虚実の蜃気楼 第3話

桔梗の死、郭の皆は影で口を揃えて「死神に魅入られたから死んだ」と呟いた。


私は甘んじてその言葉を受け止めた。自分がいたから桔梗は古血を患ったのではないか。自分があの時死期を偽って答えていたら、桔梗は苦しんだかも知れないが長生きできたのでは、と考えた。桔梗の生きるという心を殺したのも自分。私が情を持った為に桔梗を死に追いやった。それは死神に魅入られたも同然だった。


桔梗の死後数日は女郎の仕事には出なかった。ただ一人、自分の部屋で佇んでいた。そして自分はどうしてこの忌々しい目を持って生まれたのかを考えると共に、死の恐怖を考えていた。私は自分の力を理解するまでは考えも無しに死相を見た相手に告げてきた。それが多くの人に死という逃れられない恐怖を与えていたとしても。


「牡丹……今日も郭には出ないのかい」ある日の夜、棗が私の部屋にやって来るなり話しだした。「旗本の次男坊、細田様だっけ。毎日のように店の前に来てはあんたの事を尋ねているんだよ。さらにはあんたと逢うまで帰ろうともしない……あの人は本気だよ」


「そうで御座いますか。姐様達には御迷惑をかけて申し訳無いでありんす」


「……あんた、迷惑をかけているのは私達だけじゃないさ。解っているのかい?」棗は鼻を鳴らす。「次男坊もこんな陰険な娘の何処がいいのやら」


棗は吐き捨てるように話すと勢いよく襖を閉めて去っていった。


私は自分の手を見つめた。微かだが黒い影が見える。それが日に日に大きくなっていった。それは桔梗の古血にも似ていた。徐々に苦しめるかのように浸食していき、最終的には死へと追いやる。


「古血ね……私の血は呪われているのでありんすか……」


部屋に置かれている箪笥を開ける。そこには桔梗から戴いた形見である簪や鏡が入っていた。私は鏡を手に取る。


「細田様は生きるべき御仁……私が死んだ時は悲しんで下さりますか……」


鏡には牡丹という名のただの娘が泣いていた。


私は久方ぶりに女郎の仕事に出た。姐様達が表の格子の前に一列に並んで座る。その時私達は一人の人間では無く、男に買われる品となっていた。


高貴な身なりの侍、贅の限りを尽くした肥えた商人、汚れた服を着た浪人風情が格子越しに私達を物色していた。時間が経つと、表に並んでいた姐様達がまた一人、また一人と男に買われて消えていく。


似ていた。今の現状は人の生き方に似ていると感じた。男に買われるとは誰かに存在を認めて貰うの事と等しい。選ばれなかった女郎は自分という存在を認めて貰うために男達に色仕掛けや上目遣いをして誘う。


「牡丹さん!!」突然、私の名前が呼ばれた。


私の顔は灯籠の光で照らされているために相手に解るが、相手の顔は闇の中にあり私には誰だか解らない。だが声で誰かは解った。


「細田様で御座いますね。お久しゅうでありんす」私は細田に感情を込めない言葉で呼びかけた。「私を買うでありんすか?」


「……某、二度と牡丹さんを買うつもりはありませぬ」細田は格子を掴んで顔を覗かせた。灯籠に照らされた細田の顔は少年の幼さが残る顔ではなく、一人の歴とした侍、いや男の顔だった。


「……冷やかしでありんすか?」


「違います」細田は凛々しい口調できっぱりと否定した。「某は牡丹さんを身請けする以外で貴方に触れないと決めただけ」


「言ったはずでありんすよ。わっちには身請けされる考え等つゆとないと」


周りにいた姐様が私達の会話でざわめいていた。小声で「この花街から出られるなんて羨ましい」「身請け話を蹴るなんて頭がおかしいのか」と聞こえた。


「某は貴方の考えを必ず変えてみせます」


「わっちの考えは変わりません」


「それならばその時まで待つまで」


「……帰って下さいなんし」私は徐に立ち上がると細田に背中を見せた。「失礼するでありんす」


私は自分の部屋に向かう。去り際に細田の声が聞こえた。


「某は死神にではなく、貴方に魅入られたのです」


その言葉は何処か嬉しかった。


***


元禄十六年霜月、二十二日。次第に寒い日が続くようになっていた。私はまた女郎の仕事を暫く休んでいた。気分が優れなかったからだ。その間、姐様達に散々な嫌みを言われたが、張り子の仕事や飯炊きの仕事を中心に行っていた。ただ作業に集中する仕事は考える事を忘れさせた。


細田はあの日から毎日のように郭に顔を出していた。風の日も、雨の日も細田は格子の前で黙って立っていた。他の女郎が遊び心で誘っても一切見向きもしなかった。


「次男坊は本気だよ。どうしてそのお心を無視するんだい」姐様の一人が一途な細田を思って私に話してきた。「男の幸せは好いた女を抱く事。女の幸せは好いた男に嫁ぐ事だろう。それをあんたは如何して無視するんだい。次男坊があんたを好いているように、あんたも次男坊を好いているのは解っているさ。私達が気付いていないと思っているのかい。それともあんたは死神ではなく、鬼にでもなったのかい!!」


その言葉が異様に悲しく心に届いた。だが、もう遅い言葉だった。私を覆い尽くそうとする黒い影は私にじわじわと迫り来る何かを伝えていた。


せめてもと私は細田と会う事にした。私は他の姐様と並んで格子の前に座った。女郎が開いて一刻が過ぎた頃だろうか。恐らく本人は逢えるとは思っていなかったのか、私の顔を見つけた瞬間に感嘆の声を漏らした。


「牡丹さん、あの……」細田はある考えが頭に過ぎる。


「毎日通えば私の心が動くと?」私は細田の考えている事が手に取るように分かった。「秋の空は女の心のように移ろうと言いでありんすが、私の心はそう簡単には動きませぬよ」


細田はその言葉に「そうですよね」と落胆した声を漏らして頭を掻いた。やはり何処か幼さが感じられた。その姿が何処か可笑しく、くすりと笑った。


「……初めて某に笑って下さいましたね」


「変わった事を言うでありんすね。わっちは貴方の前で笑っていた所を見せていたと思ったでありんすが」


「確かにそうですが、どこか偽った笑顔に感じられていたので……」


気付いていたのか。確かに私は女郎の仕事として笑っていたが、心から笑った事は数えるほどしかなかった。桔梗に文字を教えて貰った時や、遊びを教えて貰った時ぐらいしかなかった。


それから他愛もない話をした。細田は最近になり町奉行の大きな仕事を行うようになった事。兄が良家から嫁と婚姻を結ぶ約束、さらには南蛮渡来のかすていらと呼ばれる菓子を食べたと喜んで話した。


