ヘヴィ・レイン:ACT2



第三節【開戦前夜】


EPISODE 004 「ヘヴィ・レイン:ACT2」



 涼子は自室のベッドの上に伏していた。締めきったカーテンから、わずかな光だけが部屋に差し込む。


 格好はまだ高校の制服のまま着替えていない。着替える気分になれない。



 どうやって家に帰ってきたのかも、よく覚えていなかった。瞳を閉じると、空席の目立つ日中の電車内の景色が、一瞬瞼の裏に広がって、弾けるように消えた。今日の涼子が帰り道に見た光景

 スマートフォンを手に取る。時刻はまだ1時を少し過ぎたばかり。本来ならまだ授業が行われている時間帯。


 おもむろにコミュニケーションアプリを立ち上げる。あれから新着メッセージはない。


「……」

 ノートパソコンのある机まで向かう気力もなく、スマートフォンでインターネットブラウザを立ち上げる。PCでもスマホでもお気に入りに登録している、麗菜のブログを開く。やはり、更新はない。

 またコミュニケーションアプリを立ち上げ、カズマとのメッセージログを見やる。


「はあ……」

 悲嘆の溜息をついた。麗菜が行方不明で、家族も麗菜のカレシも彼女の行先を知らず、警察に捜索願が出ているという状況。ワイドショーやテレビニュースでしか聞いたことのない状況が涼子の身にのしかかっている。テレビで扱われる誘拐事件の記憶、拉致、監禁、事故、そして……行方不明において想定される、最悪の結果が涼子の頭をよぎる。






 死……





(嫌だ、そんなの絶対に)


 涼子は制服のポケットからイヤホンを取り出すと、スマートフォンと接続し音楽を再生する。正直あまり音楽を聴く気分でもなかったが、聞いていると少し気が紛れる気はした。

 ベッドの上で涼子が体を丸める。一体麗菜はどこへ行ってしまったのか、何か悪い事にでも巻き込まれたのだろうか、無事でいてくれているだろうか。いや、無事でいて欲しい。そうでないと困る。



 薄暗い部屋のベッドの上で答えの出ない考えと悩みに惑わされているうち、ここ数日の心労から来る眠気が、彼女の思考を奪ってゆく。


 朦朧とするうち、涼子の耳に音楽が流れている事に気づいた。スマートフォンの音楽再生は、既に停止している。



 途切れ途切れで聞こえるピアノの曲、今にも消え入りそうな女性の歌声。日本はおろか世界中のどこのヒットチャートにも載らなさそうな、古めかしささえ感じる歌。生まれて初めて聞く曲なのに、その曲にはどこか懐かしささえ感じる。


 その歌の正体が何なのか、考えるだけの力は涼子に残っていない。そのまま、消え入りそうな女性の歌声と共に、彼女の意識も闇に溶けて行った。



 ☘


 ……次に気が付くと、涼子は椅子に座っていた。木製の床、ピアノ、黒板……涼子はこの場所を知っている。

「ここ、私の中学……?」


 そこは、彼女の中学校の音楽室にとてもよく似ている。部屋の構造も、あのピアノも、あの黒板も、知っている、覚えている。でも、どこかが違う。


 涼子は音楽室の黒板を見た。大きく文字が書かれている。「Hello World」。


 自分の記憶の中で、黒板にこんな文字を書いた人はいない。教室は電気がついていないにも関わらず、とても明るい。涼子は窓の方を見る。窓の外は一面白。真っ白で、明るく、景色も何も見えない。


