ヘヴィ・レイン:ACT3


EPISODE 005「ヘヴィ・レイン ACT:3」




 それから二人は椅子に座り、窓の外の真っ白な世界を時々みやりながら、話をした。

「ねえレナちゃん、わたしこの場所覚えてる」

「私も」


「レナちゃん、あの時助けてくれてありがとう」

「ふふ、どういたしまして」

 麗菜が微笑む。


「あの時のレナちゃんカッコよかったなあー」

「ありがと。でも思いっきり殴ってケガさせちゃったから停学させられそうで大変で……。やってた事バラしたら逆に向こうが停学なったけどねー」

「あはは」


 二人は当時を思い出し、クスクスと笑った。あの時の思い出は、本当に涼子にとって辛い時期だった。でも今は、麗菜が乗り越えさせてくれたお陰で思い出として振り返り、笑う事すらできる。


「レナちゃん……会いたかった」

「私も」

 二人は見つめ合う。音楽室の天井や壁が崩れ、白い光の中に吸い込まれてゆく。二人だけを残して景色の全てが崩れ、代わりとなる別の光景が構築され、次の空間を作り出す。




「じゃあここ、覚えてる?」


 今さっきまでいた音楽室の景色はもうそこに無く、大きな屋内運動場の景色が広がっている。二人はその室内運動場の二階部分の観客席に座っていた。涼子が後ろを向く、後ろにある壁は途中で途切れていて、その向こうにはやはり真っ白な空間が広がっている。


 麗菜に問われる涼子は自身の記憶を辿る。すると思い当たる場所がひとつあった。


「うーん? ここ……市の体育館?」

 涼子が回答すると、一瞬間を置き、麗菜は首を傾げながら言う。

「うーん、正解といえば正解だけど、惜しい!」

「えー」

「見て」


 麗菜が階下を指差し、涼子がその方向を見る。屋内運動場の木製の床の上に競技用のマットレスが敷かれ、空手道着を着た少年少女たちが見える。


「あ……これって去年の」

「うん、去年の県大会、思い出した?」

「うん」


 涼子は今目に映っている光景が何なのかを理解した。あれは一年前、協会の主催で行われた、空手の県大会。涼子はこの日の事を覚えている。ただこの時、彼女はこの席にいなかっただけだ。

 屋内運動場に複数敷かれた競技マットの一つを見た涼子が、目を細める。


「ね、レナちゃん、あれって」

「うん、わたしたち」


 麗菜が小さく頷く。あの時涼子はここには、観客としては来てなかった。代わりに、涼子はこの大会の出場者の1人だった。涼子の目線の先には、一年前の自分が白い空手道着を着て、自身より長身の一人の少女と向かい合っている。それが麗菜だった。


 競技場の四角のマスの外で、赤い帯と赤いオープンフィンガーグローブをつけた少女はこの時の麗菜、対するは青色の帯と青いオープンフィンガーグローブをつけたもう一人の少女、涼子である。



 麗菜に救われたあの日から、涼子は自分を救ってくれた力と、あの時から親友になった麗菜の強さに憧れ、彼女が習っていた空手を同じように習い始めた。


 それから約2年後、涼子は対戦相手として、ライバルとして親友と向かい合う。二者が一礼すると青く塗られた四角い枠の中に入り、内線まで歩むと、互いに構えた。



 主審の合図と共に二人が歩み寄る。先に仕掛けたのは麗菜、一瞬右拳を動かしフェイント、それから一歩踏み込み右拳を放つ。涼子が後ろに退き、拳をかわす。麗菜が出した拳を引くと同時に、今度は涼子が前進し左拳を放つ。


