第15話 私が何を話しても

「おっそいなあ。いつまで待たせるのよ」

 美蘭みらんは細い銀色の腕時計をちらりと見て、軽く溜息をついた。もうかれこれ三十分近く、公園にある木陰のベンチに座って亜蘭あらんを待っているのだけれど、道が混んでる、というメッセージが来ただけで、あとは沈黙。

「別に亜蘭に来てもらわなくていいと思うんだけど。私たちだけじゃ駄目なの?」

「あれはあれで、使い道があんのよ」

 せっかく「東京都人並区」の事務所のすぐそばまで来ているのに、美蘭はずっと動こうとしない。まだ十時にもなっていないのに日差しはきつくて、頭の上からは工場の機械みたいに、止むことのない蝉の鳴き声が降ってくる。

「その腕時計、ブレスレットみたいで素敵ね」

 少し話題を変えようかと思って、花奈子かなこはそう話しかけた。今日の美蘭はまたいつものようにTシャツにジーンズだけれど、そこだけ昨日のまま、優雅な雰囲気だったのだ。

「ん?ああ、こんなのしてくるんじゃなかった」と、美蘭は急いでその細い銀色の腕時計を外すとショルダーバッグの中に入れた。

「どうしたの?」

「だってダイヤ使ってる時計なんかしてたら、話に信憑性出ないし」

「ダイヤ?ちょっと見せてもらっていい?」

「気に入ったのならあげるよ。昨日、ドレスに合わせて買っただけだし」と、美蘭は腕時計を取り出すと花奈子の掌に落とした。言われてみれば、文字盤の十二時と六時のところにきらきらと輝いているものがある。昨日は夜だったからよく判らなかったけれど、高いのに違いない。ひろしちゃんや葛西かさいさんは気づいていただろうか。

「これ、いくらぐらいしたの?」

「案外安いの。百万と…」美蘭が言い終わらないうちに、花奈子は「わっ!」と叫んで腕時計を彼女の手に押し戻していた。

「ごめんなさい、そんなに高いなんて思わなかった。ちゃんとしまっておいて」

「だから高くないっていうの。いらない?」

 黙って首を振る花奈子を面白そうに見ながら、美蘭は腕時計を無造作にバッグに戻す。そしてぼんやりした声で「なんかもうお腹すいて来たんだよね」と言うけれど、花奈子にはまだ満腹感が残っていた。

 

 美蘭が用意してくれた朝ご飯は、シリアルに牛乳をかけたものだった。といっても花奈子がよく食べるコーンフレークスみたいに軽いのじゃなくて、胡桃やアーモンドといったナッツや、麦みたいな粒粒が何種類も混ざったもので、すごく噛みごたえがあって、大げさに言うと、食べているうちに顎が疲れてくるほどだった。

「一時期、夏休みになるとスイスのサマーキャンプにぶち込まれててさ。大して面白くもなかったけど、朝ご飯だけはおいしかったのよね。だから今もこれ食べてるの」

 そして彼女は冷蔵庫から冷凍のブルーベリーをどっさり出してくると、シリアルのボウルに惜しげもなく放り込んだ。

「これ入れると牛乳が青くなって、不気味な感じがいいのよね」

 確かに色は少し違和感があったけれど、冷たさを増した牛乳は眠気の残った頭をしゃきっとさせてくれた。昨日はお風呂から出て、いつの間に眠ったのか、気がつくともう朝になっていて、美蘭と一緒に調べるつもりだった「東京都人並区」の事務所の地図なんかは、ちゃんとプリントアウトされていたのだ。


「まったく、どんだけ待ったと思ってんのよ」

 美蘭の声に顔を上げると、ちょうど公園のそばに停まったシルバーのBMWから、亜蘭が降りてきたところだった。ハンドルを握っているのは女の人で、年はお父さんぐらいだろうか。わざわざ窓を開けて笑顔で手を振っているのに、亜蘭はちょっと振り向いただけで、まっすぐ花奈子たちのところへ来た。

「ごめん。道が混んでて」

「だから何よ」と、つっけんどんに言うと、美蘭は「あれ、ちゃんと手に入れたの?」と尋ねた。「うん」という返事とともに、亜蘭はたすき掛けにしていたバッグをがさごそやって、青い袋を花奈子に差し出した。

