第十九章 治子と留美子
天翔学園高等部の保健の教師である中里満智子は身体の感覚が失われているのに気づいた。
(何がどうなっているんだ……?)
彼女は鍵をかけたはずの保健室に連れ込まれ、ベッドに横にされていた。動くのは眼球だけのため、視界の端に写り込む生徒会副会長の安倍秀歩の姿が少し見えるだけだ。
「先生、大きい割に軽いんですね。何だか可愛いですよ」
安倍は中里に顔を近づけ、彼女の右頬を舐めた。中里は安倍の顔面にパンチを浴びせたい心境だったが、今は指一本反応してくれない。
(薬を嗅がされた覚えはない。何かを注射された記憶もない。それなのに何故身体の自由が利かないんだ?)
中里は混乱しかけていた。至って合理主義的な思考の持ち主である彼女は、道明寺かすみが目の前で瞬間移動してみせても、すぐには信じられなかったほどだ。だから今自分の身体に起こっている現象も理解の外なのだ。
「奇麗ですよ、中里先生。僕のものにしたいです」
安倍の指が中里の服のボタンを外していく。しかし止める術がない。
(畜生! 下衆が!)
歯軋りすら出来ない彼女は、心の中で安倍を罵った。
かすみとクラス担任の新堂みずほは高等部の正門をくぐり、校舎へと向かっているところだった。
(中里先生!)
かすみの脳裏に中里が脱がされていく場面が浮かんだ。
(誰なの、中里先生を拉致したのは?)
かすみは中里のそばにいる人物を見ようとするが、何かの力でそれを阻まれた。
(これは確か、あの時の?)
何度もかすみの邪魔をしている力なのはわかった。しかし、その力の発動者の正体はわからない。
「道明寺さん?」
立ち止まったかすみを見て、怪訝そうな表情でみずほが言った。
(新堂先生を学園に連れて来たのは間違いだったかも知れない。どうしよう?)
かすみは敵が一人ではないのを悟った。
(でも、平松教頭の気配が感じられない。どこかへ逃亡したのかしら?)
かすみは強敵だった平松誠が校舎内にいないのを知り、少しだけホッとしたが、彼以外に二人、強い力を感じた。
(一人は透視能力者。でも、もう一人は今まで感じた事がない能力者だ)
かすみは不安そうに自分を見ているみずほを見た。
「新堂先生、中里先生はもう捕まってしまっているようです。先生は逃げてください」
「え?」
みずほはかすみの言葉を聞いて顔を引きつらせた。
「中里先生は私が必ず助け出します。だから逃げてください。そして、この人を頼ってください。私の名前を出せば、必ず力になってくれるはずです」
かすみは制服のポケットから名刺を取り出してみずほに渡した。
「森石章太郎?」
みずほはその人物の肩書きを見てギョッとした。
(警視庁公安部って、すごく怖いところじゃないの?)
警察にそれほど詳しくはないみずほだが、大学時代の知人が過激な活動をして逮捕された時、公安部の捜査員が家まで尋ねて来た事があったのだ。だから公安と聞くとゾッとしてしまうのである。
「信用できる人ですから大丈夫ですよ。それにその人、美人には優しいんです」
かすみはみずほを安心させるためなのか、そんな事を言った。
「道明寺さんにも優しかったのね?」
みずほが微笑んで言うと、かすみは肩を竦めて、
「子供には優しくないんですよ、その人は」
そう言いながら、彼女はみずほの背中を押す。
「とにかく、早く行ってください、先生」
「え、ええ……」
みずほは後ろ髪を引かれる思いでかすみから離れていった。
(新堂先生は敵に注目されていないから、ここにいなければ大丈夫なはず)
かすみはみずほが正門から出るのを確認してから、再び走り始めた。
真のボスである天翔学園理事長の天馬翔子との情事を終え、生徒会長の手塚治子は音楽室に向かっていた。
(安倍の奴、うまくやっているようだ。中里は簡単には殺さない。私に対するあの思い上がった態度を後悔させてじわじわと死を味わわせてやる)
治子はニヤリとして音楽室のドアを開いた。そこにはマスクで口を隠した片橋留美子がいた。
「留美子、出番だよ。道明寺かすみを叩きのめして来るんだ。そしたら、ご褒美を上げるよ」
治子は留美子に近づくと、彼女の右手を取り、自分の左の胸を触らせた。
「は、はい……」
留美子は緊張からなのか、嬉しさからなのか、身体を震わせて頷いた。
「頼んだよ。私の可愛い留美子」
治子は留美子の耳たぶを舐め、フッと息を吹きかけた。留美子は恍惚とした表情になってから音楽室を出て行った。
