第16話 そっちの入り口

山辺やまべさん、きょうだいがいるとは聞いてたけど、みんなで四人とはね。驚いちゃった」

 「東京都人並区」の事務所で美蘭みらんに声をかけてくれた女の人は、ワンボックスカーの一つ前の席に座り、まじまじと花奈子かなこたちを見た。本当は、全然似てないわね、とか思っているんだろうけど、そういう態度は出さずにいる。

「そういえば、まだ自己紹介してなかったわね。私、新田にった純子じゅんこです。あなたが美蘭さんで…」

「こいつが亜蘭あらんで、こっちが花奈子」

 美蘭は一番後ろのシートの真ん中で足を組み、おまけに腕も組んで一人半のスペースを確保している。亜蘭はその隣で窮屈そうに寝る体勢に入っていて、花奈子は隅っこに小さくなり、事の成り行きを見守っていた。

「うちらマジあんまり似てないし。お母さんは一人だけどお父さん三人だから。あたしと亜蘭だけ同じ父親で、あとバラバラ。お母さん、マジ誰とも結婚してない。全員に逃げられたからね」

「そうなの?山辺さん、あんまりお家の話はしなかったから、全然知らなかった」

「マジ自慢できる話じゃないし」

 いつの間にか車は高速道路に入ったみたいだ。運転席と助手席はどちらも若い男の人で、途切れ途切れに何か話しているけれど、こちらを気にしているようにも見える。そして運転席の後ろにはお父さんぐらいのおじさんが座っていて、この人は車が出てすぐに眠ってしまった。その後ろで半分こちらを向いているのが新田さんだ。

「じゃあ、おうちでは山辺さんがお父さんの役目をしてたのかしら。あの人、すごく優しいし、頭もいいしね。美蘭さんたちにも頼れるお兄さんだったんでしょ?」

「まあね、お母さんよりは」

 お兄ちゃんのことを知らない美蘭が、お兄ちゃんの話をしている。それは何だか不思議な感じだった。そして、頭がいい、はともかくとして、すごく優しい、という新田さんの言葉はまるで別人の事のように思えた。

 まあ確かに、花奈子はお兄ちゃんとまともな喧嘩をしたことがない。それはしかし、優しいという事とも少し違っていて、正直なところ、避けているのに近かったような気がする。

 六つも離れているんだから仕方ない、と言えばそれまでだけれど、花奈子が小学校に上がった頃には、お兄ちゃんは塾やなんかで毎日忙しかった。ゲームで遊ぼうといえば、三十分ぐらいはつきあってくれるけれど、あとは「勉強」と自分の部屋に引き上げてしまうのだった。

 花奈子にとって拓夢たくむがとても大切なのに比べて、お兄ちゃんにとって花奈子は、別にどうだっていい存在なのかもしれない。今日これから、もしお兄ちゃんに会えたとして、花奈子だと判ってもらえるだろうか。もう忘れてしまったんじゃないだろうか。

「そいで、お兄ちゃんまだ仕事見つかってないわけ?研修って、マジお金もらえるの?」

 美蘭は足を組み換えながらそう尋ねた。新田さんは少し困ったような顔になって、「研修って、何ていうか、心の土台作りみたいなものでね、まだ働いていないと思うわ」と言った。

「マジ?そいじゃここにきた意味ないし」

「でもね、お兄さん、私が最初に会った時は、随分疲れてたのよ。弱っていたって言うか。ここを頼って来る人って、けっこうそういう状態の人が多いの。無理して悪い条件で働き続けたり、ちゃんとした食事してなかったり、家がなくてあちこち泊まり歩いてたり。まあ、私も似たようなものだったけど」

「働き過ぎって感じ?」

「そうね。私の場合は、前に勤めてた会社の、上司のパワハラが凄くて」

「それ何?」

「ん、正しくはパワーハラスメントって言うんだけど、要するに、強い立場の人がその権力を使って弱い立場の人に嫌がらせをする事よ。学校でいえば先生と生徒とか、先輩と後輩みたいな関係ね。

 私は毎日のように、お前みたいな無能者見たことない、給料泥棒、なんて怒鳴られてたの。おまけにサービス残業ばっかり。それでも正社員で雇ってもらえるのはまだマシだと自分に言い聞かせてたんだけど、お婆ちゃんが亡くなって、お葬式のために三日ほど帰省したら、なんだか目が醒めたみたいになったの。私どうしてこんなひどい生活を耐えてるんだろう、人生一度きりなのにって」

