第9話 秀吉という男

 一行が鵜ノ川うのかわを渡り、右手に法林寺ほうりんじの境内が見え始めてきたときのことである。

 彼らが進もうとする道のはるか前方より、数騎の騎馬とそれに続く徒兵かちの一団がこちらへと向かって来るのが眼に映った。

 彼らが進むにつれ、どうやらその数は六騎の騎馬武者と徒兵であるようだ。


 一行は荷車を道の脇に避け、それぞれに片膝を付いてはこの一団が通り過ぎるのを待つこととした。

 ただ、僧だけは荷車の横で直立し、目深まぶかに被った托鉢笠たくはつがさの中からはまた念仏を唱え始めている。

 「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」


 一団の中で先頭を行く馬上の武者はそれを聞くなり、眉間みけんしわを寄せ眼を細めた。

 小脇に短槍を抱えたその武者は見たところまだ若く、そのすぐ後ろを歴戦の強者つわものとおぼしき武者が二騎続く。

 一人は兜の前立てに昇り鯉の飾りを着け、もう一人は黒水牛の短角たんかくをあしらっている。

 それらの後ろを徒兵が小走りに付いて歩いているのである。


 徒兵が背負う旗印には黄色地に瓢箪ひょうたん紋様もんようが染められている。察するところ、どうやらこの一団は織田信長が家臣、あの羽柴筑前守ちくぜんのかみ秀吉の隊であることが伺い知れる。

 その徒兵の半数は半弓を肩に掛け、半数が鉄砲を持っている。それらが道幅いっぱいに三列縦隊で従っているのだ。


 徒兵のさらに後方には、一際ひときわ大柄な老将が右に馬首を置き、その隣には小男が。

 その小男は弁柄べんがら色の生地に金色の彩飾さいしきを施した陣羽織じんばおりを着、頭の倍もあろうかというほど不釣り合いな兜を着けている。

 そして、彼らの一番後ろをまだ十代ともおぼしき一際若い武将が涼しい顔で付き従っているのである。


 すると、不意に一番前を行く武将が馬首をこちらへと向けて来た。

 「その者達、これより何処へ向かう?」

 予想外の問いかけに、冬馬が応対する。

 「私どもはこれより丹波亀山へ参ろうとしておりまする」

 なるほど、丹波亀山とはもう目と鼻の先であるのだ。冬馬は努めて物腰の柔らかい口調で答えた。

 「積み荷は何じゃ?」

 この武将は、何事においても高飛車な物言いをするようである。

 これには今度、桂が返答した。

 「伏見の酒樽に反物が少々、それに花茣蓙はなござを積んでございまする」

 「さようか。では、荷検にあらためをする」

 言うが早いか、数人の徒兵がその荷車の周りを取り囲む。


 馬上の若武者は更に近付くと、短槍の先で酒樽のふたを結んだひもを切り離そうとした。と、その時、荷車の横で直立不動に構えていた僧が、その若武者の前に歩み出た。

 「お手前共は何処の配下の方ですかな。何用あって、荷検めをなさるのか」

 この言葉に、後ろで控えていた武将がにわかに血色だって近付いてきた。


 「且元かつもと、何をしておるのじゃ。さっさと中身を検めい」

 黒水牛の短角をあしらった兜を着けたこの武将、名を中村一氏なかむらかずうじという。早くから秀吉に従い供に戦場を駆け巡っているのだが、なにせ小心なくせに少々短気なところがある。

 この時も、馬上で刀を抜き放つと、僧に向けその剣先を真っ直ぐに突きつけた。


 一方、一氏から命令されたこの若武者は片桐かたぎり且元という。以前且元は近江の浅井家に組みしていたが、長政親子が滅んで後は秀吉の馬廻うままわりり衆として従っている。