「え?何これ」

「ハイパーポリスFX」

 言われて中を確かめると、それは拓夢が欲しがっていた、限定バージョンのミニカーだった。

「あ、ありがとう。でも、夏フェスって九時からでしょう?一番で並んだの?」

「そんな面倒くさいこと、するわけないわよ」と、美蘭が割って入る。

「さっきのマダムね、東日テレビのプロデューサー夫人なの。陰で女帝って呼ばれるほど、旦那の職場にしゃしゃり出るのがお好きな方だから、旦那の部下も顎で使っちゃうのよねえ。可愛い亜蘭ちゃんがおねだりすれば、尚のこと」

「つまり、どういう事?」ときいても、美蘭は眉を上げてみせるだけで何も言わない。とにかくミニカーのお金を払おうと財布を出すと、亜蘭が「もらったんだから、お金はいらないよ」と言った。

「さ、死ぬほど待ったし、行くとするかな」

 何が何だかよく判らない花奈子の事は気にもかけずに、美蘭は立ち上がって歩き始めた。


 昔やっていたお弁当屋さんの名前がうっすら透けて見える白い看板に、「東京都人並区」という赤い文字が並んでいる。建物は二階建てで、一階の正面は全部ガラスの引き戸になっていたけれど、イベントやボランティア募集のポスターやなんかが貼りまくられていて、中の様子はほとんど見えない。

 「入口」と書かれた引き戸の真ん前に停められた自転車に向かって、「ほら、亜蘭みたいに考えなしが他にもいるよ」と悪態をつきながら、美蘭は前に進んだ。そしてちらっと振り向くと「花奈子、ここで私が何を話しても、えっ?とか、本当に?とか言っちゃ駄目だよ」と念を押した。

「わかった」と返事はしたものの、花奈子には自信がなかった。こうしてようやく「東京都人並区」の事務所まで来たというのに、なんだか怖いような、回れ右して帰りたいような気持がこみあげてくる。

 駄目だ、しっかりしなきゃ。自分にそう言い聞かせて、花奈子は美蘭の後に続いて事務所に入った。

「あーのお、ちょっと、相談したい事があって来たんだけど」

 正面のカウンターから身を乗り出して、美蘭は中にいる人に声をかけた。奥には事務机が四つほど並んでいて、その上にはファイルやノートパソコンが置かれている。壁際には予定を書き込んだホワイトボードがあったり、ロッカーがあったり、職員室に似た感じだった。スタッフらしい人は五、六人いて、そのうちの一人、大学生みたいな女の人が「はあい」と返事をしてこちらに来た。

「相談の予約はされてますか?」

 肩にかかる髪をかき上げながら、彼女はカウンターに立ててあったクリップボードを手に取って何か確かめている。

「予約っているの?マジよく判んなくて、とりあえず来てみたって感じなんだけど」

 普段とはちょっと違う口調で、美蘭は首をかしげた。後ろでは亜蘭が黙ってそれを見ている。

「ええと、だったら別に構いませんけど、どういった相談ですか?」

 女の人は笑顔を浮かべたままでそう尋ねた。

「うん、お兄ちゃんにマジ連絡とりたくて。ここに来てるはずだから。なんかここで仕事の相談するって出てったきりだし。でもそれからちょっとして、お母さんも出てって。あ、うち、前からマジ母子家庭だし。それで、お母さんが置いてったお金なんかマジですぐなくなって、うちらの貯めてたお年玉とか全部使っちゃって、でも弟とかマジすっごい食べるし、家賃も電気代も払えないし」

 まさかの作り話を美蘭が続けるうちに、花奈子の口はぽかーんと開いていって、女の人の笑顔はそのまま固まってしまった。

「ちょっと、二階でお話ししましょうか」

 そう言われて案内された二階は、三つの個室と、本棚やベンチを置いた図書室っぽいスペースに区切られていた。ここにも一階と同じ位の人がいて、本を読んだり、笑いながら何かおしゃべりしたりしていた。一番手前の、どうやら一番狭そうな個室に三人を通すと、女の人はいったん事務所に降りていった。

