[3]

「有村さん!」

 有村が真壁の傍らに駆け寄った時には、女性の震えは大きな痙攣へと変化していた。

「鍵を」

 真壁は声を張った。男は、自動販売機の前にいなかった。どこにも姿は見えない。

 有村が暗い通りの奥へ駆けだした。女性の足裏が、小刻みにドアを叩いた。コートが座席の下へ落ち、太腿が露わになると、その内側が赤い発疹が広がっているのが見えた。小さな黒い孔がいくつもあった。

 真壁は電灯のグリップを窓ガラスへ叩きつけた。砕けたガラスが細かな破片となって、ワゴンの内外へ散らばった。警報がけたたましく鳴り始めるが、怯む余裕も無かった。車内へ手を伸ばし、指先で探り当てたロック・レバーを、真壁は引いた。 

 開いたドアの隙間から上半身だけ車内へ滑り込ませ、真壁は光を女性の見開かれた眼に当てた。

 瞳孔が拡大している。

 真っ赤な唇に鼻を寄せる。異臭がした。唾液の分泌異常によるものだろう。

 今すぐ治療を受けさせなければならない。

「状況は?」

 有村が帰って来ていた。

「瞳孔が拡大しています。病院へ搬送しないと」

「パトカーを呼んだ。あともう少ししたら来るから、お前も乗れ。おれはここに残る」

「被疑者は・・・」

「無線連絡は、した」

 そこへサイレンを鳴らしたパトカーが到着した。真壁はワゴンの後部ドアを開け、女性の背中に両腕を差し込み、脇の下からその体を支えた。その重みと冷たさに、真壁は驚いた。体が硬直を始めているのだ。

 有村がパトカーに駆け寄り、後部ドアを開けた。真壁は女性を抱えたまま、後部座席に入り、運転手に「段田さん、よろしくお願いします」と言った。

 段田嘉之は救急搬送先を本部へ問い合わせ始め、備品の小さなペットボトルを真壁に手渡した。

「後ろでしっかり抱えていろ。嘔吐するようなら、気道確保を忘れるな」

 有村はそう叫んで、ドアを閉めた。警光灯の回転で、周囲の道路が赤く染まっていた。

 女性の上半身を膝に乗せ、長髪が乱れた頭部を、真壁は抱きかかえた。ハンカチに、飲料水を染み込ませた。顔を拭き、もう一度染み込ませて、唇を湿らせた。水分を摂取しようとする意思は、感じられなかった。突然、女性の体の強張りが解けた。

 女性は少しだけ顎を上げ、薄く開いた瞼の奥の黒い瞳が光を取り戻したようだった。あらためて女性を観察した真壁は、その若さに気付いた。10代半ばを少し超えた程度にすぎなかった。今、何かを言った。声は小さく聞き取れなかった。

 真壁は少女の乾いた唇に耳を寄せた。

「誰・・・?」

「警察です」

 真壁は答えた。サイレンが鳴り響き、真壁は顔を上げた。車が動き出した。

「搬送先が見つかった」

 段田は振り向きをせずに言った。

「少し遠い」

 華奢な体が、今度は完全に弛緩した。真壁は強く抱きしめた。少女の体は、少しも温まらなかった。真壁は片手でその背中を擦りつつ、声をかける。

「頑張れ。今、病院に向かってる。水は?」

 閉じかけていた瞼が開き、再び黒い瞳が真壁に向いた。ひどく緩慢な動作だった。聞き取りにくい小声で言った。

「よかった、アンタで」

 真壁は少しでも温めようと掌を動かし続けた。緩んだ皮膚が、体から浮き上がり、掌に貼りつくように感じられた。

「・・・色々しでかしたけど、最後にアンタみたいなカッコイイ人に抱かれるんだから、上等よね・・・」

 語尾がかすれ始めた。真壁は少女を抱き寄せた。少女は「ねぇ」と囁き声で言った。

「お父さんに、ごめんなさいって・・・」

 浅い呼吸を数回くり返した後、再び体が硬直した。手足を突っ張ろうとする少女を、真壁はしがみつくように抱えた。震えが真壁の胸にまで届いた。少女は力を抜いていた。その首が傾いた。

 真壁は両腕で、華奢な体をしっかりと支える。

 そうしなければ、膝から少女が零れ落ちてしまいそうだった。

 少女の体が重くなっていく。

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