(道明寺かすみには攻撃能力はない。留美子で楽勝のはずだけど、気をつけるに越した事はない)
彼女はかすみの力に警戒心を抱いていた。
(万に一つも留美子が負ける可能性はないけど、あの方が道明寺かすみをご所望なのには理由があるはず。それがわからないうちは、不用意に仕掛けるのは利口じゃない)
治子は留美子を捨て駒にするつもりなのだ。
(留美子、何としても道明寺を殺せ)
彼女は翔子がかすみを気にかけているのを嫉妬している。翔子がかすみをお気に入りなのが許せないのだ。
天馬翔子は理事長室のソファで寛いでいた。
(治子、過剰な嫉妬は見苦しいぞ。私が道明寺かすみに興味があるのは、あくまで奴が彼女を望んでいるから。だから彼女を殺すんじゃないよ)
しかし一方でまた、治子とかすみの対決も見てみたいとも思っている。
(それもまた一興だが、道明寺の身体はクライアントが欲しがっているんだ。死なせる訳にはいかない)
翔子はフッと笑った。
「だが、治子やその手下がかすみを倒せるとは思えないのも確かだね」
翔子はクライアントが何故かすみを欲しているのか知っている。
(道明寺は謎の能力を秘めている。そんな噂だか事実だかわからないような情報にあれほどの組織が動くのだから、多分本当なんだろうね)
翔子はスッと立ち上がると、理事長室を出て行った。
かすみは廊下を走り、保健室の前に来ていた。
(中里先生はこの中にいる……)
彼女がドアノブに手をかけた時だった。
「く!」
ドアノブが火傷しそうなくらい熱くなっていた。
「これは……?」
誰かの力による現象だと瞬時に見抜いたかすみはドアから飛び退いて周囲を見渡した。
(どこ?)
かすみは予知能力を応用して、誰が力を使ったのか見抜こうとした。するとまた別の力がそれを阻む。
(またあの時の……)
その時、かすみに向かって勢いよく台車が突進して来た。
(
かすみは横に飛んで台車をかわした。すると今度は授業用の大きな三角定規が宙を飛んで来た。
「く!」
かすみは瞬間移動してかわした。
「貴女ね、念動力を使ったのは!」
かすみは廊下の端に潜んでいた留美子の背後に移動した。留美子は完全に虚を突かれたが、
「死ね。道明寺かすみ!」
更にそばにあった消火器を飛ばした。
「無駄よ」
かすみはまた瞬間移動してそれをかわした。消火器はそのまま廊下の窓ガラスを破って中庭に落ちた。
「くそ」
留美子はかすみが姿を消したままなのに気づき、周囲を見渡す。彼女には超感覚能力はないので、かすみの気配は感じる事ができない。
(治子様、助けてください!)
留美子は治子に救援を懇願した。治子に留美子の心の叫びは聞こえていたが、今反応するとかすみに正体を気取られると考え、応えなかった。留美子は治子が動いてくれないのを悟り、ショックを受けたが、
(私一人の力で勝てという事ですね、治子様)
前向きに捉え、かすみが姿を見せるのを待った。
(何をするつもりなんだ、道明寺?)
留美子は一向に姿を見せないかすみに苛立ち始めた。カタンと物音がした。
「くう!」
思わず散らばったガラスの破片をそちらに飛ばしてしまう。しかしかすみはそこには現れなかった。
(私を焦らして疲れさせるつもりか?)
留美子はかすみが消耗戦を仕掛けて来たと判断した。
治子は留美子が苛立っているのに気づいていた。
(道明寺め、戦い慣れしているな。留美子が遊ばれている)
治子は留美子の敗北を悟ったが、助けるつもりはない。
(所詮お前はその程度だ、留美子)
治子は翔子が動いたのを感知し、彼女の元へ向かおうと音楽室を出た。
「見つけたわ、黒幕さん!」
その治子の目の前にかすみが姿を現した。治子は唖然としてかすみを見た。
「まさか生徒会長が黒幕だとは思わなかったわ。でもしくじったわね」
かすみは治子を睨みつけて言った。
「しくじったですって? 何の事なの、道明寺さん?」
治子はそれでも
「あのサイコキネシスの使い手の人が貴女に助けを求めた時、敢えて無視したのが仇になったのよ。そのお陰で私は確実に貴女を捉える事ができたわ」
それを聞いて治子は歯軋りした。
(あのやり取りを感知できるとは、こいつ思った以上なのか……)
新たな戦いが始まろうとしていた。
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