月の魔法は恋を紡ぐ ~特殊な嗜好はハタ迷惑!~/富樫聖夜
ビーズログ文庫
プロローグ
新月の貴婦人
「いたぞ、こっちだ!」
「本当に『新月の貴婦人』っていたんだな、おい!」
「捕まえろ! 捕まえて殿下のところにお連れするんだ!」
長い銀髪を
「誤解です~! 私は『新月の貴婦人』じゃないですから!」
城の廊下を荷物を手に全速力で走りながらリーフィアは叫ぶ。だったら立ち止まって誤解を正せばいいものをと思うかもしれないが、リーフィアには捕まったら困る理由があった。
リーフィアは廊下の角を曲がると、先々代の国王の大きな胸像の陰にさっと隠れた。
ここから先は城の中でも特に複雑に入り組んだ区域だ。曲がり角がいくつもあり、城勤めが浅い人間にとっては最大の難関なのだ。だからこそ逃げ込むには絶好の場所だった。
リーフィアを追っていた男たちが角を曲がってくる。荷物が入った袋を両手で抱きしめながら息を潜めていると、男たちは銅像の物陰に隠れている彼女には気付かず通り越して、すぐ先の角を曲がっていった。
思った通りだ。きっと彼らはリーフィアがあの迷路のような通路に逃げ込んで追っ手を振り切ろうとしていると考えたのだろう。実際はその手前でこうして隠れているのだが。
――さぁ、今のうちに!
隠れていた銅像の陰からさっと出ると、リーフィアはもと来た道を引き返し、使用人たちが道具置き場として使っている部屋を見つけるとその取っ手に手をかけた。思ったとおり、鍵はかけられていない。
少しだけ扉を開いてその中に身を滑り込ませると、中は真っ暗だった。狭い部屋の正面に小さな窓があるが、新月のため月明かりすら差し込むことはない。それがかえってリーフィアのこの目立つ姿を隠してくれる。
リーフィアは扉に寄りかかって荒い息を整えた後、ずるずるとその場に座り込んで膝を抱えた。じっと刻を待つ。時折廊下をバタバタと行き交う足音が聞こえ、そのたびに身を竦めるが、幸いどの足音も部屋の前を素通りしていった。
――あとどのくらいで夜が明けるのかしら?
西の庭にある四阿にいるところを兵士の一人に見つかった時から逆算すると、もうそろそろ夜が明けるはずだ。夜が明けさえすれば――この追いかけっこは終わる。『新月の貴婦人』は消え、リーフィアが追いかけられることもなくなる。
――早く、早く……!
焦る心とは対照的にじりじりと時間は過ぎてゆく。やがてどれほど経っただろうか。リーフィアは身体の異変を感じて顔をあげた。
さっきまでは真っ暗闇だった小さなガラス窓の向こうに、暁闇色が広がっていた。
群青と、青灰色と、わずかなオレンジ色がリーフィアの紫の瞳に映る。
――夜明けだ。
そう思った直後のことだった。
先ほどからリーフィアの胸のあたりでじわじわと始まっていた疼きが強くなり、瞬く間に全身に広がっていく。リーフィアは目をぎゅっとつぶり、膝に顔を埋めた。
「……ふっ……」
声を出さないように唇を噛み締めながら、内側から絶え間なく湧き上がる疼きに耐える。
――やがて、薄ぼんやりとした朝の光が窓から部屋に差し込むと同時に、リーフィアに変化が訪れた。
膝を抱えた姿は一回り小さくなり、かつて月の光を集めたようだと賞賛された髪は色を変える。――白銀から褐色へと。
身を苛んでいた疼きがピタッと止まり、リーフィアは顔をあげた。その瞳は紫ではなく、黒に近い濃い茶色に変わっていた。
「……ふぅ……」
ため息をついて立ち上がったリーフィアは、己の姿を見下ろす。女性らしく丸く膨らみ、服を押し上げていた胸は今や跡形もなくなって、絶壁に近い。
ぴったりだったワンピースはぶかぶかになり、肩からずり落ちそうになっている。それを押さえている手も、先ほどまでのスラリとした長い手ではなく、小さな子どものものだ。
――その姿はこの部屋に入ってきた時とは明らかに違っていた。
この部屋に入ってきたとき、リーフィアの姿は十代後半の、明らかに成人した女性の姿だった。『新月の貴婦人』の言い伝えどおり、長い白銀の髪と、宝石のような紫色の瞳を持っていた。けれど今立っているリーフィアは褐色の髪に黒茶の瞳をした、まだ十歳前後の小さな少女の姿だったのだ。
