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 勢いで決意したもののレーテはどうやってヘルモを元に戻すのか考えねばならなかった。しかしレーテは自分自身についても、困難な課題を克服したではないか。ならばヘルモも何か方法があるはずだ。そうレーテは考える。

 ヘルモは縛られた状態のまままだ眠っている。その額に生える角。堕魔人になってしまったとはいえ愛しいヘルモが生きていた事にレーテは喜びを隠せない。

 "ヘルモは生きている。" "ヘルモはかわいい寝顔を向けている。" "今ならヘルモを我が物にできる。"

 左肩の関節の違和感に気づき、レーテは息を呑んでヘルモからばっと離れた。すでに数本の蜘蛛の足のようなレーテの肩からわちゃわちゃと蠢いていた。そうだ。自分のこの魔は、ヘルモへの恋慕も少なからず関係がある。癒えない傷。まだ私は克服できていないのだろうか。

 その物音にヘルモは目がさめた。たちまちレーテを見つめて顔を歪め、縛られた体を解きほぐそうと身悶えする。その変わり果てた姿にレーテはさすがに以前のヘルモのような愛しい気持ちよりも、代わりに哀れな気持ちとなって、肩の魔は萎縮した。

 「落ち着け、ヘルモ。」レーテは言った。「私はお前を殺すつもりはない。お前とはかつての情を取り戻したいだけなのだ。」

 「レーテ、殺す、レーテ・・・」ヘルモは呻いた。

 レーテは右手を苦悶するヘルモの額にかざす。予想はしていたが、やはり、ヘルモの記憶にはちゃんとレーテと共に行動し、愛を交わし、カラにさらわれた記憶まできちんと存在する。にもかかわらず、なぜ今レーテにこのような憎悪を傾けるのか。ゲゲレゲが覚醒しカラが攫われてからのヘルモの記憶はごちゃごちゃである。ただ、ひどい目にあったような残像しか見えない。一瞬見えたのは、レーティアンヌだった頃にひどく痛めつけてきたあの屈強な堕魔人であった。彼は生きている。だが少し老いている。



 「ヘルモの記憶が消えてなかった、か。」隣の部屋にて、アラスタはレーテは言った。「むしろ、分かりやすい。パラダイムシフトが起きているのですな。」

 「パラダイムシフト?」

 「価値観の転換。正しいと思ってたことが変わって、いままで正しいと思ってたことを間違ってると思うようになる。例えば魔術の発見で、科学による諸々の技術が無駄であることを知ったりする、など。普通はこのように、新しい事を知ることで、今までの無意味な葛藤を捨てる事で起きるのですが、ヘルモはご覧の通り、強制的にパラダイムシフトをされているわけです。」

 「・・・カラは私の親友を殺した後にしきりに訴えてきた。『あれにはお前に伝えたい意味がある。お前はそれがわかっていない』と。」

 「そんな事を言ってたのですか。」

 「それと、『どんなに正義を唱えても所詮は言葉、殺してしまえば全く意味が無い。』とも言っていた。だから正義は愚かだと。」

 「ほおう・・・」アラスタは興味津々である。

 「ああ、思い出してきた。ヘルモをさらう前こんなことを言っていた。」


 『どんなに純粋でこの世の奥を知る人間でも、何度も暴力を振るえば、正しさなど分からなくなり、この世を呪うようになるだろう。そのいわゆる正義の脆さ、馬鹿馬鹿こそに、愚か者には理解できないこの世の真実があるのだ。』


 「カラは魔王になる以上に、正義のパラダイムシフトを目論んでいるわけですね。まあ生まれた頃から異常者でしたし。」アラスタは言った。

 「ああ、君の意見で深く納得して思い出した。ヘルモは・・・私への想い出を消していない・・・にも関わらずあんなに敵視するということは・・・」

 「結果的に『僕はレーテを愛している。しかしカラによればそれはひどく間違っていて許されない事だ。だから殺さねばならない。』のようなことをどこかで吹き込まれてしまったのでしょうね。」

 「言うな・・・」レーテは両手で顔を覆った。「最悪じゃないか。私の母と同じだ・・・。」

 「母・・・?」

 「私の母は、堕魔人になっても確かに私を愛していた。だが、愛するあまりに私を殺そうとし、私も咄嗟に母を殺しかけた。」

 「・・・。」アラスタはしばらく黙ったが、口を開いた。「絶望してはなりません。むしろこれぐらい最悪な状況だからこそ、レーテさん、ヘルモを救うべきなのです。」

 「・・・。」レーテは顔を覆ったまま返事をしない。

 「レーテさん、あなたこそ、価値観の転換によって堕魔人の状態から正気を保つ事に成功したのでしょう?堕魔人は逃げ続けた結果人殺しになった。しかしレーテさんは、自ら向き合う選択をすることで聖戦士を保つことができた。」

 「・・・。」

 「だから方法は一つしかないです。向き合う事に成功したあなたが、ヘルモに真正面に向き合う事。カラのようにクールな暴力で改革するのではなく、伝達と継承によって、地道に変えていく事。これです。」

 「アラスタ・・・。」そう言いながらレーテはすこし手を顔から離した。

 「私は怒っています。人格再定義とは精神の安楽死のようなもの。なのに、カラのヘルモに対するこの扱い、このような忌まわしい暴力を、人格再定義と呼ばれる不愉快、そして、そのために人格再定義士のネジネジが利用されているこの現状。」アラスタはおそらくレーテにとって初めて感情を露わにしていた。「私は私で、個人的な怨念なのですが、志はあなたと同じです、レーテ。」

 レーテは手を下ろした。そしてアラスタをまっすぐ見て言った。

 「お前は本当は情が深いんだなあ。アラスタ。」

 アラスタは鼻で笑った。「やめてください、照れくさい。」そう横を向くアラスタを見て、ふとレーテはアラスタの頭の中に彼の祖母の幻影が見えた。彼が一番はじめに人格再定義を行ったのは、老いて知を崩し堕魔人となってしまった祖母だったのだ。

 (いずれこの地も堕魔人に覆われていくのだろうか。)とレーテはそのとき思った。

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