七月のくじ引き

 公式を当てはめるのに飽きてペンを転がしながら机に伏せた。静かな美術室には葵のスマートフォンから控えめに音楽が鳴っている。葵のすきな携帯ゲームのサウンドトラックだ。私も覚えてしまってどのステージの曲なのか分かってしまう。数学の課題、残り三問。さっさと終わらせればいい数だけどどうしても集中力が切れてしまった。葵はずっと目の前の点描画に向かっている。コツコツと点を打ち続けている。放課後毎日ずーっと。描いている鳥のいる風景はどこの景色でどういう思いが込められている絵なのか私は知らない。私は放課後毎日ずーっと葵と一緒に美術室に来て隣に座ってだらだらと時間を過ごしていた。

 私は美術部員ではなく帰宅部員だ。ちなみにこの高校の美術部には部員がそこそこ居るけれど放課後残る人間はちらほらとしかいない。みんなどこで制作しているのか気になるけれど半帰宅部みたいな人間も多いようだった。そしてこんな下校時刻ギリギリまで残ってるのは熱心な葵と私くらいなもんだった。

 目の前の食べかけのお菓子の箱から長細いチョコレートを一本詰まんで葵の口元へ持っていく。「ありがと」とだけ言って葵はそれを咀嚼だけでもぐもぐと口の中へ運んだ。手はずっと絵に向かっている。

 残り三問と葵を交互に見比べて溜息を飲み込んだあと、お菓子の残り一本を自分の口へ放り込んだ。やる気になれないから家で解こう。明日は朝に英単語の小テストもあるんだった。やることが多い。


 葵は課題を毎日家で全部やるみたいだ。「手伝おうか?」と聴いてもいつも「いい」と返される。葵は勉強もできるし、運動もできるし、手芸もできるし、歌も上手いしギターも弾くし、できないことなんてまるでないみたいなすごい人間だ。

 すごい人間だから惚れたわけじゃない。同級生達よりいくらか膨らみが目立つ胸の大きさに惹かれたわけでもない。私はただ葵の隣の居心地がよかった。静かで、でも音楽が鳴っていて、余計な会話がなくて、だけど何も話せないわけじゃないそんな友達がすきだった。でも友達に心底惚れこんでしまったら、あるいは性的に興味を抱いてしまったら、それをどうしていいのか私には分からなかった。

 葵がペンを持つその柔らかそうな手に触れたい。ギターを弾くから指先が固くなっていて、私より少し大きなその手に触れたい。制服姿じゃなくて私服姿が見たい。葵のパジャマが見たい。葵の布団に潜り込みたい。

 葵本人を隣にしながらこんなことを考えてしまう。けれどもちろん口に出せない。出せるわけがないのだ。出した瞬間に終わる。色々と。

 私はこの居心地がすきだったし失いたくなかった。でも葵の手に触れたい。べつに女同士、いや相手が男の子だろうとちょっと手に触らせてもらうくらい何の問題もないのかもしれない。でも私がもし葵に触れてしまったら、色々と伝わってしまいそうな気がするのだ。多分平常心を保てないだろうから。顔は引きつるだろうな、こんな風に。

「へ…」

「藍、手つめた。寒い?」

「い、いや…冷え性なだけで平気…」

 体ごと固まってしまってそう言うのがやっとの私から葵の手が離れていく。葵の手はあったかくて思っていたよりずっと柔らかくて、でも指先は固くて、それで。

 なんで今葵が私の手を握ったのか分からないし、わざわざペンから手を離したのかも分からなかった。葵はまた点を打ち始めたので聴けない。作業の邪魔はしたくない。でも本当になんでなのかわからないまま自分の手を握ったり開いたりしてみる。

