4 四グラムの思い出

 ウェンビアノが姿を現したのは僕が質素な食事を食べ終わってから、そう経たない頃だった。彼は何も言わず、鷹のような目つきで僕をじろりと見つめた。かっちりとしたよそ行きの恰好をしている彼はいつもよりずっと気むずかしそうな表情をしている。射竦めるような鋭い視線に、僕は唇を噛みしめ、思わず目を逸らした。

 大きな溜息が落ちてくる。痩せぎすで、神経質そうな彼の外見はそれだけで圧力となる。白人に近い肌の色と後ろへと撫でつけた色素の薄い髪、四十を越えている彼からは今までに嗅いだことのない怒りの匂いが、かすかにした。


「ニール、私は怒っている」

「……はい」


 当然だ。僕は言いつけを破り、多くの人の前で超能力を使った。それだけならまだしも、この街の「約束事」すら壊してしまったのだ。それはウェンビアノの意図することではなかっただろう。彼の庇護をなくした僕はこれからどうなるのか、想像したくもなかった。

 そっとウェンビアノの表情を盗み見る。どれだけの憤怒を抱えているか、確かめるつもりだったけれど、僕は予想だにしていなかったものを見た。

 彼は笑っていたのだ。

 普段、見たこともない柔らかさと、その中に忍び込んだ野心。僕はわけが分からず、そのまま彼を凝視してしまった。


「私は怒っている。だが、それだけだ。約束を破られたことと順序を守れなかったと言うことに関して。むしろ手間が省けた、という点では少しだけ、ほんの少しだけ、感謝しているよ、ニール」


 彼は上着の胸ポケットの中から金属製の鍵を取り出して、僕に見せつけるように掲げた。


「とりあえず、この牢から出ることにしよう。話はそれからだ」


 何が起こっているのだろうか。僕は牢の鍵を外すウェンビアノの一挙手一投足を呆然と眺め、促されるまま牢の外へと歩いて行った。僕よりも身長の高いウェンビアノの手が肩に回される。そして、彼は静かな声で囁いた。


「君がいて、よかった」


 地下牢から出された僕は乾かされた制服を手渡され、着るように命じられた。普段は着るな、と言いつけられていたものだから戸惑い、それをウェンビアノに伝えると彼はこともなげに答えた。


「これからここの領主に会うというのに汚れた囚人服を着ているわけにもいかないだろう」

「……領主?」

「ああ、この都市を治める長に謁見するんだ。カンパルツォ伯爵という。失礼のないように」

「ちょっ」混乱が僕の動きを止める。「なんで、僕が」

「わからないか? ニール、君は『拒否の堀』を越えたんだ。当然だろう」


『拒否の堀』――あの堀の異名がのし掛かってくる。


「……この都市が作られて百年近いが、君はあの堀を越えた唯一の人間だ。私とここの領主は互いの恥を知っている関係でね、それもあって君と、君を預かっている私が呼ばれたわけだ」

「僕は……何をすればいいんですか?」

「何をすればいいと思う?」

「……謝罪ですか」


 それしか思いつかず、僕は沈んだ声で答えた。これからどれだけ謝罪の言葉を吐けば許されるのだろうか。土に額を擦りつけ、許しを請う自分の姿を想像して腹の底から黒々とした塊が胸の方へとにじり寄ってきた。

 だが、僕の気分とは正反対にウェンビアノの声は浮き上がる。


「証明だ」


 さあ、ニール、早く着替えろ、礼儀は習ったな? というウェンビアノの言葉に従う。従うほか、ない。


     〇


 先導する老兵士の後ろでウェンビアノは蕩々と語り始めた。さわりだけ習ったこの都市の政治に関する仕組みの話だった。


「バンザッタは三つの力によって治められている。その制度は貴族政治が支配するこの国においても、周辺国家においても類を見ない仕組みだ」


 僕は横を歩くウェンビアノを一瞥して、そのあとの言葉を続ける。


「……王権と民権と官権ですよね」

「そう、その三つだ。王権は貴族、つまり領主による采配だ。領主とは王の代弁者であり、王の代弁者は国の歴史を背負っている。民権は投票によって選ばれた、民衆の代表者であり代弁者だ。私もその一人で、我々は人の感情を背負っている。そして官権、これは科挙により選抜された学者たちだ。高い倍率の試験をくぐり抜け、政治を学び、さらにその中の一握りの人間が選ばれる。法と政治の専門家である彼らはいわば理性の代弁者だ」

「でも、その体勢が許されるのが不思議でならないんです。王の代弁者である領主の言葉が絶対でないのが、僕にはちょっと……」


 わからない、と言う前に、ウェンビアノはあっさりと答えた。


「それは立地と歴史によるものだ」

「立地と歴史?」

「バンザッタは南の山脈の先にあまり良好な関係ではない隣国を臨んでいる。つまり、戦となったとき、この街はもっとも早く、そしてもっとも苛烈に戦闘が行われる戦場になる。私が子どものころに行われた戦争でもそうだった。それ以来、この都市はある程度の自由が保障されようになったのだ。国を守るものは愛国心と、快適な日常への無限の思慕だからな……。そして、この仕組みを作り上げたのは二十五年前、代替わりした現領主と当時十六歳だった私だ」

