誘拐犯、佐藤宏平

13 嗚咽

 僕は一晩で、少女との生活に慣れてしまった。僕は案外適応能力が高いのだろうか? 昨日までは緊張して喋る事もままならなかったのに、今では普通に話せる。彼女は天使だから、僕の心の内なんてお見通しで、僕の失敗なんてささいなことで、何があっても受け止めてくれる。そんな安心感が僕を強くしているのかも知れない。

 朝食を食べた後、僕はベッドに入った。少女は眠りたくないと言うので、僕一人でベッドに横になり、目を瞑った。彼女はときおり僕を見つめていた。目を瞑っていても彼女の視線だけは感じられた。見られている。見つめられている。見守られている。慈愛に満ちたその視線に抱かれながら、僕は眠りに落ちた。柔らかな感触が僕を包んでいる夢を見た。日々の焦燥感から解き放たれて、久しぶりに自由な気分だった。空を飛んでいるような爽快感。暖かいお湯に浸かっているような安寧。それらが心を満たしてゆく。

 人と言う字は人と人とが支えあっている。誰が言ったのだか知らないが、そんな言葉を思い出した。つまり、人は一人では生きていけない。そういう事なのだろう。

 けど、この人と言う字は不公平だよなあ。僕は眠りながらそんな不満を口にした。人と言う字を書くと、一画目の斜め線が、二画目の短い線に一方的に支えられている。「人と言う字は支えあって」なんて、誰の言葉だか知らないが馬鹿げている。人は誰かに依存して生きている。依存されている側は堪まったものじゃない。それが人と言う字だ。まあ、それにしたって、人が一人では生きていけないことに変わりは無い。

 ともかく、僕の心はいまや少女の存在に支えられていた。彼女のおかげで、今まで生きてこれた。わずか一日にして、それほどまでに依存度が高まっている。彼女と出会う前、僕はいったい何を拠り所にして生きていたのだろう?

 まあいいか。心地いい眠りの中で、僕は思考を止めた。下らない事を考えて神経をすり減らすよりも、今ある幸福を噛み締めよう。天使とともに暮らす喜びに、賛美歌でも歌おうか。キューピットのようにラッパを吹き鳴らして、青空に向かって行進してみてもいい。ゲームの世界から出ると、こんなにも清々しい世界が待っていたなんて、僕は想定していなかった。僕はもうゲームをしない。ただ、少女を賛美し続ける。彼女の美しさに見とれ続ける。食べるものはカップ麺だけでいい。栄養なんてなくても、何かが絶対的に足りなくても、彼女が僕の隙間を埋めてくれる。胃も、腸も、血管も、脳幹も、脳髄も、腹腔も、心も、全ての空白を彼女が満たしてくれる。僕はそんな妄信をしながら、夢の世界を漂っていた。

このとき僕は気付いていなかった。あるいは、気付かないふりをしていた。この生活がいつまでも続けられるものではないという事に。そして、少女の心に深い闇が広がっているという事に。僕よりも、彼女の方が深く苦しんでいるという事に。彼女が腕に無様なミミズを飼育していることに。僕は気付かないふりをして、それらから目を逸らそうと努力していた。

 僕が浅い眠りから目を醒ますと、ベッドの隣で少女が泣いていた。

「どうしたの?」と僕。けれど、返事は無い。

「どうしたの?」ともう一度尋ねた。

「――して」掠れた声が返ってきた。

「ん? 何だって?」

「お願い殺して。わたしを殺して。優しく、だけど確実に、わたしを殺して」 

 すすり泣きながら殺してくれと懇願する少女を、僕は数時間もなだめ続けた。自殺願望の天使は、僕の言葉を聞いて少し落ち着きを取り戻した。

「君は、どうして、殺して欲しいなんて言うんだい?」

「わたし、寂しいの。愛されたくて、でも愛されなくて」

「だから死にたいの?」

「うん」

 少女は瞳を震わせながら、僕を見上げた。涙袋が赤く腫れて、ぷっくりと盛り上がっている。その顔はやけに儚げだった。

 もしも僕の部屋のエアコンディショナーが壊れて、いま急に強い風が吹き出したなら、彼女は砂のようにさらさらと崩れるに違いない。そんな気がした。

 頭が砂になり、ぐねぐねした脳みそなんかが露出して、それもすぐに砂にほどけて、さらりさらりと風に乗る。顔が砂になり、首、胸、腹、腰、太股、脛、足、つま先。全部がさらりと消えていく。その情景は物悲しくも美しくて、幻想的で、神秘的だった。きっと僕は息を呑んで見守っていることしかできない。それで、彼女が完全に砂になったら、僕はその砂の上に横たわって、そりゃあもう、狂った子猫のように引っ掻き回すんだろう。おしっこなんてして無いのに、砂を蹴り上げたりしてさ。それから鳥が砂浴びするみたいに、全身に砂をかぶったりするんだろう。童心に返ったみたいに、めいっぱい遊ぶんだろうね。砂になった彼女とまぐわいながら、僕は笑っちゃうんじゃないかな?

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