始まりの終わり

 二〇四三年七月二十三日の協定世界時(UTC)午後十時――ドイツはサマータイムの期間なので、二〇四三年七月二十四日の午前零時。


 でっぷりと太った赤ら顔の中年男が、心筋梗塞を起こしそうな顔をしながら、ベルリンの路地裏を懸命に走っていた。

 頭の側面に僅かに残されていた金髪が、汗に濡れて皮膚に張り付いている。血走った碧眼はとうの昔に輝きを失い、ただそこに虚ろな穴のように存在しているだけだったが、それでも今は忙しく周囲を見回すことに使われていた。

 中年男の荒い息と靴音が、人気ひとけのない狭い裏道に響く。それとテンポを合わせるように、笑い声が男の左右から聞こえていた。


 真夜中のベルリンの街角には、幽霊や魔物が実によく似合う。


 必死に逃げる中年男の右側上方から、楽しそうな少年の声がした。

(どうしたんだい、君の本当の力はこの程度のものなのかい。早く僕達から逃げ切らないと大変なことになるよ)

 中年男の左側上方からは、落ち着いた少女の声がした。

(それとも、ここでそろそろ諦めて立ち止まりますか?)

 中年男の足がもつれ、大きく体勢を崩しそうになる。彼は右手を路地の壁につけて、なんとか転ばずに堪えた。

 しかし、それ以上は動くことが出来ず、そのまま立ち止まる。

(なんだ、そんなものだったのか。期待していたほどではなかったな)

 と、今度は左から少年の声。

(そんなにいじめちゃ可哀想だよ。このぐらいにしておかないと)

 と、今度は右から少女の声。

 中年男はとうとう我慢できずに、喘ぐように叫んだ。

「お前達は、一体、何者、なんだ! どうして、俺を、追いかけ、まわす?」

 次の瞬間、少年と少女の笑い声が路地に響き渡る。

(僕のことを忘れたのかい?)

(私のことを忘れてしまったのですか?)

(そんな、ひどいなあ)

(私達は一度も貴方を忘れたことがないのに)

(ちゃんと約束したじゃないか)

(貴方にお会いする時まで、決して諦めませんよと)

 路地の向こう側から二人の足音が聞こえてきた。いや――それは足音というより、馬の蹄鉄のように聞こえる。中年男は壁に背中を押し当て、ずるずると腰を地面に落とした。

 視線の少し先、路地の奥の暗闇の中から足音は中年男に近づいてくる。そして、目の前にある路地と路地の交差点を照らす街灯の下で、実体化した。


 それは身長百六十センチぐらいの少年と、身長百五十センチぐらいの少女――のように見えた。


 もし金属が街灯の明かりを反射して輝いていなかったら、見間違うところだった。

 少年の身体の表面は黒い金属光沢で、少女の身体の表面は白い金属光沢で覆われている。身体の滑らかなラインの違いで、性の判別がついた。

 少年のようなものが中年男に近づいてくる。

 中年男は身体を出来る限り縮め、少年と同じ世界を共有することを避けようとした。中年男のすぐ目の前に立った少年のようなものは、その姿を見つめると小さく笑ってこう言った。

「ははは、まさかこんなにおじさんだとは思わなかったよ。もっと頑丈な、軍人さんのような人かと思っていた。随分探したよ、ラインバッハ」

 名前を呼ばれたラインバッハは身体を大きく震わせる。

 そして、目を見開いて少年のようなものに向かって言った。

「お前、まさかシノンか?」

「やっと気がついたのかい? 随分とつれないなあ、ラインバッハ」

 東雲龍平は、金属製の頭部外装を金属製の掌でつるりと撫でた。

「だから、あの時ちゃんと約束したじゃないか。君を殺すまで僕は絶対に死なないって。まあ、君を殺す前に聞きたいことがあるんだけど――」

 龍平はラインバッハに顔を近づける。ラインバッハは、龍平の顔の表面に浮かんだ自分の歪んだ表情を見つめて、恐怖した。

 龍平はその姿勢のまま、話を続ける。

「ラインバッハ、あの時教えてくれなかった黒幕の正体を、今度こそ僕に教えてくれないかな」

「……」

「申し訳ないけれど、僕は君に黙秘権なんか認める気はないよ」

 龍平は右腕を軽く後ろに引くと、それを無造作にラインバッハの頭の上にある壁に突き出す。拳が壁にめり込んで、破片が盛大に降り注ぎ、ラインバッハの身体は大きく跳ね上がった。