「へーえ」

「それで、ここに相談して、結局仕事は辞めたんだけど、もう心も身体もボロボロになってて、髪の毛もごっそり抜けちゃって、なのに今の倍ほど太ってたの。顔も吹き出物だらけだったし。体調が戻るのに半年以上かかったわ。

 その間に研修をうけて、何ていうのかな、そういう、パワハラに服従しちゃう自分の性格なんかも見直したりしてね。色々問題ある人って、そうやって立て直してから社会復帰しないと、また同じような事になる可能性が大きいから」

「でも、お兄ちゃんは家じゃ仕事の話とかしてないし、マジどんなだったか知らない。てか、マジ死んだみたいにいっつも寝てたし」

「そうよね。働き過ぎちゃうと、仕事以外のエネルギーなんか残らなくなるのよ。東京都人並区って、奇妙な名前だと思うでしょ?これはせめて人並みの生活を取り戻したいっていうみんなの願いなの。だから今、大阪とか名古屋でも人並区を作る準備をしていて、将来は全国的な組織にする計画なのよ」

 熱っぽく語る新田さんとは対照的に、美蘭は「はーん」と、気の抜けた返事をした。

 花奈子はじっと黙って二人の会話を聞いていた。お兄ちゃん、家で引きこもってただけで、新田さんみたいに一生懸命働いてたわけでもないのに、どうしてそんなに疲れきってたんだろう。何がそんなに苦しかったんだろう。

「おめー、車酔いかよ」

 いきなり、美蘭の肘が脇腹にくいこんできた。顔を上げると彼女の視線にぶつかる。それは「大丈夫?」という目だった。

「そんなのするわけないし」

 ぐいぐい押し返す感じで身体を立て直す。しっかりしなきゃ。

 そう思いながら花奈子はぼんやりと前を見つめた。フロントガラスの向こうには、真っ青な空とがらがらの道路が続いている。何だか夢の中みたいな光景。先を行く車は随分と離れていたけれど、自動車ではないようにも見えた。

 あれ、何だろう。

 軽自動車にしては幅が狭いし、バイクにしては大きすぎる、黒いもの。よく見るとそれは、道路の真ん中で動かず、じっと留まっているのだった。なのに、運転席の男の人は全く気にしない様子で車を走らせる。

 その奇妙な物体は、あっという間にフロントガラスの前に迫り、レモンイエローに光る一対の眼がこちらを見た。

「ぶつかる!」

 そう叫んだはずが、気がつくと美蘭の掌が口を塞いでいる。ツゴモリの黒い大きな身体は、フロントガラスを一気に突き抜けて車の中にいた。

 花奈子を抱え込むようにしている美蘭を、更に押し潰すように、頑丈な顎がのしかかっている。さっきまで窓にもたれて眠っていた亜蘭は、身体を傾けたまま、目だけはちゃんと開いてこっちを見ている。なのに他の人たちは誰も、ツゴモリに気づいた様子がない。

「おひさしぶり」

 目の前に鋭い牙が並んでいるというのに、美蘭は怯むことなく、囁くように笑顔で挨拶した。ツゴモリはそれを無視して花奈子を睨むと、「お前は自分がこれからどこへ行くか、判っているのか」と言った。まだ美蘭が口を塞いでいるので、花奈子は小さくうなずくしかなかった。

「このまま行けば、お前は兄の消息を知るだろう。ただし、望まない事をも知ることになる。そして今までの自分でいることは、もはや叶わなくなる。引き返すなら今だ」

 望まない事。

それは、どういう事だろう。ふと、口を押えている美蘭の手が緩んで、彼女と目が合った。もし美蘭なら、ここで迷ったり不安になったりしないだろう。今、大事なのはお兄ちゃんに会う事だ。今までの自分でいられなくなると言っても、それはつまり、万物は流転す、っていう事で、当然の結果じゃないだろうか。

「このまま行く」

 花奈子が少しかすれた声でそう答えると、ツゴモリは首を引いて身体を起こした。その頭は車の天井につかえそうだ。よく見ると片方の前足は美蘭の肩を押えつけていて、彼女の白い首筋がツゴモリの身体を流れる黒い模様の中に透けて見えた。