何刻話しただろうか。まもなく日付が変わろうとするまで二人は格子越しに話した。


「細田様、お聞きしたいのでありんすが、御自宅まで……何刻程掛かりますか?」私は自分の手を見ながら細田に尋ねた。


「自宅までで御座いますか?」細田は首を傾げる。「何刻でしょうか。馬でゆっくりと歩けば半刻ほどで御座いましょうか。如何してそのような事を突然聞くのですか?」


「いえ、姐様達から毎日通われたと聞いておるでありんす。御自宅が遠く最近は御多忙の身、それをわっちの無礼でただ疲れを増やしただけなら申し訳なりでありんす」私は手を添えて深く頭を下げた。「今宵は馬で来られたでなんしか?」


「今宵は歩きで御座います。最近は剣の稽古もせず、体も鈍ってしまうと思い歩きで来ております。ですので、体力はありありと余っているので無用の心配で御座いますよ。


「歩けば……一刻半と言ったところでしょうか」


***


近くの半鐘が鳴るのが聞こえた。私は日没から聞こえた半鐘の数を思い出す。日付が変わったと知り、下唇を噛んだ。今となって初めて後悔する。


「如何しましたか?」細田が不安そうに尋ねてきた。


「……細田様は何故わっちでありんすか」


細田は一瞬戸惑った顔をした。そして少し頬を染めながら言葉を紡ぎ出した。


「初めてお逢いした日を覚えていますか?」細田は夜空に輝く月を見上げた。「あの日も今日のように月が綺麗に見えた日で御座いました。今でも某にはしかと覚えています」


私は思い出す。初めて細田がこの郭に来たのは元服したばかりの時だった。父親に連れられて来た少年は肩を緊張のために震わせ、まるで死んだ罪人が閻魔王の裁きを待っているようだった。


「あの時……某は怖かった。そして元服というものを存在が怖かった。それまで父の子供と甘やかされて生きてきた。近づく大人や友は皆、私ではなく後ろに見える父の影に集まってきた。だが、牡丹さんは違った。


私は黙って細田の言葉に耳を傾けていた。。


「貴方は某に出逢って早々こう言いましたね」細田は苦笑いをする。「臆病なお侍さんだこと……」


「そんな事を言ったでありんすか。気分を害したでしょう」


「いえ、逆です。この人は何も話さずとも私を理解してくれた。そして一人の人間としてみてくれたと嬉しい思いでした」


「買いかぶりにも程がありんすよ。もし言ったとしても本当に臆病に見えたからかもしれないでありんすよ」


「そんな事はありませんよ。あの時の目を見たら解ります。真っ直ぐと某を見ていてくれた。だから……某は牡丹さんを好きになったのかもしれない」


細田は私をまっすぐ見つめていた。もし目の前の格子が無ければ自分はどの様な事を考えたのだろうか。桔梗は言った。「後悔する」と……だが、その時はもう自分の死期が見えた。そして微かだが、細田にも黒い影が迫りつつあった。


だから、私は最後にこの人を助けたかった。


「もう……の刻も半ばでありんす。明日もお勤め。今日はこの辺で」私は静かに立ち上がる。


「はい、また明日にも来ます。いえ、もう今日で御座いましたね」細田はそう言うと微笑んだ。「また牡丹さんとお話がしたいです。明日も逢えますか?」


「ええ、また逢いましょう」私は振り返りながら呟いた。


初めて細田に告げた嘘。そして細田には私が流した涙は見えなかった。


***


私は自室に戻った。郭の一階にある奥の間。それが私の最後の安らぎの場所だった。


遠くから姐様と相手と楽しむ声が聞こえる。


左目が疼き始めた。


「この左目が役に立つ日が来るとは……」私は左目を押さえながら呟いた。


箪笥から桔梗の形見を取り出す。


「桔梗太夫、私は愛した人を助けました。それだけで十分でありんすよ」


私は桔梗の形見である長い朱に染まった煙管を手に取った。女郎にとって位が高くなると着物に合わせて帯も幅も増えてくる。それに伴い帯に挟む煙管も長くなる。煙管の長さは位の高さを表していた。


「桔梗姐様……」私は形見と共にあった刻み煙草を雁首に摘める。そして火打ち石で火を付けた。「まもなくか……」


白い煙が部屋に漂う。ふと煙が人の姿に見えた。両手を胸元で交えた女の姿に見えた。


三服すると煙草は白い灰へと変貌した。


灰を近くにあった皿に捨てる。そして部屋の中心に座ると私は手を合わせた。


左目に見える自分には黒い影が覆い尽くしていた。


「……細田様……ご無事でありますように……」死神は神仏に祈った。


何も変わらない何時もの郭。だが、昨日と違い秋の虫の声は全く聞こえない。静かな部屋はただ時が過ぎるばかりだった。


暫くすると突如、背筋に寒気が走った。本能が危険だと訴える。だが、訴えたところですでに遅い。


次に地面から突き上げるような大きな衝撃が起こる。あまりにも大きく揺れるために座ることさえまともには出来なかった。箪笥が倒れる。郭中から女と男の悲鳴が轟いた。


「地震か……」天井から粉塵が落ちるのを見ながら呟いた。


長い。地震は一向に収まる事が気配がしなかった。建物が軋み出す。


「……さよならでありんす……寛二朗様……」


私が最後に見たのは梁が折れ、私の腹を潰す光景だった。


私は周りには瓦礫の山となっていた。首を持ち上げる。突き刺さった腹からは黒く変色した血に濡れた内蔵が飛び出ていた。


不思議と痛みは感じられなかった。


痛みによる呻き声や、苦痛の叫びが瓦礫の間から溢れてきた。


月明かりが粉塵を照らしていた。再び目の前に女の姿見えた。


「お迎えに来てくれたでありんすか、桔梗姉様」頬に涙が伝わり落ちる。「わっちは後悔はしてないでありんす。あの人を助けられたのですから……」


目の前の幻影の女は穏やかに微笑む。


「死ぬまで……寝かせて下さいなんし……」私は休もうと首を横に向けた。


眠ろうと目を閉じ始めた。目の前には桔梗の形見である鏡があり、私を映し出していた。


「元禄……大震災か……」何故か私にはそんな言葉が思い浮かんだ。


***


「……違う……」牡丹は再び力強く目を開けた。そして鏡に写る自分を睨んだ。「これは私ではない」


月光に照らされた粉塵の女はゆっくりと横たわる牡丹に近づいていた。女が歩く度にまるで瓦礫の山が実際には存在しないと感じられた。


「これ以上……私の精神を冒そうとするならそれなりに抗うぞ」牡丹は女のほうに振り向く。そして両手を目の前に出した。「危うく飲み込まれ、精神が死を受け入れる状態だった」


