メランコリック・ライター

じーえむ(柄木戸源也)

メランコリック・ライター

 溜息の数だけ、アイデアが浮かべばいいのに。


 自室の中でパソコンとにらめっこをしながら、そんなことを本気で考えていた。目の前の液晶の中の原稿用紙は中途半端にしか埋まっていない。それなのに、締切は目前。もはや僕の吐く息は全て溜息だった。この際幸せは逃げてもいい。だけど、替わりに斬新なアイデアの一つぐらいは置いていってほしい。


 僕がここまで憂鬱になる理由は、担当の編集さんにある。

 その人は女性ではあるけれども、今まで担当作家の原稿を落としたことは――ないそうだ。どんな手を使っても原稿を上げさせる。前にそんな噂を耳にしたことがあったからだ。


 ***


 内海冴子さんは僕の担当編集者だ。

僕は作家としてデビューして半年になるけれど、今のところは先述のような彼女の『どんな手』は経験せずに済んでいる。

 入社二年目で僕の二歳下にも関わらず、内海さんは周囲から全幅の信頼を寄せられていた。どんなときでも冷静沈着、編集者なら当たり前だが文章力に長けていて、誰もが思いつかないアイデアをどこかから引っ張ってくる発想の豊かさもあった。全く感情を見せない、融通の利かないところはあるけれど、逆にそれが上司にはウケているそうな。

 もっとも、見た目自体はいたって普通の女性だ。むしろ、ルックスは頗る素晴らしい。童顔だけども『美人すぎる編集者』として何処ぞのメディアに露出していても違和感はないだろう。ただ、その代わりに背は小さい。必ず高めのヒールを履いているらしいがささやかな抵抗だろうか。いつも黒髪のボブカットに黒のスーツで、あちこちをせかせかと歩き回っていた。

 実のところ、担当になってもらってから、そこまで面と向かって話したことはない。原稿の遣り取りも基本はメールだし、会ったと言えば僕が賞を取ってデビューする直前と、現在頼まれている企画の原稿の打ち合わせの時くらいだった。原稿が間に合わないと家に編集者が『取り立て』に来ることがあるそうだが、僕は幸運なことにそんな目にはまだ遭っていなかった。

 しかし、今回が『そんな目』の初体験になったら――?

 書こう。書かないとまずい。

 心の中でそう呟いた。短編をサクッと書ければ良いのだ。僕なら、やれる。


***


 そして、締め切り当日。


 駄目だった。


 全く以てアイデアが出てこない。起承転結で言えば、『起』と『承』までしか浮かばない。大切な話の落ちまで到達しない、序盤の部分のプロットだけがそこかしこに産まれていった。

 しかし、プロットがいくら出てこようとも、目の前の原稿が埋まらない限りは何の意味もない。こんな状態で、どう内海さんに言い訳すればいいのか。そのことばかりが頭の中を飛び回っていた。


 頭を抱えてソファーの背もたれに寄りかかった時だった。


 ピン、ポン。


 底抜けに脳天気なチャイムの音が、部屋の中に響いた。


 内臓全てが口から飛び出そうな程に驚いて、僕はソファーから跳ね起きた。

 新聞は取っていない。オートロックのマンションだから勧誘も来ない。通販を頼んだ覚えもない。それ故、来客者と言えば一人しか考えられなかった。恐る恐る、カメラ付きのインターホンの画面を覗く。

 黒のパンツスーツに黒髪のおかっぱ、直立不動のその人は、画質の悪いカメラ越しでも分かるほどのジト目でこちらを見ていた。

 ついに、ついに来た。どうすればよいか。この時点で作家としては失格だろうけれど、僕の頭にはどうしたら原稿の進行ではなく、上手く目の前の担当編集を追い払えるかということしか浮かんでいなかった。

 そして、一つの案を思いつく。思いつく、というほどのことではない。古から伝わる技と言うものだ。

 僕は何もアクションを起こさず、ただインターホンの画面を見つめていた。受話器を取って応答するわけでもない。何もしないのが一番だ。

 言わずもがな、僕の取っている行動は完全な『居留守』である。簡易にして効果は絶大。何もせず、ここで『お帰りくださいまし』と祈ってればそれでよいのだ。苦痛の先延ばしという意見もあろうが、そんなことは関係ない。いつだって、大切なのは今なのだから。