「いいだろう。では行け」

 それだけ言うと、彼は消滅した。

 今のは一体何?そう尋ねようとする花奈子に軽く目配せをして、美蘭は後ろを指さす。慌てて身体をよじり、窓から外を覗くと、遠ざかる道路の上にツゴモリが立っていた。

 真夏の太陽の下、彼の身体だけが切り抜かれたように真っ黒く浮き上がっている。その姿はやがて、車がカーブを切るにつれて見えなくなった。

「今のは何?どうしてみんな平気なの?」

 花奈子ができるだけ小さな声できくと、美蘭は「見えてないんだよ」と答えた。

「あれが?見えなかったの?どうして?」

「見ようとしないから」

 そして美蘭はツゴモリが押さえつけていた肩と首筋を指先で撫でると、「気持ちいいんだ、ひんやりして」と笑った。そして自分の笑い声に、しまった、という顔になって「おめーが寝ぼけてるだけだろ」と、また花奈子の脇腹を肘で押した。


 研修所、というのは、とりたてて何ということもない、横に広がった三階建てのビルで、花奈子の街のすこやか健康センターを一回り小さくしたような感じだった。

 周りは住宅地で、前の道路にはバスも走っている。建物の裏手に広い駐車場があって、屋根つきの駐輪場には自転車や原付が何台も停まっている。

 車を降りて表に回り、自動ドアの玄関を入ると、右手にはカウンターのついた小さな部屋があり、中で誰かが電話をかけている声が聞こえた。

「マジこっちの方が、事務所より立派だし」と、美蘭が率直な感想を述べると、新田さんは笑って答えた。

「まあ、この規模の建物が街なかにあれば言うことないんだけど。ここね、倒産した会社の研修所だったの。競売にかけられたのを、うちの幹部の家族が買って寄贈してくれたんだって」

「は?寄贈?人並区って、マジ大金持ちがヒマつぶしでやってんの?」

「そういうわけじゃなくて、まあ善意の寄付よね。おかげさまで、住む場所がない人とかの一時避難先になってるし、私もお世話になったことあるのよ」

「ふーん。で?お兄ちゃんはどこにいるわけ?いつ会える?」

 美蘭がそう訊ねると、新田さんは少し困ったような顔になった。

「今日はあなたたち、欠員の出たボランティアの代わりってことにしてあるから、とりあえず作業をしてほしいの。研修中の人は自由に外の人と会えない決まりになってるから」

「嘘、マジで金もらわずに働けって?」

「そんなに大変な仕事じゃないわ。午後から始まるイベントの準備よ。ほら、そこに出てるでしょう?」

 そう言って彼女が指さした先の掲示板には、「つながるサマーナイト 語り合おうみんなの明日」と書かれたポスターが貼られていた。

「他のNPOとの交流とか、弁護士やライターを招いたパネルディスカッションとか、夜までやるの。近所が住宅地だから、賑やかにやれないのが残念だけど。昨日は都内で前夜祭的なデモがあったのよ」

 じゃあ多分、花奈子がバスから見たのはそのデモ行進だったのだ。そこへ、廊下を曲がってきた男の人が「新田さん、第二集会室が担当だから、昼前に終わらせてね」と声をかけて通り過ぎた。

 

「ほら、ちゃんと二人分働けよ。あたし悪阻で気分悪いから。妊婦ってマジ大変」

 美蘭は長椅子の上に横たわり、肘枕をついて指図している。言われた亜蘭は黙々と、新田さんがホワイトボードに貼っていった図面通りに折り畳み椅子を並べていた。花奈子もそれを手伝っていたけれど、一応おとといから何も食べていない設定なので、そんなに張り切るわけにもいかない。

 車を運転していた男の人と、助手席の人は他の仕事があるみたいで、さっき居眠りしていたおじさんだけが、一緒に椅子を並べている。

 他にも準備に来ている人はいるらしくて、ひっきりなしに廊下を誰かが通り過ぎるし、スピーカーで「会議室の最終チェックお願いします」という連絡が流れたりする。

 そんな作業もあと二列で終わり、というところで新田さんが戻って来て、「お昼休みにしましょう。これ、お弁当とお茶」と、白いポリバッグを置いていった。

「うっわ、マジ一番安い海苔弁だよ。不動産買う金あるのに、マジ食費はケチってるし」

 美蘭はまっさきにお弁当の蓋を開けてそう叫んだ。亜蘭は「悪阻で気分悪いのに食うのかよ」と突っ込んだけれど、「ばーか、あたしのは食べ悪阻っつって、食わないとマジ気持ち悪いんだよ」とやり返されている。

 本当のところ、悪阻ってどんなのかな、と思いながら、花奈子は海苔弁当を食べ始めたけれど、何だかこうしてはいられないような、落ち着かない気分で喉がつかえる。

 もう食べられないや。

 三日前から絶食中という設定のお芝居とはうらはらに、花奈子はこっそりお弁当に蓋をしてしまった。ところが美蘭は目ざとくそれを見つけて「おめー半分しか食わないのかよ」と不満顔だ。

