第5話 どんな動物とも違う

 帰ったらまずエアコンのスイッチを入れて、冷蔵庫の麦茶を飲んで、それからシャワーを浴びる。

 まだ熱気を含んだ夕暮れの風に向かって自転車を走らせながら、花奈子かなこは何度もその段取りを考えていた。中三だし、自分一人では絶対に勉強なんかしないから、とりあえず塾の夏期講習に行ってはみたものの、やっぱり夏休みはのんびりしたかったな、と少し後悔している。

 でも本当のところを言えば、問題はそこではなくて、塾の同じコースに沙緒美さおみがいた、という事だった。何故だか残りのメンバーは他校の生徒で、完全アウェー。

 だからといって沙緒美と一緒にいるのも違う感じ。というか、向こうが最初から、別に関係ないし、という態度なのだ。やっぱりこの前の電車での事件と、変な噂の事があって、気まずいとしか言いようがない。

 もう行くの止めようかな、と思ったりもする。でも、もしかしたら沙緒美の方がコースを変わるかも知れないし、とりあえずあと一度は行こうと自分に言い聞かせる。

 今日もお父さんは夜の授業で、幸江ゆきえママは拓夢たくむの病院。花奈子は自転車を停め、ひろしちゃんがくれたイカのキーホルダーを取り出すとドアの鍵を開けた。

 熱気がこもる玄関を突破してリビングに駆け込むと、まずエアコンのスイッチを入れる。どうも幸江ママが帰ってきて掃除をしたみたいで、部屋全体が何となくすっきりしている。それからキッチンに行くと、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出し、洗いかごに伏せたままだったグラスに注ぐと一気に飲む。

 二杯目の麦茶を半分飲んだあたりで、ようやく生き返ったような気分になった。家の中は静まり返っていて、庭にいるセミの声だけが響いている。前は、引きこもっているとはいえお兄ちゃんがいたので、一人ぼっちではないという確信が持てたのに、今は本当に自分だけなのだという、心もとなさがつきまとう。

 やっぱり晩ごはんは、ばあちゃんちで食べようかな。

 いつ来てもいいけど、先に電話だけちょうだいね、という約束を思い出して、花奈子は麦茶のグラスを持ったまま、リビングに戻った。

 ソファに腰を下ろし、リュックから携帯を取り出す。アドレス帳でばあちゃんちの電話番号を呼び出そうとしたその時、幸江ママから電話が入った。

「花奈子ちゃん、今どこにいるの?」

「うち帰ったとこ」

「そう、よかった。あのね、本当に悪いんだけど、病院まで持ってきてほしいものがあるの。忘れ物しちゃったのよ」

「いいよ。何を持って行くの?」

「リビングのパソコンのところに、ファイルが置いてないかしら」

 言われて立ち上がり、部屋の隅にあるパソコンコーナーに近づいてみる。デスクトップのモニターの脇に立てかけるように、黄色いクリアファイルが置かれていた。

「この黄色いのかな」

「そうそう、中に封筒が入ってるでしょう?病院の名前が入った」

「うん」

「それ、とても大事なものなの。まだ認可されていない、新しいお薬を拓夢に使って下さい、っていう手紙よ。ハンコだけ押して、持って出るの忘れちゃったんだけど、どうしても今日中に先生に渡さないと駄目なの」

「わかった。すぐ持って行く」

「ごめんね。私、駅の改札のところまで迎えに行くから」

 

 いつもより遅い時間の電車はけっこう混んでいた。病院のある駅でも大勢の人が降りて、いっせいに改札に向かう。花奈子は大切な封筒を入れたリュックを、両腕で抱えるようにして、人混みの中を足早に歩いた。改札の向こうも人の波で、幸江ママがどこにいるのか判らない。とりあえず改札を抜けて、外で電話しようと思っていると「花奈子ちゃん」という声がした。

 幸江ママはいつもより白い顔をして、こちらへ走ってくる。どうやら花奈子が出てきた改札とは反対側にいたらしい。

「よかった。本当にごめんね、うっかりしちゃって」と言いながら、幸江ママは花奈子の背中を抱くようにして、人の少ないコインロッカーの方へ連れて行った。

「はい、これだね」と、花奈子はリュックから取り出した封筒を幸江ママに渡す。ママは「ありがとう」と中味を確認して、すぐに手提げにしまった。それから「晩ごはんまだでしょう?食べていかない?」と尋ねた。

「この手紙、渡さなきゃいけないんでしょう?」

「ええ。でも、花奈子ちゃんがその間待っててくれたら大丈夫。すぐに済むわ」

「いいよ、私このまま帰る」

「そうなの?」と、申し訳なさそうな幸江ママの顔を見ているうちに、花奈子はどうしても質問したくなった。

「ねえ、その新しいお薬を使ったら、拓夢はよくなるの?」

 もちろん、という答えを期待してはいたけれど、現実がそう簡単ではない事も花奈子には判っていた。幸江ママは軽く唇を噛んでから、「試してみる価値はあるって事」と、自分に言い聞かせるように答えた。


