カクヨムというサイトが見えていない最強の敵

@tiro9

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 つまり、作者たちは執筆に使っただけのコストを回収しようと行動するのだ。

 そのように「考える」わけではない。

 そのように感じ、そのように行動するだけだ。


 これがおかしな理屈だと思うなら、人間の意識の9割といわれる無意識についての説明からしなくてはいけない。


 さて、「書けない病」というものがある。

 なぜ書けないのか?

 原因はさまざまだが、結果は一つだけだ。

 書く必要がないと無意識が判断したのだ。


 では逆に、「書いた層」はなにを期待して書いたのだろうか?

 プロ作家でもないのに。コンテストに受賞して作家として仕事がもらえる可能性なんて限りなく低いのに。考え出したらきりがない。


 ただ一つだけいえることがある。

「書くメリットがある」と無意識が判断した時期があるのだ。

 支払ったコストを「回収できる!」と判断した、その瞬間が。


 投稿した理由について、誰かはこう言うだろう。

「自分の力が試したかった」

「細々と評価してもらえればいい」

「カクヨムがどんなところか知りたかった」

「お遊び」

 それらの目的は、無欲で他者になにかを求めない無償の願いだろうか?

 とんでもない。


 自分の力を試したければ公正な審判が必要だ。

 細々と評価してもらいたければ、細々と相手をしてくれる誰かが必要だ。

 カクヨムがどんなところかを知りたければ、カクヨム運営の実態や目的がお披露目されなければいけない。

 お遊びなら、楽しくなければいけない。


「書いた層」の人たちがカクヨムから回収できたものは、なに一つない。

 つまり、コンテストに対して本気の受賞を狙っていなかったとしても、それら無数の回収業者たちは動き出すのだ。


 人間には、自分のしたことを評価する機能が備わっている。それが間違いであるならば修正するためにだ。だが、そのためには情報が必要だ。


 もしも、「カクヨムで書いたこと自体が間違いだった」とするならば、そのための情報のリターンがなければいけない。でなければ人は納得しない。

 世間一般で企業に求められる、礼儀だとか、常識的なサポートだのというのは全て、この情報の払い戻しが十分であるかどうかがその基準となっている。

「この企業と関わったこと自体が間違いだった」そうはっきりとすれば、その情報を元手にして、人は次のステップへと進んでいける。

 もちろん、企業側がやすやすとその情報を渡すとは限らないが。


 ともあれ、「やっぱり」が見つからなければ、人はそれを探す。


 そして、ほどなくその「やっぱり」を見つける。

 それはランキングの出来の悪さであったり、カクヨム運営の対応の悪さであったり、コンテストの審査の不公平性だったりする。

 それぞれの願いの違いによって、「やっぱり」もまた少しずつ違ってくる。


 そして、彼らはそのドアを叩き始める。


「おんどりゃあカクヨムぅ、貸した執筆コスト返せやゴルァ!」


 なに? カクヨムがそんなもの支払わなければいけない法律はないって?

 そんなの当たり前である。

 無意識に六法全書が収まってる人がいたら、その人は弁護士になればいい。

 そういう判断は意識ではされるが、無意識ではされない。

 そして、これは一般常識として認められている。

 民衆にそれを制御できる能力がないため、認めざるを得ないからだ。

 それをおかしいと思うなら、今すぐ英知で民衆を進歩させるしかない。


 ともかく、この回収業者による「ドア叩き」をどうさばくかが、リアルよりもドア叩きが簡単にできるインターネットでは大切になってくる。ネット上にあるサイトに対しては、移動中でもドア叩きができるのだから。


 そして、ネット社会を見渡してみて、その解決手段はそれほど多くはない。


 1、企業として求められる正しい対応でドア叩きを甘んじて受け、成長の糧とする。

 2、風評管理を行う業者を雇ってドア叩きを追い返し、サイトから追い出す。

 3、企業の代わりにドア叩きを受けてくれる身代わり、いわゆるスケープゴートを用意する。


 1はとにかく金と時間がかかる。だから一流企業ほど可能であるし、それを期待もされる。いくらユーザーがやれと言ったところで、金銭的な面やスタッフの質の問題などによって最初からできないからやっていないというケースも多い。