 血気盛んな割に冷静沈着なところもあるのだが、如何せんすべての物言ものいいにおいて思慮に欠ける言い方をすることが玉にきずである。


 そしてもう一人、中村一氏と馬首を並べていた者は、その名を堀尾吉春ほりおよしはると言い、これまた秀吉には美濃攻め以前より仕えている。

 戦による槍働きも良く、今では近江長浜に百石ひゃっこく知行ちぎょうを戴いている。昇り鯉の前立てはこの中国攻めに従軍したときから着けている。

 吉春は少し引いたところから、ことの成り行きを静観するつもりであるらしい。それが証拠に、彼はきびすを返すと、後方に控える鉄砲隊に小休止の合図を送りに行った。


 一氏の言葉に、且元が再び荷の紐を解こうとすると、僧は一際大きな声でその二人の武将を一喝した。

 「京では織田様の号令一下の元、自由なあきないを行うことができるのに、街を少し離れればこの有様。何たることか」

 僧は一氏にも言葉を強める。

 「僧に馬上より刀を向けるとは何たる所存。そこもとらは礼儀も知らんのか」

 地響きのような声に、且元は二三歩後ずさりし、小心者の一氏に至っては、思わずその刀をさやに収めてしまったほどである。

 それでも一氏は、なおも徒兵だけを前に押し出すと、任務の遂行を試みようとする。


 この前方でのやり取りにいち早く気付き、栗毛くりげの馬を走らせて来たのが、最後尾にいた一際大きな老将であった。

 老将と言うのにはいささか歳も若いようで、すこぶる血色も良い。

 彼は十分に蓄えた顎髭あごひげを擦りながら、なおも近付いて来る。

 その出で立ちは全身黒の甲冑を身に付け、兜には立派な前立ては無いものの、代わりに幾つもの黒鋲くろびょうが打ってある。

 また、手綱たづなを掴む右の手の薬指が欠けており、左の眼の横には古い刀傷が歴戦の中での生き様を物語っているようだ。


 老将は馬首をその僧の前へと進めると、両者を一応に見据える。

 中村一氏と片桐且元はこの老将の登場に、更に馬を二三歩後ずさりさせた。

 老将は僧に眼を落とした後、静かに桂や冬馬の方にも眼を移した。

 「これは御坊ごぼう、何かありましたかな?」

 言葉は静かだが、どことなく威圧のある言い方である。

 僧は老将を見上げると、錫杖をひとつ鳴らした。

 「拙僧どもは京より亀山へと向こうておりまする。荷車には、ほれ酒樽と反物、それに祭式に使う花茣蓙が積んでございます」


 老将は荷車になお近付くと、馬上よりその荷台を眺める。

 桂と冬馬は花茣蓙の入った木箱の蓋を開け、中より花茣蓙をひと巻き取り出して見せた。

 与六は頭を地べたに擦り付けるほどに下げてはいたが、いざその時が来ればいつでも切り込んでいけるように、彼の槍に一番近い所に陣取っている。

 吉之助は編み笠の間からその老将の顔を一目でも見てみたいと笠を少しもたげた。

 老将は目聡めざとくそれに気付くと、二三歩馬を吉之助に近付ける。


 「おぬしも坊主か?」

 老将の言葉に、彼は思わず首を横に振った。

 「御坊、見れば皆商人風体ふうていにも見えるが、身のこなしまではごまかせまい。と言って、中には女子おなごが二人もおる。いったいお前達は何者か?」

 すかさず、これには冬馬が答えようとする。

 「手前共てまえどもは・・・」


 「丹後は与謝野よさのの、一色家いっしきけの者にござる」


 冬馬が答えるよりも早く、その僧が大声で答えた。

 にわかに徒兵を始めとして、その一団がざわめきだつ。老将の後ろでは、すでに先程の二人も刀の柄に右手を掛けている。

 それもそのはずである。今まさに織田と一色家とは丹後において交戦中であるのだ。