「……それが貴方の知りたかった己の目が表す罪の一つです……」粉塵の女が穏やかに話した。


「それは誰が証明できると言うんだい。お前が見せているに過ぎない幻かも知れない」


「罪深い御方ですね。勝手に私を覗こうとして、さらには疑う。デウス様もきっとお怒りになられるでしょう」


「デウス……なるほど、やはりそうか。だが、こちらも覗こうと思って覗いた訳ではない」牡丹、いや陰宮は印を結ぶ。「この幻、消させて貰う」


何時しか牡丹の姿は陰宮の姿になっていた。梁に潰され飛び出した内臓は消え果てていた。全てが粉塵の女が見せる幻だった。


「おん あくびらうん きゃ しゃ らく……」陰宮は八文字文珠菩薩はちもじもんじゅぼさつの真言を唱える。まわりにあった瓦礫が陽炎の様に揺らめきながら消えていく。「幻を作るとはしんのようだな」


「幻……貴方はまだ信じていないのですね。何と罪深い方でありましょうか。ならば貴方の真実の罪を見せましょう。貴方の原罪を」


粉塵の女は自身の掌を吹く。その瞬間に周りの風景ががらりと変貌した。


「蜃は霊獣。しかしお前は違う。蜃が吐き出す息は蜃気楼になるが、その場には存在しない嘘、偽りの存在」陰宮は左手で刀印を作ると、右手で納めた。「汝もまた、偽り。幻は破らせて貰う……抜刀!!」


陰宮は右手に納めた刀印を抜く。刀印とは文字通り刀を表す印。あるゆる邪気、因果を絶つ印。陰宮は目の前の幻を刀印と呪法で破ろうとした。


「……義姉さん……もう良いだろう……」


陰宮の動きが止まった。背後で疲れ切った男の声が聞こえた。


***


「おい……処刑の時間だ」牢屋の前に武官が二人現れた。「志燕しえん、準備は良いか?」


「準備?」疲れ切った男、志燕は武官を睨んだ。「死ぬのに何の準備がいる。だが殺すには準備がいる。準備は良いかと聞くのは私の方だ」


泥や糞尿により汚れた服を着た志燕がふらつきながら立ち上がろうとする。だが、腕に付けられた木製のかせにより満足に立ち上がれなかった。左目には包帯が巻かれており、痛々しかった。


「今日は義姉さんと話さないのか?」武官の一人があざ笑うかのように話ながら、牢屋を開けた。


「もう……すんでいる」志燕は牢屋を出ると自分の死ぬ場所へと歩いてた。


処刑場までの通路が長く感じられた。石畳で出来た通路の冷たさが素足には堪えた。かつてはここが自分の居る場所と勉学を切磋琢磨し、科挙(中国の仕官試験制度)の合格を目指した。そして念願が叶うとたった一月で失望した。賄賂、汚職といった悪行が都だけでなく地方官にまでは広がっていた。


そして志燕は自分から消えた。義侠の念を抱きながら隠遁する事に決めた。


「これが科挙を上位で受かった人間の末路とはね」武官は志燕に語りかけた。


「……私は愚者だ。だからこその末路なんだ」


武官は志燕の言葉を鼻で笑った。まさにその通りであり、今の無残な姿でもその言葉から高い志を感じたからの皮肉だった。


「そう……愚者だ。ただ義という言葉を盲信し、真実を見なかった。その末路さ」志燕は顔を歪ませながら聞こえない声を漏らした。「……だから甘んじて死を受け入れる。もう良いだろう。義姉さん」


志燕には青ざめた顔で狂ったように笑う義姉の姿が見えていた。その手には抉り取った志燕の左眼球を大事に抱えていた。まるで私の末路を私自身の眼球に見せているようにも感じられた。


処刑台に付くと、人の死を未だかと騒ぐ民衆が居た。私は枷を外されて、次は逃げられないように杭にはりつけにされた。そして足下には多くの干し草が置かれていた。


一人の文官が民衆の前に立つ。その顔には見覚えがあった。私に実兄を殺させ、さらには刺史殺害計画というあらぬ事を刺史に奏上し、処刑を決断させた張本人だった。身なりからしてかなり高位の文官だったのかと志燕は初めて知った。


「これより罪人の処刑を行う」文官は一巻の書簡を広げ読み上げた。「罪人、姓は志、名は燕、字は飛玄ひげんなり。斉州せいしゅうの者なり。罪状は罪無き、そして優秀で人望厚い民衆から慕われたあった我が州の官吏、罪人の実兄である志鵬しほうを殺害した事なり。これ、即ち儒教の教えに背く悪しき事。あまつさえ、実兄の妻も殺害した。さらには州刺史に叛乱を企て、殺害する計画を立てた重罪人である。これを以て火刑に処す」


観客の民衆がざわめいた。所々から「兄を殺すとは」「さらには義姉をだぞ」「王佐の才有りと言われた刺史、劉高りゅうこう様に叛乱とは」と聞こえた。


***


志燕は行った罪は本当は「兄殺し」だけだった。しかし、その兄殺しは仕組まれたものだった。書簡を読み上げる文官が己の横領を志鵬に暴かれると悟り、義に盲信している志燕に「兄は州の金を横領している」と自身の罪を志鵬に擦り付けた。案の定、義に背く行為と志燕は激怒し、兄を殺害するに至った。


だが、兄の妻もまた志燕が殺したも同然だった。文官の横領を暴かんとして、影ながらも支えた妻は一連の真実に気付いた。だが、文官の怨むと同時に義弟も怨んだ。


そして夜陰に乗じて義姉は志燕を襲った。もみ合いになりながらも、体格や力の差から叶わず、首を掴もうとしても抵抗された。だが、志燕の左目に指が入った。そして呟いた。「義に盲信し、真実を見なかった罰だ」。その言葉を共に抉った左目。彼女はもみ合いになっている最中に奪った志燕の剣を自分の首に当てた。


「苦しめ。真実を見ようとした無かった混蛋ふんだん(中国語で莫迦。またはそれ以上の侮蔑の言葉)が!!十王にお前が見た全てを奏上し、裁いて貰うぞ!!」


そして義姉は自らの首を斬った。


志燕はその後、文官の企みを全て知り後悔した。そして復讐しようとしたが、文官の私兵に捕まり今に至った。


***


「火を付けろ」州城の楼閣にいた刺史が合図を出した。


文官が松明を持って処刑台に上がると、干し草に火を付けた。火は次第に大きくなり志燕を包み込もうと火柱が昇った。


「……十王の裁きか」志燕は暑さと苦痛に耐えて言葉を漏らした。


十王とは地獄において亡者を裁く十尊の事だ。閻魔王、都市王、初江王、秦広王、他六尊。私にはその裁きが身に染みて理解していた。志燕はすでに裁かれていた。


無くなったはずの左目は見えていた。いや、存在しない全てが見えていた。死んだ兄、そして義姉……さらには亡くなった親が私を責めるかのように睨んでいた。さらには死期も見えるようになっていた。民衆の一部には黒い影が覆っていた。