 ここは夢の中だろうか。涼子は少し思案したが、少しヘンだ。という事に気づいた。体の重みは感じないが、光景はとても鮮明で、意識もはっきりしている。



 教室は無人。だがその時、声が聞こえた


「ねーねーりょーちゃん、また写真撮らせてよ」

 声と共に、彼女の座っている場所の前方に、三人の女性の姿がフウっと浮かんで現れた。三人共友、中学時代の制服に身を包んでいる。涼子はこの三人の女性に見覚えがあった。


「あ、あの……わたし、恥ずかしいからもう……」

 その三人に囲まれて、一人の少女の姿が現れた。三人の女性に囲まれ、とても怯え切った様子の少女。涼子は、その少女の事をよく知っていた。


「でもりょーちゃんの写真、送ったら凄いウケ良かったよー」

「そうそう、みんなりょーちゃんの事「凄くカワイイ」って」

「写真見せたらギフト券とかプレゼントしてくれてさー、りょーちゃんにもジュース買ってあげたでしょ。お兄さんたちみんな、りょーちゃんの写真もっと見たいんだって」

「りょーちゃん、やっぱカワイイー」



 涼子は、その光景に見覚えがあった。

「……めて……」

「あの……わたしそういう写真とか、撮られるのちょっと……」

「ちょっと何?」

 怯える少女の手を、一人の女性がつかんだ。

「ちょっと気持ちいいんだよね」

「えー、りょーちゃんってドMー。見られるの気持ちいいんだー」


「ち、ちがう……」

 怯える少女が、か細い声で否定するが、それを三人の笑い声がかき消してしまう。

「キャハハハー、りょーちゃんひょっとしてヘンタイー?」


「やめて……」

 涼子はこの光景を見たことがある。忘れられない、忘れるはずもない。涼子が耳と目を塞ぐが、何かが彼女の行いを許さぬかのように、瞼の奥から光景を見せられ、声は頭に直接響いてくる。

 スマートフォンのシャッター音が鳴る。女子の一人が怯える少女の衣服を強引に掴み、写真を撮影している。


「いえーい、りょーちゃんのブラチラゲットー! ねー聞いてよ、この間もブラチラ写真見せたらギフト券3000円もくれたお兄さんいてさあー」

「うそ、わたしそんなの撮って良いなんて言ってない。かえして……!」



 少女が携帯を取り戻そうと手を伸ばすが、別の女性が彼女の右手も強く掴みあげる。

「痛いっ……! 離して…!」


「いーじゃん、減るもんじゃないんだしさー!」

「涼子ちゃん、私達友達じゃん、ちょっとぐらいいでしょ?」

 女性の一人が、少女の胸倉を掴みあげ、顔を近づけた。その笑顔は偽りにと悪意に満ちていた。



「「……いやだ」」



 教室の後ろでそれを見る涼子の言葉に重なるように、少女は小さな声で拒絶した。




 瞬間バチィ、と乾いた音が音楽室に鳴った。少女の左頬は平手で打ち抜かれ、暴力の跡が頬の充血となって、赤い痕を作っていた。


「ねえ……涼子ちゃん。これぐらいしか私達の役に立てないでしょ? 友達でいる努力ぐらいしなきゃダメだよ。何もせずに友達でいるなんて、私達に甘え切ってるよ?」


 女性から、先ほどまでの作り笑顔が消えた。女性の持つ少女への敵意、差別意識、底無き悪意、そして彼女の中にある「自分は絶対に正しい」という正当性への自負、いうなれば、高慢さ。その女子生徒の表情は、それらをすべて一つに詰め込んだかのような、怒りに似ていて、まるで非なる醜い表情であった。



 涼子は、この光景をよく知っている。なぜなら、その場にいたから。

 涼子は、この人達をよく覚えている。中学のクラスメイトだった子たちだから。

 涼子は、この怯える少女の事と、その気持ちを誰よりも知っている。


 あのときの、わたしだから。



「ねえ、お兄さんたちね、りょーちゃんのパンツも見てみたいんだって」

「りょーちゃんの履いてるパンツってダサいよねー」

 涼子が席から立ちあがり、女子グループの凶行を止めようとする。肩を掴もうと手を伸ばすが、その手はすり抜け、涼子はバランスを崩して倒れ込む。



「やだ、やだ……」

 今度は転んだ涼子の後ろから声が聞こえる。振り向くと、今度は教室の後ろで光景が繰り広げられている。

 少女が抵抗するも、2人に腕を掴まれていて逃げられない。女性が涼子のスカートの中に携帯を突っ込むと、フラッシュ撮影を行う。一枚、二枚、三枚……。


「うーん、まあまあね」撮影された写真を見て、女性はひとりごつ。

「ねえ、でもパンツだけじゃ余りにも平凡じゃない?」

 少女の左腕を掴む女子が言うと、撮影役の女子がにたりと笑った。


「いいね、”中身の具”も大公開しちゃおっか。皆喜ぶよー」

 再び女性の手が迫る。今度は撮影する手だけでなく、両手に悪意が込められている。

「いや……いや……!」

 少女がはげしく抵抗する。撮影役の女子が、もう一度少女の左頬に平手を浴びせた。そして少女が、悲鳴をあげた。


「「嫌! やめて」」

 中学時代の幻と、今の涼子、二人の悲鳴が重なった。



 その時、ビシャン、と大きな音が別の所から鳴った。音は廊下と音楽室とを隔てる戸から勢いよく発せられたものだった。扉の向こうは廊下の床と窓、壁が少し見えるだけで、他は全て白一色に包まれている。



