様の嫁に、だなんて君のお父上も面白い人だ」

「弟がいますから。最悪私がいなくても侯爵家は成り立ちますもの。それに父も立場というものがありますから」

ほんの数年前に産まれた弟は、現在周囲からの期待を一身に背負い、後継としての教育を受けている。母が彼を産むギリギリまで、フェレーナが受けていたのと同じそれを、時に小さな唇を尖らせながら受ける彼が可愛くて、どうしようもなく憎い。

父はと言えば、第一皇子派でも第三皇子派でもない中立で、それを示すために数年前まで手塩にかけて育てていた娘を差し出してしまった。フェレーナに否と言う権利は無いに等しく、また"良い子"でいればまだ父が褒めてくれることを知ってしまっていたから、ただ人形のように従った。

そんな、決して良い思い出のない話を、そうであると見透かした上で振ってくるこの男が、義弟になるかもしれない男が、フェレーナはどうにも苦手だ。怖いと言ってもいい。

「それじゃ、」

言いたい事は終わったとばかりに出て行こうとするエンゲルハルトに安堵して頭を下げ、彼の去り際の一言でまた体を硬直させた。

「君が無事で良かったよ、フェレーナ嬢」

その言葉をそのままの意味で取ることができなかったのは、きっとフェレーナの所為ではないはずだ。





(思い出さなければ良かった……)

自分の行為に自分でダメージを受けて、フェレーナは机の上に突っ伏した。行儀は悪いが人目もない自室なので勘弁してほしい。


コンコン


不意に響く控えめなノックがフェレーナの思考を現実に戻す。

「フェレーナ様」

聞こえた声はベルタのものだったので、フェレーナは入室を許可した。

「お加減は如何ですか」

「問題はないわ、元々大事をとっての休養だもの」

「そうですか…………良かった」

ベルタは心底安心したように短く息を漏らして、それから手に抱えていたバスケットからサンドウィッチを取り出して食事の準備を始めた。遅めの朝食か、早めの昼食か。


ベルタは幼い頃からフェレーナに付けられた侍女だ。昔はただの遊び相手だったが。フェレーナに対して誠実で素直だが思い込みが激しい節があり、猪突猛進癖がある。本人はそれを特に問題に感じていないらしいのだが、これからもその調子では困る。何せ彼女はフェレーナの嫁入りにも付いてくる予定だからだ。学園に入学して少しは距離ができ、客観的に見れるようになるかと思えばそうでもなく、ベルタは変わらない。普段通りの笑顔に心底安心している自分も自分である、とフェレーナは自嘲した。


それに、ベルタだけだったのだ。弟が生まれる前と後で、自分に対する態度が変わらなかったのは。父も母もフェレーナよりも弟を優先して(それは後継を育てるものとして決して間違ったことではなかったけれど)、フェレーナの方なんか、見向きもしない。時たま振り向いたかと思うとフェレーナが如何に侯爵家の令嬢として強かに美しく在らねばならないかという講釈が始まる。その上いつ命を狙われてもおかしくないような立場に立たされた。それで素直に応じた娘を見て「よくぞ頷いた、流石私の娘」等と鷹揚に笑う父に安堵して、そう、そんなことでも彼の関心が自分に向いたことに安堵していた。一番であると、良い子であると父が関心を向けてくれるのだと思って、自分にそうあることを強いて、それで、それが叶わなかった入学初日の失態がアレだ。馬鹿だったと思う。焦っていたのだと思う。悲しかった。寂しかったのだとも。だけれどもそれは、他の誰かに不当にぶつけるべきものではなかった。あの、緑の目の青年に。

酷く後悔して、混乱して、だけれどやはり自分に強いたものがそれすら許さなくて悶々としていた。それでもベルタは変わらず側にいてくれた。そんな彼女を大切にしたいと、攫われた時に改めて考えた。掛け替えのない存在であると改めて認識して、それから反省した。

思考のきっかけになった青年に謝罪と感謝を。フェレーナのそれとは少し色味の違う美しいグリーンの瞳を思った。


「そういえばですね、ヴェーラー殿はやはりまだフェレーナ様のことを気にして、私が申し上げたというのに、全く、」

「__ベルタ?」

耳に入ったのはちょうど今思い浮かべていた青年の名前で、フェレーナはベルタの言葉にストップをかける。フェレーナのことを気にして・・・・・・・・・・・・・私が申し上げた・・・・・・・? あの、如何にも排他的な青年がフェレーナのことを気にするなんて何かの冗談か? 初日に突っかかった時素気無くかわした彼が?

「どういうことか話しなさい、ベルタ」

貴女彼に、何を言ったの。





話を聞いてフェレーナは頭を抱えた。

(主従揃って! なんたる無礼! ああ、もう、)

謝罪の項目が増えてしまったことに項垂れて、フェレーナは明日のスケジュールを頭で確認した。何としてでも彼に、直接会って謝る必要があった。

隣でおろおろとするベルタを見やる。昔から変わらない彼女は自分にとって貴重な財産だけれども、

(思い込み癖だけは早急に、何とかする必要があるわね)






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天才少女フェレーナ=ウルレドの溜息

__(それ__でもな__んでも__)(朝__日は登__る)________

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