太った二人の話

「まあちょっと待ち給え、キミ」

 

 12時35分。昼休みが半分ほど過ぎたその時間に、意気揚々と学食に入ろうとした僕の肩を掴んでその男はそう言った。


 でぶだった。いや、そういう表現は差別的と取られる可能性があり、こういうご時勢だから、あまり好ましくないかもしれない。体型がでかい方にぶれていた、と言った方が良いだろうか。


 小さくて丸い、というのは体型ではなく、その男の眼のことで、その眼を見て僕は思った。ああ、この男は陰のでぶだ。このというのは、言うまでもないことだが、「体型がかい方にれている」の略であって、差別的な意図は全くない。

 

 でぶには二種類あって、それは陽のでぶと陰のでぶである。中庸のでぶ、というのはこの世に存在しない。そしてこの男は、この男の眼は、明らかに陰の方のそれだった。


 だから僕は少し怯えながら、なんですかァ、一体、と答えた。するとその陰でぶは、ふっくっく、と笑って、自信満々に断言した。

「キミのためを思って言っているのだよ」

 正直思った。僕のためを思うなら、早く食堂に入らせて欲しい。12時35分。この時間に食堂に来たのには、重要な意味がある。だから。

「12時35分。この時間に食堂に来たのには、重要な意味がある――んじゃあないかね?」

 と言われた時には、心を覗かれたような気持ちになって、僕は少しびくりとする。

「な――なぜそれを」

 僕は絞り出すように、なんとかそう答える。

「ふふ。おれは人間観察が趣味でねえ。そうして心の優しい人間だから、――というのもある」

 嘘だ。そう思った。この男はどう見ても陰の側のでぶだ。人間を蹴落とし、細かな粗を探し出してはつっつき回るのを至上の喜びとする人間だ。僕の長年の経験がそう告げている。早く立ち去るべきだ。この人間に関わるべきではない。

 そういう警報が頭の中で鳴り響いているのに――僕はどうしてか、その場を動くことができなかった。


 陰でぶの男はまるまるとした短い腕を振り上げて(僕は少しだけ身を竦める)、大仰な仕草で腕時計を見る。そして、ふム、というような声をあげて、ふたたび小さく丸い眼で僕を見る。

「こればっかりは観察だけでは判定できないのでね。直接聞こう。キミはTwitterをやらないタイプかな? それとも――ああその、キミ自身の体型に誇りを持つタイプ?」

 僕自身の、体型。


 もしも世界の人類をサハラ砂漠に集めて体重の降順に並べ替えたとき、僕はかなり前の方に陣取ることになるだろう。そしてひいひい汗をかいて、Tシャツからは塩が取れるに違いない。サハラ砂漠は過酷な環境だから、その塩はそこでは貴重品になり、あるいは高く売れるかもしれない。それは厳然たる事実としてそこにあるが、しかし、別にそのことが人間的な価値と関係するとは思っていない。こうした順序に立っていることに、僕の意思は大して介在していないからだ。自分が生まれ持ったものと、これまでのただ普通の暮らし。それだけで手に入れたものを誇るわけにはいかない。僕に信念と呼べるようなものはないけれど、やはり誇るべきものというのは、何か血のにじむような努力であるとか、強い意志によって手に入れたものであるべきだ、というくらいの考えはある。だから僕はこう答える。

「ええと――Twitterは人並みにはやっていると思いますし、でも自分の体型について、誇るような驕り高ぶった人間になろうとも思わないですね。だから、あなたの人間観察とやらは、その、なんていうか」

 あまり精度が高くない、などと言うとこの陰でぶを激昂させてしまうかもしれない。だから途中で僕は言いよどみ、視線をさまよわせて、結局自分の腕時計を見る。12時38分。ぎりぎりだ。急がないと。


 焦る僕を尻目に、陰でぶは高笑いをする。学食を出入りする人たちが怪訝そうに僕たちを見る。この男と同類だとは思われたくないと僕は思う。僕は体型を誇ることこそしないけれども、自分は陽のでぶだと信じている。日の射す世界に住む、明るい、暖かいでぶだと思う。少なくともそうあろうとしている。でぶとして生きる上で中庸はない。そうだとするなら、光射す方を目指したい。僕はそういう類の人間で、そして、この男はおそらくそうは思っていない。相容れない。なのに男は親しげに言う。

「ふはは。その体型に引け目を感じていない、というだけで十分さ。キミを引き留めた甲斐もあるというものだ。いいかね、おれを信じろ―—と言ってもそうはいくまい。そうだな、あと一つだけ質問に答えて貰おうか。そうしたらキミは自由だ。そのくらいなら付き合ってくれても良いだろう?」