「時代がまもなく変わろうとしている。この中華の大陸、唐の時代が終わろうとしている」志燕は燃える最中に呟いた。


***


「止めろ!!」陰宮が杭に磔になっていた。真言を唱えると体が自由になった。「これは幻だ」


そして再び先程までの光景が陽炎のように消えていった。


「……貴方は理解しているはずです。これが実際にあった因果だと」粉塵の女が呟く。「悔い改めなさい……さすれば」


「黙れ……」陰宮が何時もと違う口調だった。「私は私だ。例え前世に何があろうと私には関係がない」


陰宮は息を絶え絶えに印を結ぶ。粉塵の女は静かに陰宮を見据えながら手を胸で組んだ。


「……ならば、どうして左目を呪っているのですか。ならば何故受け入れないのですか」粉塵の女は静かに呟く。陰宮は言葉が出なかった。


「幻から出させてくれ」陰宮は唇を噛みしめながら印を結んだ。


「……なおも現実と受け入れないのですね。解りました」粉塵の女は慈愛に満ちた表情を作る。「私も疲れました。そっとしていて欲しい。もう入って来ないで下さい」


粉塵の女もまた陽炎のように消えていく。陰宮の体もまた陽炎のように揺らぎ始めた。


「……解っているさ。蜃気楼の元は実際に存在している実像ぐらい。だが蜃気楼は虚像なんだ」


陰宮は吐き捨てる様に呟くと、幻のように消えた。


***


「主上!!」聞き慣れた言葉が耳元で聞こえた。


「哭天翔か……」陰宮が目を開けた。「ここは……」


ひんやりとした寒気を頬に感じた。体には布団の重さを感じた。枕元付近からはパチパチと音を出す火鉢が感じられた。


「籠部屋か」陰宮は布団から手を出すと顔に当てた。「どれ位寝ていた?」


「気を失ってから十分程度です。何があったですか?」哭天翔は心配そうに鼻を鳴らした。「時折呻き声や悲痛を上げられた。しかし、悪鬼の存在はまるで感じませぬ故我ら式も何が起こっているのか解らず心配しましたぞ」


「十分だと……」陰宮は唖然とした。だが、直ぐに笑い声を出した。「そうか、これが一炊の夢というものか」


「主上?」


「すまないが、珀天翔は何処に居るんだい?」


「籠部屋の前で守護に付いております。大丈夫で御座いますか。何やら顔色が悪いようですが」


「私は大丈夫だよ。心配をかけてしまったね」陰宮は布団から腕を出して哭天翔の頭を撫でようとした。「珀天翔に御前を呼ぶように伝えてくれ」


哭天翔は陰宮の手が自分の頭に触れようとした瞬間に安堵感が出た。そして、命令を聞き入れたという言葉を返そうとした。だが一瞬で安堵感が消えた。


「……主上……まさか……」空を切った陰宮の手を見つめながら震えた。


「哭天翔は蜃というあやかしを知っているかい。蜃気楼を生み出すという妖怪で、古代中国では吉凶の兆しと一つとして霊獣とされた」陰宮は哭天翔の様子を無視して話をする。「蜃気楼とは『蜃』が吐いた『気』で作られた『楼』閣という意味だ。実際には空気の温度差により光が屈折する事で遠くの実際ある存在が間近に見える虚像なんだ」


「珀天翔!!すぐに御前を呼べ!!」哭天翔は大声で吠えた。籠部屋は装飾の竹細工で編まれた籠目により魑魅魍魎の内外の行き来が出来ない呪が込められていた。これさえなければ哭天翔は真っ先に御前を呼びに行っただろう。


「あの鏡には魂が居る。そして幻という光を操る。幻を見せられれば、幻を見せなくする事も出来る。恐らく自分を悔い改めさせる為に仕掛けたな」


陰宮は疲れたように目を閉じた。そして溜息を吐き出した。


「主上は目が見えていない!!」


扉の向こうから珀天翔の戸惑いの声が聞こえた。そして慌てるかのように声が遠くなっていった。


「魔鏡は魔鏡という事か」陰宮はあの鏡を思い出した。「隠れキリシタンの遺産か……」



***


「先輩が電話に出ない」小笠原は沈んだ顔で携帯電話を耳に当てていた。「何度電話しても留守番サービスに転送されちゃう」


小笠原と海野は故郷の地に着いた。時刻は十五時を過ぎていた。高速バスで四時間ほどの短い旅だった。高速バスの目的地に到着して二人は一休みとして駅前にあるカジュアルなカフェに居た。カフェからは奇妙で巨大な人型のオブジェが見えた。その周辺には多くの人がおり待ち合わせの場所として有名だった。


小笠原は見送りに来た陰宮に無事に付いたという連絡を先程から何度かしていた。だが、陰宮が電話を取る事はなかった。小笠原は何かあったのかと心配した顔つきをしていた。


「チビ、見送りの時に眠そうだったから、どうせ寝ているんだろ?」海野はホイップクリームがたっぷり乗ったフルーツパンケーキを口に運んでいた。「昔、よくこれを食べていたけど、やっぱり美味しいな。このもっちりとした食感とほのかな蜂蜜の甘さがたまらないや」


小笠原は携帯を鞄に入れた。目の前のテーブルにはミルフィーユとチャイがあった。チャイに入ったシナモンの香りが何故か陰宮を思い出させた。スプーンで軽く掻き混ぜた。


「そういえば先輩、来週の火曜日が卒業研究の発表だった」小笠原は呟いた。


「卒業研究ね。チビ、あんななりでも一様大学四回生なんだよね」


「道琉、あんな形って酷いよ。道琉だって先輩の御陰でいろいろあったんだから、もう少し言い方を考えようよ」


「いろいろってチビに利用されたのはこっちだぞ。まあ、先生と暮らす事になって楽しいけどさ」海野は食べる手を止め、珈琲を手に取った。甘い物を食べた後なのでブラックの珈琲がさらに苦く感じた。「前々から気になっていたけど、チビって卒業したらどうするんだ?」


