第35話 決戦の金曜日・中編

 校門から飛び出したあたしは両手で自分の頬を張った。

 よくあることだ。

 手を伸ばせば届きそうな何かがあって、実はそれは目測より遠い場所にあって。つい欲しくなってしまい、思い切り腕を伸ばすんだけど。

 結局、触れた指先でさらに遠くへ押しやってしまう。

 そんなの、この先の人生にだっていくらでもあることだ。いちいち立ち止まってなんていられない。

 一番大事なものを守れるならそれでいい。なら、あたしは哉太兄——、哉太の幸せを守るんだ。




 お兄ちゃん、ここから一キロ以内にいる?

 ——返事がない。


 スマホを使おう。

「お兄ちゃん。今どこ」

「潤美? 部活はどうした。哉太は」

 かなり驚いた様子だ。まあ、そうだよね。

「ちょっとトラブったけど、問題ないよ。プランBで行きたいんだけど、指示もらえる?」

「……わかった。矢井田の位置は把握している。だが佳織の姿が見えない。いつもの通学路は要所に不良。怪しい者を含めて六人ほど確認した。面倒だけど、いつもの通学路は迂回してからX地点に近付いてくれ」

「了解」

 X地点というのはワーム——矢井田鉄男の潜伏地点。お兄ちゃんからの地図データを確認する。あまり人が寄りつかない貸し倉庫だ。

 今回の件も佳織が黒幕なのだが、結果を見届けるためか、矢井田先輩もお出ましなのである。

 あたしの帰宅時間が早まったのは、相手にとって想定外だろう。こちらにとっては有利にことを進められる。


 真っ先にワームを退治してしまえ。一気にチェックメイトだ。——それがプランB。

 ちなみにプランAは寄り道してお店にできるだけ長居し、敵が焦れて動くのを待ってからの各個撃破だ。こちらの方法では、哉太に見られることなくバスターコマンドを使うのはかなり難しいだろう。