 麗菜が拳を弾き、前進してきた涼子を迎え討とうと左の蹴り足を上げる。


 涼子は麗菜の左腿に手を当て勢いを殺すと、更に麗菜の懐深くに体を押し込む。片足となった麗菜がバランスを崩し後退。

組み合う形となったところを、主審の待てが入る。



「あー、懐かしいなあ。この試合わたし、人生一番の勝負だったよ」 

 涼子が当時を懐かしむと、にこにこと麗菜に向き直った。しかし一方麗菜は頬を膨らませ、プイとそっぽを向く。

「私あんまりこの続きみたくなーい」

「えー、どうして? 超良い思い出だったじゃん」

「えー。だって私、この試合で……」

 遠くで審判の青い旗が上がった。

「負けちゃったし」

 麗菜が小さく息をついた。



「えー、でもあの時わたし、まだ2年ぐらいだったし、麗菜ちゃん優しくしてくれたんでしょ?」

 涼子が言う。すると麗菜は更に不機嫌そうに言った。

「してない。私超本気だったし。お互い絶対手加減しないって約束だったでしょ」

「う、うん。だからわたしも全力だったけど……ホラ、あの時はまぐれで」



「ううん、涼子ちゃん本当に強かったし。わたしこれでも小3の時からやってて6年目だったのに、2年で涼子ちゃんに抜かれちゃった」

 そう言うと、麗菜は不機嫌な表情作りを辞めて、困ったような顔で微笑んだ。


「これでも声優の次には本気だったのに、やっぱり涼子ちゃんって凄いよ」

「え、いや、そんなこと……。全部レナちゃんのお陰だよ」


 涼子がうつむきがちに照れる。大会を執り行う審判や、選手たち、道着姿の涼子や麗菜の姿が透明に透けて消えてゆき、会場となった屋内運動場の景色が光に吸い込まれるように崩れだした。





 次に現れた光景は、カフェテリアの室内だった。涼子はあの日の服装でカフェの椅子に座っており、テーブルを挟んだ向かいの椅子には、あの日の服装の麗菜が座っている。

 テーブルの上に載せられた料理。かわいいキャラクターの絵がキャラメルマキアートで綺麗に書かれたコーヒーから湯気が立ち昇っている。それと、取り分けられたトマトクリームパスタ。


「ここは……」

「懐かしい?」

 麗菜が尋ねると、涼子は首を横に振った。

「うーん、あんまり。だってこの間来たばっかりだし」

「ふふ、そうだよね」


 ここは、まだかなり鮮明に覚えている。お正月休みを利用して、一緒に行った大阪の遊園地。そこで入ったカフェレストラン。

「でも凄く楽しかった」

「楽しかったね」

 微笑む二人。


「ね、せっかくだし食べよ」

 麗菜がフォークを手に持ち、食事を始めた。

「そうだね。いただきます」



 涼子が置かれたウェットタオルをの封を開け、手を拭いてから両手を合わせた。その光景を見て麗菜がクスクスと笑う。

「やっぱり涼子ちゃん、育ちいいよねー」

「そ、そうかな?」


「うん。行儀良いし」

「なんか恥ずかしいから、もうやめようかなこれ……」


 笑われた涼子が拗ねた表情をすると、麗菜が困った表情をした。

「えっ、だめだめ! 絶対続けて! それ涼子ちゃんの凄い良いトコだと思うから! わたし!」


「えー……レナちゃんがそこまで言うなら続けるけど……」

「うん、おねがいね」

 それから、二人はそのまま食事を続けた。

「ね、おいしいね」

 麗菜が口を開く。

「うん。夢なのに」

 涼子が頷いた。あの日食べたのと同じメニュー。夢の中の食事なのに、同じ味、同じ触感、同じ料理の暖かみを涼子は感じることが出来た。起きている時と同じ味覚だった。


「あっ……夢といえば……そうだ!」

 涼子がふと、何かを思い出した。

「ねえレナちゃんどこいっちゃったの!? わたしすっごい探してるし、心配してるんだよ」

 現実で行方不明となっている麗菜の事を思い出し、涼子が目の前の、夢の中のその人に訴えた。



「あ……うん、ごめんね」

 その話題になった途端、それまで明るかった麗菜の表情が曇った。


「ううん。でもわたしもそうだし、レナちゃんのお母さんや、カズマくんもレナちゃんの事、凄い探してるし、心配してるよ」

「そっか……そうだよね。カズくんも……」

 必死で話す涼子に対して、彼女が話せば話すほど、麗菜の顔はうつむき、声も小さくなってゆく。


 涼子は、心の中に何か引っかかりを感じた。



「何かあったの?」

 涼子は尋ねる。

「うーん……。自分でもよく、わからないの。でも……できればあんまり、私の事探して欲しくない……かも……」

 麗菜が途切れ途切れに口にした言葉は、聞き手の涼子にとって、少しショッキングな言葉だった。


「……どうして?」

 涼子の口から放たれたのは、純粋な疑問だけではなく、そして麗菜の身を心配する側としての動揺の気持ちを多分に含む一言だった。

 麗菜はしばらく沈黙した後、涼子の顔を見た。


「ぁ……」


 話そうとした麗菜が、涼子の瞳に浮かぶ悲しみの色を見た時、言いしれぬ罪悪感に言葉を喉に詰まらせた。それでも何か言わなければ。麗菜が思った。


「……わ、わかんない。なんか、そんな感じがするの。ごめん」

 困惑の中の一言。沈黙。夢の中のはずなのに、涼子は現実と同じ、胸が締め付けられるような苦しみを感じていた。麗菜にとっても、同じように胸が締め付けられる思いだった。


「……レナちゃん。会いたいよ」

 涼子が悲痛な表情で言葉を漏らした。



「涼子ちゃん……!」

 麗菜が勢いよく席を立った。すると、二人と涼子の座っている椅子だけを残して、テーブルも、その上の料理も、真っ白な外の景色から辛うじて見える遊園地の景色も、すべてが消えて白い世界だけとなった。