その言葉に一瞬小笠原の動きが止まった。あの会話の記憶が蘇る。五ヶ月前、霧隹島むすいじまにラジオ放送企画製作研究会の特別番組のために取材へと訪れて体験した「神」に崇められた人の魂と「神」を嫉む人の魂に襲われた怪異。その怪異から何とか帰り、陰宮と香雲からを酒盛りをしながら陰宮の持っている力と苦悩を籠部屋で聞いた。小笠原と一緒にいた山岸二人は酒に酔いつぶれて寝てしまったが、途中で起きて狸寝入りをして聞いた陰宮と香雲の会話。


「もしかしたら不動明王寺から居なくなるかもしれない」小笠原は寂しそうに答えた。


「どっかで一人暮らしをして就職するのか?」


「そこまでは解らない。聞いても話してくれないから」カップを口元に近づけながら小笠原は溜息をついた。「ただ住職が出る時には寺を紹介する、って先輩と話しているのを聞いた事があるから」


「そうなのか」と地雷を踏んでしまった、と小笠原の表情を伺った。小笠原はチャイを飲んでいた。海野はパンケーキの端を何度もフォークで刺して弄んでいた。会話内容のベクトルをどのように変更するか頭を回転させた。結論が簡単に出た。力任せにベクトルをねじ曲げる事にした。


「来月って渚の誕生日だよな。ほら猫の日」海野はフォークの先を小笠原に向けた。


「そうだけど、急にどうしたの」小笠原は突然自分の誕生日を出されて驚いた。


小笠原の誕生日は二月二十二日だった。この日は二が三つ並ぶゾロ目の日であり、「にゃん、にゃん、にゃん」という語呂合わせから猫の日となっていた。


「チビとか呼んでさ、渚の誕生日パーティをしようよ」


「誕生日パーティ?」小笠原は突然の提案に恥ずかしそうに首を傾けた。「でも、毎週のようにパーティみたいに騒いでるから……」


「飲み会は飲み会、パーティはパーティ。うん、やろう」


海野は小笠原の意見に耳を傾ける事がなかった。海野はテーブルに右肘を乗せて頬杖をした。手に隠された口角が不敵に上がっているのを小笠原は知らなかった。


***


籠部屋にいた陰宮の前に一人の男が居た。年齢は五十代、髪型はオールバックで何処か清潔感が感じられた。黒い落ち着いたスーツを着ていたが微かだがアルコールの匂いがした。男は革製のボストンバックからビニル製の薄手の手袋とペンライトを取り出した。手袋をはめて陰宮の左目の広げた。そしてペンライトで眼を照らした。その瞬間に陰宮の瞳孔が狭まった。


「藪、どうんじゃ?」二人の様子を邪魔にならないように眺めていた香雲が聞いた。


「誰が藪だ」男が細い眼で振り返り香雲を睨んだ。「人が厚意で来てみれば、藪医者呼ばわりとは相変わらず無粋な奴が。まだ診察の始めだ。焦るな」


香雲の他に茜や式神の二匹が陰宮と男の遣り取りを心配そうな顔をして眺めていた。


草壁くさかべ様、お手数をお掛けしまして申し訳ありません」陰宮は男に呟いた。


男の名は草壁といった。大きな草壁総合病院の医院長を務める医者だった。陰宮の目が見えていない事を珀天翔が知らせてきた事により、香雲は慌てて知り合いであり悪友の草壁を呼んだ。


「陰宮君、君は気にする必要がない」草壁は陰宮の目を見た。


草壁は陰宮に目を動かすように指示する。陰宮は言われたとおりに上下左右に目を動かした。次にペンライトの光を目で追うように指示した。ペンをゆっくり、時には早く縦横無尽に動かした。だが、陰宮の視線は全く光とは違う方向に動いた。


「……瞳孔は光に反応しているが、見えていないというの本当らしいな」草壁はペンライトを片付けながら呟いた。「光は見えるのか?」


「いえ、全く見えておりません。闇ですね」


「目が見ないと言っておるじゃろうが」香雲が呆れた声を出した。「だから藪と言うんじゃ。目が見えずして光が見えるかと聞く。全く荒唐無稽じゃのう」


「黙れ、坊主」草壁は触診を始めた。陰宮の首元のリンパ節を確認する。視覚障害とは広義の言葉だ。実際には視神経に障害が発生し、目が機能しない症状。映像を感じる組織が何らかの影響により見れない症状。加齢により視力の著しい低下もまた視覚障害の一つに区分される。だが、陰宮君のは症状は視力低下でもない。また瞳孔が光を認識しているから視神経にも異常がない。まあ、俺の専門は眼科でも神経科でもない。脳外科だから詳しい事は精密検査をしないと分からんがな」


草壁はボストンバックから聴診器を取り出した。視力障害以外に他の症状が出ていないかを確認するためだった。草壁は陰宮に服を脱ぐように指示した。陰宮が服を脱ぐと籠部屋にいた一同が言葉を失った。皮膚が青黒く変色していた。


「……何かに当たったのか」草壁は陰宮の下腹部を手で軽く押した。「痛みはあるか?」


「軽い鈍痛が感じられます」陰宮は淡々と言った。「どの様な状況になっていますか?」


「下腹部から下、恐らく大腿部まで広範囲に内出血を起こしていると思われる。以前からのあったか?」


「いえ、この目と同時期でしょう」陰宮は首を下に向けた。「恐らく、精神状態で現実と受け入れた事象が実際に起きた事と脳が勘違いさせた事で発生した外傷でしょう」


「そうか……それなら良い」草壁は聴診器を当てながらそう呟いた。「メデューサの頭ならば別の意味で深刻な事だが、背中には内出血が見られないから君の言うとおりだろうな」


二人の会話に香雲と茜は放置されていた。一方、式神は会話の内容よりも主が無事か、否かを知る事に重点を置いていた。


「あの……メデューサって化け物の事だよね」茜は恐る恐る尋ねた。「大丈夫なの?」


「メデューサの頭とは肝臓疾患に見られる特徴の事だ。腹部から背部にギリシア神話の化け物であるメデューサの頭に似ているからそう呼ばれている。しかし私はそれではない」草壁の代わりに陰宮が答えた。


聴診を終えた草壁は一つ溜息を吐いた。鞄に聴診器を片付け始めた。


「藪……大丈夫なのか?」香雲は単刀直入に尋ねた。


「だから、誰が藪だ」草壁は頭を捻らす。「結論から言えば、大丈夫だと思われる。それに陰宮君事態が自身に起きている現状を理解しているようだ」


「思われるとは何じゃ、それでも医者か。だから藪なんじゃよ」香雲は腕組みしながら嫌み事を吐きかけた。


「あのな……お前が俺を呼ぶ時は大抵医学では説明の出来ない時なんだぞ。幽霊や憑き物、誰がそんなものを信じる。普通の医者ならば精神疾患として処理する症状。俺はそれを多少なりとも理解して来て遣っているんだ。少しは現代医学に不安を感じてしまう俺の気持ちを理解してくれよね」


陰宮は静かに服を着る。ボタンをかける作業が覚束なかったが、一人でしっかり出来た。ふと心の内部に声が聞こえた。心配した式神の二匹だった。一般人である草壁が居る前で堂々と話しては陰宮に偏見の目が注がれると考えた上での配慮だった。


(主上……誠に大丈夫なのでしょうか?)