 今回の特例措置においては、思考加速、身体強化、重力操作、それら全てのコマンドについて一般人に対する使用制限が解除されている。

 さらには身体強化の時間制限が大幅に伸び、最大で十五分間。

 尤も、一般人が相手なら重力操作ひとつで事足りるだろう。このコマンドさえ使えるならば、前回あたしを襲った不良どもに囲まれたところで足が震えずに済む。

 考えてみたら理想的じゃないか。正直なところ、プランBの方がAよりもはるかに自由度が高い。動きやすくて都合がいいのだ。

 思い切り暴れちゃうぞ。


 お兄ちゃん。……ねえ、お兄ちゃん。

 ……。

 変だな、もうX地点は目と鼻の先。ここからなら自宅までだって数百メートルという距離だ。

 何かトラブってるのかな。スマホを——

 げ。いっぱい着信があるけど、全部お兄ちゃん以外からだ。哉太に菜摘に加奈。みんなごめん、後回し。

 発信。相手はお兄ちゃん。

 まさか、一キロより遠いってことはないよね。

 ……………………。

 まだなの? 早く出て。

 ……………………。

 なんで。どうしてつながらないの。

 ……………………。

 そんな。一キロ以内にいてくれなきゃ、バスターコマンド使えないのに。

 スマホを耳から離す。

 このままうんと遠回りして一度自宅に戻るか。

 その場合哉太は……、多分大丈夫。詩奈先輩がついている。

 どうしようか。もう一度だけ、お兄ちゃんにかけてから判断しよう。

「————————っ!」

 手首を掴まれた。

 誰。痛い。放してっ。

 もちろん相手の想像くらいついている。

 でもあたしの喉は、かすれ声ひとつ漏らすことができなかった。

「へえ。実物は写真以上だな。めっちゃかわいいじゃん」

 背の高い男だ。スマホを取り上げられた。

「返して」

 無理矢理声を絞り出す。

 空いている方の手を伸ばした。いくら身長差があるからって舐めすぎよ。よし、もう少しで指先が届く。

「あっ」

 悔しい。遊ばれていただけだ。まるであたしの指先で押しやったかのように、スマホはさらに高く掲げられ、両方とも手首を掴まれてしまった。

「中一のレベルを完全に超えてやがるぜ。エロかわいい体つきしてんじゃねえか」

 新たに三人の男が集まってくる。まさか、通学路じゃない道に回りこんでいたなんて。

 バスターコマンド。重力操作……うそ。

 だめ、使えない。

 お兄ちゃん。やっぱり一キロより遠くへ行っちゃったんだ。

「い……や…………」

 嫌だ。足が震え出した。

「まあまあ、そう緊張するなよ。痛いのは最初だけだからよ」

 後ろ手に縛られ、肩を抱かれて連れて行かれる。

 どこへ。ううん、わかってる。矢井田先輩が待つ貸し倉庫だ。

 こちらを見つめる女と目が合った。

 佳織だ。

「こんなにちょろいなんて。あんたバスターじゃなかったのね」

 目を細め、口の端を吊り上げて笑っている。

「ま、関係ないわ。あたしが気に入らないだけだから」

 多分、矢井田先輩本人はそれほどあたしのことを気にしていないはず。彼女は最初、「お兄様の関心を奪った」とかなんとか、とんでもない理由であたしを敵視していたのだが。

 どうやら理屈ではなさそう。あたしのことを目の敵にし始めたきっかけなど、佳織にとっては最早どうでもいいのだろう。

 頭の片隅ではそんなことを考えているものの、震える足ではうまく歩けない。

 つまずきそうになるたびに、男たちが頭の悪そうな笑い方をする。

「どうした。乳が揺れてんじゃん。重くてうまく歩けないってか。支えてやんよ」

「……んっ」

 胸を鷲掴みされ、意地で閉じていたはずの口から声が漏れてしまう。

「なかなか色っぽい声してんじゃねえか。後でゆっくり、もっと良い声で鳴かせてやるぜ」

 冗談じゃない、ふざけんな。

 睨み付けようとしたものの、目尻に涙がにじむ。

 なんだかこの身体になってから涙腺が緩くなったような気がする。

 お兄ちゃん……。

 ……哉太。

「あたしのスレイブ、あのボディガードを落とせなかったようね。意外だったわ。でも、こうしてあんたと引き離せたから成功と言えるわね」

 ボディガード? 佳織のスレイブ? 何言ってるの。

「田中先輩だっけ。彼がいたらあんたのこと守っちゃうだろうからさ。邪魔するプランをいくつか用意してたわけ」

 腰に手を当て、得意顔で説明を始める。

「彼のことを屋上に呼び出したのはあたしのスレイブ。主に恋愛面での精神汚染しかできないのだけれど、その一点においてはかなり優秀なのよ。それなのに、まさか抵抗できる一般人がいたなんて驚きだわ」

「な……に、言ってる、の」

「ふん。バスターでもないあんたには、あたしが呪文でも唱えているようにしか聞こえないのかしらね」

 獲物を罠に嵌めた勝者の余裕なのだろうか。佳織がこんなに笑うところ、初めて見た。とても陰気な笑顔ではあるけれど。

「屋上にあんたが現れたと報告を受けた時は少しだけ焦ったわ。鈍そうな顔してるくせに、どうやって知ったんだか。どっちにしてもこうして一人で飛び出してきてくれたんだもの、結果オーライよ。田中先輩に効かなかった恋愛脳汚染、あんたには影響が出たってことかしら」

