8.ごっこの始まり


「はあ?」


 不愉快そうに唇を歪めて、麗哉は読んでいた本を閉じた。紘登は勇気を出して「クラスに気になる女子とかいる?」と問うたことを後悔した。ここまで露骨に嫌な反応をされるとは思わなかった。


「ただの世間話じゃないか……」

「誰かに聞くように頼まれたのか?」

「そんなんじゃないよ……なんとなく、思っただけで」

「随分と俗っぽいことに興味があるんだな」


 この一言にムッとした。確かに日山に話しかけられたことがキッカケだったし、麗哉にこんな風に突き放されることは想定していたし、俗か俗じゃないかでいうと俗な話題ではあるけれど…………。


「……そうだよ、ごめん。くだらないこと聞いちゃったな。今朝、女子に聞かれたんだ。頼まれたわけじゃないけど、それがキッカケで気になっちゃって、聞いた」


 白状すると、麗哉は満足そうに口角を上げた。


「幻滅するところだったぞ」

「君が誰かに幻滅するなんてことあるの?」

「一生に一度くらいはあるだろうな」


 …………もう、何も言うまい。


「ちなみに、前に英語の授業で小町さんに冷たくしたことがあっただろ?」

「小町?」

「小町涼子さん」

「…………?」


 呆れた。麗哉にとってはその程度の認識なのか。どうやら期待していたような会話はできそうにない。紘登は自分が読んでいた本の表紙をなぞった。


 今日の図書当番は一年生の女子だった。受付に座るマジメそうな二つ結びの女子は手元の本に視線を向けている。その他に生徒はいなかったので、二人は気にせずいつもの調子で話をしていた。珍しく行儀よく隣り合ってイスに座り、互いが勧めた本を読んでいる。麗哉は『福音の少年』を、紘登は『車輪の下』を読んでいた。


「この本、面白いな。読みやすい」

「君が普段読んでるものが難解すぎるんだよ……。同時に読み始めたのに、こんなに差がついてる」

「難しいか?」

「難しい」

「どんなところが?」

「どんなって……上手く言えないよ」

「いいから言ってみろ。拙かろうが、言葉にしないとわからない」


 麗哉は微笑み、顔に垂れた髪の一房を耳に掛けた。形の良い耳が露わになって、印象が変わる。普段は凛々しい精悍なその顔が、少し女性的に見えた。


 言葉は難しい。自分が感じたことを、意味を違えず相手に伝える自信が紘登には無かった。言葉にすればするほど、伝えたいことから遠ざかってしまう気がするのだ。


 しかし、それでもいいと麗哉は言った。言葉にしないとわからない。麗哉は紘登の言葉を待っている。相応の礼儀を尽くしたい。


「僕が難しいと思ったのは……相当な熱量の表現を、端的な言葉で圧縮して、的確に繊細に表現されているから、情報量が濃密で膨大……って感じ。言葉が難しいし、単語を理解するのに必死で僕のキャパシティが足りなくて、追いつかない。文字は読めるけど言葉の意味までは読み解けなくて、目が滑って煙に巻かれるみたいな」


 英語の教科書に載っている例文のように堅苦しくなったが、なんとか思ったことを言えた。言葉に変なところはなかったか? 使い方を間違えている単語はなかったか? 心配したけれど、麗哉は「へえ」と言っただけだった。彼の気に障ることはなかったようだ。安心した。


「君はこの本のどんなところがオススメなの?」

「ん……そうだな」


 麗哉は紘登の手から本を取り、パラパラと捲る。普段は鋭く尖っている目の光が和らいでいる。本に視線を落とす麗哉を見ていると、想像力が掻き立てられた。麗哉が読書に費やした時間。紘登の知らない麗哉の生活。麗哉は同い年のクラスメイトに過ぎない。だけどこんなに、神聖な存在に思える。


「このシーン」


 麗哉が示したページは作品の終盤の、紘登がまだ読んでいないところだった。軽く目を通すと、主人公が女の子と人生で初めてのキスをした場面であることがわかった。


「どうしてこのシーンが……?」

「わからないんだ」


 ワカラナイ。


 その言葉の意味がわからず、紘登は麗哉の顔を見つめた。わからない。あの麗哉が「わからない」と言った。


 ああ、そう言えば麗哉は前にも言っていたか。愛情がわからない、と。


「……おい、なんだよその顔は」

「あ、つい」

「お前、時々その顔するよな。間抜け面」

「いや、君にもわからないことがあるんだなあ、と……」

「あるさ。ここまでは面白かったのに、このシーンだけがさっぱりわからない。主人公はどうしてキスごときでこんなに動揺してるんだ? 舞い上がるようなことじゃないだろう」


 その口ぶりは、未知の体験に疑問を抱く少年のものとは違って、その経験がある人間の言葉だった。経験の有無はあえて聞くまでもなさそうだ。紘登は後頭部をガツンと殴られた気分になった。

 そりゃそうか。麗哉ほど女子に人気なら、経験が無いなんてことあるはずがないよな。納得しながらも、内心は複雑だった。紘登は小町と話せただけで、一日中舞い上がっていたほど純粋なのだ。


「キスひとつでこんなに狂喜するなんて、バカバカしいというか……。だけど、世の中にはそういうことを題材にした作品、多いだろう。理解できないのは俺に何かが足りないからなのかな……って」

「確かに恋愛モノって多いよねー……」

「このシーン、何度も繰り返し読んだんだ。だけど、わからなかった」


 この狂気じみている文章を、麗哉が何度も読んだのか。


「お前にはわかる?」

「えーっと……その……キス、したことないから、わからない……はは、変かな」

「別に」


 麗哉の言葉には、未経験を揶揄する響きはなかった。安藤や田中にこんな話をしたら、自分達のことを棚に上げて笑われただろう。

 紘登は麗哉に尊重されたような気がして、嬉しくなった。


 麗哉は何かを考えるように、アゴに手をやった。指先で自分の唇を撫でたり挟んだりしている。物を考えるときのクセだ。


「紘登、俺があげたリップ、付けてる?」

「え? ああ、うん。おかげで……」


 紘登。麗哉が初めて僕の名前を呼んだ。


 そう思った瞬間、紘登の唇に麗哉の唇が触れた。紘登の息が止まる。三秒ほどのことだった。


 突然のキスに思考を奪われ呆然としていると、麗哉のやわらかい唇が離れた。互いにリップクリームを塗っていたので、離れる瞬間、かすかにペトッとした音が聞こえた。麗哉は無言で紘登の目を見ている。その眼差しからは感情が読み取れない。


「……なに、を…?」


 紘登は何とか声を振り絞った。麗哉はそれには応えない。自分の唇をもう一度撫でると、まるで何事もなかったかのように、再び本の世界に戻っていった。それに倣って、紘登も再び本を開いた。適当に開いたページは、先ほど麗哉が示した、主人公が初めてのキスに狂喜するシーンだった。初めてのキスに夢中になり、頭がぐるぐるして、恥ずかしさと高揚と微かな倦怠感で、立っていられなくなった主人公はその場に頽れる――。


 僕にはわかる。この気持ちがわかる。


 だが、紘登は主人公のように取り乱すわけにはいかなかった。いつもと変わらず本を読む麗哉の隣で、激しく甘く渦巻く高揚、奇声を発して床に悶え転がりたい衝動を噛み締めながら、下校時間を知らせるチャイムが鳴るまで、心の底から焦れったい思いをすることになった。


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