(大丈夫だ。君達が見えないのが一つの証拠だ)


(我々が見えないのが証拠ですか?)珀天翔は寂しい声を出した。


(安心して大丈夫。一時の事さ。私の左目は幽世の因果を持っている。故に君達が見える。だが、それが見えないというのは因果が消えたか、別の理由で見えなくなったかだ。因果を消すのは無理だろう。恐らく、闇という幻を見せられているから見えないんだ。これが解ければ時期に見えるさ)


式神は暫しの寂しさかと鼻を鳴らした。二匹の式神の元は犬、人に仕える事に従順であり、喜びとしていた。故に主に見えないという事が悲しかった。


「陰宮様、納屋から見つけて参りました」籠部屋に修行僧の長谷川が細長い布を手に入ってきた。


陰宮は有り難う御座いますと頭を下げると、布を受け取った。そして己の顔に巻き付けた。


「……爺様の呪符の布か……」香雲は呟いた。



***



「ただ今」小笠原は久方ぶりに実家の玄関を開けると大きな声で言った。


暫くすると一階の奥、キッチンから「お帰り」という温かく懐かしい声が聞こえた。夕御飯を作っている最中なのだろうか、エプロンを着けた小笠原の母である千鶴ちづるが現れた。娘を見ると満面の笑みを作った。


小笠原の実家はバスターミナルのある駅から三十分ほど電車で移動した所にある。活性した人混みが多い駅中心部からは大分離れているために何処か長閑な風景の中心にあった。白を強調した家だった。


「暫く逢っていないけど、また背が伸びた?」千鶴はエプロンで手を拭きながら答えた。「道琉ちゃんもお久しぶりね」


小笠原はもう伸びていないと苦笑いしながら答えた。千鶴は小笠原よりも背が低いが、海野よりは高かった。海野は記憶を掘り起こす。確か渚の父も背がかなり高い事を思い出した。小笠原の背が高い事に納得がいった。


「こんにちは、お邪魔します」海野は頭を下げた。


「自分の家だと思って気楽にして良いわよ」千鶴は手を上下に扇ぐ。気さくな感じがした。「渚の部屋に布団一式準備しておいたから」


「お母さん、お父さんやかおるはいないの?」小笠原は家の奥を伺いながら尋ねた。薫は妹の名前だった。


「お父さんは休日出勤、薫は部活でまだ帰っていないわよ」千鶴はキッチンに戻っていく。「まだ夕飯の時間まであるから部屋でゆっくりしていなさい。大きな荷物を持ってここまでくるのは疲れたでしょう。お風呂も沸いているから疲れを取っておきなさい。明日は晴れ舞台なんだから」


海野は智子から借りた振り袖が入った旅行鞄を眺める。自分の一眼レフカメラ一式も入っていた。腕が痺れるくらい重かった。千鶴の言葉に甘えた。


小笠原の部屋は二階にあった。薫とは別の一人部屋。海野は荷物を小笠原の部屋へ持っていく。中に入ると仄かな芳香剤が鼻をくすぐる。長らく主が居なかったとは思えない程綺麗にされていた。恐らく、千鶴が定期的に掃除をしているのだろう。部屋の隅には布団が畳まれていた。木製のベッドの上にはタオル類が綺麗に置かれていた。


荷物を下ろすと一息吐いた。海野にとって自分の部屋ではないが落ち着く空間だった。かつては頻繁に遊びに来ていた部屋だった。昔を思い出させた。


小笠原は懐かしいベッドに腰を下ろす。そして携帯を取り出した。携帯の画面には着信がない事を示していた。


「どうしたのかな、先輩?」小笠原はリダイアルをしながら携帯を耳にした。


「また掛けるのか?」海野は呆れながら背伸びをした。「メールをすれば良いだけだろ?」


「そうだけど……」小笠原は耳を澄ませながら呼び出し音を聞いた。「先輩が『言葉は魂が宿る。文字にも然り。しかし電子は思いは伝えても魂は宿らない』ってこの前聞いたから」


海野は「何だそれ?」と苦い顔をする。頭の中で漠然とチビならそんな事を言っても不思議ではないなと感じた。鞄の中から高速バスの中で飲み残った紅茶のペットボトルを探した。


呼び出し音が止まる。また留守番電話サービスに転送されたのかと小笠原は肩を落とした。だが違った。聞き慣れた茜の声で小さい声で「お兄ちゃん、小笠原さんから電話」と聞こえた。茜の声に小笠原は戸惑った。


「陰宮」何時もよりも無愛想な声が電話の向こうから聞こえた。


「先輩、無事に実家に着きました」恐る恐る報告する。「あの……忙しい時に電話しましたか?」


「何でもない。無事について何よりだ」陰宮は淡々と言った。何処か冷たい印象が感じられた。「他に用は?」


「いえ、それだけ伝えようと思っただけで」


「そうか。明日は楽しんで」


小笠原が返事をしようとしたが、すぐに電話が切れた。何とも言いようのない寂しい感情が湧いてきた。海野の言うとおり、メールで連絡すれば良かったと後悔した。携帯を片付けながら心で嘘つきと呟いた。


「何かあったのか?」海野がペットボトルに口を付けながら尋ねてきた。「電話が繋がったと思ったら暗い顔しているぞ」


「ううん、何でもない」小笠原は苦笑いした。


「そうならいいけど……お風呂に入ってもいい?」


小笠原が作った笑顔で頷く。海野は鞄から着替えを取り出して、ベッドに置かれていたバスタオルを手に取ると一階へと降りていった。キッチンで夕御飯の準備をしている千鶴に一声を掛けた。脱衣所に行き、籠に着替えやタオルを置く。そして服を脱いだ。


「……何でチビは渚にあんな顔をさせるんだ?」洗面所の顔に写った眉間に皺を寄せた自分が写っていた。


風呂場のドアを開ける。むっとした熱気が顔に当たった。入浴剤の柚子の香りが立ち籠めていた。体と髪を先に洗うと風呂に入った。


「……明日、親父は来るのかな」湯船に浸かりながら呟いた。


海野は明日の夕方、成人式が終わった後に家族と会う事になっていた。あのは二ヶ月ぶりだった。どのような顔をして合えばいいのかを考えると気が滅入った。


***


夕方、陰宮は倶利伽羅不動明王寺のダイニングで椅子に座っていた。私服のクラシカルな格好から着流しという姿に着替えていた。両目は布で巻かれていた。隣には式神の二匹が座っていた。