 早く立ち去ってくれ、と思っていると、驚きの光景が画面に映った。

 画面左側よりやってくる人影。どうやら宅配便らしい。インターホンに近づく佐川○便のお兄さんに前を譲って、後ろへ下がる内海女史。配達先が在宅していたのか自動ドアを抜け、エントランスへ入っていくお兄さん。その後ろをついて入っていく内海女史。


 十五秒ほどの間に、内海女史はやすやすと我が城の第一関門であるオートロックを突破した。


 待ってほしい。こんなことあってはならない。自動ドアを抜けたら部屋まで一直線ではないか。だめだ──。


 ピン、ポン。


 二回目のチャイムが、室内に響いた。今度はドアのノックも一緒に連れて。

『先生、全然社の内海です。こんにちは』

 ドアの外よりご丁寧に名乗りまで頂いてしまった。こうなると、いよいよ居留守がバレるわけにはいかない。僕は物音を立てないようにベッドに入り、布団を被って息を殺した。

 立て続けに何度かチャイムが鳴ったが、しばらくすると部屋の中に静寂が戻ってきた。僕はそろそろとベッドを出て、忍び足で玄関へと向かい、息を殺してドアの覗き穴から外を見た。

 内海さんが、いた。

 立って待っているだけではなく、何かに腰掛けているようだ。ドアの前に座れるような物はない。まさか、デモよろしく座り込みでも行うのか。冗談じゃない。お隣さんとかに見られたら僕が何かやらかしたと思われてしまうではないか。

 しばらくそのまま内海さんを見ていたが、鞄からタブレットを出して何やら作業を始めた。それから約十分。すぐに立ち去る様子は微塵も感じられなかった。

 心を鬼にして居留守に徹するか悩む僕の視界に、思わぬ人物が入ってきた。

『ありゃ、あんたここの人に用事かい?』

『はい。私、出版社の者なのですが、こちらの住人の方にどうしても大切な用事があるのです。いらっしゃるはずなのですが、うんともすんとも返事がなく、もしや倒れてでもしないかと心配で……』

『あらま。そりゃ心配だねぇ』

 現れたのは管理人のおばさんだった。話し好きでお節介という、中年女性のテンプレートのような人だったが、まさかこのタイミングで来るとは。そして内海さん。何が心配だ。さっきまでタブレットをいじっていてよく言うものだ。

『ど、どうしたらいいでしょう? 救急車を……警察を?』

 何だか芝居がかった声で話す内海さんに、管理人のおばさんは手元から鍵束を取り出す。

『そんな非常事態なら、マスターキーで開けてみた方がいいかねぇ……?』

 良くない。何を言っているんだ。管理人なのにプライバシーという言葉を知らないのか。内海さんは内海さんで『仕方ありませんね』と言っているし。

 ともあれ、開けられてはたまらん。僕はドアのチェーンを外し、鍵も開けてからドアを恐る恐る開いた。


「すみません……」


 ドアの隙間から出した、絞りかすのような僕の声に目の前の二人はぎょっとしてこちらを見る。

「あら、いるじゃない。もう、大事じゃなくて良かったわ」とおばさん。

「すみません、ありがとうございました」

 そう言って、ぺこりと頭を下げる内海さんを残し、管理人のおばさんは去っていった。

 一瞬の沈黙の後、内海さんはゆっくりと顔を上げてこちらに向き直った。


「お邪魔します」


 内海さんはそれだけ言って、我が家に足を踏み入れた。ついに、侵入を許してしまった。将棋で言えば、まさにこれは必至である。

 内海さんが腰掛けていたのはキャリーバッグだった。なぜそんなモノを持ってきているのか尋ねたかったが、それどころではなかった。黒目の大きい澄んだ瞳が、僕の心の奥底まで見透かすように僕を捉えていたからだ。

 後ろ手にドアを閉めた内海さんはキャリーバッグを壁に寄せて置き、こちらを向いた。僕はすかさず膝を突き、玄関先の内海さんに頭を下げた。早めに許しを請った方がよい。そう思いながら。