 麗菜が、涼子の頭を自分の胸元に手繰り寄せ、強く抱きしめた。


 風が吹いた。赤と白の薔薇の花びらが風と共に舞い。それから景色を作りだした。二人の姿は、涼子が住むマンションの屋上にあった。だが、二人とも一度も屋上までは登ったことはない。見たことがない景色の場所のはずだった。



 涼子が眠りに落ちたのは昼過ぎのはずだが、夕暮れのオレンジと夜の混ざった空の中に、星々がきらめいている。


「私も……わたしも、本当は会いたい……」

 麗菜を見上げる。空を一筋の流れ星が駆け抜けた時、涼子の頬にポツリ、と温い滴が落ちた。




 麗菜が、泣いていた。



 どんな時も強くて、優しくて、気高くて、そんな麗菜が3年間の友達付き合いの中で、初めて見せる表情だった。





 涼子は両手を、麗菜の背中に回して抱き寄せた。その動作は、いつもは自分が麗菜に優しく、そうして貰えたときのように。そして、麗菜にこういった。


「レナちゃん。……わたし、レナちゃんを探すよ。レナちゃん、イヤかもしれないけど……、レナちゃんが世界中のどこに隠れてても、わたし、絶対探し出してみせる。……どんなことをしても」


 涼子は決意を固くして麗菜に宣言した。その決意を、麗菜は拒絶しなかった。

「ありがとう……」

「だから、泣いちゃだめだよ」


 涼子が立ち上がる。椅子が白く小さな薔薇の花びらとなって消えた。自分よりも背の高い麗菜の頭の後ろに手を回し、お互いの額と額とを合わせる。

「……うん」

 麗菜はすすり泣き続ける。それから目を開くと、麗菜は意を決し、こう言った。

「涼子ちゃんだったら、私の事、探しに来てもいいよ。特別だから……」


「カズくんと一緒に探したほうがいい?」

 涼子が麗菜のカレシの名を出して尋ねると、麗菜が首を強く横に振った。


「カズくんはだめ。お母さんも、お父さんも、先生も……イヤ。私のこと知ってる人は、イヤ……」

「わかった。わたし一人で探すね」


 涼子はそう言ったが、麗菜は小さく首を横に振った。

「だれか、大人の人を頼った方がいいかも……」

「じゃあ誰か、頼れる大人の人探してみる」

「うん」

 麗菜は、ようやく小さく頷いた。


「わかった。どんな人が良いか考えてみるね」

「べつに見つからなくてもいいから。無理……しないでね」

「うん。わかった」

 そして麗菜は、ようやく泣き止んだ。




 二人が立っているマンションの屋上の足元、麗菜の涙の一滴が落ちた場所に、白く小さな野いばらの花が一輪咲いた。



 その花を中心に、苔や草木がツタが地面一面に広がる。それらは屋上より先まで侵食し、瞬く間にマンションの真下の道路まで侵食する。


 そのまま向かいの民家、その向かいの民家、近所のコンビニエンスストア、そして更にその向こう、そのまた向こう……見渡す限りすべてに根を張ってゆく……。


 二人は、足を外に投げ出してふちに座り、その光景を眺めていた。その更に遠くの地平線、この場所からでも確認できるほどの巨大な樹がそびえたっている事に涼子は気づいた。



「ねえ、あの大きな木なんだろう?」

 一度東京で見たスカイツリーよりもずっと大きく見えるその巨木を差して、涼子が疑問を口にする。

「あれは……”ツリー・オブ・ナレッジ”って名前の木なんだって」

 麗菜が答えた。

「なんかかっこいいー」

 涼子が少しふざけて言う。



「知恵の樹とか、善悪の樹とかも呼ぶらしくて、なんか、とても大切な木なんだって」

「へえー。レナちゃんすごい。そんな事も知ってるんだ」

「うん。なんかわかるの。……あの樹の実を食べるとね、神様にも等しいぐらいの知恵が手に入っちゃうんだって」

「頭凄いよくなるってこと?」

 涼子が言った。

「うん」

「すごー。まるでレナちゃんみたい」

「ふふふ」


