第11話 大人への道

 連休明けのオフィスは、どこか雰囲気が変わったようだった。

 浩輔は、活気づいた社内に違和感を覚えながらも、先週で大きな仕事が一つ終わったからだろう、と結論づけて自分のブースに入った。休んでいた間のメールを確認しようとして、ふと社内のアドレスから届いているのが目に留まった。表題には、人事異動に関するお知らせと記載されている。嫌な予感がした。


 高井戸浩輔氏、異動を命ず。


 メールの文面と同じ内容を、昼休みに課長から直々に言い渡された。いつも面倒を見てくれていたその上司は、強制ではないが、入社二年目には他のエリアで勉強をしてくるのが、この会社の仕来りだと説明をした。浩輔は、逡巡したが、自分に拒否権はないと思い、引き受けることにした。

 関東から中国地方への転勤は、翌日の課内会議で全員に発表された。来月頭から異動先での仕事が始まるので、猶予は一ヶ月。それが×××のことを探し出す、タイムリミットだった。

 今週末の日曜は休日だから、また昔の情報網を当たってみよう。平日は通常通りの業務に加えて、新規プロジェクトの手伝いと、転勤前の仕事引き継ぎを併行させなければいけなかった。金曜になっても、とても終わる目処が立たなかったため、結果日曜も自主的に、休日出勤をしなくてはならなかった。


 半月を連続出勤して、期限の二週間前になってやっと、土日の休みを取れることになった。この日は早くに起床すると、朝一番の新幹線に飛び乗り、五時間かけて転勤先の現地に到着した。地元の不動産業者に相談をして、空き住居を探す。ビジネスホテルで一泊をして、そして翌日には、中国地方を発った。

 関東に帰ったのは夕方過ぎで、アパートに入ると、すぐに引っ越し業者の手配や、荷造りをはじめる。想い出の場所を調べている暇は、とてもなかった。一週間前になると、職場での送別会や、友達との飲み会が連続して開催されたため、ますます自由にできる時間が少なくなっていった。


 そして、引っ越し当日。徹夜で仕事の片付けを済ませた浩輔は、寝不足な頭と疲労感の残った体を、新幹線のシートに沈み込ませた。関東から出発する、甲高い警笛が駅構内に鳴り響き、扉が閉まる音がした。ほどなくして、車体が動き始める。ぐんぐんと流れ過ぎていく、都会の高層ビル群。車窓からの風景を眺めているうちに、うっすらとした切なさを覚えていた。

 結局、追想の中の空き地を見つけることは叶わなかった。だが、次の長期休暇の時には、この街に戻ってきて探索しよう。浩輔はまどろみに落ちながら、そう思った。


 新しい中国地方の会社では、歓迎こそされたものの、どこか疎外感がしていた。配属されているのが地元出身者ばかりで、特有の団結力になかなか入り込むことができない。それだけではなくて、小学生の頃に、転校先の学校で不登校になってしまったトラウマが、自分自身に殻を作っているようだった。昔と変わらず、社会人になっても苦手だった。

 浩輔は、仕事に専念することにした。実績を出して、同僚に認めてもらうしかない。異動してからはすぐに、終電の時間までサービス残業をし、時には徹夜で仕事をして日付を跨ぎ、自分の業務が終わればチームや仲間の手伝いに尽力した。休日も返上し、ただひたすら打ち込む毎日だった。その甲斐もあってか、八月に入る頃には職場での、自分の居場所を確立できたようだった。


 夏期休暇には、新しくできた仕事仲間に、キャンプに誘われた。浩輔は絶好の機会だと考えて、参加をすることにした。丁度連休の真ん中で、その予定を入れてしまうと関東に帰る時間はなかったが、今の職場に馴染むことが最優先だと、納得をすることにした。

 年の暮れになると、さらに仕事が立て込むようになった。転勤後の半年で、この地方での有名企業のプロジェクトを任されるようになり、同僚達と協力して業務をこなしていくうちに、本当の意味で迎え入れられたのだと、嬉しく思っていた。

 浩輔の基盤エンジニアの仕事は、連休に差し掛かる一ヶ月前からの期間が、特に忙しい。会社が機能を停止している間に、ネットワーク関係の構築や修正に駆り出されることになる。複数のメーカーの仕事を請け負うことになった浩輔は、サポートセンターで処理ができないほどの大きなトラブルに備えて、たとえ長期休暇であっても、得意先の現場近郊に残ることを、強いられるようになった。