「美蘭、これどういう事?」

 折り畳みのテーブルをはさんで置かれた二対のパイプ椅子に彼女と並んで座るなり、花奈子は小声で尋ねた。

「まあ、作戦みたいなもの。私たち、花奈子の兄さんも含めて四人きょうだいだから」

 無理。だって美蘭や亜蘭と花奈子じゃ見た目に違いがあり過ぎる。でも反論する前にさっきの女の人が戻ってきたので、黙るしかなかった。

「お兄さんのお名前は?」

山辺やまべ孝之たかゆき。もしかしたら別の名前使ってるかも。マジ借金取り来るから」

「お兄さんに借金があるって事?」

「そう。生活費だけど、お母さんブラックリストでマジ借りれないから、お兄ちゃんが借りてたし」

「あなたたちはいくつなの?学校は?」

「あたしが十七で、高校は辞めてる。弟は高一で半分プー、妹が中三で、この子だけちゃんと学校行ってる」

「それで、お金の事でお兄さんと連絡をとりたいのかしら」

「そう。あとちょっと他の話もあって、急がないとヤバいから」

「他の話って?」

「うん、マジお金なくて困ったから、あたしが風俗で働くことにしたんだけど、なんか本番なしとかいうのマジ全然嘘で、しかも強引な客に無理やり中で出されて、いきなり妊娠しちゃって、マジ堕ろすしかないし」

「えっ、ああ、それは、それは大変ね」

 女の人は平静を保とうとしていたけれど、額に汗が浮かんでいた。しかしそれを見ている花奈子も心臓がドキドキしてきた。

「早くしないとマジ堕ろせなくなるし、病院行ってる間はお金稼げないし。弟ちょっとアタマ弱いから、お腹すくとマジ暴れるし。仕方ないしお店の人に借金申し込んだら、あたしが休んでる間は妹が来ればいいって。でもこの子まだ男とやった事ないから、マジ無理かもしんないし」

「ち、ちょっと、お手洗い」

 花奈子はやっとの思いで立ち上がると、どうにかしてこの場から脱出しようとドアに向う。なのに足がもつれていきなり前につんのめってしまった。

「まあ、大丈夫?」女の人は急いで助け起こしてくれたけれど、美蘭は椅子にふんぞり返ったまま「貧血かな。あたしと妹はおとといから何も食べてないし」と言っただけだった。

 そうか、これはお芝居なんだ。ここで変なことになったら、それこそ全て無駄になる。花奈子はやっとの思いで起き上がると、振り向いて「お姉ちゃん、本当にお金残ってないの?」と言った。

「あるわけねーじゃん。外で自動販売機の下でも見てくれば?」

「わかったよ」

 できるだけ不満そうに言うと、花奈子はドアを開けた。すると後ろから「俺もいく。こんなとこウザいし」という声がして、亜蘭がついてきた。

 手摺をつかみ、そろそろと階段を降り始めると、背中から亜蘭が「大丈夫?」と声をかけてくる。

「近くにコーヒーショップがあったから、そこ行って休もうか」

「大丈夫。公園に行くから」

 さっきまでいたベンチにまた腰を下ろすと、花奈子は大きく息をした。頭では判っているのだ。美蘭はお兄ちゃんの事を聞き出すために、わざと大げさな話をしている。でも彼女が口にすると、嘘でも本当のように聞こえ始めて、何が現実か判らなくなってしまう。

「これ」

 いつの間に買ってきたのか、亜蘭はスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。

「こんなの飲んでたら、嘘つきってばれるじゃない」

「販売機の下に五百円落ちてたんだよ」

 普通の顔してそう答える亜蘭に、花奈子はつい笑ってしまった。じゃあいいか、と思い直し、「ありがとう」と、飲む。

「ごめんね」と、亜蘭は立ったまま、俯き加減にそう言った。

「え?何が?」

「美蘭って、ああいう話はじめると半端なく強烈だし」

「大丈夫だよ。私のためにやってくれてるって、判ってるから」

 亜蘭は少しだけほっとしたような顔になった。

「僕ら、母親にほったらかしにされてたから、小さい頃から大人相手に色んな嘘ついて何とかやってきたんだ。といっても、美蘭が一人で頑張ったんだけど。そのせいかな、とんでもない嘘でも平気でつくようになっちゃった」

「お母さん、病気なの?」

「別に、元気だよ。ただ、自分の子供は邪魔だし、興味もない。もしかしたら、産んだのも憶えてないかも」

 まさか、と言いたかったけれど、亜蘭の諦めたような顔を見ていると言葉が出てこなかった。お母さんは自分の子供が命と同じくらい大切。幸江ママと拓夢を見て、当然だと思っていた事が、美蘭と亜蘭にとってはそうじゃないのだ。花奈子の本当のお母さんはもういないけれど、生きていて、しかも興味を持ってもらえないとしたら、それはお母さんがいないよりもっと寂しい事かもしれない。