感触が、まだ残っている。これだけで今夜安眠できそうだなと思えるほどの良い感触が。


 準備室の油絵具の匂いを思い切り吸い込む。この匂い、初めは苦手だったけれど葵の側に居たらすきになってしまった。動揺したままトイレに行きたくなり、用を済ませて手を洗っているときに「しまったな」と思った。洗わなければよかったと思った。でもトイレに行ったら洗わないとまずいし、習慣で洗ってしまったし、葵は有名人じゃないからまた手ぐらい触れる、などと考えながら一度落ち着きたくて準備室に寄った。

 ここには葵が前に描いた油彩の絵がある。私はこの絵がすきで仕方ない。花が描かれている絵だ。白いチューリップを描くのに白だけじゃなくて色々な色が使われていて、それは陰影を付けるために当たり前なのだけど描き方や美術に疎い私は素直にまずそこに感心してしまった。緑色の花瓶にささった何輪かの白いチューリップ。つぼみもある。

 やわらかい光の中に咲く白いチューリップのやわらかい印象の絵だ。見ているこちらの気持ちがあったかくなる。絵ってすごいなと思う。

 葵はパソコンでドギツイ色の絵も描いたりするからギャップがすごい。でも全部見てみると葵の絵だなって納得してしまう。一貫した葵らしい空気がそこにはある。上手く言い表せないけれど。


 友達に告白するのはやめよう、と私は思う。葵とはずっと友達でいようと思う。そのほうがずっといい。ずっと側に居られる。それに私のこの気持ちって一体どこまで本物なのか自分でもわからないのだ。

 葵とキスとかしたいのか?それ以上も?そう考えると分からなくなる。

 でも葵が横に立って歩いていると不意にスカートをめくりたいような気持ちになる。休日にシフォンのワンピースを着ている姿を見ると思いっきりふわっとやりたくなるような気持ちになるし、できれば私がそのシフォンになりたいとさえ考えてしまう。

 ああ、やっぱり本物なのだ私は。頭を抱えながら花瓶の緑色に目を奪われる。ぼんやりしていたので後ろから声をかけられた時に思い切りびっくりしてしまった。

「いつまでそこにいるの?」

「はい!?」

「え、何」

「あ、ごめん…絵見てただけ」

「もう帰るけど」

「ああそっか、うん」


 リュックを肩にかけてクーラーのスイッチを切ると二人で美術室を出て葵が鍵を閉めた。ほとんど真っ暗な階段を下りながら職員室を目指す。

 葵って放課後毎日点描してるけれど授業中に放課後のことって考えたりするんだろうか。例えば五限中に「これ終わったら点描だー」とか。

 私は朝から今日も放課後は美術室だということに少しウキウキしてしまってるけれど葵は点描を「きつい」としか言ってないし、疲れるんだろうな。私のようにウキウキしてるわけはないか。


 職員室に鍵を返したら真っすぐ帰る。もう七時前だし、どこかに寄ることはない。今からどこかに寄ってたら課題や小テストの勉強をする時間がなくなる。明日は金曜日だ。土日に何にも予定がない私はどうせ家でだらだらと過ごすのだ。たまに葵と遊びに行ったりもするけれど今週はないだろうな。

「土曜日暇?」

「え、暇」

 今日は何か葵に考えていることが見抜かれているような気がする。私もしかしてうっかり口に出してやしないだろうな、と心配になった。

「映画行こうかと思って、藍が見たがってたやつ今週からだよね」

「うん、え、私言ったっけ」

「言ったよこの間ー」

 そうなのか、と思いながら自分が言ったかも怪しい一言を葵が覚えててくれたことにドキドキしてしまった。きっと葵も私をいい友達だと思ってくれていて、だから覚えてくれるんだろうけど、それで充分嬉しいけど。


「やっぱりまだ冷たいね」

 駐輪場に足を踏み入れたところでまた手を握られてしまった。今度こそ完璧に固まってしまった私と、熱心に私の手を揉む葵の姿があった。

「あったかくならないかな」

 両手で包み込まれて気が遠くなりかけながら私はなんとか両足で地面に立つ。

「私本当に冷え性だからそんなに簡単には…」

「そうかあ」

 今は蒸し暑い夏だけれど少しでも冷房の効いている場所に居ると私の手は冷えてしまう。これが戻るには時間がかかる。

 でもこんな風に葵に手を握られていると手からじわじわと汗が出てきそうで私は焦った。でもあったかい葵の手が気持ちいいのも事実でただ心が温められてしまっているような気もする。