「誠に申し訳ございません。まだ原稿が出来上がっておりません! 本当に、本当に申し訳ございません!」

 玄関のカーペットに頭をこすりつけるほどの土下座を、目の前の年下の女の子はどのような顔で見ているのだろう。頭上から声は降りてこず、コツコツという床を叩く音が響いて、僕は少し顔を上げた。見ると、内海さんは黒のパンプスを丁寧に揃えてから上がり框を越え、僕の脇を通り抜けていった。慌てて僕はその背中に声をかける。

「う、内海さん?」

「はい?」

 内海さんは僕の呼びかけに振り向いた。表情はいつも通りクールで、ニコリともしていない。

「どうしましたか、先生?」

「い、いや……その……」

「特に何もなければ、そんなところではなくこちらへ来て下さい。私から先生へお話がありますから」

「はい……」

 お話。何の変哲もないはずのその言葉に動悸がした。契約解除や駄目作家。そんな不吉な単語が血と一緒に脳に流れ込んできていた。僕は不安に高鳴る胸を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。


***


「時間が惜しいので、早く座っていただけますか?」

 ご機嫌取りも含めてせっせとコーヒーを用意しようとしたが遮られ、結局僕は大人しく内海さんの向かいに座った。テーブル越しに対面で見る内海さんは、喜怒哀楽が全く分からないポーカーフェイスのままだった。そんな顔を見て、僕は思わず目を伏せる。どう転んでも、今から僕が笑顔になれる展開にはならないだろう。

「先生、原稿はどこまで進みましたか?」

「あの……すみません、まだ終わってなくて……その……」

「終わってないのは先程伺いました。どこまで進んでいるのかをお聞きしているのですが」

 表情を一切変えずに淡々と話す内海さんに対して怯えて何も言えず、僕は作業中のノートパソコンを差し出した。内海さんはパソコンの画面を見ながら、手元に取り出したタブレットに何やら入力しているようだった。

「なるほど」

「……すみません」

 内海さんは画面から顔を上げ、相槌代わりに謝る僕に言った。

「とりあえず、書いて下さい」

「はい?」

「とりあえず、書いて下さい」

 一字一句、声のトーンまで変えずに、内海さんは僕の目を真っ直ぐに見て言い放った。

「でも、締め切りは今日……」と僕。どう足掻いても無理ではないのか。

「今日はあくまで私の設けた締め切りであって、入稿から逆算できる締め切りにはまだ余裕があります。かと言って、本日時点で書けていないのはプロとしてどうかとも思いますが」

 針の筵を着せて、しかも背中を撫で回すような言い方に、僕はまたも閉口する。そんな姿を見てか内海さんは僕にパソコンを返し、立ち上がった。

「今、先生はあれこれ言える立場じゃありません。早く書いて下さい」

「は、はい……」

 氷のような視線に射抜かれてうなだれる僕の横で、内海さんは持ってきていたキャリーバッグの中身を開け始めた。

 なんと中には、服や洗面道具ーーつまり、お泊まりグッズが詰められていた。

 僕は思わず、洗面所の方に行こうとしていた内海さんを呼び止める。

「いや……ちょっと」

「はい?」

「あの、この着替えとかって……?」

「私の着替えです」

「そ、それはわかりますよ。どうして持ってきているんですか?」

 こんな問いをする段階で、大凡の回答は予想できていた。

 そして、期待通りの回答が、内海さんの口から飛び出してしまった。


「私、先生の原稿が仕上がるまでここに泊まらせて頂きます。よろしくお願いします」


***


 マンションの一室に、キーを叩く音だけが響く。小気味よくリズムが続いたと思えば、沈黙してじっと立ち止まる。そんな繰り返しを経て、何だかんだで目の前の原稿は着実に埋まってきていた。