「ウェンビアノさん、が?」


 あまりの驚きに、僕は目を見開き、足を止めた。先導する兵士がじろりと睨み、咳払いをする。ウェンビアノにも促されてようやく、歩を進めた。


「でも、どうやったら、そんな」

「血気盛んな、命知らずの若者だったからだ。まあ、たがの外れ具合でいったらカンパルツォ伯爵のほうがよっぽどだが」


 その言葉に兵士の顔が再びこちらを向いた。彼は眉根に皺を寄せて咎めるように低い声を出す。


「ウェンビアノさん、言葉を慎んでいただきたい。伯爵に忠言しますぞ」

「ご自由に。これは真心から出た褒め言葉だ。聞かれたとしてもなんら不都合はない」

「……ふん」


 老兵は気に入らなさそうに顔を歪め、視線を前へと戻した。それを確認もせずにウェンビアノは続ける。


「十五歳で職業斡旋所を作った私は一年で限界を感じていた。少しずつ斡旋所は成長を続けていたがね、解決できない政治上の悩みが多くを占めていたからだ。先代は名君として民衆からの支持も高かったが、だからといって不満を持たない人間がいないわけではない。先代自身も王の意向と民の声の間で懊悩を重ねていたとも聞く。そんなとき、先代は代を譲ることを余儀なくされた。私は好機だと考え、今の伯爵が行った領主就任の場で直訴したんだ。『民の声を聞け』、とな」

「それは……」


 僕は言葉をなくす。

 うろ覚えの知識だが、現領主であるレング・カンパルツォは老年にさしかかっている男だ。二十五年前というと、僕がウェンビアノに意見する構図に近い。

 境遇もあるが、考えられなかった。若造が一つの都市を治めようとする男に「民の声を聞け」と命ずるなどありえない。僕がウェンビアノに言うとしたら「すみませんが、お願いをきいてもらえますか」とかそういう感じになるだろう。懇願はできるが、命令などできるはずもなかった。


「広場は凍りついたよ」

「当たり前ですよ」

「だが、彼だけは笑い、こう言った。『聞いてやるから言ってみろ』とな」

「そっちもそっちで……すごい話ですね」

「私自身も驚いたよ。扇動のつもりでやったらそう返されたものだからな」

「それで、どうなったんですか?」


 知らず、彼の物語に引き込まれている。


「私はその場でいくつか重要な問題を挙げ、解決方法を示した。興奮していたのだな、今考えると支離滅裂な案だった。だが、伯爵は静かに聞き入れ、その後で私に『城に来るんだ』と言った。処刑されるかと思って逃げる準備すらしたほどだ」

 僕は噴き出しながら相槌を打つ。「でしょうね」

「結果、伯爵自身が私の家に来てな、兵士に引っ捕らえた私は城に運ばれたんだが、通されたのは牢ではなく、伯爵の政務室だった。彼は『考えていることをすべて吐き出せ』と言い、私はそこで思う存分理想論を語った。青い、理想論だ。伯爵は熟考の末、一つ一つに肯定と否定を出していき、結果、私と彼は同じ机の上で今ある仕組みを作っていった。実際に運営され、安定するまでは十五年近くかかったか」

「でも、ウェンビアノさん、それならどうして、今、斡旋所を経営しているんですか? 文官として働いていてもおかしくないじゃないですか」

「誘われはしたがな。固辞して、私は民の代表者として立つことにした。それに、改革は治安が良くなければ受け入れられるはずもない。話し合いに没頭していたせいで斡旋所が停止して、食い扶持に困る人間も出てきていたのでな」


 ウェンビアノは懐かしそうに目を細め、遠くに視線をやった。目の前には領主の間に続いている分厚い扉がある。彼の目は、僕たちを待っている領主を見ているかのようでもあった。


「あの晴れの日から、二十五年……気付けば今になってしまった。だが、私は幸運なのだろう。きみと出会うことができた。決意もできた」

「決意?」

「私の思い出話は銅貨一枚ほどの価値もない。それよりも未来を見据えよう」

「あの、何を言っているのか、僕には」


 思わず困惑を吐き出すと、ウェンビアノはふっと口元を緩めた。


「きみが堀を飛び越えたとき、私は音を聞いた――躊躇いと、時代を飛び越える音だ。きみの力は私が考えていたよりずっと強大だった。君がいれば、何かを変えられる気がしたんだ」

「……僕は、僕の力は」


 そんな大したものではない、と言おうとして、遮られる。「さあ、謁見の時間だ。失礼のないようにな」というウェンビアノの言葉に僕の思いは宙に浮く。制服が着崩れていないか、こっそりと確かめたところで扉が開かれた。

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