第10話 どこにでも行ける背丈

 父さんはいつも勝手だ。

 人の意見を聞かないで、一方的だ。


 ぼくはリビングのガラステーブルを挟んで、大声で叫んだ。父はその反応が思いもよらなかったようで、驚いたように目を瞬かせていた。考えてみれば、両親への初めての反抗だった。積もりに積もった怒りが、口から次々と溢れだしていく。

 前の時もそうだった。いきなりこの町への引っ越しを決めて、ぼくは地元の友達と別れないといけなかった。新しい学校には馴染めなくて、家で眠ってばかりの生活をしなくてはならなくなった。それは全て、父さんのせいだ。

 父は一度面食らったが、すぐに太い眉を寄せて睨み付けてきた。腹の底から、震え上がるような低い声を響かせる。


 なにを言っている、新しい学校に適応できなかったのはお前自身のせいだろう。それを棚に上げて、親のせいにするとは何事だ。そもそも今度の引っ越しだって、お前のためを考えてのことだぞ。どうせこのままだと今の学校には通いにくいだろうから、別の学校に通学させてやるんじゃないか。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはない。


 ぼくは激昂した。それが勝手だっていうんだ。言い捨てて、すぐに玄関から飛び出した。外はすでに夕焼けを過ぎて、辺り一面が紺色の闇だった。全力で走りながら、後ろを確認する。追ってくるような気配は、しなかった。

 足は自然と、×××との空き地に向かっていた。ここ以外に、行く宛てがなかった。

 助けを求めるように、原っぱに転がり込むと、彼女はまた夜空を見上げていたようだった。ぼくの姿を確認して、驚いて駆け寄ってくる。考えてみれば、夜遅くにこの場所に来るのは初めてのことだった。


 どうしたのコウスケ。なにか、いやなことでもあったの?


 心配そうに顔を覗き込む×××に、思わず涙が零れそうだった。やっぱり×××は、ぼくの気持ちをわかってくれる。これまでの少し気まずかった期間のことも忘れて、包み隠さず全ての感情を吐き出した。

 また引っ越しをすること。父さんが自分勝手に決めたということ。そのせいで、会えなくなるかもしれない、ということ。

 ×××はなにも言わずに、うんうんと頷いていた。冬の張り詰めた夜気の中、彼女はただ静かに聞いていてくれた。ぼくが胸を大きく上下させて喋っていたのが、少しずつ落ち着いて、やがて白い息がゆっくりと押し出される。沈黙が訪れると、×××は目を閉じて言った。 


 コウスケの父さんは、本当に君のことを考えているのかもしれないよ。


 この時のぼくには、彼女の言っていることが理解できなかった。むしろ×××に、裏切られたとさえ思った。

 でも、大人になった今ならわかる気がする。父がまた引っ越しを決定したのは、閉じ籠もっていたぼくのことを、心配してのことだったのかもしれない。このまま学校に行けなくなるのではないか、他の子達より勉強が遅れてしまうのではないか。それらを全部解決するためには、新しい環境に連れ出した方がいい。

 でも、その真偽を確認する方法を持ち合わせてはいなかったし、そもそもこの時のぼくの頭は、父への怒りで一杯だった。だから、心にもない言葉をぶつけてしまう。


 父さんの味方をするのかよ。


 彼女の顔を、じっと睨み付ける。

 ×××は目を丸くしたが、すぐにいつも通りの涼しげな顔つきに戻ると、静かに口だけを動かした。


 ぜんぶ認めてあげるのは、本当の友達じゃないよ。それは実際にはどうでもいいと思っている、うわべだけの付き合いさ。楽しいときはいっしょに笑って、悲しいときには励まして、間違っている時には教えてあげる。それが友達だよ。


 ぼくは、急に息苦しさを覚えた。

 まっすぐに見つめる彼女のグレーの瞳と、淡々とした声に、まるで自分自身が否定されたようだった。堪えられなくなって、瞼を瞑って言い返す。


 それなら、ぼくが引っ越してもいいのか。もう来なくなってもいいのかよ。


 拳をぎゅっと、握りしめていた。手のひらに爪が食い込むほど、強く。少しだけ目を開けると、彼女の顔は草原の中央、葉を散らした桜の木に向けられていた。


 子供には、どうしようもないよ。仕方がないことなんだ。


 彼女の諦めたような言い方に、なにかがプツンと切れたような感覚がした。どうしようもないってなんだよ。仕方がないって、そんな理由で諦めるのかよ。震える声で、言い続ける。なんだか寂しかった。自分自身と彼女の出会いが、今まで過ごした日々が、×××の中ではその程度で消えてしまうものだったなんて。そしてなによりも、彼女もそれを認めているように感じられて、より一層悲しくなった。

 彼女には、どれだけ助けられたことだろう。もし彼女がいなければ、二階の窓から見下ろしているぼくを誘ってくれなかったら。この空き地に来ることもなくて、空がこれだけ広いということも、知ることはできなかっただろう。すべては、×××のおかげだった。だから本当は、彼女とこんな言い争いなんかしたくなかった。ありがとうと、ただお礼を言いたかった。でも、それはとてもよそよそしかったし、恥ずかしかった。なによりも、言い争っている最中に言えるような気がしなかった。口から出るのは、攻撃的な言葉だけだった。

 ×××には、わからないんだ。今までのぼくは、白い部屋の中に閉じこもって、壁に漂う黒い染みを眺めているだけだった。生きているのか死んでいるのかも、わからないような状態だったんだ。もうあんな生活はいやだ。あの毎日には、戻りたくない。

 自分でも、なにを言っているのかわからなくなっていた。気が付けば、目元に水滴が溜まっていた。セーターの袖でごしごしと拭う。泣いている姿は、見せたくなかった。情けなくて、負けたような気になってしまうからだ。