 冬期休暇は、中国地方のワンケーの格安マンションで過ごしていた。浩輔は、前の自宅から運び込んできた正方形のテーブルの上に、カップラーメンの空の容器を重ねて、ホットカーペットに座りながら、年の瀬を迎えていた。特にすることもなく、ぼんやりとテレビを付けて眺めている。スクリーンでは、今年一年の出来事を総まとめにした、特番が放送されていた。

 職場での友達はできたが、グループの旅行や行事以外では、あまり一緒に遊ぶことはなかった。この地方に来てから半年以上が経っているが、前の都心に比べると歓楽街も少なく、土地に精通していない上に、地元の友達もいないため、仕事がない期間はどうしても一人きりになってしまう。その孤独に、身を切るような寒さを感じていた。

 前の部署にいた課長の話では、最初の転勤はおよそ一年から二年だと聞かされていた。その期間が満了すれば、また関東で勤めることができる。だからこの寂しさも、もう少しだ。そして、自分の地元に帰った時こそ、×××との想い出探しを再開しよう。浩輔は、結露で濡れた窓ガラスから、濁った冬空を見据えると、グラスを傾けてハイボールを飲み込んだ。


 年度末になると、また配属先変更の発表があった。浩輔よりも五歳上の同僚が、関東へ異動をすることになった。浩輔が幹事を務める送別会では、代わりに他の若い社員が補充される、という噂を耳にした。

 浩輔が会社に勤めはじめてから、三回目の春。新しく入った女性社員は、浩輔と同い年だった。そのこともあって、教育係に浩輔が指名された。オフィスでは業務内容を教えて、仕事終わりには二人で食事をすることもあった。居酒屋では、つい仕事の話に熱が入ってしまっても、彼女は嫌な顔をせずに付き合ってくれた。そんな彼女に、だんだんと心が惹かれていくようになった。


 夏の初めにはその女性社員、佳枝よしえと交際をしていた。会社では業務的に接するようにして、休日には必ず二人で会う。浩輔と佳枝は転勤族同士で、この地方には馴染みがないため、どちらかの自宅で一緒に過ごすようになっていた。寂しさを埋めるように、お互いを求め合う。浩輔は、なくしていた記憶の不安や、×××への郷愁の想いが、だんだんと薄れていき、代わりに佳枝との日常で上書きされていくのに、気付くこともなかった。

 夏期休暇も年末年始も、佳枝と時間を共有していた。仕事にも身が入り、プライベートも満たされていた。その環境は変わることなく季節は巡り、二年以内には関東に転勤という話もなく、ますます中国地方での得意先の企業も増え、より重要なプロジェクトを任されるようになり、チーム内での中心的な立場に昇格していった。浩輔のその姿を、佳枝も誇らしげに褒めていた。そして再び関東への異動命令が通達されたのは、中国地方に来てから四年目の春先だった。

 浩輔はそれを期に、佳枝に告白をした。関東に戻ったら、もう会えなくなってしまう。自分と一緒に来て欲しい。佳枝は、すぐに承諾はしなかった。少し考えてから返事をしたい。その言葉を信じて、浩輔は待った。後日、彼女からは直接会うことはなく、電話で別れを言われた。今の仕事を辞めるつもりはない、オフも両立できるから付き合っていた。浩輔の転勤の知らせは、佳枝自身にも新しい考えを芽生えさせていたようだった。


 浩輔は、関東の職場に戻った。胸には、大きな空白ができていた。その喪失感は、業務にも支障を来していた。集中力を欠いて、簡単なミスをしてしまう。焦りの色が濃くなってきた時に、突然電話が入った。見慣れない番号を不審に思いながらスマートフォンを取ると、父親の声が聞こえた。

 母が危篤。その知らせで、浩輔は六年ぶりに総合病院を訪れた。恐々と病室に入ると、最後に会った時とは比べものにならないほど、全身を窶れさせた母が、ベッドに仰向けになっていた。ふいごのような音を立てて、苦しそうに呼吸をしている。浩輔は、その姿を見て愕然とした。後悔の念が、漣のように押し寄せる。なぜこの状態になるまで、見舞いに来なかったのだろう。もう母に忘れられているかもしれない、その不安から目を背けていた自分自身が、途轍もなく情けなかった。

 結果、母は無事に峠を越え、容体が安定したようだった。浩輔は、今の住まいがそれほど離れていないこともあって、定期的に通うようになった。それは無視し続けてきた母への贖罪行為のようで、もしかすると、佳枝との訣別からできた心の穴を誤魔化すための、代償行為かもしれなかった。