「なんか、もういらないし」

「あれだな、ロクに飯食ってないから、マジ胃袋縮んだんだな。よかったじゃん。これからおめーの食費、マジ半分で済むわ」

「つうか、だったら俺が食うし」

 亜蘭が花奈子の手からお弁当を奪い取ると、すかさず美蘭が「馬鹿、あたしに半分よこせ」とひったくる。

 一緒に来たおじさんは、その間も黙って食事を続けていた。この人がいるせいで、花奈子たちはずっと貧乏きょうだいのお芝居を続けなくてはならない。でも正直いって、意外と楽しかったりする。本当に美蘭がお姉さんで、毎日賑やかにご飯を食べられたらいいのに。

「あのさ、余計なお世話かもしれないけど」

 いきなり、おじさんがぼそっと言った。

「妊婦さんは、カフェインとらない方がいいと思うよ」

 ちょうど緑茶のペットボトルをごくごく飲んでいた美蘭は、うさんくさそうに「はあ?」と聞き返す。

「緑茶とかコーヒーとかって、カフェインが入ってるだろ?そういうの、お腹の赤ちゃんによくないんだよ」

「うるさいな、おっさん保健所の回し者かよ。あたしはマジこいつ産まないから、カフェインでもヘロインでも気にならないし」

「うん、それは君の自由だけど、後で気が変わって、やっぱり産みたいってなった時に困るかと思って」

 おじさんは何だか奇妙に真剣だった。でも美蘭は「マジ気なんか変わるわけないし。金でも貰えるなら別だけど」と、また緑茶をがぶ飲みした。

「貰えるかもしれないよ」

 空になったお弁当箱をポリ袋に入れながら、おじさんは低い声でそう言った。

「何?金?マジ子供産んだら?」

「君はそのお金のことが聞きたくて、人並区に相談に来たんじゃないのか?」

 美蘭が返事をする前に一瞬の間があって、彼女の眼が光ったように見えた。

「さあね。お兄ちゃんは、ここに来れば貧乏人はマジ助けてもらえるって言ってたけど。それがつまり金がもらえるって話?」

「残念だけど、何もせずにお金なんか貰えない」

「だろ?マジ無駄な期待させんなって」

「ただし、君がもしその子を産めば、まとまったお金が貰えるだろう。子供と引き換えという条件だけれど」

「へーえ」

 美蘭は口元についた緑茶の雫を手の甲で拭うと、獲物を狙う猫みたいな顔つきで「マジいい話じゃん。人並区の誰と話つけたらいいんだよ」と尋ねた。

「人並区は、そういう話とは無関係だ」

「は?言ってることマジ矛盾してるし」

「まあ、表向き無関係、って事だよ。実際にはお金の話はこんな感じで、雑談からこっそりと始まる。

 あなたは子供を産めるような経済状態じゃないかもしれないけれど、世の中にはお金があっても子供に恵まれないご夫婦もいるんですよ。そんな人たちの力になってあげる優しさはありませんか?赤ちゃんが産まれるまでの生活はすべて面倒をみます。あれこれ買って準備する必要もありません。産まれたらすぐに新しいご両親に引き渡すことになるので、慣れない育児の心配もありません。それに、謝礼も差し上げます。そしてあなたの善き行いは、必ずあなた自身やあなたの大切な人のところに戻ってきます。近いうちに必ず、運が開けて幸せな生活を送れるようになりますよ」

 おじさんは声の調子を変えて、たたみかけるように言った。それから一息つくと「たぶん今日のうちに誰かが、こんな話を持ちかけてくるだろう」と続けた。

「いい話じゃん。でもな、あたしは面倒みてもらえるとして、弟と妹はどうすんだよ。子供生まれるまでは何か月もあるけど、まとめて食わせてもらえるわけ?」

「そこは交渉次第かな。でも多分大丈夫だと思うよ」

 おじさんはそこで言葉を切ると、背筋をのばして「だけど」と言った。

 少し無精ひげが生えていて、よく日焼けしていて、短い髪にはけっこう白髪が混じっていて。工事現場なんかにいそうな人だなと思いながら、花奈子は次の言葉を待つ。

「自分の子供と引き換えにお金を貰うなんて、絶対にしてはいけない。そんなのは奴隷と同じだ」

「なんで。金払ってでも欲しがる奴がいるんだから、くれてやるのに問題あんのかよ」

「人間は決して売ったり買ったりできない。いいか、他にも同じように、どうしても子供を育てられない女の人を助けて、生まれてくる子供に新しい家族を見つけてくれる組織はある。でもちゃんとしたところは、お金のやりとりなんか絶対にしないんだ。もし君が少しでも、その子を産みたいという気持ちがあるなら、そっちの連絡先を教えるよ」