 涼子の様子を見て少し笑い、それから麗奈はこう告げた。

「でも違うよ。それを食べられるのは、私じゃなくて涼子ちゃんなの」

「どういうこと……?」

「それに、生命いのちの木の実も、涼子ちゃんはもう手に入れてるのよ」


「レナちゃん、もっとわかりやすくいって。私頭悪いからわかんない」

 涼子は、麗菜の言ってることがまるで理解できず、困惑する。しかし麗菜はこう続ける。


「声が聞こえるの。知らない人の声。その声が、涼子ちゃんはもっとすごくなるって。涼子ちゃんの中に、力が芽生えようとしているって、私に教えてくれるの」

「よく……わかんない」


「私も聞いただけだから、ホントはよくわかんないの。でも大丈夫。ホントは涼子ちゃん、私よりずーっと頭良いんだから、きっとすぐわかるよ」

 そういうと麗菜は微笑み、困ったように首を傾げる。しばし沈黙。


 空の色が変わってゆく。 空が淡い夜明けの闇を抱えながらも透き通った美しい蒼と、薄い桃色の色の空とで混じり合って、空はより幻想的な色へと変わってゆく。

 また流れ星、一つ、二つ、三つ……流れ星が、途切れることなく降り注ぐ。



 麗菜が、おもむろに口を開いた。

「……きっと涼子ちゃんは、これから私が想像もつかないぐらい凄くなるとおもう。でも私ね、涼子ちゃんは今のままでも、十分凄いと思うの」


「そんなこと……」

 いつものように、反射的に否定しようとする涼子の言葉を、続ける麗菜の言葉が上から覆う。


「ほんとだよ。涼子ちゃん私よりも頭良くて、やさしくて、とってもカワイイ。それからちょっとだけ……ちょっとだけよ? ……私より強い。嘘じゃないよ、本当にそう思ってる。信じて」

 涼子の手を優しく握る。


「そんなこと」

「私を信じて」


 麗菜の真剣な眼差しが、涼子の瞳の奥深くへと届く。一瞬の沈黙のあと、涼子は小さく頷いた。

「……うん」

 この3年間、この話題で涼子が初めて見せる、肯定の意志だった。

「涼子ちゃん、ようやく「うん」って言ってくれたね」

 そう言い麗菜が空を高く見上げ、それから言った。


「……涼子ちゃん、そろそろこの夢、覚めちゃう」

「え、まだヤだよ」

 涼子が拒む。

「私もヤだけど……でもしょうがないよ。ねえ、涼子ちゃん、お願いがあるの。聞いてくれるかな」

 麗菜が立ち上がって言った。

「うん、もちろんだよ。なに?」



 すると麗菜はこう願った。

「私の事、忘れないで」

「? もちろんだよ。レナちゃんの事忘れるなんて、絶対そんなのないよ」

 涼子にとって、その願いを聞き入れるという事はあまりに当然の事すぎて、笑って答えるも、その表情はすぐに怪訝けげんなものとなって、そうさせる麗菜のことを見上げた。


「本当?」

「本当!!」

「これからもずっと……ずっと、友達でいて、くれる、かな……?」

「……当然でしょ?」



 涼子にとってその返事は、本当に当たり前、当然のことだ。その当たり前の事を急に求めて来る麗菜を涼子はいぶかしくも思ったが、それ以上に真剣で、どこか思いつめたような表情を浮かべる麗菜を見ると、そのような疑問や内心の引っかかりなどはどうでもよい事で、その当然の反応を、当然に返してあげる事こそが、今一番大切なことのようにも涼子は感じた。


「ありがとう。……涼子ちゃん、大好き」

「レナちゃん、わたしも」


「うん……。じゃあさいごに、涼子ちゃんにプレゼントがあるの。受け取ってくれるかな」

「うん?」

「手、出して」

 そう言い麗菜が手を差し出す。

「こう?」


 習って涼子も右手を出す。麗菜がその手を握り涼子の身を引き上げ、涼子も立ち上がる。その瞬間、何かが涼子の身体に流れ込んでくる感覚がした。涼子の手首や首筋から、細い植物のツルがいくつも現れ、彼女の身体に優しく巻き付く。