 家に帰るなりまた電話があって、幸江ママが弾んだ声で「花奈子ちゃん、今度のお薬はすごいの!拓夢、明日には退院するから!」と繰り返している。やったあ!と思ったところで気がつくと、花奈子は電車のシートに座っていた。

 そうか、まだ帰る途中なんだ。気が緩んだせいか、冷房が入っていて涼しいせいか、眠ってしまったらしい。行きとは逆に、こちら方向の列車は空いていて、立っている人がいない。

 文庫本を読んでいる人、携帯を見ている人、居眠りする人。皆が俯いているその中で一人だけ、斜め向かいに座った男の人がこちらを見ていた。何だろう。いったん視線をそらしたものの、花奈子はやはり気になってもう一度そっちを見た。その瞬間、何か冷たいものが背筋を走るような感じがした。

 この間の痴漢だ。

 はっきりとそれが判ったのは、男の顎にある少し大きなほくろのせいだった。でなければ憶えていないような、とりたてて特徴のない顔立ちと、澱んだような目つきと、微かに笑っているような口元。

 年は三十代ぐらいに見えるけれど、くたびれたTシャツとジーンズに、埃っぽいサンダルを履いている。彼は花奈子と目が合っても全く表情を変えず、ただじっとこちらを見ていた。

 私のこと、憶えているんだろうか。咄嗟に目を伏せて、花奈子はどうしようかと考えた。人違いかもしれないし、単なる偶然かもしれない。そう思って微かに視線を上げると、やはりまだ男はこちらを向いている。

 花奈子は思い切って立ち上がり、隣の車両に移った。そして居眠りしている女の人の横、シートの端っこに腰を下ろすと、ほっと一息ついた。本当に、嫌な感じ。気分転換にゲームでもしようかと携帯を出したその時、目の前をかすめるようにして誰かが通った。

 さっきの男だ。

 わざと花奈子に触れるか触れないかという、ぎりぎりの場所を通って、通路の向こう側に、ドアを背にして立ち、腕組みをしてじっとこちらを見ている。花奈子は携帯を握りしめたまま、身体を固くして俯いた。

 どうか隣の女の人が降りたりしませんように。あの男がこれ以上近くに来ませんように。たった十分ほどの距離を、一時間ほどの長さに感じながら、それだけを祈って耐え続ける。

 その間に二回、電車は停車と発車を繰り返し、それからようやく花奈子の降りる駅にゆっくりと停まった。ドアが開いた瞬間、花奈子は立ち上がってホームに駆け出した。そして人の間を縫うようにして階段を駆け下り、改札を抜けた。そこでようやく一息ついて、こわごわ後ろを振り向いてみると、男の姿はなかった。

 よかった、うまく逃げ切れた。何だか足が震えるような感じは残っているけれど、とりあえず安心して駅の外に出て、自転車置き場に向かう通路を歩く。今日は混んでいたので、随分と奥の方に停めたから、出すのが面倒くさい。おまけにあそこは風通しが悪くて、夜でもひどく蒸し暑いのだ。

 そして「第二駐輪場」と表示のある通路を曲がった瞬間、花奈子は悲鳴を上げそうになった。行く手を塞ぐようにして、あの男が立っている。腕組みをして、ガムでも噛んでいるのか、口元を規則正しく動かしながら、どこか面白がっているような目でこちらを見ている。

 逃げなきゃ。頭はそう命令するのに、足が思うように動かない。その間にも、男はこちらに近づいてくる。花奈子は地面から足をはがすようにして後ずさりすると、男に背を向けて駆け出した。その筈なのに、少しも早く走れない。人気のない通路の背後から、男のサンダルを引きずる、鈍い足音が響く。それは徐々に近づいているように思えた。

 誰でもいい、一人でもここを通る人がいれば助けを求めるのに。

 やがて通路は突き当たりになり、左右に分かれていた。いけない、改札の方に引き返すべきだったのに、西出口に来てしまった。こっちは昼間でもほとんど人の通らない場所なのに。しかしもう後戻りする事はできなくて、花奈子は仕方なく通路を右に折れた。

 すぐ先に出口があり、その向こうは高架下の駐車場だ。辺りは暗くて、線路と平行する国道から車の轟音ばかりが響いている。

 一体どっちに逃げればいいのだろう。必死で見回すと、そんなに遠くない場所にラーメン屋さんらしい、赤い看板が光っている。

 とにかく、あそこまで全力で走ろう。そう決心して花奈子は飛び出したけれど、足元の低い階段を踏み外し、転んでしまった。

 左膝と掌が痺れるように痛いのを我慢して立ち上がる。後ろを振り向くと、男はすぐ近くを、まるで散歩でもしているような足取りでついてきていた。その姿を目で捉えたまま後ずさりすると、停めてある車にぶつかった。

 明るい通路を背にして、男の表情はよく判らない。それでも、花奈子には彼の冷たい目つきが見える気がした。

 サンダルの、鈍い足音だけがゆっくりと近づいてくる。花奈子は何とか距離をとろうと、停まっている車の間に後ずさりした。そうしながら、リュックに手を突っ込み、携帯を探す。

 お父さん、助けに来て!