 私は葵とどうなりたいんだ。分からない。分からなくて苦しくなる。

「そんなに寒い?」

「え、寒くはないよ。手が冷えてるだけで、暑いし今日も…」

「なんかしんどそうな顔してるから」

「そんなことないよ…」

「説得力がない」

「ひえっ…」

 葵の温かい両手に顔が掴まれてしまっていて、私のぽかぽかしていた心など爆発気味に吹っ飛んで物を考えられなくなった。緊張でどこを見ていいかわからず何故か葵のスカートの裾に視線を集中させてしまっている。

「なんか悩んでるなら、話せるなら、聴く」

「なんでもないです…」

 そのスカートがめくりたいなんて言えません。言ったところであなたは困惑するのでしょう。私は私が葵とどうなりたいかわからないけれどそのスカートをめくりたいんです。ずっと手を握られていたいんです。ああそんなことが言えるわけがない。だから私は顔を伏せたまま顔を上げられない。

「ふーん」

 葵は私の顔から手を離そうとしない。葵はちょっと頑固なところがあって、私はそれを知っているから余計に焦った。でも言えるわけがない。

 スカートの裾から葵の胸に視線を移しながらそんなところばかりにしか目がいかない私を許してほしいと思う。それから何も言えない私のことも。でも私が一番すきなのは葵の中身もだけど、なんでか葵の輪郭がすきなんだ。

 顎から首にかけてのラインがすきで、いつもそこばかり見てしまう。けど今は見られない、この状況では視線を上に上げられない。何せ葵との距離が近い。

 蝉が鳴き続けている。私は背中に汗をかきまくっている。油絵具の匂いがした気がした。何故、ここでは香らないのに。

 気が付いたら私は葵の両手を顔から引きはがして葵に思い切り抱き着いてしまっていた。深く匂いを嗅ぐけれどもう油絵具の匂いはしない。葵はバランスを崩して少しよろめいたあと私の体を支えてくれた。

「なんかあった?」

「ないよ」

「本当に?」

「うん」

 強いて言えば今この状況が「なんかあった」にふさわしい。とうとう自分の動きたいように葵に向かって行動してしまった。葵が頭を撫でてくれるので泣きそうになってしまった。

「泣いてんじゃん」

 とっくに泣いてしまっていた。

「ごめんね…」

「なんで藍が謝るのさ」

「だって、ごめんね」

「言わないとわからないけど」

 言えないから、ごめんね。その言葉を飲み込んで私は葵の体を抱く腕に力を込めた。思っていたよりずっと簡単で、ずっと抱き心地がよくて、呆気なくて、でも私と葵の間には薄い壁が一枚あるように感じる。

 私に見えてしまっている透明な壁。友達という超えられない壁。早く葵から離れなくてはどうにかなってしまうかもしれない。

「ごめんね、土曜日に言うね」

 そう言って体を離した。ぐずぐずに泣きながら私は目元を自分の手で拭った。

葵は丸くて澄んだ目で私をじっと見た後に「分かった」と言った。


 明日は学校を休もう。そう思いながら浴槽に身を沈める。裸の自分の体を見るのが嫌で湯が乳白色になる入浴剤を入れている。気まずくて会えない。土曜日もちょっと気まずいけれど約束をしてしまったし。とにかく明日は無理だ。