 冬馬は中腰で振り返ると、その僧の顔を睨み付けた。

 与六もすでに隠れた左手を彼の槍へと乗せている。吉之助はふところに忍ばせた短刀を衣服越しに確かめた。


 緊迫した空気が張りつめる中、桂は立ち上がると、僧と老将との間に歩み寄り静かに一礼する。

 「お坊様の言われる通り、我らは一色義定殿の家臣でございまする。京へは国元より反物を求めに来たしだい。これより丹波を経て国元へと帰参きさんいたしまする」

 言い終わると、彼はもう一度老将に深々と頭を下げ、僧の顔を横目でうかがった。

 いつの間にか僧も穏やかな表情を浮かべている。


 「小六ころく、この者達は一色家の者か?」

 大柄な老将の影から、今度は何ともちんけな武将が言葉を掛けてきた。頭に不釣り合いな程の大きな兜を着けたその者である。

 「何か当方に不手際ふてぎわでもあったかのう?」

 言いながら、その男はその大きな兜の紐を解き始めた。

 すかさず馬の轡を取っていた徒兵がその兜を両の手で譲り受け、もう一人の馬周りの者が引立烏帽子ひきたてえぼしを頭上に掲げる。

 男はそれを手で払いのけると、桂らに向け馬首をいま一歩近付けた。そこには赤ら顔に少ない髭をあしらった、何とも貧相ひんそうな顔が現れた。


 「兜は重たくてかなわんな」

 男の言葉に、僧は珍しく深々と頭を下げる。

 男に小六と呼ばれた大柄な老将は、言わずとも知れた蜂須賀小六正勝はちすかころくまさかつであり、今馬上で兜を取った武将こそ、織田信長の右腕とも賞される羽柴筑前守秀吉である。

 僧の態度は、それを知ってか知らずか、先程の者達とは明らかなる違いを見せている。


 「拙者せっしゃは木下籐吉郎とうきちろうと申す。こちらの大男は小六じゃ」

 秀吉は自分の名を、あえて木下籐吉郎と名乗った。けっして初対面の者にでも、旧知のごとくしゃべり掛けるのが彼の礼儀でもあり、また人垂ひとたらしと言われる手法でもある。

 大抵の人間は秀吉のこの一言で、自分をさらけ出してしまい彼に取り込まれるか、墓穴を掘っては永久に疎外されることになるのだ。

 この時も秀吉は満面の笑みをたたえると、饒舌じょうぜつであった。


 「時に御坊、街道での荷検めは織田の軍規ぐんきの中にもあるゆえ、許してはもらえんかのう」

 秀吉はちらりと、荷車に寄り添うように立ちつくす冬馬達に眼をやる。

 僧は托鉢笠を取ると、その大きな顔をゆっくりと持ち上げて秀吉を見上げる。


 「この街道が山陽道さんようどうならば、木下様のおおせの通りに致しましょう。ですがここは山陰道さんいんどう、本来行き交う荷駄を警戒するは惟任日向守これとうひゅうがのかみ様ではござるまいか。それとも木下様には、山陽道を通らずに回り道をするような訳がござりましょうか?」

 この言葉に、秀吉はニタリと笑った。

 久々に良き相手を見つけたとでも思ったのであろう。元来彼には問答もんどう好きなところがある。

今眼の前の僧が投げかけてきた問題にどう答えてやろうかとうずうずし始めているのである。


 僧の方も、どうやらそんな彼の性格を以前より知っていたのであろう。

 彼は木下籐吉郎が今では羽柴秀吉であるということも、その秀吉が山陽道から摂津せっつ播磨はりま、そして備前びぜんを経て中国の毛利と対峙たいじしているということも、全てお見通しであるのだ。

 そればかりではない。昨年来、毛利方の別所長治べっしょながはるとの三木城における城攻めの最中、播磨の有岡ありおか城主、荒木村重あらきむらしげの離反により、秀吉にとっては山陽道を通り抜けるのもままならないと言うことまで熟知していたのであった。


