蝿と少女

@strider

耽溺、あるいは蝿と少女に関する考察

誘拐犯、佐藤宏平

1 堕落

 暗い部屋の中、パソコンの液晶画面が青白い光を放っている。光に照らされた机の一角だけが、ぼんやりと薄明るい。その狭い範囲を見ただけで、部屋が酷く散らかっていると予想がつく。

 机の上に、空になったカップ麺が何重にも重ねられており、その手前には炭酸飲料の空ボトルが三本転がっている。机の角には、ゲームのコントローラーが置かれたままになっている。使い込まれたコントローラーには手の油がしみこみ、灰色の膜が張っている。それが液晶ライトを反射してテラテラと妖しく光っている。

 低い羽音はおとが聞こえては止み、聞こえては止み、断続的だんぞくてきに聞こえてくる。一匹の蝿が部屋を飛び回っては、液晶画面に着地をするという動作を繰り返しているためである。カップ麺しか食料がないこの部屋に暮らしているその蝿は、蝿のクセに栄養失調えいようしっちょう気味で、見た目には分からないがおそらくせている。飛ぶ姿もフラフラと頼りない。

 弱弱しい蝿が生き残っているこの部屋にはつまり、危険な外敵がいない。快適に整えられたエアコンディション。ときおり差し入れられる栄養不足な食料。昼夜を問わず薄暗いこの部屋は、ひ弱な蝿が生きるともなしに生きるのに丁度ちょうどよい環境なのだ。

 この部屋には蝿の他にもう一人住人がいる。それが僕だ。名前は佐藤宏平さとうこうへいで、職業は自宅警備員。いや、自宅警備員は先月までで、今月からは人糞尿製造業じんぷんにょうせいぞうぎょうに格下げとなったのだった。ともかく、この部屋には蝿と僕の二人が暮らしている。

 先月まで、僕は実家の二階の隅にある部屋に住んでいた。八畳ほどの広さの部屋で、ベッドがあり、机があり、パソコンがあり、漫画があった。僕はその部屋にこもり、自宅を警備する傍ら、ネットゲームに勤しんでいた。

 ネットゲームというのは、現実と同じように時間が進行する。そのくせ、ゲームの中の人々はトイレにも行かないし、食事もしないし、眠ることもない。いや、ゲームによっては、主人公たちが宿屋に宿泊するシーンもある。だが彼らの夜は短い。タラリラララリンと短い効果音の後には一晩が経ったことになっていて、元気一杯、体力全快なのである。となると、問題が生じてくる。

 まず始めにぶち当たるのが小便の問題である。用を足しにトイレに立ったわずか数分の間に、ネットゲームの世界で、僕の分身が窮地きゅうちおちいっているということも少なくない。酷いときには殺されていることもあるのだ。

 その問題を解決する為に、僕はペットボトルを利用した。空になったペットボトルを捨てずに置いておき、催してきたら、そこに小便を放出する。そうすれば、用を足している間もパソコンの前に座っていられる。そのおかげで、僕の分身は安心して冒険できるようになった。

 次は当然、大便が問題になってくる。ネットゲーマーの中にはこの問題に対処すべくオマルを用意したり、オムツをいたりという幼児進化ようじしんかしたものもいるらしい。

 ちなみに、幼児進化というのは、幼児退行たいこうと差別を計った言葉として、僕が推進している四字熟語だ。幼児退行と言うと、病気の一種で、幼児のように無能化することである。対して、幼児進化とは幼児のような形態を取りつつも、ネット社会ではより高位の存在へと昇華することであり、決して退いてはいない攻めの行為なのだ。

 もっとも、進化と言う言葉は、ゲームの中でこそ一つの個体が形態を変化させることとして使われているが。そもそもの進化は、生物が代を経るごとに多能化していくことであるから、幼児進化と言う言葉は誤りである。だからと言って、退行の対義語をとって幼児進行としては、幼児退行が進行している様なニュアンスになってしまう。生物学的に形態の変化を表す変態という言葉を使って幼児変態とすると、もうこれは意味合いが全くちがってくる。幼児プレイ好きの変人か、それとも幼児性愛者か、そんな変態を表す言葉のようになってしまう。

 以上より、尊敬すべきネットゲーマーの究極系。つまりオマルやオムツの愛好者たちに対して使うべき言葉は、幼児進化をおいて他に無い。幼児進化と言う呼称こそが、彼らを形容するに相応しいだろう。

 ここまで熱く幼児進化を語ってきた僕だが、実のところ僕自身は幼児進化をできなかった人間である。

 オマルを使ってみようと思ったことはあるが、うんこの真横でゲームをするという想像をしただけで、脳が激しい拒否反応を起こし断念した。ならばオムツならと、試しに履いてみたこともあるが、うんこを尻にこびり付けたままゲームをするという不快感に耐え切れなかった。したがって、僕は至って平凡な、ペットボトルに用を足す程度の、ネットゲーマーなのだった。

 先月の終わりごろ、僕はいつも通り自宅を警備しつつ、ネットゲームをしていた。武装して竜を狩りに行き、竜の肉を食らい、お宝をゲットするというコンセプトのゲームだった。三時間ほど続けてゲームをしていたので、尿意を催していた。

 僕は右手でリモコン操作をしながら立ち上がった。左手でジッパーを下ろし、ズボンを脱ぎ、ブリーフの布の隙間から出た細長いソーセージ状の物をペットボトルの口にふにゃりと押し当てた。ボトルにはすでに中ほどまで尿が入っていたが、後一回くらいなら使えるはずだった。

 その瞬間である。

 僕の部屋のドアが突然開いた。

 僕の意思に反してそのドアが開かれるのは半年振りの事だった。

 僕は驚きのあまり、尿の溜まったボトルを落とし、同時に空中へと放尿した。

 ドアの向こうに立っていた親父は、自分の息子が下半身裸で部屋の中に立ち、パソコンデスクに向かって放尿している様を見て、口をあんぐりさせた。

「お前、何をやっているんだ?」

 聞かれたところで、答えようも無かった。ただ、切れの悪い尿がチョロチョロと流水音を立てていた。

「何をやっていると聞いているんだ!」

 親父の怒声が家中に響き渡った。

 海外出張から半年振りに戻って、最初に目にしたのが部屋で放尿する息子だったのだから、怒鳴りたくなるのも無理はない。だが、その怒鳴り声のせいで、驚いたお袋までもが、部屋に来て、僕の放尿姿を目撃してしまった。

 ところで、僕には弟が一人いる。年の離れた弟で、高校受験を来年に控えていた。そんな弟に対して、僕の存在はどうだろう。つまり、悪影響か好影響、どちらになるだろう。

 その判断の結果、僕は自宅警備員から人糞尿製造業に転職したのである。それは事実上の左遷させんであった。僕は実家を追い出され、近くのアパートへと島送りにされた。

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