ダイニングのテーブルにはカセットコンロに乗っていた大きな土鍋がぐつぐつと音を立てていた。魚介類の香りが食欲を駆り立てる。小さい取り皿や食器が並べられていた。


香雲、茜、長谷川、下北が席についていた。全員が神妙な表情をしていた。普段なら穏やかな智子ですら何処か憂いのある表情をしていた。智子が全員の前に御飯を用意した。智子は食事の準備が整うと自分の席に座る。全員が両手を合わせた。


「陰宮君、御免なさいね。まさかこんな事になるなんて思っていなかったから。お鍋にしてしまい好きな物が食べれないでしょうし、熱いから火傷も……」


「気にすることなく。先程から令嬢がとなりで自分が冷まして食べさせると気色の悪い事を言っておりますし」陰宮は笑いながら言った。「奥様には令嬢が冷ましたと鍋から取り出したばかりのものを私の頬に当てないよう見張っておいて下さい」


茜は酷い、そんな事はしないと頬を膨らました。陰宮がその表情を見たかのように「この期に日頃の鬱憤を晴らされても困るからな」と苦笑いしながら答えた。


「して、あの鏡は何なんだ?」香雲は甚兵衛じんべいの袖を捲り上げ、鍋から好きな食材を選んだ。「鏡の裏には装飾があった。あれは恐らく」


「マリア観音」陰宮はこめかみを中指でトントンとリズム良く叩いた。「あの鏡は魔鏡と呼ばれる品です」


「魔鏡?」茜は陰宮の好物である春菊を小鉢に取る。


「一説では古代中国で偶然に作られたのが始まりと言われる品だ。鏡面部の反対側に装飾があり、尚且つ所有者であった相田様が言っていた白い幽霊から間違いなく魔鏡だと思われます」


「白い幽霊とその魔鏡はどのような繋がりが?」長谷川が尋ねた。


「魔鏡は一見は普通の金属鏡。ただ決定的に違うのは鏡面。通常の金属鏡は平面ですが、魔鏡は凹凸があります。その凹凸はナノ、ミクロの世界。この凹凸が光を屈折させる。その結果反射光がある姿を写します。簡単に説明すればCDですね。あれにも目には見えない凹凸があるために読み取り部は虹色に輝く」


「ある姿?」香雲が鍋を突っつく。「それが白い幽霊か」


「相田様の魔鏡の白い幽霊……それは背面のマリア観音です。ただ金属鏡は現代の一般的な鏡とは違って定期的に研磨しなければ鏡面が曇ってしまい、像があやふやになってしまう」陰宮は頷いた。「魔鏡は背面の装飾によって反射光が映し出す像が変わってきます。魔鏡の製作は先に背面の装飾を彫る。その後に鏡面を磨きます。研磨する力が一定でも背面の装飾によって部分的に厚さが異なる。つまり部分的に密度が変わり硬度が変わる。薄いところは深く磨かれ、堅い部分は薄く磨かれる。それにより鏡面に凹凸が出来る。凹凸が出来れば光の屈折が生じる。屈折は光の明暗を生み、陰影が出来て反射光に像が映し出されるというわけだ。このは現象は物理学、令嬢はもう授業で習ったのかな」


茜の持った箸が止まる。茜は高校の授業で物理を選択していたが、どうやら苦手のようだった。


「簡単に説明したが、この技術はそうそう出来るわけではない。それこそ職人芸。故に、芸術品として高価に売買される。相田様の祖父が入手したのも古美術商関連だろう」


「あの……マリア観音って何なの?」茜は聞きにそうに尋ねた。「マリアってあのマリアだよね。どうして観音様なの?」


「歴史の勉強だ」陰宮は茜に振り向いた。「戦国時代、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に基督教が伝来された。それと同時に多くの人が信仰を開始した。基督教の信仰者をキリシタンと呼んだ。それと同時に迫害の時代が来る。一番最初の禁教令は豊臣秀吉だ。当初は宣教師、バテレンだな。バテレンの国外退去を命じたものだった。その後はサン・サンフェリペ号事件と呼ばれる漂着事件を発端に宣教師の処刑が行われた。だが江戸時代になると一度迫害は弱まる。幕府の支配下でなら布教を許した。だが、宣教師はこれに従わずに勝手に布教を開始し、基督教徒が一気に増えた。他にキリシタンの大名などが起こした問題で幕府も本格的に迫害する方針を強めた」


「鎖国や、踏み絵……だよね」


「そう。外国諸国からの情報の制限に、宣教しないようにした鎖国した。また踏み絵等を利用してキリシタンを炙り出し、市民やキリシタン大名に基督教の改宗を強制した。これを基督教から他の宗教に変えた者を事を『転び《ころび》』という。だが、そう簡単にはいかなかった」


「所謂隠れキリシタンじゃ」香雲は鱈の切り身をポン酢に付けると口に入れた。「心から信仰しているもんは、他人が何といおうと変える事は出来ん。そこで隠れキリシタンは身近にある存在である仏像などに模して隠したんじゃ」


「それがマリア観音。これはあくまでも一つ。他には家紋に十字架を取り入れたりと隠した」


「では……あの魔鏡は……」下北が陰宮を見つめた。「隠れキリシタンので御座いますか?」


陰宮は頷いた。「魔鏡は一見はただの鏡。ですが、反射光に写されるのは実のマリア……万が一幕府の役人に背面を見られても観音として誤魔化した。これ以上最適な物はない」


「……過去の日本の遺物……」茜は箸の先を咥えた。


「過去の遺物?」陰宮は首を傾げた。「令嬢、これは過去の遺物はでないよ。現在もキリシタンはいる」


茜と修行僧の二人は驚きの言葉を発した。


「キリシタンは禁教令が撤廃される時代まで密かに存在し続けた。踏み絵も明治初期まで使われていたが、時代と共に心で信仰すれば踏んでも詫びるだけという考えが起き始めた。その結果、踏み絵は江戸中期には効力が無くなった。だから、キリシタンは続いた」陰宮は悲しく呟く。「しかし、宣教師がいない。これはすなわち教えるものがいない。故に独自の解釈をするようになった。また役人の目を誤魔化すために神道、仏教も平行して行い続けた。その結果……変わった。当初の伝来した教えとは全く異なる宗教となった。……変わりすぎたんだ……」