 その時、後ろに控えていた片桐且元が大声をあげた。

 「この乞食こじき坊主が、殿に何たる口の利きよう。この場にて成敗せいばいしてくれるわ」

 言うが早いか、且元は馬から下りると、その僧に向け短槍を構えた。刹那せつな、秀吉は烈火のごとく叱咤した。

 「且元―っ、出しゃばるでないわ」

 一瞬でその場の空気が凍りついた。

 且元はその場にかえるのように平伏すと、その兜頭を地面に擦り付ける。


 「且元、これより使い番をいたせ」

 きっとこれもいつものことなのであろう、蜂須賀正勝のひとことが、ひとまずこの場を取りつくろうことになる。

 彼は最後尾に馬を寄せていた一人の若武者を呼び寄せると、二人に向け声を掛けた。

 「佐吉さきち、急な帰京ゆえ且元と供に、一足先に京の藤孝ふじたか殿のところへ馬を走らせておいてくれ」

 つまりは、羽柴秀吉の軍勢が急遽これより京に入るので、いち早く細川藤孝のもとへ知らせに行って来いと言うのである。

 もう少し先までを言うならば、藤孝に秀吉軍の宿泊先から食事、遊興ゆうきょうの準備までを整えておくようにと伝えてこいと言うことであるのだ。


 言葉を受けた佐吉は涼しい眼を返すや、馬首をもう一度後ろへと向ける。

 「細川様への引出物は如何いたしましょう?」

 佐吉の言葉には、秀吉が答える。

 「姫路ひめじで取り揃えた、花入れが良かろう。藤孝殿は茶道具には眼がないからのう」

 佐吉は黙って頷く。

 「ではそれに加えて、立入宗継たてりむねつぐ殿と観修寺晴豊かんじゅうじはるとよ殿にはそれぞれ銭五十かんを届けさせまする」

 「公家くげ衆への手回しか。佐吉は、相変わらず気が利くのう」

 そう言う秀吉の顔は、またいつもの皺の多い、にこやかなものに戻っている。

 佐吉は黙って一礼すると、隊の後方へと馬を走らせる。


 この佐吉とは、後の石田治部少輔三成いしだじぶしょうゆうみつなりのことであり、この時はまだ二十歳にも満たない若武者であったが、秀吉は彼の才能を高く買い、常にかたわらに置いては仕事を与えた。

 且元はそんな知恵の回る佐吉と共に行動をすることをあまり好まなかったが、この時ばかりは、馬に駆け上がると、早々に彼と共にその場から立ち去って行った。


 「御坊は先程、何故山陽道を通らずに京への道を選んだのかと申したな?・・・」

 秀吉の問いかけに、僧もまた含むような笑みを浮かべている。

 「いかにも」

 「実はのう、播磨の子虎がおりの中で暴れておってのう。迂闊うかつには近付けなんだ」


 秀吉は播磨有岡城の荒木村重を子虎と言い、いま正にその村重が有岡城に立て籠もり、織田に反旗をひるがえしたと言うことまで語り始めたのである。

 これには流石に蜂須賀正勝も横槍を入れずにはいられない。

 「藤吉郎、言葉が過ぎるぞ」

 小六は木下籐吉郎が今の身分、羽柴秀吉になってからも、二人の会話の中ではいつも彼のことを籐吉郎と呼び捨てる。

 小六にしてみれば、織田家の機密きみつ事項を一介いっかいの僧に、いとも易々と喋って良いものかと肝を冷やしていたからである。


 秀吉は小六の方を向き直ると、黄ばんだ歯をむき出した。

 「この御坊には、すでに周知のことじゃ」

 僧はいっそう眼を細める。


 秀吉は、いよいよ質問の核心を突いてきた。

 「ところで御坊、知っての通り今織田は毛利と戦こうておるが、この先織田は如何相成いかがあいなるか、御坊の心根を聞かせてはくれぬか」

 秀吉は今にも馬から落ちそうなほど身を乗り出すと、この僧の唇が動くのを待っている。

 僧はひとつ大きく息を吐くと、細めていた眼を今度はいっそう大きく見開いた。


 「ならば、拙僧の存念ぞんねんをお話し致しましょう。いま織田様はその精気強く、まさに天下に号令せんとの勢いですが、これもあと持って五年か、下手をすれば三年持たないかも知れませんな。何故なら、織田様のようなやり方をなされていると、必ずや予期せぬ不幸に見舞われる時が来るものでございます」