 顔を半分湯の中に沈めながら心の中で「あーあーあー」と呻いた。

 ずっとするつもりのないことをしてしまった。やりたかったけどやるつもりなんてなかったことをしてしまった。

 腕に残る葵の体の感触を思い出す。やっぱりそういう意味で私は葵がすきなんだと嫌でも自覚させられる。

 「土曜日に言う」とは言ったけど言うつもりなんてない。ああでも言わないと家に帰してもらえそうになかったからそう言ってしまっただけだ。

 明日の放課後は葵は一人で点を打つのだろうか。そこに私はいなくて葵はどう思うだろうか。ひとりで静かに集中して絵を仕上げるだろうか。もうすぐ終わるって言ってたし。

 ああ葵の絵がすきだからいつまでも見ていたい。この先の新しい作品も見たい。だから言っちゃいけない。

 浴槽の淵に頭をゴンゴンとぶつける。痛いけれどそれで落ち着くはずもなかった。まだ腕に感触が残っているのだから。




『課題持ってきたけど居る?』

 スマートフォンに葵からメッセージが来て私はベッドの上で跳ね起きた。まだ午後四時過ぎで葵なら美術室にいると思い込んでいたからだ。それに葵が家の前までくるなんて予想もしていなかった。

 慌ててベッドから降りて家では身に着けていないブラジャーを着けてついでに新しいTシャツに着替えて玄関に出た。

 暑くて仕方がない、と言った顔の汗だくの葵がそこに居た。

「どうも…」

「暑い」

「入ってください」

 階段を上がってクーラーの効いた自室に戻る。適当なクッションの上に座ってもらってから私はひとりで麦茶を取りに下に降りる。気まずい。気まずいしまずい。葵が家に来てしまった。

 しかも課題だけ受け取ってそれでよかったかもしれないのにあんなに暑そうにしてたら部屋に上げちゃうじゃんか。

 上げてしまってから事のまずさに気が付く私の、ポンコツレベルがすごい、大賞受賞。

 大体葵が部活をやらずに私の家に来た時点で大分びびってる。課題なら土日はさんでるしそれこそ明日渡してもらってもいいレベルなのに。


「おまたせー」

 なんでもないフリを装いながら麦茶の入ったガラスのコップを二つミニテーブルの上に乗せた。葵が汗をふきながら麦茶を一気飲みしたので私はすぐに一緒に持ってきたボトルからおかわりをついだ。

「ありがとう」

「いやこっちこそ、てか部活は」

「今日はサボり」

「そうなんだ…」

「藍がサボるから」

「いやほんとに体調がね…」

「じゃあ明日やめる?」

「いや、いくよ」

「やっぱサボりじゃん」

「はい…」

 何も言い訳できなくて私はその場に正座してしまっている。自分の部屋で床に正座する日が来ようとは思ってもみなかった。

「サボりはいいけど何も言わないからさあ」

「ごめん昼まで寝てた」

「寝不足?」

「まあまあ…でも寝たし」

「そうだろうね」

 正座したまま麦茶を一口飲む。また昨日みたいな流れになったらまずい。もうなりかけてるけどこの流れを断ち切らなければ。

「テレビでも見る?」

「いい」

「じゃあ課題やろっか」

「あとで」

「えっと…」

「昨日の話だけど」

「はい…」

 葵は真剣な顔つきで私を見つめていた。猫背気味の私の背が自然ともっと丸くなっていく。もうこの話題からは逃げられない。

「流石に泣かれたら話聞かないとまずいかなって」

「たいしたことじゃ…ないんだけど」

「すごくしんどそうな顔してたし、今もしてる」

 葵は手を伸ばして私の頬にぴたりと添えた。ドキリとしてTシャツの中でまた背中に熱が集中した。顔も熱くなっていく。葵の手は本当に温かい。

 私は目を閉じてその手に自分の手を重ねた。温かくてやわらかい手だ。この手はきっと私の為じゃなくて誰か素敵な男の子の為に使われて欲しい。

 そんなことを考えていたら朝になっていたんだ。

「藍…?」

「もう大丈夫だよ。葵が来てくれたから元気でた」

「じゃあなんで泣いてるの?」

「葵こそ泣いてる」

 葵が泣いているところ見たのなんて初めてだなと思いながら、それが妙に嬉しくて、でも罪悪感で胸がいっぱいにもなった。二つの感情がぐるぐると自分の中で回る。

 