「そうじゃ。そして禁教令が撤廃されて基督教が認められるようになった。だが、自分たちと違う宗教と感じるようになり拒絶したんじゃ……」香雲は箸を休めた。「故に現在も先祖の歩んだ道、教えを守るためにキリシタンは存在するんじゃよ」


***


陰宮は食事が終わると席を立った。同時に珀天翔が真横に立つと白い長毛を握った。まるで盲導犬かのように珀天翔が陰宮の行く道を示した。陰宮の自室である茶室へと向かった。後ろからは哭天翔と茜が付いて歩いた。


茶室の入り口の前に来ると陰宮は座り入り口を開けた。毎日過ごしているだけあるのか目が見えていないとは思えない慣れた手付きだった。部屋に入ると壁に背中を当てるようにして座った。


「目……どうなるの?」茜は入り口に頭をぶつけないように注意しながら聞いた。


「しばしの事だ。それに見えないとは先生と同じになっただけだ。経験からある程度感覚は掴めているし、哭天翔や珀天翔が目となって貰えればある程度は生活できる。ただ……」


「ただ?」


「来週の頭には卒業研究の論文のプレゼンテーションが行われる」


「それっっ……大切なんじゃ」茜は心配そうに声を掛けた。


「論文もプレゼンテーション用のデータも完成している。説明の順番も頭に入っているし、いざとなれば式神にカンニングペーパー代わりになって貰えればすむ事」陰宮は簡単に言った。


「凄いな」陰宮の言葉からは不安が感じられず感心した。「でも、それなら何が問題なの?」


「……彼奴あいつが来る」陰宮は頭に手を当てた。「すまないが机の上にある煙草を取ってくれないか?」


茜は言われたとおりに机の上を探した。金箔の紋章をあしらった黒い箱入りの煙草が置かれていた。一緒に置かれていたオイルライターも手に取った。灰皿が見当たらない事を事を告げると陰宮は部屋の隅に置かれていた煙草盆を取ってくれと伝えた。茜から一式受け取ると陰宮は黒い箱を開ける。金色の紙に包まれた黒い煙草を一本口に咥えた。オイルライターを握った陰宮の手を茜は煙草の先に来るように動かした。


陰宮が煙草に火を付けた。カチッとオイルライターのキャップを閉めると、煙を吐く前に手で茜に離れるように指示した。言われたとおりに茜は陰宮から遠ざかった。


「彼奴って……小笠原さんの事」


「あの娘も建築学部、恐らく来るだろう」陰宮は口から一筋の煙を吐く。「授業も卒業研究の発表のために休講になる。あの娘にこの眼の事を知られると五月蠅し厄介だ」


「……あの娘って他人事みたいで酷いよ」


「他人事だ」陰宮は手に持った灰吹きに煙草の先端を入れた。「あの娘には関係のない事。それを心配される筋合いもない。それに今回は自分の失態。明らかに非があるのは私だ」


茜はこれ以上話しても何も変わらないと溜息を吐いた。


「で、あの鏡はどうするの?」


「そうだな」陰宮は自分の腹を擦る。「もう静かにして欲しいと言われたが、早く目を見えるようにするには会いに行くのが最善だろうな」


「会いに行く?」茜は意味が分からなかった。


「あの鏡の中にはキリシタンの魂がいる」陰宮は思い出しながら呟いた。「あの鏡自体が一種の依り代になっているんだろうな」


「それがお兄ちゃんの目を奪った原因?」


「まあ、そんなところかな」陰宮は煙草を咥えながら呟く。「流石に今行い万が一が起きたら、卒業に影響するからプレゼンテーションが終わってからと考えている」


「考えているって何を?」


陰宮が自分の目に巻いている布を指さした。


「どうして私の先生である辰巳様の神社が水鏡神社と言ったか解るかい?」陰宮は口を丸く開けると白いリング状の煙を吐いた。「それは先生、そして私の流派である巽流の骨頂は水鏡の術だからだよ」


***


「先生……何か見えましたか?」陰宮は不安そうに尋ねた。


「童や、残念じゃが何も解らん」辰巳芳明は顎髭を触りながら呟いた。「折角、童がどうして幽世の因果を持って生まれたか水鏡を以て見ようとしたが解らぬな」


水鏡神社の本殿の中に二人は向き合うようにして座っていた。二人の間には脚が付いた鉄製の装飾が刻まれた盆があった。盆には水が入っている。辰巳が盆の縁に触れると盆の水面が揺れた。


「折角小学校の入学祝いに見てやろうと思ったが……すまぬのう」辰巳は詫びを言った。「気にするな。お前はお前じゃ。例え過去、前世に何らかの因果あってもそれは変わらぬ。覚えておきなさい」


陰宮は頭を下げた。どうして自分が忌々しい目を持って生まれたか悩んでいた。それが辰巳でも解らずじまいなら、二度と解る事はないだろう。


「……何があったとしても童は童」辰巳は陰宮の頭に撫でた。「代わり別の物を差し上げよう」


「いえ、お気遣い無く」陰宮はとっさに謝った。


「童、もう少しは子供らしくせんか」辰巳は苦笑いする。「セイランという鳥を知っているかのう?」


陰宮には聞いた事がない鳥の名前だった。首を振った。


「ならば不死鳥、鳳凰は知っておるか?」陰宮は頷いた。「セイランとは中国の山奥にいる幻の鳥で鳳凰の元になったと言われる鳥じゃ。それは見事な美しさと聞いておる」


「あの……」陰宮は躊躇う。差し上げるとは何なのか。まさか幻の鳥なのかと考えた。


「童に術士としての名をやろう」辰巳の顔が真剣になる。「童、今後は術士として活動する際は『セイラン』と名乗れ」


陰宮は辰巳の言葉に生唾を飲んだ。術士は本名を明かす事も誕生日を明かす事も禁じられていた。名は体を表し、誕生日は宿星を表すからだ。悪しき術士に知られれば、それは弱点を教える事に等しい。辰巳も現に陰宮に「よしあき」が正しい読みであるが、術士として仕事をする際は「ほうめい」と呼ぶようにさせていた。また誕生日すら教えてはいなかった。


「字はセイは星、ランは濫と書け」辰巳は空に字を書いて示した。「吉星の光が器より溢れる。即ち濫だ。この二つの文字を以て星濫と名乗れ」


「星濫……承りました」陰宮は頭を下げた。


***


恐らく辰巳は見えていたのだろう、と思いながら陰宮は煙を吐いた。まだ自分の目を受け入れていない状態で自分の前世で兄を殺し、義理の姉すらも死に追いやった。それは重すぎる真実と感じたのだろう。だから伏せた。


そして、星濫という名を授けた。


星の光が溢れる。それは陰宮の今後の幸せを願って付けたものだった。




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