 いま授業中だからとか、そんな事はもうどうだっていい。とにかく電話して、ここにいると知らせなくては。

 その指先に何かが触れる。これは、土砂崩れの後で拾った、あのレモン色の玉を入れた巾着だ。一瞬、手を離しかけて、また思い直すと、花奈子は玉を取り出した。よく考えたら、これは石ころみたいなものだ。だったら、あいつに思い切りぶつけてやれ。そして時間を稼ぐのだ。

 軽く息を吸い込むと、花奈子は腕を大きく引いて、男めがけて玉を投げつけた。しかし、それは悲しいほど目標をそれると、駐車場の区画分けをしている鉄柱にぶつかり、鋭い音を立てて二つに割れた。男は少しだけそちらへ首を廻らせ、また花奈子の方を向くと今度ははっきりと歯を見せて笑った。

「足、血が出てるよ」

 平坦な、くぐもった声。その時、花奈子は背中がフェンスにぶつかったのを感じた。

 男のサンダルの足音が、ゆっくりと近づく。何とかして、その脇をすり抜けて逃げられないかと、花奈子はフェンスに背中をつけたまま様子を伺った。

 思い切り体当たりすれば、向こうはバランスを崩して倒れるかもしれない。落ち着け、と自分に言い聞かせて、相手の隙を伺う。けれど、その背後に不思議なものが見えた。

 さっき二つに割れて、地面に落ちたはずのレモンイエローの玉が、闇に浮かんでいる。いや、それは玉というより、何か別のもの。もっと強い光を持った、まるで夜行性の生き物の瞳のように輝いて、こちらを見ているのだった。

 その一対の眼差しと花奈子の視線が交差した瞬間、闇だと思っていた空間は意志を持って動き始めた。とても濃く、粘り気のある液体のようにうねり、波打ち、やがて一つにまとまると、真っ黒な獣の姿をとった。

 わずかに開いた口の中は紫を帯びた青色で、白く光る太い牙を覗かせている。獣は地面近くまで身体を沈めたかと思うと、音もなく身を躍らせて、背後から男の首筋に食らいついた。

 花奈子は声にならない悲鳴を上げて、必死で後ずさりした。男は自分に何が起きたか気づく前に地面へと崩れ落ち、その黒い獣に抑え込まれていた。どうやら気を失ってしまったらしく、目を閉じているけれど、血は流れていない。

 怖くてたまらない、なのに花奈子などうしても、その獣から目が離せなかった。黒豹に似ているけれど、虎のようにも見えて、しかも虎より一回りは大きい。

 真っ黒なようでいて、どんな動物とも違った模様があり、それはいつか寛ちゃんに見せてもらった、電子部品の基盤に似ているように思えた。そしてその、黒だけで構成された模様は、まるで水面に浮かぶさざなみのように、刻一刻と身体の表面を移ろい、流れてゆくのだった。

「きれい」

 思わず呟いてから、しまった、と後悔した。次は自分が襲われるかもしれないのに。けれどその獣はじっと動かず、倒れた男に太い前足をかけたまま、花奈子の方を見た。

「呆れたものだな。世の中がどれだけ移ろうと、こうした卑しい者は後を絶たないらしい」

 しゃべった。とても低い、地面の底から響くような太い声。花奈子は急に両足の力が抜けるような感覚に襲われた。

「娘よ、この男をどうしてほしい?永らえたところでまた、似たような悪さを繰り返すだけだろうから、息の根を止めてやるというのも一つの考えだ」

 花奈子は黙ってただ首を振った。駄目だ、そんな恐ろしい事。獣は一瞬目を細めると、「ではどうする」と尋ねる。もう喉がからからで、声なんか出そうもないと思ったけれど、花奈子はようやく、かすれた声で「私のこと、忘れてほしい」と言った。

「なるほど。お前はどうやらさかしい娘のようだな。その願いは聞き入れられた」

 そして獣は倒れている男を踏み越えて近づいてきた。その背中は花奈子の胸のあたりまであって、前足の大きさは花奈子の顔ぐらいありそうだ。獣は首を伸ばすと、その瑠璃色の舌で花奈子の擦りむいた膝を舐めた。予想していた感覚とはうらはらに、ひんやりとした気持ちよさが広がる。

「お前の住まいへ送り届けてやろう。私に乗れ」

 いきなりそんな事言われても、身体が動かない。ていうか、どこかに消えてしまってほしい。

 そんな気持ちが都合よく伝わるわけもなく、花奈子はただ黙って獣を見ていた。そうする内にだんだんと目の前がざらついた白黒になり、世界が暗くなり、何も聞こえなくなった。


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