3 誘拐

 僕は天使のような少女にすっかり心を奪われてしまった。それで、どうしたのかといえば、誘拐した。

 少女のバイトがいつ終わるか分からないので、僕は急いで家に帰り、荷物を置くと、またコンビニに引き返した。コンビニの外の電柱の陰に隠れて、ずっと店内を伺っていた。それから二時間ほど、僕の張り込みは続いた。

 少女は午後六時までのシフトだったらしい。六時十分過ぎに、服を着替えてコンビニから出てきた。ジーパンと長袖のTシャツという素っ気無い服装をしていても、やはり彼女は美しかった。むしろその素朴そぼくさこそが彼女を引き立てていた。素材のいい料理には塩をかけて食べれば十分に旨い。それと同じで、存在そのものが可憐である彼女は派手に着飾る必要が無いのだ。おそらく、完全な裸体こそが彼女のうるわしさを最も崇高すうこうな領域に高めるに違いない。社会的モラルが着せた洋服は、いかなる物であれ、その妨げでしかない。

 僕は少女を尾行した。そして、人気のない暗がりで、そっと彼女に歩み寄り、腕をつかんだ。キャッと彼女は短い悲鳴を上げたが、僕の顔を見ると、声を落とした。

「夕方のお客さんですよね?」

「う、うん」

「何か御用ですか?」

「い、いや」

「もしかして、わたしのことつけてたんですか?」

「あの、その、ごめんなさい」

「わたしに酷い事をする気?」

「いや、別に、そんなつもりは」

「じゃあ、何のつもりなの?」

「あの、その、えっと、君が優しいから、つい、家につれて帰りたくなって」

 なんて馬鹿正直な答えだ。愚直ぐちょくと言う言葉は、今日の僕を指し示す為にあったに違いない。愚直の愚を蛍光マーカーで強調したなら、僕を表す代名詞になるだろう。

 これは逮捕確定だ。ネットゲームはしばらく出来なくなるだろう。でもご飯は用意しなくて済むようになるのだからプラスマイナスゼロかも知れない。いや、労働まで付いてくるのだから、マイナスの方が大きいか。

早くも僕は監獄での生活を覚悟していた。だって、そりゃあそうだろう。僕のなまった足では現役女子高生から逃げ切れるはずが無い。僕の軟弱な肉体では、少女の腕っ節にすら勝てっこない。それなのに「家につれて帰りたくなった」なんて、変質者へんしつしゃ丸出しのことを口にしたのだから。僕の未来は最悪ゾーンに突入するに決まってる。

 ところが、少女は僕を捕まえて警察に突き出そうとはしなかった。

「それだけ?」少女は短い疑問を口にした。

「そっ、それだけって?」

「だから、乱暴したりとか、強姦したりとか、そういうのは?」

「ま、まさか、そそそ、そんなことしないよ」

「じゃあ、いいよ」

「な、何が?」

「わたしのこと、家につれて帰るんでしょ?」

 僕の下手糞な誘拐は、何故か成功した。

 散らかった僕の部屋に、少女がいる。彼女は僕のベッドに腰をかけて、ぐちゃぐちゃな部屋の中を見回している。

「それにしても、部屋汚すぎ!」

 自分でもそう思う。だからいつもは部屋の明かりを消して過ごしている。そうしていれば、少しでも汚れを誤魔化ごまかせるのだ。

 こうして蛍光灯をつけていると、部屋の汚れがやたらと目に付く。床の至る所に食べ物の屑が散らばっていて、ベッドの足には抜け毛が絡み付いている。部屋の四隅には白い綿埃がたまっている。丸めたティッシュや尿の入ったペットボトルがパソコンデスクの周囲に散乱している。

「ねえ、わたし喉が渇いちゃった。そのレモンジュース飲んでもいい?」

 僕はギクリと身を縮めた。少女が指差す先にあったのが、僕の尿が入りのボトルだったっからだ。こんなもの、飲ませるわけにはいかない。

「ちょ、こっ、これは駄目。袋に野菜ジュースがあるから、それ飲んで」

「あっ、今日買ったやつか。うん、分かった」

 少女がジュースを飲んでいる間に、僕は部屋の掃除をした。溜まりに溜まったゴミは片付けようが無いので部屋の隅に寄せておき、とりあえず、尿のボトルだけは始末した。

「ねえ、わたしを誘拐して、これからどうしたいの?」

「べ、べつに、なんにもしないよ」

 部屋に舞い降りた天使は、息を呑むほど美しかった。黒く長い髪はシルクのようにつややかで、いい匂いがした。透明感のある肌には若々しい産毛が生えていて、もぎたての桃のように瑞々みずみずしかった。僕の知る限りのいかなる言葉を持ってしても、彼女を賛美するには足りないだろう、と僕は思った。

 僕はそれから一時間ほど、少女に見とれて過ごした。野菜ジュースを飲むときにキュッとすぼめた唇はチェリーのように赤くて可愛らしく、退屈そうなため息には大人の女性の妖艶さが紛れていた。髪をかき上げる指の動き、その滑らかさは流れる水のようだった。

「ねえ、そろそろご飯にしない?」

「あっ、ご飯。うん」

 僕は二つの弁当を取り出し、少女に見せた。彼女は二つの弁当を見比べてから、焼肉弁当を手に取った。

 僕はタルタルチキン弁当を食べる事になった。

 まずは焼肉弁当を温め、次に僕の弁当をチンした。

「いただきまーす」

 少女は僕が弁当を温め終わるまで、弁当を食べずに待っていてくれた。こんな些細な優しさ一つでも、僕は舞い上がりそうなほど嬉しかった。

 僕たちは無言で弁当を食べ、野菜ジュースを飲んだ。

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