「今日仕事終わったら、これ不動産屋に持ってって。俺、商店街の会合で遅くなるから」

 お昼に弁当を買いに来た雄大が、私に一枚の紙を手渡しながら言う。

「え?」

「ほら、この前持ってなかったから。身分証のコピー、持って来いって言われてただろ?」

「ゆ、雄大が持って行けばいいじゃない」

「だから俺は今日、大事な会合だから」

「会合たって、どうせ飲み会なんでしょ?」

「ま、ぶっちゃけそうなんだけど」

 雄大がそう言って苦笑いをする。米屋の三代目は、何かと人付き合いが忙しいらしい。

「とにかく早く持ってったほうがいいだろ。早く住みたいし」

 私は雄大から渡された免許証のコピーをじっと見つめる。


「はいよ、いつものスタミナ弁当! 大盛りにしておいたからね」

「おおっ、おばちゃん、いつもありがと」

 奥から出てきた咲田さんが、弁当を袋に入れて雄大に渡した。

「ふたりで部屋借りるんだって?」

「あー、すんません。琴音のアパートの大家って、おばちゃんだったよね?」

「そうだよ。琴音ちゃんが出て行ったら、あの部屋空いちゃうじゃない」

 咲田さんがそう言って明るく笑う。

「あ、じゃあ今度、俺の友達紹介するよ? 一人暮らししたいってやついるから」

「それはぜひお願いしたいねぇ。頼むよ? 雄大くん」

「お任せください!」

 そう言って胸を叩いた雄大が弁当を持って、私に手を振り商店街を歩いて行く。私はただぼんやりと、そんな雄大の背中を見ていた。

「いい子だねぇ」

 私の耳に咲田さんの声が聞こえる。

「雄大くん。あの子のことは小さい頃から知ってるけど、本当にいい子だよ」

「……私もそう思います」

「まぁ、前の結婚は、ちょっと急ぎ過ぎたみたいだけどね」

 咲田さんの笑顔を見ながら、私はまた胸が痛んだ。



 仕事が終わると私は電車に乗って、二つ先の駅で降りた。早番だったから日暮れにはまだ早く、けれど夕闇がすぐそこまで迫っているのがわかった。

 数日前に雄大と一緒に来た店の前で立ち止まる。

 蒼太がこんな所で働いているとは思わなかった。住んでいる場所は和奏からの手紙で気づいていたけれど、ここからは少し離れた場所だし。

 蒼太は声をかけなかった。私に気づいていたはずなのに声をかけてこなかった。

 きっとそれが蒼太の答えなのだろう。そして私も……蒼太とは何ひとつ話さなかった。

 小さく一つ息を吐き、私は店のドアを開いた。「いらっしゃいませ」と声をかけてきたのは、この前いた女性店員ではなく、あの蒼太だった。


「身分証のコピーいただきましたから、あとはこの書類にご記入願えますか? ご契約者様のお名前で」

「……はい」

 カウンター越しに蒼太がいる。この前数人いた店の中には、今日はパソコンに向かっている年配の男性社員と、蒼太だけしかいなかった。

 蒼太に渡されたボールペンで雄大の名前を書く。みっともないほど手が震えているのがわかる。

「ありがとうございます」

 書類を受け取った蒼太がそう言った。

「では審査が終わり次第ご連絡しますから。連絡先はご主人のほうでいいですか?」

「えっ」

 その言葉に顔を上げたら、私を見ている蒼太と目が合った。

「ご主人、じゃなかったですか?」

「違います。まだ結婚してないですから」

「そう……ですか」

 蒼太が持っている書類に視線を落とす。私は居たたまれなくなって立ち上がった。

「では……よろしくお願いします」

 そう言って下げた頭を上げても、蒼太はうつむいたままだった。

 私は背中を向けて外へ飛び出す。どうしようもなく胸が痛い。

 けれどすぐに私は立ち止まった。ゆっくりと振り返ると、明るい店の中が見えた。

「蒼太……」

 顔を上げた蒼太が私を見ている。私の記憶が、恐ろしいほどの速さで過去に遡っていく。

 ――俺、琴音のこと、ずっと好きだったんだ。

 桜の木の下。照れながらも、はっきりとした口調で言ってくれた蒼太。

 ――私も蒼太のこと……好きだから。

 そう答えた私。あの頃の私たちの間に、嘘も隠し事も何ひとつなかった。

 ただ好きで。大好きで。ずっと一緒にいられればいいと、それだけを願っていた。


「あのっ」

 気づくと私はもう一度店の中に入り、カウンターの向こうに立つ蒼太に声をかけていた。

「この前の部屋……」

「え?」

「もう一度見せてくれませんか?」

「……今からですか?」

 蒼太の声に私はうなずく。自分の足もとが、かすかに震えていることに気づく。

 目の前にいる蒼太の視線が、そんな私の視線と重なった。

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