 ×××は、大丈夫だよ、と呟いた。いつかぼくが使った言葉に、驚いて顔を上げる。いつの間にか、彼女はぺたんと、わずかに残っている雑草の上に体育座りをしていた。人差し指でちょんちょん、と頭上を指し示している。ぼくも同じように隣に座り込むと、促されるように、その先に目を向けた。


 満点の星空だった。

 宝石をばらまいたような星の大群が、ちりばめられていた。大小の輝きが呼吸をするように、静かに瞬いている。真っ黒に塗り潰されたような暗闇に浮かぶ、その光の粒たちを線でつなぐと、まるで夜の海を泳ぐカモメのようで、もしくは浮き輪のようなドーナッツ、腰に紐を付けて漂う宇宙飛行士のようだった。

 ぼくは凍てついた空気の中で、白い息を吐きながら、ただただ見上げていた。彼女はそんなぼくを横目に、やはりうれしそうに、それでいて儚げな様子で呟いた。


 どこにだって、空はあるさ。引っ越した先にも、どこか遠い町でも、同じようにね。大切なのは、見上げることだよ。それさえ忘れなければ、きっとこれからも、今と変わらない毎日を送れるはずさ。


 ぼくは夜空から、原っぱへと目線を降ろした。

 はじめて出会った日と同じように、いつの間にか隣には、×××が寄り添っていた。それは励ますようで、なにか大事なことを教えてくれているようだった。


 大丈夫だよ。もう閉じ籠もっている必要なんてないさ。だって、世界はこんなにも広くて、きれいなことを、君はもう知ったんだから。わたしとは違って、君はどこにだって行けるんだから。もう怖がることなんて、ないんだよ。


 ぼくは両手で、顔を隠した。肩を振るわせながら、奥歯を噛み締める。この場所から動けないのに、世界の広さを教えてくれる彼女と、どこにでも行ける癖に、狭い世界に留まろうとする、自分。それがただ、悲しくて寂しくて。独りよがりで自分勝手なのは、ぼく自身で。彼女はぼくのことを本当に考えてくれていて。それなのに意地を張って、目から溢れる水滴を必死に隠している。

 そっと、背中に小さな手が触れる。優しい温もりのような彼女に、なにかを言いたかった。だがそれを口にする前に、どこか遠くからぼくの名前を呼ぶ声がした。母だった。

 きっと心配して、探しに来てくれたのだろう。ぼくはゆっくりと、立ち上がった。そして、迷った。このまま、帰ってしまっていいのだろうか。隣で膝を抱えて座る、×××と目線が交わる。本心ではまだ、この場所にいたかった。彼女ともっと、話をしていたかった。

 カーブミラーの影から、母の姿が見えた。ぼくは溜息をついて、諦めたように道路に出た。母はそれに気が付くと、すぐに駆け寄ってくる。ぎゅっと抱きしめられて、母の体の震えと、心臓の鼓動が伝わった。そして、すごく迷惑をかけていたんだな、と自覚した。


 そのまま母に連れられて、自宅に帰ることになった。でもどうしても今日中に、もう一度×××に会いたい。そう思ったぼくは、すでにトラップを仕掛けていた。

 身に付けていた、青色のマフラー。ついさっき、夜空を見上げたときに、偶然に落ちてしまったのだけれど、拾わずにわざとそのままにしてきた。忘れてきたという理由で、また原っぱに取りに戻る作戦だった。

 家に入ると、扉のガラスを通して、リビングのソファに腰掛けながら、顔を強ばらせている父が確認できた。不機嫌な様子から、怒られるだろうな、と覚悟をしていたけれど、母がこっそりと二階に昇らせてくれた。自分の部屋に避難して、そっと耳をそばだてると、階段の下では、夫婦の言い争いが繰り広げられているのが聞こえた。ぼくはしばらく、毛布に潜り込んで、寝たふりをすることにした。


 時計の短針が零を越えて、一を過ぎ、二の数字に差し掛かると、家の中が静まりかえる。ぼくは音を立てずに、ベッドから抜け出した。何回も繰り返していたように、ひんやりとした廊下をそろりそろりと歩く。鍵を開けて、表に出た。

 冷たくて、だけど爽快な空気だった。その中を一直線に、いつもの道を辿るように走る。だが、この辺りは街灯も少なく、いつも深夜には出歩かないから、つい間違えて知らない通りに出てしまった。自分の勘を頼りに、誰もいない住宅街を進む。

 とにかく、会いたかった。会って話をしたかった。それに、いまだにお礼を言っていないことを思い出した。一言だけでも、ありがとうと伝えたい。このままだと喧嘩別れになってしまいそうで、それだけは嫌だった。

 見慣れない十字路の先に、頭を風になびかせた桜のシルエットが映る。よかった、見つけた。安堵しながら、大きく手を振って近づく。


 瞬間、衝撃が体を襲った。

 次に目にしたのは、草原を高いところから見下ろしている、俯瞰の視点だった。眼下の景色では、黒塗りの自動車が無灯火のまま、十字路をものすごいスピードで走り抜けていく。全身が反転すると、今度は夜空に漂う星々が、手の届きそうな距離に近づいていた。そこでぼくは、自分の体が空に向かって上昇していることに、やっと気が付いた。やがて今度は、逆にするすると下降をし始める。ぐんぐんと地面が迫ってくる。ぼくは頬に風圧を感じながら、目をぎゅっと瞑った。


 脳天に響く、鮮明な痛覚。

 そこで追憶は、終わってしまった。


 まるで焼き切れてしまったように。続きのフィルムが再生されることは、もうなかった。




第11話 大人への道 へ続く...

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