第4話 万物は流転す

 相変わらずうるさい割にスピードの出ないフィアットの助手席で、花奈子かなこは小さくあくびをした。ひろしちゃんは目ざとくそれに気づくと、「お腹いっぱいで眠くなった?花奈子やっぱり子供だな」と笑った。

「別に眠くないよ」

 花奈子は身体を起こし、暗く伸びる道路の向こうに登ってきた満月を見つめた。

 今日は臨時収入があったとかで、寛ちゃんが夕食にイタリア料理をごちそうしてくれたのだ。お父さんは夜の授業があるし、幸江ゆきえママは病院、ばあちゃんはニンニクが苦手だからという事で、二人だけ。ぱりぱりに薄いピザが人気の店で、初めて食べたイカスミのパスタも、見た目とは正反対のおいしさだった。

「じゃあもう一軒回っていこうか。まだケーキとか食べる余裕ある?」

「もちろん」と花奈子が頷くと、寛ちゃんは左にハンドルを切った。工業大学に向かう道で、欅並木がずっと続いている。

「昔よく行った店があるんだけどさ、今も十時までやってるかな」

 寛ちゃんは少し浦島太郎なところがあって、十年を超す東京生活の間に変わってしまった、街のあれこれによく驚いている。「こんなの昔なかったよ!」なんて言葉は何度聞いたか判らない。

「寛ちゃんてさ、お父さんより昔話が多いね」

「俺のは昔話じゃないよ。青春の一ページ。高校の頃、その店でよく彼女と待ち合わせてさ、閉店までコーヒー一杯でねばってたの」

「んええ!彼女?」

 花奈子は思わず奇声を発して、寛ちゃんの顔をまじまじと見ていた。

「何?俺だってそりゃ、彼女ぐらいいたよ」

「でも今まで全然そんな話、しなかったじゃん」

「別に言う必要もないし」

 へーえ、と、花奈子は少し安心した。寛ちゃんのこと、彼女いない歴イコール年齢かと心配していたんだけれど。

「彼女ってさ、今どうしてるの?」

「さあ。結婚して、隣町に住んでるらしいけど」

「マジで?会いにいったりしない?」

「するわけないだろ」

「でも寛ちゃん、いま彼女いないからさ、寂しかったりしないかと思って」

「じゃあきくけど、花奈子はいま彼氏いなくて寂しいのかよ」

「全然」

「だろ?」

 何だか論点をすりかえられたような気もしたけれど、そう言われると納得せざるを得なかった。

「でもまあ、寂しいって事で言えば、花奈子は長いこと我慢してるよな」

 寛ちゃんはふいに声の調子を変えた。

「ばあちゃんがさ、何だか心配してるんだ。きのう花奈子に電話したら、元気がない感じがしたって。夏休みだしさ、いつもより一人の時間が長いせいじゃないかって。例えばだけど、花奈子だけでも、ばあちゃんとこに住まない?家には好きなだけ帰ればいいし」

 実のところ、そんな話は時々ばあちゃんがしていた。でもやっぱり花奈子にとって、自分の住む家はお父さんの家だ。

「私は、ばあちゃんちに遊びに行く方がいいんだ。それにさ、きのうの電話の時は、昼寝してたんだよ。寝起きだからいつもと違って聞こえたんじゃない?」

「そう?だったらいいけどさ」

 本当の事を言えば、花奈子は昨日、キリちゃんから聞かされた噂のせいで、今もまだ果てしなく落ち込んでいるのだった。痴漢にあっているのを助けたはずの沙緒美さおみから、話を正反対にすり替えられてしまうなんて。

 でもこんな話、お父さんにはしたくないし、寛ちゃんにも相談できない。ばあちゃんは余計に心配しそうだし、幸江ママにも負担はかけたくない。

「あーっ!信じられん!」

 いきなり寛ちゃんが大声で叫んだので、花奈子は飛び上がった。

「俺の青春が、スマホに乗っ取られてる」

 どうやらすぐ前にある携帯ショップが、お目当ての喫茶店の生まれ変わった姿らしかった。

「ウラシマヒロシだ」と、花奈子は呆れてみせたけれど、寛ちゃんはそんなの耳に入っていない様子で「いい店だったのになあ」とか、唸っている。

「仕方ないじゃん。携帯の方が儲かるんだよ。美術部の田島たじま先生がいつも、万物は流転す、って言ってるし」

「花奈子、その意味判ってんのかよ」

「え?つまり、全ての物は変わってゆくって事でしょ?先生そう言ってたよ」

 寛ちゃんはそれには何も答えず、緩めたアクセルをまた踏み込んだ。もう帰るしかなさそうだけれど、コンビニでアイスでも買ってくれたら嬉しいな、と思いながら、花奈子は座り直した。