「また次の新月までこの姿か……仕方ないわね」
小さな口から漏れる声はその姿どおり幼い子どものもの。けれどその口調はやけに大人びていた。
リーフィアは再びため息をつくと、追われている間もずっと手放さなかった荷物の中から子どもサイズの服を取り出した。
手早くその服に着替えると、脱いだ服を荷物袋に詰めていく。それからその袋を抱えて堂々と部屋を出て行った。
自室へ戻る途中、まだ『新月の貴婦人』を捜しているらしい兵士とすれ違う。兵士はリーフィアの姿に目を丸くしたものの、そのまま通り過ぎていった。
結局誰にも呼び止められることなく自室まで戻ってくると、リーフィアはなるべく音を立てないように自分のベッドへ向かった。同室のリリアンを起こさないようにするためだ。
ところがベッドによじ登った時に、不意に隣のベッドから眠そうに掠れた声がした。
「フィラン? どこか行っていたの?」
フィランというのはここでのリーフィアの名前だ。リーフィアはドキッとしながらも、その動揺がなるべく声に出ないように答える。
「起こしてごめんなさい、リリアン。ちょっとお手洗いに行ってました。今日は外に兵士さんたちが多かったです」
「ああ、今日は新月だから『新月の貴婦人』を捜しているのでしょうよ。幻影を捕まえるだなんてできっこないのに、ご苦労様ね」
リリアンはヤレヤレという口調で言う。どうやら彼女は他の同僚たちとは違ってこの一連の『新月の貴婦人』騒動にはまったく興味がないようだ。
「起きる時間はまだ先だから、もう一眠りしましょう」
「はい」
リーフィアは大人しく答えてベッドに入る。彼女が枕に頭をつけた時はすでに隣のベッドからは寝息が聞こえていた。
その音を耳にしながらリーフィアは目を閉じ、眠りの波に身を委ねた。
◆
翌日の朝、あくびをかみ殺しながら職場へ向かったリーフィアは、途中の廊下で盛大なあくびをしている背の高い赤銅色の髪の青年に出くわした。
兵士のように甲冑は身につけていないが、腰に剣を佩いている。
「おはようございます、ブラッドリーさん。寝不足ですか?」
リーフィアが声をかけると、青年はばつが悪そうに口を閉じたが、気を取り直し、笑顔で彼女を見下ろした。
「おはようフィラン。実は昨日ほとんど眠ってなくてね。おかげで眠くて仕方ない」
やっぱり、とリーフィアは思った。この人も昨夜『新月の貴婦人』を捕まえるために城を巡回していた兵士の中に混じっていたらしい。
昨夜さんざん兵士に追いかけられたリーフィアは少し意地悪な気持ちになった。そもそもリーフィアが『新月の貴婦人』に間違えられて追いかけられることになったのも、彼が原因だ。
「確かブラッドリーさんはエーヴェルト殿下の護衛ですものね。そんなに寝不足でも王子様を守って戦えるなんて、さすがです」
無邪気さを装ったリーフィアの言葉は青年――ブラッドリーの痛いところをついたらしい。
「も、もちろん。寝不足であろうと俺がいる限り殿下には指一本触れさせはしないさ」
そう告げるブラッドリーの笑顔はどこか引きつっている。
彼――ブラッドリー・アスマンはアスマン伯爵家の次男で、フォルシア国の王太子であるエーヴェルト王子の護衛をしている。剣を扱うにしてはやや細身ながらも腕の方は確からしく、兵士たちからは一目置かれている……らしい。らしいという伝聞形になってしまうのは、まだリーフィア自身は彼が剣を振るっている場面を見たことがないからだ。
リーフィアが彼について直接知っていることといえば、きりっとした顔立ちと明るく朗らかな性格で女性にも人気があること。エーヴェルトとは幼馴染みでその彼に若干振り回されているということだけだ。
「ところでそのエーヴェルト殿下は?」
リーフィアはキョロキョロと見回しながら尋ねる。ブラッドリーはエーヴェルト王子の護衛としていつも傍にいなければいけないはずだが、ここには彼一人しかいなかった。