 ここまで話した時、中村一氏が再び刀を抜いて馬首を寄せて来たが、今度は小六がこれを制した。彼にもこの先が知りたかったのであろう。

 小六は眼で一氏に合図すると、桂らを取り囲む徒兵らを後ろへと下がらせた。


 「して、その先は如何なるのじゃ?」

 秀吉はなおも身を乗り出す。

 「急な崖を小石が落ちるがごとく、濁流に笹舟が飲み込まれるがごとく、織田様の時代は終わりを告げまする」

 「終わりを告げる・・・。して、その後は・・・」

 秀吉は自らの言葉をぐっと飲み込んだ。

 しかしそんな秀吉とは裏腹に、後方では中村一氏が一人えている。

 「乞食坊主が言わせておけば調子にのりおって。弓隊、前に出て構えい」


 すかさず二十名ほどの半弓を掲げた弓兵が、桂や僧との周りを取り囲んだ。

 まさに一触即発の状況である。

 僧は別に弁明するわけでもなく、許しをう訳でもない。

 それは桂らも同じであった。彼らは真っ直ぐに秀吉の眼を見据えると、その場にすっくと立ちつくした。

 冬馬は刀を左手に持ち、与六はすでにその槍を中段にと構えている。短刀の鞘を抜き払った吉之助に至っては、笠を投げ捨てて皆の前に二歩三歩とにじり出る。


 急に秀吉はその馬上から下りると、つかつかと僧の眼の前に歩みを進めた。

 「籐吉郎!」

 小六が声を荒げ割って入ろうとするが、そこにはすでに与六の槍先が下から小六を突き上げている。


 弓隊は一斉に矢をその弓につがえた。

 「御坊、如何したものかのう。これではおぬし達に勝ち目はないと思うが・・・」

 秀吉の言葉に僧は一段と眼を細めると、ゆっくりのその顔を後ろの松尾山から烏ヶ岳からすがたけの方へと向けた。


 「殿、何やら後ろの山々がざわめいておりまするな」


 この時僧は、確かに籐吉郎ではなく秀吉殿と言った。聞いたはずのない名前で彼を呼んだのである。

 再びゆっくりと秀吉に向けられたその顔は、自信に満ちた勝者の色をかもし出している。

 秀吉は桂達の後ろに控える烏ヶ岳の方へと眼を移す。

 「ほう、山が騒いでおると申すか?・・・」

 「御意ぎょい

 僧はニコリと秀吉を見返す。


 「弓隊、構えーっ」

 中村一氏の掛け声に、弓兵は一斉に弓を引く。

 キリキリという弦がしなる音が辺りの空気に振動する。すると突然。

 「はっはっはっ」

 秀吉はひとつ大きな笑い声をあげると、小六の方を向き直り頭を振った。


 「小六、どうやらわしらの負けのようじゃな」

 蜂須賀正勝は右手を横にと下げる。一氏に弓隊を引かせるためである。

 秀吉はちんけなその顔でもう一度その僧の顔をしげしげと見つめると、刀の柄に手を掛けて半身に構えている冬馬に向けて一言呟く。

 「くれぐれも御坊に感謝することだな。もしおぬしらが一色家じゃと、本当のことを言わなんだら、今ごろおぬしらの首と胴とは繋がっておらなんだかもしれんのう」


 秀吉は更に小声で言葉を繋いだ。

 「これからおぬしらが向かう丹波は、今は明智光秀殿が戦こうておられる所じゃ。光秀殿はわしと違うて巧妙で執念深いゆえ、蟻の一穴いっけつも逃さぬようなお人じゃ。くれぐれも用心することじゃな」

 秀吉はその小さな眼を目一杯見開くと、そこには今までにはない別の顔を覗かせた。


 冬馬は柄に手を掛けたまま、その場に片膝を付いた。

 与六もすでに槍の穂先を地面に着けては、この状況を見守っている。

 それでも中村一氏と相対するところまで歩みを進めていた吉之助だけは、未だにいきり立った呼吸で弓隊を睨み付けている。


 秀吉は再び馬に跨ると、深々と頭をたれる僧に再び問う。

 「ところで御坊、そなたとは以前何処かで一度おうた気がするのじゃが、それは何処じゃったかのう?」

 「拙僧のような乞食僧が、羽柴様と席を同じゅうすることなどあるはずがござりましょうか」

 僧は、そのふくよかな顔に笑みをたたえると、錫杖をひとつ鳴らしてみせた。


 しかし実際は、秀吉とこの僧とは過去に一度顔を合わせたことがあった。

 それは今から六年ほど前、天正元年織田信長によって京都を追放された足利義昭あしかがよしあきが、いったんは枇杷庄びわのしょうから堺に退いていたが、再び信長から帰京の要請を受けた時のことである。