 しかし、しばらく走っていくうちに、どうやらこれは家へ帰る道ではないという事に気づいた。

「まだどこか寄るの?」

「うん、ちょっと月見峠の方」

「マジ?元カノに会いに行くとか?」

 月見峠といえば、隣町に続く県道の途中だ。青春の一ページがぶち壊しになったせいで、寛ちゃんは切れたんじゃないだろうか。

「んなわけないだろ。ただちょっと、夜景でも見ようかと思って」

「六千円の」

「そう」

 六千円の夜景、というのは誰が言い出したのか知らないけれど、月見峠からのこの街を見下ろす時の決まり文句なのだった。百万ドルには及ばないけれど、まあそれなりに値打ちはある、といったところだろうか。

 だんだんと寂しくなっていく夜道を走りながら、寛ちゃんはふいに「あのさ、俺、東京に移ることになったんだ」と言った。

「え?どういう事?」

「仕事なんだけどさ、こんど一つ、大きなプロジェクトを始めることになって、会社から東京に引っ越すように命令が出たんだ」

「でも、寛ちゃんの仕事って、家でもできるんでしょ?だから毎日会社に行ってないじゃん」

「でも次のプロジェクトはそうもいかない。何度も東北に出張することになるし、東京に住まないと無理なんだな」

「じゃあ、そのプロジェクトには参加しません、って事にすれば?」

「言えなくはないけど、俺としては参加したいんだ」

「なんで?せっかく東京から戻ってきたのに、この街のこと嫌になったの?喫茶店が携帯ショップになったりするから?」

 何だかわけが判らなくて、花奈子は意味もなく悔しくなった。

「ここが嫌なんじゃなくて、仕事のため、だ。東北のさ、震災の後の街をもっと住みよくしようっていう計画の一つなんだよ。何年もかかるけれど、やりたいんだ。だからもう、行くことに決めた」

「花奈子に相談しないで?ばあちゃんには相談した?」

「誰にも相談しない。一人で勝手に決めたよ。明後日にはもう引越しだ。今日の晩飯代、会社から出た引越し準備金だったりして」と、寛ちゃんは笑ってみせたけれど、花奈子は反対に、溢れそうな涙を必死にこらえていた。

「それで、お願いがあるんだけどさ」

「ん?」それ以上長く話すと、声が震えそうになる。

「これからはとにかく、退屈だとか、腹へったとか、少しでもそんな気分になったら、ばあちゃんちに行くこと。たぶんばあちゃんも同じ事を考えてるから」

「ん」

「それと、天気のいい日には、俺の部屋のぬいぐるみたちを、風にあててやること。そのため特別に、オオサンショウウオを枕にして昼寝することを許す」

「ん」

 返事した拍子に、つい洟をすすってしまう。しまった、と思ったところへ「ほら、六千円の夜景」という声がした。


 月見峠はちょっとした展望台のようになっていて、車を停めるスペースがあり、滅多に見かけない電話ボックスと、自動販売機が三台並んでいた。その中の一つ、アイスの販売機でチョコミントバーを買ってもらって、花奈子は夜風に吹かれながらまた少し高くなった満月を見上げた。

 寛ちゃんは自分もアイスを食べながら、ガードレールにもたれて六千円の夜景を眺めている。何となくふてくされた気分で、花奈子はその後ろ姿から距離をとったまま、ぶらぶらと歩き回っていた。

 時たま、思い出したように峠越えの車が走ってゆく。それを除けば辺りは静まりかえっていて、救急車のサイレンだとか、クラクションだとか、そんな音が夜の底から泡のように浮かび上がっては消える。足元には、自動販売機の作る影と、街灯の作る影と、それからもう少し淡い、満月に照らされた影がついてくる。

 月が明るいせいだろうか、少し離れた場所の、木の繁みだと思われる場所はひときわ暗く見える。まるで濃淡がないような、墨を流したような黒さ。

 アイスを齧りながら、花奈子は何故だかその闇に引き込まれるような気がしてじっと目をこらした。闇それ自体が、まるで何かの生きもののように思えたのだ。生きて、水が流れるように少しずつ移動している。いや、こっちに近づいている?

 急に強い風がふいて、梢がざわざわと揺れた。闇が動いていると思ったのは風のせいなのか。何だかやっぱり怖くなって、花奈子は寛ちゃんの傍に行き、黙って六千円の夜景を見下ろす。

 ひときわ輝いているのは駅前の繁華街。それからさっき行った工業大学のあたりもまだ明るくて、あとは街外れの工場だとか、市営球場だとか、国道沿いにも点々と明るい場所はあるけれど、他はほとんどが普通の家やマンションの明かりだった。車のヘッドライトはまるで川のように流れていて、動かない曲線は道路に並ぶ街灯だ。

 じっと見ていると、光ではなく、暗い部分が逆に形として見えてくる。あそこの長方形はきっと神社の森で、こっちのラインは三津川。ということはあの丸いのが赤牛山と公園だ。花奈子は身を乗り出して、その近くにあるはずの、自分の家を探した。