「ねえ、さっきのミニカー、本当に貰ったの?」

 もうお母さんの話はよそうと思って、花奈子はそう尋ねてみた。

「そう。美蘭が言ってただろ?あの女の人、テレビ局の偉い人の奥さんだから」

「色んな人、知ってるのね」

「まあね。美蘭だったら、あんなの百台ぐらい巻き上げてくるんだけど。僕はあれが精一杯かな」

「一台あれば十分だよ」

「でも百台あれば、残りの九十九台は売れるだろ?」

 さすが毎日美蘭と一緒にいるだけの事はある。亜蘭も案外しっかりしてるなあ、と花奈子は感心して、もう少し色々きいてみたい気持ちになった。

「昨日はどこに泊まってたの?お友達の家?」

「え?だからあの、女の人のところ」

「そうなの?ええと、いきなり行って、家の人とか大丈夫だったの?」

「だってあそこの旦那さん、仕事でほとんど家にいないし、娘さんはピアニスト目指してドイツで勉強してるし。彼女はすごく退屈してるから、いつ泊まりに行っても大歓迎なんだ」

「へえ、すごいね。どうやって友達になったの?」

「飼い猫。三日ほど迷子になってたの探して。僕としてはそれで任務完了だったんだけど、美蘭がキープしとけって言うから」

「キープ?」

「要するに、ちょくちょく連絡とっておけば、何かと便利な人ってこと。だからまあ、友達ではないよね。それ、もらっていい?」

 亜蘭は花奈子が手にしていたペットボトルを指さした。

「ごめん、私ひとりでいっぱい飲んじゃった」

「それは別にいいんだけど」と、亜蘭は花奈子の差し出したボトルを受け取った。そこへ「おうおうおう、何いい感じでまったり寛いでんのよ」と唸りながら美蘭が近づいてきた。彼女はいきなり亜蘭の手からスポーツドリンクを奪い取ると一気飲みした。

「ごめんね。逃げ出しちゃって」

 花奈子は慌てて立ち上がると謝ったけれど、彼女はにこりと笑って「結構うまくやれてたじゃない。この後もその調子でね」と言った。

「この後って?」

「あそこ、パーティションが薄っぺらだから話が筒抜けなのよね。でもおかげでさ、お兄さんを知ってるって人がこっそり声かけてくれて」

 美蘭が一体あの後どんな話をしたのか、ちょっと想像するのが怖いけれど、とにかく効果はあったみたいだ。

「なんかお兄さんは今、よそにある研修所みたいなとこいるらしいって。ちょうどそこにボランティアに行く人に欠員が出たから、一緒に車に乗せてもらえる事になったわ」

「本当?いつ行くの?」

「すぐだよ、すぐ。あの車」

 そう言って美蘭が指さした先の角から、白いワンボックスカーがゆっくりと出てきて事務所の前に停まった。

「さ、行くよ」

 身を翻して足早に歩きだす美蘭の後を追って駆け出しながら花奈子は、一応おとといから何も食べてない設定だし、よろめいたりした方がいいかな?なんて考えていた。車の傍には小柄な女の人が立って、手招きしている。

「あーら、弟さんも背が高いのね。ちょっと窮屈かもしれないけど我慢してね」

 年は葛西さんぐらいだろうか。ふっくらした丸顔に大きな前歯が、なんだかリスを思い出させる。車には他にも人が乗っていて、花奈子たちは一番後ろに三人並んで座ることになりそうだった。美蘭が真ん中に座ってくれるといいな、と思いながら順番を待っていると、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。

「花奈子!何してんだ!」

 はっとしてそちらを向くと、すごい勢いで走ってくる人がいる。

「寛ちゃ…」と言いかけた花奈子を突き飛ばすようにして、美蘭が後ろから「ダラダラしてんじゃねーよ!」と押し込んでくる。その間にも寛ちゃんは聞いたこともない大声で「花奈子!」と叫びながら突進してくる。

「マジヤバい!あれ、借金とりだから。うちらのことつけてたんだよ。速攻発車しちゃって」

 美蘭は勢いよくドアを閉めるなり、身を乗り出して運転席の男の人に命令している。後ろのシートにもぐりこんだ花奈子は、怖くて窓の外を見る勇気がなかった。寛ちゃん、帰ったらすごく怒るだろうな。でももうどうしようもない。今はとにかく、お兄ちゃんを見つけるのが先だ。

 




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