 良くない。ぜんぜん良くないと思った。


 でも僕は、「なんですか、その質問って?」と答えてしまい、それでもう少しこの場に留まらねばならなくなった。本当は最初から僕は自由だった。肩を掴まれても、すぐに振りほどいて学食の中に向かうことも出来たし、会話を続ける必要なんてなかった。そのはずなのに、僕はいつのまにかこの男に囚われていて、そして「キミは自由だ」と言われて、ようやく自分が不自由の鎖に繋がれていたことに気づく。釈然としない僕に、男は問うた。

「クエスチョン。それらは量産されている。オーダーメイドでもなんでもないできあいのもので、製作者の技量はほとんど全く問われない。ブランド名なんかの影響も全くない。それらは同じ場所で提供されているし、現実に同じ価格で購入できる。しかしそれらの間には明らかな価値の差がある――などと言うことが起こり得るだろうか?」

 これには流石に陽のでぶを自認する僕もかちんと来た。許せないと思った。

 こいつは明らかに、僕のことをいたぶって楽しんでいる。そういうことだったのだ。やはり陰のでぶとは関わるべきではなかった。彼らは陽のでぶに憧れ、しかしそうはなれない自分への苛立ちを、あろうことか陽のでぶにぶつけてくるのだ。今までだってずっとそうだった。これまでの経験に従うべきだった。

 許せないと思った。なによりもこの陰でぶに付き合ってしまった自分が許せなかった。だから僕は、「それが分かっているなら――」と吐き捨てるように言い、陰でぶの顔を睨んでその場を立ち去った。不気味なことに、僕が怒りを込めて視線を向けても、陰でぶはにたにたと笑っていた。それだけならまだしも、早足で歩く僕の後ろにぴったりついて、学食の列に並びだした。いい加減にしてほしい。そう思ったが、僕はこれでも陽のでぶだ。温厚。温和。包容力。そういう風に暮らしていきたい。陰りの中で震えて生きていたくはない。だから僕は、陰でぶの方には目もくれず、決然とトレイを取って、丼・カレーの列に並んだ。

 昼休みも後半だから、列自体は短い。一体何を食べようか……と軽く悩んで、食堂のカウンター上に貼り付けられたメニューを一瞥するが、特に目新しいものはない。たまたま前に並んだ人たちが連続で牛トロ丼を注文するのを見て、僕もそれにしようかな、と思う。僕の注文の番まで、あと一人というところで、大きなトレイを持った調理のおばちゃんがカウンターの奥から現れ、「タツタ揚がりましたー!」と大きな声で告げる。


 衝撃だった。驚きのあまり、後ろを振り返ると、あの陰でぶが、相変わらずにやにやと笑いながら、僕にウインクをする。信じられない。そんなまさか。

「ご注文どうぞー!」

 おばちゃんの声で僕は我に返り、「チキンタツタ丼、大盛りで! あと豚汁一つ」と高らかに宣言した。陰でぶもまた、「次の方ー」と問われて、「チキンタツタの大」と答えた。


 揚げたてのチキンタツタ丼の会計を済ませて、箸を取る。いつもなら1秒でも早くタツタに齧りつくところだが、今日はグッとその気持ちをこらえて、水を二杯汲んで戻ってくる。ちょうど陰でぶが会計を済ませ、チキンタツタ丼の端にニンニクを絞り出している隣に立って、どちらともなく二席空いたテーブルに向かい合わせで座る。


 陰でぶに水を一杯渡して、僕は尋ねる。

「一体どうして分かったんです?」

 陰でぶはにやりと唇の端で笑って、

「ふふ。まずはこのタツタを楽しもうじゃあないか」

 と言った。それには僕も全く同感だったので、揚げたてのチキンタツタに精神を集中することにした。


 美味しい、あつあつのチキンタツタを堪能し、豚汁を啜りながら僕は尋ねる。

「で、これは一体どういうことなんです?」

 隠でぶ、いや、彼は、飯粒を器用につまみながら答える。

「ふふん。まあ、簡単な推理――いや、推定さ」

「推定」

「そう。キミにも現象は分かっているだろう?」

「そうですね。つまり、今日はチキンタツタが揚がるのに、五分余計にかかる出来事があった――ということですよね」


 僕は先ほどの彼の質問を思い出す。

「クエスチョン。それらは量産されている。オーダーメイドでもなんでもないできあいのもので、製作者の技量はほとんど全く問われない。ブランド名なんかの影響も全くない。それらは同じ場所で提供されているし、現実に同じ価格で購入できる。しかしそれらの間には明らかな価値の差がある――などと言うことが起こり得るだろうか?」

 この問いの答えは簡単、チキンタツタ丼である。チキンタツタ丼は間違いなくできあいのもので、そりゃあ揚げるおばちゃんによって多少の差はあろうが、基本的にはおそらく揚げ時間のマニュアルが策定されているはずで、だから技量はほとんど全く問われない。

 別に「阿波尾鶏」とかそういうブランドを冠したものがあるわけでもない。ただの、堂々たるチキンタツタ丼である。この学食で同じように供され、いつ買っても同じ値段である。ただし――同じチキンタツタにも、明らかな価値の差がある。それは、、ということだ。