 僕は画面から目を離さずに、『後ろにいる人』に話しかける。

「内海さん」

「はい」

「あの……そう言う風に後ろに立って見られると書きづらいんですが」

「そうですか」

 それだけ答えると内海さんは僕の真横に移動して、また立って原稿を見始めた。

「内海さん」

「はい」

「あの……横に立って見られても書きづらいんですが」

「そうですか」

 それだけ答えると、内海さんは近くにあった丸イスを取って、僕の真横に座った。そして、じっと静止して原稿の映るディスプレイを見始めた。

「う、内海さん。座られても……」

「ジョークです」

 そう言うと、内海さんは立ち上がって「夕食の用意をしてきます」とだけ言って出て行ってしまった。

 僕は内海さんがいなくなったのを確認して、盛大な溜息をついた。


──何なんだよ……あの人は。


 急に泊まると言い出すから、理由を聞いたら「原稿が上がるまで私が先生の生活を管理します。ここは今からマンションという名の監獄です」とか言い放つし、三時のおやつに角砂糖を一つ差し出した後に「ジョークです」とか言うし──。こんなに変わり者だったのか。正直、受け止めきれるキャパシティなんて僕にはない。見知らぬ人──しかも見知らぬ外国人を家に招いてるような、ひどく落ち着かない感覚だ。

 と言っても、緊張感からか原稿は比較的良いペースで進んでいた。内海さんの設定している『真の締め切り』がいつかは教えて貰えなかったが、このままいけば明日には何とか仕上がるだろう。

 裏を返せば、完成が明日になるなら内海さんが我が家に泊まることは確定になるのだが。

 そこまで考えたときに、ドアをノックする音が聞こえた。僕は少しビクッと体を震わせて、返事をする。

「先生、夕食の用意が出来ました」

 後ろから内海さんが声をかけてきた。原稿を保存して、僕は振り返った。

 そこにいた内海さんは、手に持った缶詰めを差し出していた。缶詰めには『白桃』と大きく書かれている。僕はぽかんと口を開けたまま、缶詰めを受け取る。

「これは……?」

「夕食です。どうぞ」

 意味が分からず、僕は全く動けずに固まってしまった。何なんだこの人。

「ジョークです」

 そう言って、内海さんは僕の手から缶詰めを抜き取った。

「ちゃんと用意はできています。食卓へどうぞ」

 内海さんに言われるがままついて行くと、ごちゃごちゃと物が乗っていたテーブル上が綺麗に片づけられて、カセットコンロに乗った土鍋が鎮座在していた。おまけに、ごみごみとあれこれ散らかっていた部屋も掃除されていた。いつの間にこんなにやってくれたんだろう。

「すごい……! 掃除と料理、内海さんが……?」

 僕は何も考えずに内海さんに尋ねた。

「はい。他に誰がいるんですか」

 仰る通りだ。内海さんは僕に座るように勧め、土鍋の蓋を取った。ぐつぐつ煮立った美味しそうな寄せ鍋だ。少し肌寒くなっていたから丁度いい。

「どうぞ、召し上がって下さい」と内海さん。

「凄いなぁ。じゃあ、いただきます」

 手を合わせて鍋に箸を伸ばす。白菜に人参に椎茸に大根、鶏肉に豚肉におまけに肉団子。具が盛り沢山だが、いつの間にこんな用意をしたのだろう。

「とても美味しい。わざわざありがとうございます」

「いえ」

 それだけ言うと、内海さんは鶏肉にかぶりついた。目の前に座る内海さんを、改めて落ち着いて眺める。

 可愛い。

 滑るような内向きボブカットの黒髪に色白の肌。どんなに変な人でも、やはり見た目が可愛らしくてドキッとしてしまう。乗り込んできたときは叱られる不安感で考えられなかったが、今が自分の家に年下の女の子が押し掛けてきて手料理を振る舞ってくれているシチュエーションだということに気づき、僕は自分の顔が赤くなっているのを感じた。

「先生」

「ひゃい?」

 油断しているところに話しかけられて、変な声が出た。慌てて水を飲む僕を見ながら、内海さんは言った。

「今、頭の中で『今は自分の家に年下の女の子が押し掛けてきて手料理を振る舞ってくれているシチュエーション』とか考えていましたか?」

 僕はそれを聞いて咽せてしまった。何だこの子。心でも読めるのか。考えてることどころか一字一句当ててくるなんて。恐ろしすぎる。咳込みながらも背筋のあたりに冷たい感覚が走るのを感じた。

「いえ、そんなことは……」とかすれた声で答える。内海さんは表情を変えないまま続ける。

「そうですか」

 それから、しばらくはお互いに沈黙。女の子と話すのが苦手なコミュ障の僕には、話題を振るなんて高等テクニックはない。そして言わずもがな、内海さんも楽しいおしゃべりを望んでいる方ではないだろう。口数と正反対に、鍋の具だけが着実に減っていった。やがて、食べ終えてスープだけになると内海さんは口を開いた。