「ああ、殿下は――」
ブラッドリーは答えかけてリーフィアの後ろに視線を向けて小さく笑った。
「今いらっしゃった」
次の瞬間、背後から伸びてきた手によってリーフィアの小さな身体が宙に浮いた。
「きゃあ!?」
「おはよう、フィラン」
仰天するリーフィアの耳に、艶やかな声が響く。ハッとして振り向いたリーフィアは、至近距離から見上げる印象的な碧の瞳とかち合い、自分が彼の腕の中に抱き上げられていることを知る。
「ちょ、ちょっと殿下! 下ろしてください!」
けれどその訴えを彼――エーヴェルト王子は無視し、彼女を抱き上げたままきゅっと抱きしめる。
「だめだめ。数日ぶりなんだから、もうちょっと抱かせて欲しいな」
「ひぃ」
いくら外見は十歳の子どもであろうと、本来はうら若き乙女であるリーフィアには耐え難い状況だった。何しろ相手はフォルシア国で一、二を争うほどの美形と人気を誇る男性だ。振り向けばすぐ目の前にきりっとした眉に長い睫、そこから覗く碧い瞳と涼やかな目元、高い鼻梁に形のよい唇と、まるで一級の芸術品のような造形美がそこにあるのだから。
美形家族の中で育ったリーフィアでも、家族以外の美しい異性に抱き上げられ見つめられて、平常心でいられるわけがない。
顔を真っ赤に染めてプルプル震えていると、それがますます相手を嬉しがらせたようだ。
「可愛いなぁ。猫みたいだ」
――助けろ! いや、助けてください~!
リーフィアはこの場にいる第三者、すなわちブラッドリーに救いを求める視線を送った。ところがブラッドリーは額に手を当てて、リーフィアには看過できないような台詞を呟いたのである。
「……やっぱり
幼児性愛病者はリーフィアにとっては自身の不幸の発端であり原因だった。
――
目をカッと見開くとリーフィアは力の限り叫んだ。
「今すぐ下ろせぇぇ――!」
……その後、ブラッドリーを巻き込んで若干もめた後、リーフィアはようやく解放されたのだった。
「あのですね、エーヴェルト殿下。フィランは城で飼っている犬や猫じゃないんですから、見るたびに抱き上げるのはどうかと思うのですが!」
「いや、小さくて可愛いから、ついつい、ね」
「ついついじゃねえよ!」
敬語をかなぐり捨ててエーヴェルトを諌めるブラッドリーに感謝の目を向けつつ、リーフィアは王子が手の届かないところまで距離を取った。それから会話を続けている二人に声をかける。
「あの、私そろそろ行きますね。システィーナ様が待っておられるので」
すると二人はリーフィアの方を振り返って笑顔になった。
「おう、ご苦労様」
「行ってらっしゃい。フィラン」
「失礼します」
リーフィアはスカートをつまんでちょこんと頭を下げ、その場をそっと離れた。
エーヴェルトたちはリーフィアの姿が十分離れたのを確認すると再び話し始める。けれどその話題は先ほどとはまったく異なっていた。
「殿下。昨夜、例の『新月の貴婦人』が出たそうです。俺は出くわさなかったのですが、何人かが目撃していました」
「僕も今さっき報告を聞いたよ。目撃情報をまとめるとやっぱりこの間僕らが見た女性と同じらしいね」
「まさか本当に新月に出るとは思いもしませんでした。ますます言い伝えの『新月の貴婦人』みたいですね」
「そうだね。でも……」
そんな会話が途切れ途切れに聞こえてきて、リーフィアは歩きながら口をキュッと引き結んだ。この分だと次の新月は兵士が更に増えていることだろう。
――もっと用心しないとダメね。捕まるわけにはいかないんだから。
そう、目的を果たすまでリーフィアのもつ秘密を知られるわけにはいかないのだ。わずか十歳で侍女見習いとしてシスティーナ王女に仕えている「フィラン・ウェインティン伯爵令嬢」が、彼らの捜す『新月の貴婦人』であることを。
リーフィアが大人と子ども――二つの姿を持っていることを。
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