 揚げたてのチキンタツタはうまい。もちろん普段だって冷たいわけじゃあないが、保温状態のチキンタツタと揚げたてのチキンタツタでは、2倍以上のうま差(うまさの差分のことだ、言うまでもなく)があると思う。同じ値段を支払って、同じ場所で食べていても、その価値、体験は全く異なると言って良い。


 だから僕は12時35分にここに来た。これは数年の学生生活をすごしてようやく見つけた、人生における数少ない真理の一つである。

 12時から昼休みが始まり、この時間には既に揚がった大量のチキンタツタが用意されている。だから12時丁度に汗をかきかき列の先頭に並んだとしても、既にそこにあるのは保温状態のチキンタツタである。

 ただし、大数の法則により、毎日大体一定の割合でチキンタツタは売れていく。揚げてあったチキンタツタの在庫が乏しくなった時、新しいチキンタツタがそこにやってくる。このタイミングを掴むことができれば、揚げたてのチキンタツタを賞味できる。言うは易いが、行うのには不断の試行錯誤が必要だった。

 

 12時30分に列に並び、僕の頼んだチキンタツタで在庫が僅少になったか、「タツタお願いしまーす!」と叫ぶおばちゃんを見て、内心臍を噛んだこともあった。ならばと12時40分に列に並び、もはや保温状態だったチキンタツタにあたってしまい、枕を涙で塗らした夜もあった。そうして見つけた時間が12時35分なのである。それも水曜の12時35分。この時間は近隣の学部の必修講義が重なっているようで、普段よりも学食はにぎわっている。そのため、母集団が増えるため、安定して一定数のチキンタツタが捌けるというわけである。


 ところが今日は、そのTAT(タツタ・揚げたて・タイム)が後ろに5分ほどズレたことになる。稀にそういう日があることも事実だが、なぜこの男にはそれが分かったのか。僕にはそれが不思議でならなかった。 


「今日は鍋の調子が悪いとか?」

「そういうこともあるかもしれないが、おれにはそれを知る術がない」

「何かの講義が休講で、人が少なかった」

「キミはその情報を調べていないのか? TATを掴むための、初歩の初歩の技術だぞ。次からやるといい――今日は違う」

「四月になったばかりで新入生が多いから、テンポが変わる」

「だとしたらTATはになるはずだ。それに、そのくらいは学食側も織り込み済さ。ある程度は多めに揚げている。まあそれでもトレイの容量には上限があるから、かならず30分頃には追加を発注するわけだが」

 それでピンときた。鍋の調子は知ることはできないが、トレイの容量は外から観察すれば分かる。僕はチキンタツタとメニュー表を見るのに必死でトレイまで見ていなかったが、この男はそういうところをきちんと観察しているのだろう。すばらしい、と思った。だから僕は大声で言う。

「なるほど! トレイのサイズが変わった!」

「違う」

 違った。あれ。絶対正解だと思ったのに。


 男は米粒を全て食べ終え、静かに水を飲みながら、こう言った。

「さっきおれが言ったことを思い出すといい。キミはTwitterをやっているか? そして、体型に誇りを持っているか?」

「Twitter」

 僕は慌ててスマホを取り出し、Twitterを開く。モーメントやトレンドを確認する。今日、または昨晩話題になったツイートを探す。

 見つけた。僕自身も、RTで回ってきたものを確実に見ていた。


 それは「生肉はうまいだけではなく、リパーゼが含まれているので痩せまでする神の食材」と言った内容のツイートで、正直眺めてはいたものの、全くなんの影響も受けていなかったし、内容だって真に受けてはいなかった。ただ。

「そう。そのツイートは1万RTされており、おそらくここの学生もかなりの数、このツイートを見ているものと思われる。その一部は、『痩せるなら』とか、『話題の生肉ダイエット始めました、と言いたい(加えて大盛の丼の写真を乗せることで、『ダイエットじゃねえだろ』、といったコミュニケーションを誘発したい)』がために、牛トロ丼を頼むだろう――と推定できる。そうすると」

「チキンタツタの出が悪くなる」

 話だけを聞けば単純明快な論理だ。誰にだって分かる、簡単なことである。

 でも僕はすごいと思った。群集の心理と、その群集心理の効果を、秒単位とはいかないまでも分単位で見抜かないとこういうことはできない。この陰でぶ、ただものではない。


「すばらしい。おかげで美味しいタツタを食べられました」

「何、おれはうれしいのさ。くだらないツイートに踊らされず、自分の体型に誇りを持ち、食いたいものを食う――そういう男が、おれの他にもいることがな」

 男はそういってやさしく笑い、ふたたびウインクをした。

 陰でぶにしか見えなかったその小さく丸い眼がとてもやさしくて、僕は戸惑ってしまった。春のやわらかい風が、学食を吹きぬけたような気がした。




 ――これが僕と、「揚げたて探偵・肉増太郎」との最初の出会いだった。


(続かない)

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