「……わ。なに、これ……?」

「これは神様から預かってた、涼子ちゃんへのお守り。大事にしてね」

「う、うん」


 夢とはいえ自らの身体の変化に驚きながら、涼子は不思議な感覚の自らの手を見つめていた。手を握り、開く。植物の細いつるが手のひらや指先にも伸びてゆく。


「そうだ涼子ちゃん。あともう一つお願いしたいんだけど、アクセサリー無くしちゃったの。大事にしてたんだけど……、涼子ちゃんが見つけてくれないかな?」


 麗菜はそう言うと、自らの首を指さす。彼女が大変気に入って、プライベートではよくつけてたネックレス、それとイヤリングもない事に涼子は気づくことができた。


「うん、わかった」

「もし見つけてくれたら、貸してあげるから涼子ちゃんが持ってて。それじゃあ、もう夢が覚める時間だから」


 麗菜の全身が淡く光り、手足から光の白い花びらとなって消えてゆく。



「やだ、まだいかないで」


 涼子がそれを拒み、消えゆく麗菜の腕を掴もうとするが、すり抜けてしまう。


「大丈夫。ずっと涼子ちゃんのこと見守ってるから。それじゃ……バイバイ」






 そう言い残して、麗菜の姿を形成していたものはすべて光の花びらとなり、風に乗って消えてしまった。


 涼子だけがひとり、その場に取り残された時、彼女の心に深い喪失感が生まれた。



 たとえ夢でも、ずっと心配していて、ようやく会えた麗菜に会えたことが嬉しく、そしてまたこうしていなくなった時、もう二度と彼女には会えないような予感と不安が涼子の心を支配した。


 ひとり残された涼子は、マンションの屋上から見える空を見る。


 空が淡い夜明けの闇を抱えながらも透き通った美しい蒼と、薄い桃色の色の空とで混じり合って、不思議な景色の空を映し出している。星はいつもよりもずっと大きく、多く、輝きも力強く見える。

 自らの手を見る。広げた左手に、五本の指に、手首に、細い植物のつるが巻き付いている。



「レナちゃん……」

 瞬きと共に、彼女の両の瞳から大粒の涙が流れる。






 目を開くと、さきほどまでの幻想的な景色は消えていた。


 辺り一面に生い茂っていたはずの植物はもうどこにも見当たらない。遥か遠方に見えた大樹も、ピンクと蒼の空も、手に巻き付いた植物も、すべてが消えていた。星は全て闇夜に広がる雨雲に覆い隠されている。



 土砂降りの雨が降っていた。マンションの屋上は一面雨水が溜まり池のようになっており、気づくと豪雨が涼子の髪を濡らし、衣服は学生服や下着まで、ぐっしょりと冬の雨を吸い込んで重く冷たくなっていた。


 重い雨が、涼子をひれ伏せさせようとするが如く、容赦なく彼女を殴りつけていた。



 涼子は屋上の出口へと向かう。いつからここにいたのだろう、自室で休んでいたはずだった。靴さえも履いてない。冷たい雨を吸い込んだ靴下が足を一層冷やしていて、ひどく痛む。



 全身が凍える。寒い。普段施錠されているはずの、屋上から下の階へと続く階段への扉は、開け放されてあった。わけがわからないまま、涼子は階段を降り、おぼつかない足取りで自宅のある階を目指す。



 自宅の前へとたどり着く。玄関のドアを開けようとする。……鍵がかかっていて開かない。家族は帰ってきているだろうか。涼子はインターホンを鳴らした。


「……」

『……涼子? どこいってたの!? 今開ける!』

 姉の声だった。


 ガチャリ。その鍵と共に自宅の玄関の扉が開かれた。

「どうしたのその格好」

 靴も履かず学生服のまま、ずぶ濡れの妹を見て、姉が驚いた。

「……」

 涼子は答えない。



「今タオル持ってくるから待ってて」

 涼子が玄関まで入ると彼女をそこで立たせ、涼子の姉は浴質までバスタオルを慌てて取りに行く。やがて戻ってくると、涼子にタオルを渡した。

「良かった……家帰って来てもカギかかってないし、誰もいないし、まさか涼子にも何かあったのかと……」

「……私は、大丈夫」

「……あ、あのね」

 口ごもったのは姉の方だった。


「……どうしたの」

 髪をタオルで軽くふき取りながら、涼子が姉を見た。

「……涼子、もう聞いてるのかな。あの、落ち着いてよく聞いてね」

「……うん」


 普段とあまりに違う様子の姉に、涼子はひどく悪い予感がした。うん、とは言ったものの、内心その返事を後悔するぐらいに、姉の話を今は聞きたくない気分だった。今姉は、何かとても良くない話をしようとしているような気がしたから。



 そして、その不安は正しかった。


 姉は少しうつむき、涼子を見ると、意を決して、妹に告げた。

「……さっき学校から電話がかかってきて、涼子のクラスメイトの野原さん……レナちゃんがね……死んじゃったって……」





第一節【茨城 涼子 プロローグ】

EPISODE「ヘヴィ・レイン ACT:3」END.




第三節【開戦前夜】へ続く……。



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