 2も金はかかるが、1に比べればなんということはない。なにより自己改革を伴わないため、上昇志向のないサイトが選びやすい。当該サイトがこの手段を使っていた場合、それ以上の改革はないと思ったほうがいい。改革があったように見えたとしても、そのすぐ後ろにはさらなる集金のためのユーザーに都合の悪いシステムが待ち構えているだけだ。彼らにとって、ユーザーとはただの敵なのだから。


 3は偶然にそうなることは多いが、狙ってそれらを引き当て続けるには相応の準備が必要となる。それがなかったとしても、業務を凍結させて自ら休眠状態に入ることで永遠に同一種類のスケープゴートに頼り続けることを選択する企業もある。


 今のカクヨムがどれかといえば、間違いなく3だ。

 ランキングのアルゴリズムのお粗末さも、審査の公平性のなさも、すべては不正ユーザーに責任を押し付ける形でなんとか回避している。

「それらはカクヨム本来の仕事であり、責任である!」という論理的な批判もあるが、とりあえず無意識によるドア叩きさえ回避できていれば企業にとってはセーフといえる。

 論理的な批判をしてくるということは、あくまで相手は論理的であって、無意識の中の狂人はこちらを向いてはいないのだから。


 では、今のカクヨムが3なら、正しいのはどれか?


 答えは3であろう。

 従来のコンテストからして3だったのだから、ネットに場所を移したとしても、まずはそこを考えるのが順路だ。


 そもそも、執筆に費やした労力の対価となるだけの情報をユーザーたちが求めるのは避けがたい必然であって、その受け皿がコンテストには必要だ。

 それまでにない斬新なキッチンを作ったはいいものの、流し台という受け皿がいつの間にか消えていたなどと、お粗末にもほどがある。まず第一に、「既存のものから自分たちがなにを変えたのか?」をちゃんと見ていない証拠だ。


 従来のコンテストであれば、公正さこそがその受け皿であり、選ばれた作品の質が実際に高いことも公正さへの信頼を保つ要素となっていた。

 公正さが保障されたと思える時点で、過程は一切見えないが結果には納得するしかないという状況になり、「ドア叩き」をされるべきスケープゴートは、作品を生み出した自分自身をおいて他にはいなくなる。

 自分以外のコンテストに関わったすべての人間の行動や考えが見えない、つまりそこには「自分しかいない」のだから当然である。


 だが、カクヨムのコンテストでは簡単に不正行為を働くことができるというルール設計のお粗末さによってその公正さには疑問が抱かれ、なおかつどのような作品が優れているかといった基準までもが崩壊した現在の出版業界では、納得できるチャンピオンが出てきてくれるとも限らない。

 さらには他の全ての作品が可視化されたおかげで、スケープゴートとすべき対象も無限に広がり、わざわざ自分自身の中からリターンとなる情報を探し出す必要性もなくなった。


 そんな状態では、従来の時代には黙っていても当然のように存在した受け皿の仕組みも、あっさりと消えてなくなってしまうのは当然のこと。

 さらには、それらの疑惑によりユーザーたちは疑いを深め、そして疑ったことに対する「やっぱり!」というリターンをも求めるようになる。


 誰かが疑った時点で、疑われた方はリターンに情報を支払う必要性が出てくる。その理由については先に述べた通り、民衆には自分でそれを制御できないからだ。

 脳は人間が一日に使うカロリーの約20%を消費している。勝手に疑いをばら撒くことでその機能の幾分かを占有するのだから、これに補填をするのは共に生きる人間ならば当然のことなのかもしれない。

 だから、商売には信頼が大切なのだろう。


 さて、ではどのようにして消えた公正さを取り戻し、ユーザーを孤独の世界に連れ戻して自分自身をスケープゴートにしてもらうのか。

 それとも、ユーザー自身に代わる新たなスケープゴートを生み出すべきなのだろうか。


 とりあえず今日はここまで。

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