 この時、信長の元からは使者として羽柴秀吉と朝山日乗あさやまにちじょうが訪れ、いっぽう毛利家の使者としてこの僧も参列していたのである。


 「さようか、わしの気のせいか」

 秀吉も再びその黄ばんだ歯を見せると、馬首を京の方へと返した。


 去り際、秀吉は懐から小さな陶器の壺を取り出し、それを桂へと放り投げた。

 「一色義定に伝えい。今は敵なれど、いつか天下の為、意を共にしようとな」

 桂はそれを両手で受けると、過ぎ去る秀吉の背中をじっと見つめていた。



 この後、桂と僧の一行は西に亀山へと続く道ではなく、法林寺を右手にしばらくは北に進む道を選んだ。

 それは僧のすすめでもあり、この場をやり過ごすことができた桂達もそれに従った。

 なおも前方には桂川かつらがわが横たわり、東と北には山々が深く連なっている。


 一方、僧と桂らを捕らえ損ねた秀吉の隊では小六が馬首を近付けてきた。

 「籐吉郎、あの者共を取り押さえずとも良かったのか?」

 秀吉は遠く京への山並みに眼を移しては、小六の問に小声で答える。

 「あの者、托鉢僧の成りをしておるが、間違いなく恵瓊えけいじゃ」

 「恵瓊と申すと、毛利の安国寺あんこくじ恵瓊のことか?」

 小六は馬上で後ろを振り返る。


 当然そこにはもう彼らの姿はなく、松尾山の山並みが広がっているのが見える。

 小六は踵を返すと、すぐさま軍勢を戻そうとした。

 「無駄なことはせずとも良いわ。それに・・・」

 秀吉は恵瓊が言った言葉を思いだしていた。


 安国寺恵瓊はこの当時、毛利輝元てるもとの外交僧としてその手腕しゅわんを発揮した者で、中国地方はもとより、畿内にまでその足を伸ばしていたのである。

 実は例の有岡城の荒木村重離反にも、この恵瓊が一枚からんでいると言われていたほどである。


 「小六、恵瓊が言うには山々が騒いでいるそうじゃ。おおかた毛利家杉原盛重すぎはらもりしげが放った忍び衆が入っているのであろう」

 「毛利の忍びか」

 小六は改めて山並みに眼をやる。

 「恵瓊め、忍びを使ってわしらと差し違えるつもりだったのか」

 秀吉は今一度、あの時恵瓊がした自信に満ちた顔を思い浮かべた。


 事実、安国寺恵瓊は丹波から京に掛けての山中に佐田彦四郎さだひこしろう甚五郎じんごろう兄弟を頭とする毛利の忍び衆を多数入れていたのである。よって、恵瓊が得る情報のうちそのほとんどが、これらの忍び衆からもたらされていたと言うこともまた事実であった。

 秀吉は自分の首筋を二本の指で二回叩くと、小六に不敵な笑みを送った。

 「小六よ、あやつらを山まで追いかけていれば、今ごろおぬしの首は雑木林の中に転がっておったやもしれんぞ」

 小六は顎髭をさすりながら、馬首を京へと返す。


 秀吉の一隊が再び京への道を歩き始めると、急に彼は眉間に皺を寄せ不機嫌そうに小六の方を振り向いた。

 「それにしても、丹波の光秀殿は何をしているのか」

 秀吉にしてみれば、毛利方の安国寺恵瓊のみならず、京、丹波にまで毛利の忍び衆が潜伏せんぷくしていたことに、多少の腹立たしさを感じていたのである。

 それを今丹波国の攻略に躍起やっきになっている惟任日向守、つまりは明智光秀にかけたのであろう。


 秀吉は堀尾吉晴を呼びつけると、手短に要点だけを語った。

 「これより明智殿の元に行き、『毛利の忍び衆が、丹波の背後を狙っておる』とだけ伝えてまいれ」

 「して、あの一色家の者共のことは如何様に?」

 吉晴は新しい兜を目深に被ると、上目遣いに秀吉を見つめる。

 「あの者共のことは伝えんでよい」

 吐き捨てるように言うと、もう一度あの恵瓊の顔を思い浮かべた。


 「何故、恵瓊は一色家の手助けなんぞしたのか?・・・」

 秀吉はポツリ呟いた。

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