「いらねえし。おっさん、いちいち説教くさいんだよ。どうせこんなとこに出入りしてるくらいだから、ロクな仕事してないんだろ?自分こそ奴隷みたいにしてこき使われてたんじゃないのかよ」

「うーん、まあそうも言えるけど」

「ほら見ろ。他人に余計なちょっかい出す前に、マジ自分の心配してろっつうの」

 美蘭は面白そうに笑うと、また緑茶をがぶ飲みした。おじさんは決まり悪そうに顎をなでまわしていたけれど、「でもとにかく、注意だけはしておくよ」と言った。

「もし誰かが、君をキララザカさんに会わせる、と言い出したら気をつけるんだ。もしかしたらヤチヨさま、と呼ぶかもしれない」

「はあ?キラキラ?」

「キララザカだ。漢字はこう」と、おじさんはシャツの胸ポケットにさしていたボールペンを取り出すと、割り箸の髪袋に「雲母坂」と書いた。

「これでキララザカと読む。名前が八に千に代でヤチヨ。けっこうな年のおばさんだ。お兄さんは人並区のこと以外に、この人の話はしてなかった?」

「するわけねーし」と美蘭が言い返すのとほぼ同時に、花奈子は「私、知ってる」と言ってしまっていた。

「おめー、なんで黙ってたんだよ」と、美蘭は半分本気で花奈子の顔を覗き込む。

「知ってるっていうか、お兄ちゃんのメモの、東京都人並区って書いたその下に、雲、母、坂って、書いてあって。その時は別に関係ないと思ったんだけど」

 そう、あの日、お兄ちゃんの部屋にこっそり入って、机に立ててあった本を手に取った時にひらりと落ちてきたメモ。「東京都人並区」ばかり気になっていて、「雲母坂」のことはすっかり忘れていた。

「そっちの入口か」

 おじさんは何かを考え込むような顔つきでまた顎を撫でる。美蘭は「入口ってどういう意味だよ」と、答えを促す。

「いや、お兄さんはもしかしたら、仕事の問題じゃなくて、別の理由で雲母坂さんに会うために人並区に来たのかもしれないと思って」

「は?お兄ちゃん妊娠してねえし。ありえないし」

「いや、持ちかけられる話は人によってそれぞれだ。若い男の人だと、病気の人にあなたの腎臓を移植してあげませんか、なんて話だったりする」

「そんな事したらマジ死ぬし」

「死なないよ。腎臓ってのは二つあって、健康な人なら一つを誰かにあげても別に大丈夫なんだ」

「判った。それを売るって事だな?お兄ちゃんいくらぐらい稼いでくる?」

「たぶん一円も貰えない」

 おじさんは少しだけ眉を上げてみせた。

「ただし、素晴らしい善意の行いをしたんだから、必ず運が開けて良い事が起こる」

「何をマジ眠い事言ってんだよ。世の中、そんなうまい具合に行くわけねえし」

 明らかに苛立った顔つきの美蘭を見ながら、おじさんは「そう信じこませるのが、雲母坂さんの恐ろしいところだ」と言った。

「そして彼女はお兄さんの健康な腎臓を取り出して、病気で苦しんでいる人に高くで売りつける。お金は全て彼女のものだ」

「マジで?早いとこお兄ちゃんに知らせないとヤバいし。金は全部こっちのもんだよな。できるだけ高く売らないと」

「駄目だよ!腎臓を売るのなんか駄目!」

 気がつくと花奈子は必死になって美蘭の腕をつかんでいた。恐ろしくて、不安で、黙って聞いていられなかったのだ。

「金が貰えりゃいいんだよ。問題は、騙されてタダで持ってかれるって事なんだから」と、美蘭はうるさそうに花奈子の手をふりほどいた。嘘でもすごく悲しくなって、思わず涙が溢れそうになる。助け舟を出すように、おじさんが「臓器売買はれっきとした犯罪だ」と言った。

「ばれなきゃいいんだよ。ばれなきゃ」と、美蘭が言い返しているところへ、新田さんが戻ってきた。

「ごはん終わった?急かして悪いんだけど、男の人、手伝いに来てくれないかしら。ちょっと力仕事」

 








 

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