「ところで先生。原稿は進みましたか?」

「あっ、はい。おかげさまで……多分明日の昼には上げられるかと」

「明日の昼、ですか。……そうですか」

 内海さんの眉間にほんの少しだけ出来たしわを見て、僕は恐る恐る尋ねる。

「……間に合わないですか?」

「いえ、大丈夫です。片付けは私がやりますので、先生は作業に戻って書いて下さい」

「はぁ……。ご、ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

 とりあえず、食べ終わった自分の器だけシンクに置いて部屋に戻った。リビングから出る間際に、「むむう」という声が聞こえたけれど、気のせいかもしれなかった。


***


 女性が自宅に泊まるとなると必ずと言っていいほどクローズアップされるトピックがある。

 入浴だ。

 家の主を差し置いて一番風呂には入れないという内海さんの言葉を受けて、湯船でずっと考えていた。自分の担当の女性編集者の湯上がり姿を見るとなるとちょっぴり楽しみだ、と。しかし、内海さんはミニマムな童顔の女性。どんな感じに『仕上がる』かは予想できなかった。

 いつもよりも綺麗に風呂を使い、内海さんと交替してから作業に戻った。それなりの時間一緒にいると、可愛い女性がひとつ屋根の下にいるのにもだいぶ慣れてきた。

 原稿に手を付け初めて約三十分。後ろのドアが開いた。内海さんかな。

 振り向くと、バスタオルを体に巻いただけの内海さんが立っていた。濡れてさらに艶々と見える黒髪に、意外と言っては失礼だがはっきりと分かる胸の膨らみ。そこからバスタオルを通り過ぎて、背は低いけれども形のいい白い脚。当たり前だけども、僕は初めて見る内海さんの姿に目を奪われてしまった。

「先生」

「……はい」

 思わず、唾を飲み込んでから答える。このシチュエーションは──。


「原稿はどうですか?」


 よくよく考えると、首から下はバスタオルのみの艶やかな姿だとしても、顔は全く恥じらったりとかしていなかった。そこに居たのはいつも通り、原稿の進み具合を聞きにきた内海さんだった。

「ぼ、ぼちぼちです。え? どうしたんです、そんな格好で……」

「お風呂上がりです」

「わ、わかってます。いや、どうしてバスタオル一枚なんですか……驚きましたよ」

「……? バスタオルもない方がいいんですか?」

 そう言いつつ、内海さんはモデルのような立ち方をする。尤も、いつも通りの無表情だけれど。

「い、いや! 違います! そういうことじゃなくて!」

「ジョークです。進んでいるのなら何よりです。それでは、また就寝前に」

 またもやジョークです、と言い残し、内海さんは部屋を出て行った。自分で持ってきていたのか、風呂場にはないであろうシャンプーの芳しい香りを残して。

 その後、内海さんは夜の十二時手前にも部屋に訪れた。そろそろ寝るのだという。パジャマは至って普通な水色一色の長ズボンのものだった。

「では、あまり無理をなさらないようにして下さい」と若干眠たげな目をして内海さんは話す。

「はあ。あの、布団と寝る場所は……?」

「心配要りません」

 そう言うと、内海さんは小脇に抱えていたナイロンの黒い巻物のようなものを床に広げた。寝袋だ。こんなので寒くないんだろうか。

「こ、これで大丈夫なんですか?」

「はい。日本製ですから」 

「生産国の問題じゃなくて……あの、寒いときは声かけて下さい。布団とか出しますので」

「ありがとうございます。では、おやすみなさい」

 

 後でトイレに行くときにリビングを覗くと、ソファーとテーブルの間にすっぽりと収まった寝袋姿の内海さんが見えた。本当にあれで寝ているとは。

 部屋に戻ってパソコンの前に座り、じっと考える。

 今日の昼までは、内海さんを恐いとしか思っていなかったけど、今は違う感情が芽生えている気がした。何だかんだで叱り飛ばすこともなく、手料理まで振る舞ってくれて執筆をサポートしてくれるなんて、本当にいい編集さんだ。しかも、今日明日は週末だ。わざわざ自分の休みを削ってまで来てくれていると考えると、何だかさらに申し訳なくなった。