 手を離して二人でティッシュで鼻をかみながら心の中で葵に謝る。葵が納得できる答えを渡してあげられない。本当にごめん。

「藍が学校に来ないとやる気でない」

「絵の?」

「絵もだけど授業も、小テストも」

「そっか」

「サボるの知ってたら私もサボってたのに」

「へえ」

 意外だなと思いながらもう一度鼻をかんだ。葵は無闇に学校をサボったりしないし真面目なところがあるのに、サボるなんて口から出るとは。

「お弁当も他の子たちと食べたけどあんまり話さないから気まずいし」

「それはごめん。でも授業全部出たんだね」

「だって課題あったら藍に渡さないと、って思ったから」

「うわーごめんね」

 本当に悪いことしたなと思って頭を下げて謝る。葵は私の抱き枕を抱えて横を向いてしまった。

「もう知らない」

「ほんとにごめんね」

「課題のことじゃない」

「えー…うん…」

 言うまで帰らないって言われたらどうしよう。それに私が普段たまに葵だと思って抱きかかえている抱き枕を葵が抱きかかえている。葵が葵を抱えている。

「何笑ってんの」

「へ?ごめん」

「もう藍はなんなの!」

「申し訳ありません…」

 葵は抱き枕を床に置くと私のすぐ側へずいっと寄ってきた。またにらめっこさせられる、と反射で目を閉じると溜息が聞こえた。

「本当に言えないこと?」

「言えないことだよ」

 目を開けると葵はあぐらをかいて床の木目を指でなぞっていた。

「言うとどうなると思ってんの」

「えっと…」

「それだけでも、教えてくれても、そしたら一緒に考えられるかも知れないって…」

「それを言っちゃうと言ってしまうことになるから…」

「分からないじゃん」

「いやそのものなんだもの」

 葵は床にぺったりと両手をついてそこに体重をかけながら喋りにくそうに喋った。

「私がなんかしたなら…」

「してない、してないよ葵は何にも」

 誤解されたことにぎょっとして慌てて手をぶんぶんと振った。

「でも…なんかあるなら言って欲しい」

「ほんとに葵のなんか、そういう、そっちじゃなくて、葵が嫌になったとかそういうことじゃなくって」

「じゃないの」

「ないよ、ほんとに」

「本当に?」

 見上げた顔が不安そうに歪んでいて、今すぐに抱きしめたい衝動に駆られる。違うんだよ真逆だよって言いたいけれど葵はきっと「そう」じゃないから言っても困らせるだけだ。

「じゃあジャンケンしよう」

「へ」

「私が勝ったら藍はなんでも吐く。負けたら…悔しいけど何も言わなくていい」

「いや、いやいや、いきなりそんな」

「私だって…こんな強引に言わせるなんてしたくない…でもこればっかりはすっきりしない」

「無理だって…」

「じゃあジャンケンじゃなくてもいいよ」

「え」

「藍が決めていい。どうしたいか。ここに消しゴムがあります」

 葵は言いながら私の机の上から消しゴムを手に取った。

「はい、右手の中に隠しました。左手は空です」

 そして右手の中に消しゴムを握りしめると空っぽの左手を広げて何もないことを私に確かめさせた。そして左手もぎゅっと拳を作った。

「さて、消しゴムはどっちに入っているでしょう。当てられたら答えなくていいです。外したら…なんでしんどそうなのか話してください」

 葵は私の目の前に両の手をずいっと出した。どっちに消しゴムが入っているかは明白だった。私は右手を指して消しゴムをゲットすれば言わなくて済む。それで済む。でも私は今迷ってしまっている。空っぽの左手を選ぶかどうか。

「さあ」

 葵が私を促す。だってずっと言わないつもりだったんだよ。葵にはすきな子くらいいるかもしれないし、彼氏とかできるかもしれないし、そもそも私に、女に、興味持つとは思えないから。