 そして、勢いよく開かれた扉の先には、一人の少女が立っていた。

「あなたたち、一体何してるの……」

 廊下に立つ少女の声は震えていた。だがそれは恐怖の震えではなく、怒りから来る震えだった。


 三人の女子も、怯える少女も、涼子も、全員がその女子生徒を見た。そして涼子はその少女を、よく知っていた。


「レナちゃん……」

 涼子はつぶやいた。

「え? 野原さん? 私達はただふざけてるだけでー」

「そうそう、遊び遊び」

 事態を誤魔化そうとヘラヘラ笑い繕う女子たちを、麗菜が睨む。麗菜れいなはツカツカと現場の中心へと歩いて行き、撮影役の女子から携帯を奪い、その場から押しのける。

「ちょっと!」


 携帯電話を奪われた女子生徒が不快感を露わにするが、麗菜は意に介さず、肩に伸ばされた手を払いのけた。

 麗菜が携帯電話に写された画面を見た。画面を確認すると、そのまま彼女のスマートフォンをブレザーのポケットに押し込んだ。

 それから、二人の女子生徒に押さえつけられた少女の瞳を鋭く見つめ、問いかけた。



「お願い。本当の事を言って」

「……おねがい、たすけて……」

 中学時代の涼子が、声を精一杯絞り出して、訴えた。



「わかった」

 麗菜は深く頷くと、構えた。

「殴るよ。グーで」



 直後、腰の高さで落とした拳が、斜め上方に向かって鋭く放たれた。

 上段突きが、少女の左手を掴む女子生徒の顎を、まっすぐに打ち抜いた。


 少女を拘束する手が解かれ、女子生徒はそのばに崩れ落ちる。麗菜は顎を打ち抜いた手を素早く引き戻すと、今度は少女の右手を拘束する女子の腹部めがけて右拳を打ち込んだ。中段突き、正拳突きの名で知られる技の、もっとも教本通りの形。


「うごっ……」

 女子生徒が腹部を抑えてその場で膝をついた。2人共、自身が一体何をされたのか、見えもしなければ、理解もできなかった。怯える少女だけが、その拳の軌跡を辛うじて追う事が出来た。


「何するのよ…!」

 撮影役の女子生徒が怒り、手を振り下ろす。麗菜が振り向く。今まさに手を高くあげ、力任せに振り下ろさんとする女子生徒の姿を麗菜は見た。


 だが女子生徒の振り下ろそうとする手は、何一つの洗練も、訓練をも知らぬ動きであり、麗菜にとってそれは、あまりにも緩慢なものに見えた。



 ――バチィッ。大きな音が鳴った。


 自分が受けた時よりも更に大きな音。少女の身体が反射的にビクリと震えあがる。



 ……少女が目を開く。少女が見た光景は、女子生徒の手を左手で払い、代わりに少女が受けたものより何倍も強烈な平手打ちをカウンターに浴びせる麗菜の後ろ姿だった。


 女子生徒は左頬は一瞬にして赤紫色に腫れ上がり、その場で尻もちをついた。同時に、少女もその場で尻もちをつく。


「この事、先生に言うから」

 麗菜は短く言うと、少女の方を向き直り、少女の方へと手を差し伸べる。



「怖かった? 大丈夫? 立てる?」

 麗菜は少女向けて、優しく、ゆっくりと話しかける。

 幻はそこで終わり、三人の女子の姿も、中学時代の麗菜も、涼子自身の姿も、透明になって消えてしまった。



「わたし、この事、よく覚えてる……」

 消えた幻の跡を見つめながら、涼子は呟いた。まだ忘れられない、中学時代の辛い思い出の日。



 ――そして、その辛い思い出が、素敵な思い出に変わった日。



「立てる?」

 呆然とする涼子に、その横から声をかける存在があった。それはあの日に聞いた声と同じ、強くて、優しい声。

 その思い出の日から3年後、高校生になった麗菜が、涼子に手を差し伸べていた。




EPISODE「ヘヴィ・レイン:ACT3」へ続く。




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