肉の焼ける臭いとともに

 最初の記憶は、雨降りに湿った地面を裸足で歩いていた時のことで、柔らかなぬかるみが裸足を包む感触をいまでもありありと思いだすことができる。雨はいつもそばにいて温かく柔らかく優しかった。湿った空気は雨の吐息なのか降り続く雨のせいなのか、もうわからない。

それから皆と合流するまで、一体どのくらいの時間が経ったのか。一週間だったのか、一か月だったのか、もしかすると一年くらいたっているのかもしれない。何度日が沈み、霧が出て雷鳴とともに雨が降り、風が変わり雲が流れ虹が架かるのを見たのだろう。

本当に、今とはいつのことだろうか。自我も記憶もあやふやな、時の流れでさえ充分に把握しきれていないのに、その概念をきちんと理解しているのだろうか。

 ちりーん、ちりーん、と音がして物想いから意識が引きもどされる。どこかに風鈴でもあるのだろうか。

「電たちが着いた」

 霧が瓦礫や死体をよけながら駐車場へ歩いて行った。傍に菰方夫妻の姿は無く、一人で縁側に腰掛け伸びていく影を眺めていた。

複数の砂利を踏む音が聞こえ、霧が皆を連れて戻ってきた。

「私は奥さんの様子を見てくるよ。薬も持ってきたし」

 雲がいそいそと屋内へ消え、残りは電を囲むように円座になった。

「荒っぽいな」

 眼前に広がる惨状に一言つぶやいて、目の前を横切る魚を握りつぶした。

「風がむこうで片付けているけど」

「任せておけばいい」

「守りが破られ、道が開けてしまった。完全にこちらを潰しにきているな」

「じゃあ、私たちはしばらく風の家で寝泊まりね。奥さんも家がこの有様じゃあ家事どころじゃないわよね」

「私たちで三食作ればいい。だが霧と雲は?仕事は大丈夫なのか?」

 また一匹、傍を横切ろうとした魚を雨が鷲掴みにして捻じり切った。

「緊急の案件だけ、私は扱うことにする。雲はどうするか知らないが上手くやるんじゃないかな」

「あ?私?秘書さんたちに丸投げしてきたよ。霧と一緒で緊急の時だけ呼んでって言ってきた」

 奥さんは安静にさせてきたから大丈夫、と縁側に腰掛けながらそれで、と言葉を重ねた。

「私たちがいるだけでも違うのかい?」

「まぁ、こうなったからには今晩にでも面白いことが起きる。そんなに恐ろしいことでもないから楽しみにしていなされ」

 喉を鳴らしながら電は笑うと、台所へ歩いていき冷蔵庫からお茶を取り出して勝手に一杯飲んだ。慌てて虹が戸棚から勝手にグラスを取りだし、皆の分を用意し始めた。

 庭では断続的な地鳴りが数度続いて、倒れた木や塀などが奥の方に引っ込んでいく。薄い緑の作業着を着たおじさんたちが黒い袋に死体を詰めていく。淡々と作業をし、淡々と瓦礫と死体は片付けられていった。地面には幾筋も瓦礫でひっかいた跡が走り、むき出しの土が、僅かに残っている庭の緑と残酷な対照を為していた。

 庭に転がっているトラックもクレーンで起こし、菰方建設と書かれたセルフローダーに乗せどこかへ運んばれていった。でこぼこした地面をロードローラーで整地し終えると風がおじさんたちを一か所に集めていた。

 虹が察して風の傍まで行き、言葉をかわす。戻ってくると、倉庫にバーベキューセットがあるから、出すのを手伝ってほしいと雲と電に告げる。

「私は飲み物を持っていこう」

 雨が準備するのを手伝おうとしたが電に留められた。

「この刀とこの弾に異界のものを殺すことができるように」

 差し出されたのは日本刀と散弾銃の弾とライフル弾だった。差し出された時にどうすればいいのか分かっていたので、縁側から少し離れた地面に円を書き、気脈の流れを捉える形を作った。水を溝に注いで陣を張る。水は地面に沁み込むことなく美しい唐草の文様を描いた。円の中心に立ち、刀と弾を渡される。どちらもそれなりに重量はあるはずなのに手に持つと軽い。そっと浮かべると刃先や弾頭が金色に光る。峰と薬莢に金縁で印をつけ、白い魚を殺せるように呪いを施した。

 円から出ると水は力を失い陣の効力は消え、どっと疲れて縁側に腰から崩れ落ちた。

「まだ、自分の力を使っている。それではだめだ。土地の力、時の力を取り込め。草を消した時のように」

 あぁ、と気のない返事をして一杯の水を渡される。更地になった庭で皆がバーベキューをしている。肉を焼く匂いと煙が目に痛い。

「ああやって役の者とともに食事をすると、すこし、記憶が曖昧になるそうだ。飛天の毒に冒されていたからといっても襲撃してきたのは生身の人間だし、風にいくら堅実な知り合いがいたとしても後始末をする彼らの負担は大きい。だから、ねぎらうことで記憶をぼかしているのだ」

「それは、風たちは分かってやっている事なの?」

「いや、感覚的に行っているのだろう。先代がそうだった」

「それは、本能みたいなもの?」

「後天的だが、似たようなものだ。役が回ってくると自然と身に着く」

「そう」

 バーベキューの煙が天に吸い込まれていく光景を遠目に見ながら、ぼうっとしていると電に話しかけられた。

「電、雨、雲、風、霧、虹。これらに共通するものはなんだ?」

「水」

「そう、水の働きだ。そして水とは」

「穢れを清め、流し、拡散する。また、それは概念を具体化するときにあたって扱われるものである」

「たとえば、時間」

 雨がこちらへ歩いてきて、傍に腰を下ろす。手にもった皿には肉が山盛りになっていて油の良い匂いが漂っていた。

「食べないのか?冷めるぞ?」

 ああ、これは、と微笑んで雨は山の斜面を見た。群れた白い獣が降りてきて彼女の傍まで来ると、四匹は地面に置かれた皿に嬉しそうに顔を突っ込む。あっという間に肉を平らげた子供たちは安心したのか雨の傍で腹ばいになりくつろいでいた。

「混ざらなくていいの?」

「いや、私たちは本来交わるべきではない。このくらいの距離でちょうどいいんだ」

 縁側で涼しい風に吹かれながら宴会は夜遅くまで続いた。

 

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