「恋愛脳……汚染?」

 佳織が何を言っているのか、さっぱりわからない。でも一つだけ言える。

 ——ろくなもんじゃない。


 男の手の中でスマホが着信を伝えた。

 しかし、彼は反射的に電源を切ってしまった。

「へへ。これでGPS機能をあてにすることもできねえ、ってな」

 あたしのスカートのポケットにスマホをねじ込むといやらしく笑う。

「返してやんよ。……俺、いい奴だろ?」

 しばらく無言で歩く。ほどなく目的地に着いた。

 やはりX地点。貸し倉庫だ。

 これでもかというほど寂れていて、人がいない。

 そう、あたしたちと、矢井田先輩以外は。

 お兄ちゃんの身に、何かがあった。敵の方が一枚上手だった。

 矢井田先輩を含む五人の男たちと佳織。そのど真ん中にあたし。

 後ろ手に縛られ、バスターコマンドも封じられ。

 あたし、無力だ。どうしようもなく、無力だ。

 ここまで歩いてきて、今は膝が笑っていない。そのかわり、身体のどこにも力が入らない。

「ほら見ろ佳織。俺が言った通り、その女バスターじゃなかっただろう。この土地を離れるって時に厄介な事件を起こしやがって」

「大丈夫ですお兄様。バスターじゃないのなら精神汚染が効きますから。記憶など、いくらでも改竄してしまえばいいのです」

「ふん。好きにしろ」

 矢井田先輩は腕組みして倉庫の一つに背を預け、目を閉じたまま会話している。

 大人しくしていたら、少しでも痛い時間、短くなるかな。

 嫌だ嫌だ!

 なんとかして隙を見つけて、絶対に逃げ出してやるんだ!


 そのとき、倉庫の影から新たにもう一人現れた。

「よう鉄。楽しそうなことしてんじゃねえか。俺を仲間外れにするとは偉くなったもんだな」

「戸塚先輩。停学中じゃなかったんすか」

「……あ…………」

 膝から崩れ落ちた。

 この人、前回あたしを襲った不良だ。身体強化が時間切れになったあたしに最後に襲いかかった敵。あたしのトラウマ——。

「鉄先輩、俺らもう我慢の限界っすよ! 戸塚先輩の後でいいっすから、早くヤらせてくださいよ!」

「俺はどうでもいい。戸塚先輩に聞け」

「おいおい、すぐ気持ちよくなんだからよお、そんな暗い顔すんなって」

 なに? あたしに話しかけてんの?

「なにしゃがみこんでんだよ。右の乳を揉まれたら左の乳を差し出せってか。ひゃはは、戸塚先輩お先にすんません、ちょっとだけ味見いいっすかぁ」

 ああ、あたしこんな道ばたで。こんな不良たちに。やられちゃうのか……。

 力なく路面を見る。さっき目尻に滲んでいた涙が、今は涸れている。麻痺、してるのかも。

「慌てるんじゃねえよガキが。鉄は俺に聞けっつったろうが」

「ちぇ。先輩恐いから順番はお譲りしま——へぶっ!」

 鈍い打擲音に肩が跳ねた。

 見上げると、戸塚先輩とやらが拳を振り抜いた姿勢で立っている。

 路面を擦る音。

 あたしの胸を揉んだ不良だ。かなりのパンチだったのか、すぐに起き上がる気配がない。

「……にしやがんだ戸塚あぁ!!」

 口を開いて呆けている矢井田兄妹とは対照的に、残り三人の不良たちが戸塚先輩を囲んだ。

 ガードもへったくれもない殴り合い。

 戸塚先輩自身、痛そうなパンチをもらいながらも相手を殴り倒していく。

 残り一人。

 しかし、顎に拳を受けた戸塚先輩、路面に倒れ込んで仰向けになった。

 喘ぎ声のような微かな声。

 戸塚先輩は確かにこう言っていた。

「リア充襲撃計画のメールを見た。この前は悪かったな御簾又。今日もすまなかった、助けきれなくて」

「……んだよ戸塚。てめえ何なんだよ」

 矢井田兄妹は動かないままだ。

 残った不良が戸塚先輩を足蹴にすると、こちらに目を向けてくる。

「独り占め、ってか。いいよな、鉄」

「……おう」

 嫌だ。立ち上がるきっかけを失った。

 必死に這いずろうとしたけれど、脚を掴まれてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る