蝉の死と夏

 ミンミン、ジュワジュワ蝉が鳴く。


 桜の木は気付けばその枝から芽吹く色を薄紅から青々とした緑に変えていた。そのせいで他の木の色と紛れて判別がつかなくなり、パッと見ただけでその個体を認識することは難しい。そんなだから今の桜を見て「キレイだ」ともてはやす人はもういない。盛りを過ぎればたくさんある内のひとつに成り下がって、誰も気にもしない。目にも留めない。


 それでもトーゴさんはいつもその下にいた。私が先生のお経のようなお言葉を聞いている時、お弁当の梅干しをつついている時、下敷きで顔をあおいでいる時。大体いつもその下にいて、ぼんやりしたり、たまに私の聖書を読んだりもしていた。


 窓を隔てたトーゴさんは小さい。小指の爪ほどしかない彼を眺めるのがいつからか私の日課、楽しみになっていた。それはあの感覚に似ている。昔、お祭りですくった金魚を連れ帰り、ガラスの鉢に入れてじっと見つめたあの感じ。その一挙一動に目を凝らして、時間を忘れて見つめ続けて。そうしている内に心の中はいで静かになる、あの不思議な感覚。


「どうしていつもここにいるんですか」


 放課後、大きいトーゴさんにそう聞いてみた。出会ってからというもの、私とトーゴさんはほとんど毎日のように言葉を交わしている。


「校庭にいてもつまらなくないですか。見るものも、することもないでしょう」


 トーゴさんは私の言葉にまず目を丸くして、それからハハハと笑った。春よりもコントラストが強くなった木漏れ日の下、その体は光に射された部分だけ透けてまだらになっていた。


「何もすることがないって君が思うほど悪いもんじゃない。いろんなことを考えられてさ。僕は死んでからの方が僕自身のことをよく知れたと思うよ……やっぱり体が透明だから、中もよく見えるのかな」


 トーゴさんはそうおどけた調子で言って、右手をわざと葉の影が重ならない部分、漏れた光の中に差し込む。眩しい光の中、確かにそこにあったはずの手の形が細かなほこりのようなものになってシュワシュワと溶けていく。それを見せられた私の心臓は不謹慎にもひどく高鳴っていた。人が消える様を、キレイって思ってしまったんだ。トーゴさんはそんな私をじっと見つめてから、笑う。ハハハって、肯定も否定もしない、いつもの乾いた声で。それから手を元の位置に、光から救って口を開いた。


「でもね、たまに冒険してみることもあるんだ」

「ボウケン」

「うん、ボウケン」


 トーゴさんはそう言って、ふっと私の前を横切る。そして桜の影のギリギリのところ、そこまで行って立ち止まった。薄く向こう側が透けて見える背中から、ふう、と息を吐く音が聞こえた。


「あっ」


 思わず私は声を漏らした。トーゴさんは影の境界を飛び超え、日差しの下に見えない足を踏み込んだのだ。光に触れた所からその体は例によって溶け、キラキラ、埃となったトーゴさんは光を反射してから徐々に消えていく。私は慌てて、最後に影の中へ残ったトーゴさんの左腕に手を伸ばす。けれど、掴もうとしたそれは手応えも無しにすり抜けて、また光の中へ消えていった。


 ついにいなくなってしまうのか。そう思った時、トーゴさんの姿はまた現れた。桜から少し離れた所、そこにある木の下の影に包まれ、元の人の形を取り戻していた。


「"求めなさい、すれば、与えられる"だからね」


 その姿を呆然と見つめる私に、もしくは自分自身のためにそう口にして、トーゴさんは再び笑う。


「一緒に行く?」


 そうやって、何でもないように笑っているトーゴさん。私はその時、彼を初めて怖いと思った。



「光の下でも存在が無くなる訳ではないんだ、ただ目に見えなくなるだけで」


 影から影へと上手に渡り歩きながらトーゴさんは言った。


「なんでそんなこと分かったんですか。もしかしたら消えちゃうかもとか思わなかったんですか」

「うん、でももう何度か試してはいたからさ」

「その最初に試した時に消えちゃってたらどうするつもりだったんですか。私にも、誰にも気付かれずに居なくなっちゃうんですよ」

「……ん?もしかして怒ってる?」

「もう、知りません」


 私がそう言うとトーゴさんは笑った。ハハハって大きな声で。こうやって歩いている間にもトーゴさんの体は影と光を行き来して、消えたり、戻ったりを繰り返している。私はその様子にどぎまぎしながら、影と影の隙間、光が射す部分に自分の影を重ねるようにして歩いた。