 関東での仕事と、母の見舞いを両立させる毎日を送るようになってから、一年が過ぎた。浩輔は、特に最近になって、中学高校や大学時代の友人が、結婚をしたという報告をSNSから経由して、いくつも耳にしていた。もう今年で二九歳になるし、周りから送られてくる乳児の写真を見ると、結婚願望が表れることもあった。だが自分には無理だ、とも感じていた。

 浩輔は、昨年から付き合っていた年下の女性と、先月に別れていた。同じ職場での出逢いは避けて、同僚が主催した合コンで親密になった、美容師の女性だった。浩輔が結婚の話を匂わすと、彼女は露骨に嫌な顔をした。それはどうやら、浩輔の母が原因のようだった。

 介護なんて、絶対に無理。彼女は、面倒くさそうに口にした。浩輔は、母のことで彼女に迷惑をかけるつもりはなかった。だがその言葉を聞いてからは、彼女と一緒にいるだけで不快感を覚えるようになり、ついには自分から別れを切り出した。

 浩輔は、いつしか自分が臆病になっていることに気が付いた。ひたすら仕事と向き合って、一人前の大人になることを目標にしてきたはずだった。だが、その働きぶりを認めてくれたはずの佳枝は、彼女自身の仕事を優先させて、いなくなってしまった。老い先短い母に、早く安心できるような姿を見せたいという気持ちは、その反面で母を足枷に捉えてしまうこともあって、自己嫌悪に陥っていた。人生の軸が、大きく揺らいでいるようだった。


 三十歳を過ぎて、浩輔は独り身だった。まるで意地を貫くように、不安を掻き消すかのように。時が経つのも忘れて、仕事に没頭していた。いくつもの春と夏、秋と冬が流れて。再度同じように、季節が一巡して。とても永い年月が経過していた。いつしか周りの同僚は若手が増えて、浩輔は職場の古顔になっていた。会社内での立場も大きく変わって、最年少で課長の役職に就いていた。

 住まいもアパートから、高層マンションに移っていた。自宅に帰り着くと、七つ年下の女性、祐子ゆうこが料理を用意して待ってくれている。取引先とのやりとりや、部下の失敗談を夕飯の席で披露をすると、彼女は目を細めて楽しそうに頷く。浩輔は幸せなはずのその光景に、温もりと同時に圧迫感を覚えていた。

 祐子は、母の入院生活について相談をしていた相手だった。総合病院で看護師をしている彼女に、母の世話に通う度に、会って立ち話をしていた。やがて二人だけで出掛けて、彼女が好きなバーで酒を飲むようになった。看護師が激務だということ、夜勤が連続で大変だということ、体力が持たない時には点滴を打って我慢しているということ、そういった病院での愚痴を、よく口にしていた。


 恐らく彼女は、仕事を辞めたかったのだろう。交際をはじめてから半年後に、祐子から妊娠をしたと聞かされた。浩輔は、結婚は当分考えてはいなかった。過去の経験から、もう少し時間を掛けて検討をしようと思っていた。だから性交時には、欠かさずに避妊をしていたはずだった。だが彼女には、もう精神的な余裕がなかったのだろう。どのような手段を用いたのかはわからない。浩輔は、責任を取ることにした。

 祐子は、身籠もってから三ヶ月目に入り、病院の出勤日数が次第に減っていった。その代わりに、浩輔の自宅で家事をしていることが多くなった。浩輔は、彼女とダイニングテーブルに向かい合って食事をしながら、自分が父親になる未来を想像した。それは家族の温もりのようであり、同時に息苦しさもあった。

 不安に駆られた時には、浩輔は一つの決め事をしていた。祐子が就寝してから、起こさないようにベッドを抜け出した。サンダルを履いて、高層マンションのベランダに立つ。そして、夜空を仰いだ。果てしなく広大で、まばらに輝く星々を。


 思えばずっと、空を見上げていた。

 中国地方への転勤で一人きりになった時も。

 関東への帰還で佳枝と別れた時も。

 母の見舞いで自己嫌悪に陥った時も。

 母のことを重荷に感じてしまった時も。

 祐子から妊娠したという話を突然聞かされた時も。


 そして夜の草原で、幼い彼女と口喧嘩をした時も。


 大空だけは、いつもそこにいてくれた。

 たとえ自分がどの場所に行っても、いくつ歳をとっても。空だけは変わらずに、自分自身を受け入れてくれるようだった。




第12話 桜色の匂い、再び へ続く...

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