「気をつけないと落っこちるぞ」

 食べ終わったアイスのバーをくわえたまま、寛ちゃんがこっちを見下ろしている。

「落ちないよ」とは言うものの、下を覗き込むと、急な崖になっている。花奈子はそろりと引き下ったけれど、「そういう風に子供扱いするのやめてくれる?」と言い返した。

「なーんかね、花奈子見てるとお母さん思い出しちゃって」と、寛ちゃんは笑った。

「お母さんって、花奈子の?」

「そう。しっかりしてそうで、そそっかしいの。ガラスのドアに正面衝突したりさ」

「その話はきいた事あるけど」

「あとさ、両手に荷物もったまま階段駆け下りて、勢い余って玄関突き破ったり」

「言っとくけど、私はそこまでひどい事してないからね」

「うん、まあお母さんほどじゃないかな。ほら、花奈子のお母さんと俺って、花奈子と拓夢たくむぐらい年が離れてるだろ。ばあちゃんも仕事してたから、俺はいっつもお母さんにくっついて遊びに行ってたんだよな。お母さんの友達には、奈央なおちゃん誘うと、もれなく寛がついてくるって言われてたけど」

「よくみんな我慢してたね」

「本当になあ。おかげで未だにあちこちでお母さんの友達に、寛、最近どうしてんのって、声かけられるけど」

 それは花奈子も身に覚えがあった。お母さんの同級生はこの街に何人か住んでいて、肉屋の神田かんださんはお使いに行くとおまけしてくれるし、ひまわり美容院の公子きみこさんは、カットに行くたびに「お母さんに似てきたね」と言ってくれる。そして隣のクラスの佐伯さえきくんのお母さんなんか、参観日には必ず、花奈子のところも覗きに来るのだった。

 そう、この街に住んでいるかぎりずっと、憶えていないお母さんの思い出は、花奈子と一緒に生きている。

「寛ちゃん、東京行って、そのプロジェクトっていうのが終わったら、また戻ってくるの?」

「多分ね。いつになるか判らないけど」

「フィアットはどうするの?」

「うーん」と、寛ちゃんは本気で困った声を出した。

「ばあちゃんが乗ってくれるといいんだけどな。かっこいいと思わない?フィアット飛ばしてるおばさんって」

「そういう変なこと考えるの、寛ちゃんだけだと思うよ」

 

 満月は更に高い場所から、夜道を走るフィアットを見下ろしている。もう花奈子の家まではあと少しだ。

「おっと、ここから先は回り道か」と、寛ちゃんは速度を落として、道路に立ててある看板に目をこらした。その向こうには大雨で崩れた赤牛山の土砂が積もったままだ。

「遺跡だからって、うかつに触れないないらしいな。迷惑な話だよ」

 ライトの向こうに白い看板と、立ち入り禁止のロープが浮かび上がっているのを見るうち、花奈子は「ちょっとだけ待ってて」とお願いしていた。

 寛ちゃんは「どうした」とサイドブレーキを引いたけれど、花奈子は返事をせずに車を降りた。車のライトがあたらない場所をたしかめて立ち止まると、たすき掛けにしていたバッグの中を探る。ハンカチ、携帯電話、手帳、それから、自分で縫った巾着袋。入っているのはあの大雨の翌朝、ここの泥の中から掘り出した透明なレモンイエローの玉だった。

 拾った時には赤牛山が古墳だなんて知らなかったから、拓夢にあげるつもりで持って帰ってしまったけれど、よく考えたらこれは、古墳に埋められていたものに違いない。という事はピラミッドの宝物と同じで、勝手にもらってはいけない物のはずだった。

 早く元の場所に返さなきゃ。そう思ってはみたものの、最初に拾った場所はいま立っている所よりもずっと先だ。二、三日前にも来てみたけれど、散歩の人がいたりして、とてもこっそり入れる雰囲気じゃなかった。でも今なら、ちょっとあのロープをまたいで、誰にも知られずに地面に埋めて来られそうだ。

 だんだんと目が慣れてくると、満月のおかげで車のライトがあたっていない場所もうっすらと見えてくる。花奈子は右手に巾着を握りしめたままロープをまたぎ、そろそろと前に進んだ。足元には雑草と、でこぼこの地面。そして顔を上げると、崩れた赤牛山が、暗い影の塊のように視界を遮る。

 何故だろう、月明かりがあるのに目の前の塊はひたすら黒い。一体どこまで進めばいいだろうと思いながら、もう一歩足を踏み出すと、黒い塊がそれに応えるようにとろりと流れ出した。

 動いてる?

 そんな馬鹿な事はない。何とか気を落ち着けて。花奈子は自分に言い聞かせながら、手にしていた巾着から玉を取り出そうとした。もうここでいいから、とにかく地面に埋めてしまおう。その時後ろから「花奈子ぉ、どうした?」という呼び声がして、車のドアを閉める音が聞こえた。 咄嗟に巾着をバッグの中へと戻し、花奈子は大慌てでヘッドライトの方へと駆け戻る。

「何やってんだよ」

「ん、ちょっと車に酔ったような感じがしたんだけど、別に大丈夫だった」

「そう?山道走ったからかな、ごめんごめん」

「ううん、全然平気だよ」

 やっぱり失敗しちゃった、と思いながら、花奈子は助手席に座った。とにかく早くこれを埋め戻さないと、本物の泥棒になってしまう。

 


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