「えらいえらい」


 二人ともが影に入ると、トーゴさんは私の努力を知ってか、それともむくれた私の機嫌を取り戻すためか、たまにそう言って私の頭を撫でた。トーゴさんの手は温度がないから、風に優しく吹かれているようだった。決して悪い気はしない。けれど、何だかむず痒くって、私は誤魔化すように瞬きを繰り返した。


 トーゴさんが入って行ったのは遊具が 2、3個置いてある、公園と呼ぶのはおこがましいような小さな遊び場だった。


「木がたくさんあるからいいでしょ。その分虫も多いけどね」


 確かにトーゴさんの言う通り、そこにはたくさんの生き物の気配がした。足を進めると落ち葉の間からバッタが飛び出すし、蝉の声は一段とうるさく聞こえる。


「子供の頃はよくここに来て遊んだんだ。虫採ったり、逆上がりの練習したり……そこのブランコには大人になってもたまに乗りに来てたよ」

「この辺に住んでたんですか?」

「うん、君の頃の歳はね。大人になったら一人でここから離れて暮らしてたんだ。それで実家に帰った時にたまにここにも来てさ、ブランコ漕いでたんだよ」


 懐かしいな。そう呟き、トーゴさんは木陰を通ってブランコまで進んだ。私もその後を追って、すこし土っぽい座面に腰掛けるトーゴさんを見守る。遊具全体に木の影が被さっていて、私はひとり、ほっとため息をついた。トーゴさんはそんな私に気付いてか常より少し口角を上げていた。そして錆びた鎖に指を巻き、体を前後に揺らしてブランコを漕ごうとする。けれど、足も体重もないトーゴさんではそれは風に吹かれる程度しか揺れなくて。私はその時のトーゴさんの表情の変化に目敏めざとくも気付いてしまった。


「トーゴさん、私も入れて」


 私は返事も聞かず、ブランコの座面へトーゴさんを挟むように両足を乗せる。そして膝を折り、伸ばし、ブランコを大きく揺らした。小さい頃によくした、2人乗りみたいなイメージで。でも、その重みは確実に私ひとりだけのものだった。


 軽すぎるブランコを揺らせば、木陰から点々と漏れる光がトーゴさんの体をなぞる。その動きに合わせ、水玉模様に欠けるトーゴさん。いつもの笑顔はそこになく、ぼんやりと前のあたりを焦点の合わない目で映していた。心が抜け落ちたようなあの目。話す前の、名前も知らなかった頃のトーゴさんに戻ってしまったようだった。


「トーゴさん」


 だから思わず声が出た。話す内容の用意なんて何もなかった。ただ、トーゴさんに戻ってきてほしくって。


 トーゴさんは黙ったまま、顔を上げて私を見た。無表情だった顔にやっと笑みが浮かぶ。その笑顔は整っていてとても綺麗だった。けれど、その分、何だか嘘っぽく感じてしまった。心配しないで。大丈夫。そんな声が聞こえてきそうな笑顔だった。


 私を気遣っての表情だってことはすぐに分かった。だからこそ、私は酷く傷付いた。私はまだ、トーゴさんにとって気を遣われるような距離にしか居ないんだ。そう思った。


 口を閉じた私たちは静かだった。けれど、ブランコの鎖が、そこかしこにいる蝉が、各々好き勝手に音を出して私たちの静寂を消した。


 私は蝉を見ていた。揺れるブランコのせいで上下する景色の中、ただ近くの木に止まる蝉だけを見ていた。ジージーけたたましく鳴く蝉の体は茶色く、じっと見ているとグロテスクに感じる。けれどトーゴさんのキレイな笑顔を見るよりも数段気持ちが楽だった。気付けば私は蝉の声に合わせてブランコを漕いでいた。ジー、ギー、ジー、ギー、蝉の声と鎖が軋む音が交互に聞こえる。


「あ」


 思わず声が漏れた。


「どうしたの」


 トーゴさんは私の声にすぐに反応して、そう呼びかけてくれた。けれど私はしばらく声を発せられなかった。言葉が喉にひっかかって出てこなかった。だから、代わりに指を差した。指の先では、蝉が腹を向けて地面に転がっていた。