 でもここで玉砕して、そしたら葵なら今まで通り友達で居てくれるかもしれないって考えが頭をよぎった。私はすっきりして、葵はちょっと困惑して、でも今までどおり気にしないでいてくれる。…いやいやいやそんなに都合いい話あるわけない。葵をかなり困らせてしまう。そんなのは嫌だ。それに玉砕したら私もしんどいだろうとぼんやり思う。隠し続けるより多分ずっと。想像よりずっと落ち込む気がする。

 右手を選ぼうと思った。消しゴムの入っている方を。そのほうがいいんだって私は知ってる。

「藍」

 でも私を呼ぶ声があまりにやさしいから私はすがるように左手を握ってしまっていた。なんにも入っていない空っぽの方の左手を。

「私は…」

 葵の左手をぎゅっと握りしめながらちゃんと言おうと思って、できなくて、声にならなくて涙を零してしまっていた。拭おうとしたらふわりと香る葵の匂いに包まれた。

「泣くほど嫌なら言わなくてもいいから…」

 そういう葵の声が震えていて私たちって泣き虫って点で似ていたんだねって、どこか頭の片隅で思った。

 ぎゅっと抱きしめ返して、一呼吸ついてから静かに言葉を口にした。

「私は、このまま葵を離さなくていいなら、そうしたい」

「ん?」

「だから、ずっとこうしていたい」

 葵の体が私の腕の中で強張るのがダイレクトに分かってしまった。ああやっぱり駄目なんだなって思いながら最後ならもう少しだけ堪能させてくれ、と離す気を失くす。

「ちょっと待って」

「何」

「それだけ?」

「え?」

「だから、私をぎゅっとしたいっていう、そういう悩み?」

「ええ…違うよ」

「そっか…」

「そうだよ…」

 そこまで話したら葵はなぜか大人しくなってしまった。さっきより体がやわらかくなって、私の肩あたりに顔をぴったり寄せている。

「えっと…葵さん?」

「そうならそうなのか…」

「葵さん」

「はい」

「離れなくていいの?」

 何故か私がそんな質問をしてしまっているけれど、もうバレてしまっているんだし、葵の気持ちは初めから分かっているしいつまでもこうやって抱き着かせて貰っているわけにもいかない。

「ああ…うん」

「うん…って」

「いやあなんか嬉しくて…上手く言えないけど、なんていうか」

「いや、でも、葵はそうじゃないじゃん」

「そう…なのかな」

「そうじゃないよ」

「でもさ、今さ…藍から離れるのなんかやだ」

 葵はそう言って更にぎゅっと体を寄せてきた。これ以上体重をかけられると私は後ろへひっくり返ってしまうし、ほら胸も当たってるし。

「あー」

 諦めて床に寝転がると葵を自分の体の上に乗せた。このお嬢さんは私がどこまでそうなのか分かっててこんな無防備なんですかね。

「ごめん、重い?」

「全然」

 体に乗る葵の体重や体温が心地よくて目を閉じる。ずっとこのままでいられたら、なんて思う。だけど。

「そろそろ心臓が限界なので降りて貰っていい…かな」

「あ…ごめんね」

「いや、こっちこそ…」

 葵が私の上から退いて床に座り直した。私は床に突っ伏して動けなくなる。

「もう無理…」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない…」

 すきな子に気持ちがバレてお腹の上に乗せてしまった事実の重さが私を襲っていた。嬉しいとか言われても全然飲み込めない。キャパオーバー。

「明日映画行くよね?」

「あー…明日も家でいい?」

「…いいよ」

 多分きっと続きは明日にしたほうがいい。我々は今日のところはもう無理なのだから。

 床に寝頃がったまま手を振って部屋から出る葵を見送った。玄関まで行けなくてごめん、限界なんです。


 明日また葵がこの部屋に来てくれたら何の話からすればいいんだろう。深呼吸をしてまだ葵の香りが残ってる部屋の空気を吸った。するはずのない絵具の匂いがした気がした。










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