 龍平は拳を引き抜くと、淡々した口調で話を続ける。

「君のおかげで身体が動かなくなってしまったから、僕はこの身体に乗り移らなければならなくなった。まあ、RMMOBで稼いだお金を全部つぎ込んで、兄にこの研究をお願いしてはいたんだけどね。まさか自分まで入るとは思わなかった」

 そこで龍平は、身体を起こして背中を真っ直ぐに伸ばすと、両手を腰に当てた。

「ああ、別にそのことを怒っているわけじゃないよ。彼女と同じ境遇になれたことは、むしろ嬉しい」


 龍平は後ろを振り返る。

 するといつのまにか少女のようなものが、龍平の後ろに立っていた。


「紹介するよ。彼女は僕の幼馴染で、名前はたちばなあおいっていうんだ」

 ラインバッハが怯えた目で言う。

「……だからどうした。お前の幼馴染なんか、俺には関係が――」

「ないわけないよね。彼女がこうなってしまったのは君の責任だよ」

 龍平がラインバッハの話を分断する。

「忘れたなんて言わせないよ。君が『デス・クロ』の一斉メッセージを無視して、最後まで針を突き立て続けたせいで、彼女はこうなってしまったんだからね。そして、僕は、そのことを、絶対に、許さない」

 龍平は最後のほうをわざと区切って言った。

 ラインバッハは両手を前に出して、乱雑に振る。

「分かった、分かった! じゃあ、黒幕の正体を教えてやるから、昔のことはきれいさっぱり忘れてくれよ」

 龍平と葵は何も言わない。

 ラインバッハのほうは恐怖のあまり、言葉が止まらなくなっていた。

「あれは北の独裁者様が思いつきで、国費を盛大に投入して実行に移した軍事的デモンストレーションだよ。日本である必要はなかったけれど、日本が一番襲いやすかったからそうした、と俺は聞いている」

 ラインバッハは腰を起こして、足を地面につけたまま前かがみになる。

「しかも、被害が大きくなり過ぎたもんだから、示威行為として宣伝することも出来なくなって、そのままだんまりを決め込んだんだよ」

 そして、頭を下げると身体を震わせながら言った。 

「それが真相だよ。どうだい、納得がいったかい? 悪いのは北の独裁者様なんだよ。だから復讐するならそっちにしてくれよ。なあ、頼むよう……」

 最後のほうは涙声になっている。

 龍平は腰に両手を当てたまま、頭を振った。

「なんだよ、随分とつまらない真相だな。それじゃあ、どんでんがえしにもなんにもならないじゃないか。まあ、そっちはそっちで、別に責任を取ってもらうとして――」

 龍平は再びラインバッハに顔を近づけた。

「なあ、ラインバッハ。正直に話してくれたのは嬉しいんだけどさ。それはそれとして、僕は彼女の件で君に仕返しがしたいんだけどね」

 龍平のその言葉を聞いたラインバッハは、今度は葵に向かって訴えかけた。

「なあ、君。あの時は本当に悪かった。今は本当に後悔している。その罪を償うために出来ることがあれば、なんでもする。だから、許してくれないか」

 ラインバッハは頭を下げてうずくまる。

 葵はラインバッハの前にゆっくりとしゃがむと、こう言った。

「もう十年も前のことですし、私はあの瞬間、何があったのか全く覚えていません。別にそのことを恨んだりもしていません」

「じゃあ、許してくれるんだな」

「そうですね――」

 葵は立ち上がると、ラインバッハを見下ろして言った。

「――自分のことだけならば。でも、龍平ちゃんをこんな身体にしたことは決して許せません。だから、ちゃんと男らしく覚悟して下さいね」


「へっ?」


 ラインバッハがこの世で発した言葉は、これが最後になる。


( 終わり )

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

RMMOG 阿井上夫 @Aiueo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