「死んでる」


 ぽつり、とトーゴさんが小さく、けれどはっきりと呟く。私はその声になんだかぞっとした。足を止めて漕ぐのをやめてもまだ小さく揺れるブランコから飛び降り、トーゴさんは見えない足で私が指差した方へと向かっていく。だから私も体に走った悪寒に気づかない振りして、ブランコを止めてトーゴさんの側へと移動した。


 私たちは立ったまま、蝉の腹を見下ろしていた。近くで見たそれはやはりグロテスクで、体がぞわりと震えた。けれど、私は蝉から目を離せずにいた。さっきまで一緒に生きて、けたたましく音を鳴らしていたはずのもの。それが一瞬で動かなくなった。不思議な気持ちだった。


「トーゴさん」


 私の呼びかけにトーゴさんは「ん?」とすこしだけ口角を上げてこちらを見た。


「死んだ時、怖かった?」


 私の言葉に一瞬驚いたような顔をして、それからすぐにハハハとトーゴさんは笑った。


「……僕はね、痛いとか怖いとか思う暇もなかったんだ。気付いたら死んでた。テレビってさ、深夜までずっと点けてると急に何も流さなくなる時があるでしょ。死んだ瞬間はあんな感じだった。急に何も無くなって、次に来ると当たり前に思ってたことが、こない」


 私はトーゴさんの話を聞きながら、頭の中では蝉が死んだ瞬間が何度も何度も鮮明な映像で蘇っていた。動いていた時とそうじゃなくなった時、その差は何もなかった。周りになんの変化もない中で、突然生き物がただのモノになった。ぽとり、と落ちていった。私が見守る中、急に、落ちていったんだ。私は生き物が命を絶った瞬間を、見た。静かだった。あっけなかった。なんだかとても、無力だった。反芻するたびにじわじわと怖くなった。体がゆっくり、冷えていった。それがトーゴさんにも起こったのだと考えると、心臓がキュっと縮こまった。


「怖いのは、今の方が怖いかもね。終わり方を知ってるから。急に全てがなくなることがあるって知ってしまったから、それがまたいつ起こっても不思議じゃない存在って知ってしまったから……」


 そう言葉を発するトーゴさんは笑っていた。笑っていたけれど、なんだか私はその表情が寂しくって泣きそうになった。聞いちゃいけないことを聞いたのかもしれないって思った。トーゴさんに辛い思いをさせてしまったような気がした。


 トーゴさんはそんな私を見て、ハハハといつものように笑った。笑って、私の頭を撫でた。小さな子どもをあやすような、慰めるような、そんな手付きだった。


「君は素直だね」


 そう言って、トーゴさんは私の目をじっと見た。


 しばらくの間、トーゴさんは黙ったまま私を見つづけた。その表情にいつの間にか笑顔はなくなっていた。細められていないトーゴさんの目。その何の飾りもない瞳に見つめられるのはとても心臓に悪くて、怖かった。


「"体のともし火は目である"」


 ふっと、息を吐くようにトーゴさんは言った。


「"目が澄んでいればあなたの全身が明るいが、濁っていれば全身が暗い"」


 トーゴさんは私を真っ直ぐ見ていた。本当に真っ直ぐだったから、私は石になって動けなくなる。


「聖書ですね」


 私の口からやっと出た言葉はそんなつまらないものだった。


「うん、聖書」


 トーゴさんは頷いた。


「……僕は君の目が少し怖い」


 え、と思わず声が漏れる。トーゴさんは戸惑う私を見て、やっと少しだけ笑った。


「恐怖は嫌悪からくるものだけじゃないんだよ。神も、仏も、尊い物は恐れられる。君の目には光がある。明るくて澄んだ目だ」


 だから。トーゴさんは続ける。


「僕はそれらと同じくらい、君の目が怖い」


 私の目。トーゴさんの目。


 私はじっとトーゴさんの目を見つめてみた。その目が何かに似ていると思った。ジージージージー、どこかで蝉が鳴く声が聞こえた。それで、気付く。思い出す。


 私たちの足元、腹を向けて転がる蝉の目。それは、似ていた。トーゴさんに、似ていた。

 


 

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