 だけど、その申し訳なさは作業を進める原動力に変わっていた。原稿を上げるため。そして、内海さんにこれ以上少しでも迷惑をかけないために。その思いで、作業は深夜にまで及んだ。


***


 肩を揺すられる感覚で目が覚めた。

「先生、おはようございます。起きて下さい」

 そんな声で起こされて薄目を開けた。内海さん、わざわざ起こしてくれたんだ。

 目の前で僕の顔をアップで覗いていたのは、某有名ホラー映画でお馴染みのホッケーマスクだった。

「ほんぎゃああああ!!!」

 気の触れた産声のような絶叫とともに、僕はベッドから跳ね起きた。すると、ベッド脇に立っていたパンツスーツのジェイソンは仮面を外した。

「ジョークです。おはようございます。よく眠れましたか?」

「……ええ。目覚めは最悪ですけど」

 僕は眼鏡をかけながら口を尖らせる。さすがに今のは心臓が止まるかと思った。悪質極まりない。

「すみません。創作の糧になればと考えてジョークを行ってるのですが、やりすぎました」

「……別にそこまでしなくても大丈夫ですよ」

「後は、趣味です」

「絶対そっちが本命でしょう! もう……」

 呆れたトーンで話す僕を後目に、内海さんはデスク上のパソコンを付けた。

「……終わったんですね。お疲れさまでした。確認させて頂きます」

「はい……」

 結局、午前三時まで書き続けて原稿を終わらせてから寝た。トイレにも行かずにキーを打ち続けた。あんなに集中して書けたのは初めてだ。

「確かに。今回分原稿頂きました」

「ありがとうございます。あの……わざわざ泊まってサポートしてもらってすみませんでした」

「いえ、当然のことです。原稿を上げていただかないと困りますので」

 さらりと言い放って、内海さんは荷物をまとめ始めた。クールで無表情な横顔が、今はどこか不機嫌に見えた。


「もう少し……泊まりたかったりとか?」


 どうしても聞きたかったことを聞いた。なんとなく、行動の端々にそんな考えが伺えた気がしたから。ただ、素直に内海さんが答えるとは思えないんだけども。

 しかし、帰ってきた答えは僕の考えからは大きく飛び出していた。

「……はい。もっと居たいですね」

「えっ……?」

「……ジョークではありません。何だか、先生の家にいると仕事が捗りました。どうしてかはわかりませんが」

 そう言いながら、内海さんは綺麗に切り揃えられたボブカットの毛先を触っていた。照れて、いるのだろうか。

 ほんの少し、意地悪をしてみた。

「好きなだけ泊まっていっていいですよ。……僕も、内海さんが居て捗りますから」

 慣れない僕の口説き文句のような口上にも、内海さんはニコリともしない。

「そう、ですか。では、一旦失礼した方がいいですね」

「へ?」

「着替えとか、必要な物を持ってこないと。そうですよね?」

 間の抜けた声を漏らす僕に、内海さんは笑顔を見せた。童顔から放たれる可愛らしさと共に、蠱惑的でもある笑顔だった。こんな笑みを見せられた男性が他にいるのだろうか。

「さて、ジョークはこのへんで終いにしましょう。では、お疲れ様でした」

「えっ? えっ? ちょ、ちょっと……」

 玄関でパンプスを履き終えた内海さんは、くるりと振り返って僕に言った。

「次の締め切り、後で送りますので。それでは、また」

 内海さんは行ってしまった。丸一日も経っていない短い時間しか一緒にいなかったのに、妙に寂しく感じた。

 その後。ベッドに腰掛けてぼんやりしていると、パソコンにメールが届いた。

 差出人は内海さんからだった。内容は、新たな企画の原稿の締め切り連絡。なんと、締め切りは五日後。いつになくハイペースだ。

 前までの僕なら締め切りの近さに憂鬱になっていたかもしれない。だけど、今は違う。締め切りまでに上げるどころか、締め切りが来るのを楽しみになっていた。間に合わなければきっと──。


 僕の筆がかつてよりも格段に遅くなったのは、言うまでもない。



【了】

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メランコリック・ライター じーえむ(柄木戸源也) @G-Motoya

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