廿弐

 事務所から入居している人たちの棟には、少し外へでる渡り廊下のような場所がある。今時のデザインには雨風にさらされるこのような建屋のつなぎ方はしないのだけれど、これはこれで風情があったりする。

 厨房はその廊下を通り、入居者の棟に入ったすぐの場所にある。もちろん、その棟の正面玄関というものは存在しているので、お勝手口のようなことになるのだろう。僕らは、厨房のドアをノックしてから開けるが、そこには誰の姿もなかった。流しには、ちょっと前まで洗い物をしていたであろう形跡があり、きっちりと片付けられて清潔感が漂っていた。流し自体はかなり年季が入っている感じであるがとても手入れが行き届いている。しっかりとした人が使っているのだろう。

「恵さん、誰も居ないですね。」

「そうみたいねぇ……。藪さん、テキパキしているから遅かったかな。」

「どうしましょう。その藪さんという人を探しに行くか、お部屋に行きましょうか?」

「どうしようかな……。基本的にはこの入居者の建物は住んでいる人から部屋に来て、と言われない限り勝手に入らない約束になってるの。家族とか来てほしい人がいたら、山木さんや伊里中先生の許可証をもらってそれぞれのお部屋に行くの。ほら、セキュリティ上の問題もあるし、自由気ままに過ごして欲しいという意向を尊重しているから。」

「そうですか。残念だな。多分、恵さん帰っちゃったら山木さんたちは忙しいし、誰が誰だかわかんないだろうな。」

 恵さんはしばらく頬に手を当てて考えていた。

「それじゃぁ、藪さんに合うかもしれないし、外の畑とか回ってみようか?」

 僕はその提案に乗ることにした。正直、一人で勝手気ままに生きてきた一人暮らしとは違い、一人の空間はあるけれどみんなに溶け込まないと仕事にならない、という不安があった。勝手に仕事を決めてきた恵さんには癪な気持ちがあるが、それでもとても頼りにしているし、彼女の力がなければ僕はどんな生き方をしていたのだろうな、と感じる。

 畑は、割と適当な感じで仕切られており、畑の区域の大きなくくりだけだ動物からの被害を抑えるため高い柵で囲われていた。

 遠くに3人の人の姿が見える。僕らかその人たちの方へ向かって歩みを進めた。

 予想以上にに建物から遠い場所に居たので、僕は途中で汗だらけになったが恵さんはへっちゃらな顔をしていた。多分、とっても鍛えているのだろう……。

 僕は少し自分の体力の無さを恥じた。

「おっ、恵ちゃんじゃないか!」

「こんにちわ。ご無沙汰しています。」

 恵さんは礼儀の正しいバージョンでしっかりと彼らに挨拶をした。

「今日は新しい職員を紹介しに来ました。」

「あ、もしかして機械いじりをメインにする何でも屋さんのことかい?」

 ……機械いじりをする何でも屋。

 その表現に不吉な予感を感じたが、僕は丁寧に挨拶をした。

「まだ、色々とまごついているんですけど仰るとおりできることを頑張りたいと思いますのでよろしくお願いします。」

「いーよ、いーよ、そんなに固くならなくても。とっくに先生たちから聞いているからさ。」

 青い泥だらけのつなぎを着た、年の頃40〜50歳であろう彼は気さくな笑顔でそう言ってくれた。

「この方、城島さんね。主にここでは、野菜を中心に農業指導をしているの。」

「そんなところだなー。病気になる前は結構手広くいろんな作物を作っていたんだけど、なかなか自分の体が動かなくてな。今は若い人に技術を残そうと思って奮闘してるところさ。」

 そして、この城島さんについて二人の若者がいた。ふたりとも30歳には届いていないだろうか?

「こちらが、三島さんと不動さんね。」

 あ、どうも、という感じで二人は一緒にお辞儀をした。僕も釣られて、どうもという簡単な挨拶になってしまった。

「こいつら若くて体力があるから、なかなか筋がいいんだよ。若いっていいね。すぐに覚えてくれる。ジジイはなかなか物覚え悪くてね。」

 そう言うと、おどけた顔をして二人を見つめ、彼らも硬いながらも一緒に笑った。

「そうだ、あなたはパソコンとか、インターネットについて詳しいんですよね?」

 三島くんが目をキラキラさせて僕に尋ねる。

「一応その手の仕事をしていたから、大抵のことはわかるんだけど。……何かしたいことでもあるのかな。」

「なかなかここだと外界から遮断されているので、暇なんですよ。たまに移動図書館が回ってきてくれるので読書くらいはするんですが、なんだか脳みそ劣化していきそうで怖いです。」

 三島くんも屈託の無い笑顔で笑いながらそういった。

「そうかぁ。じゃぁインターネットから始めるといいかもね。パソコンとか持っているのかな?」

「そんなハイカラなもの、ここには無いに決まってんじゃねぇか。こいつも、ネットに興味があるとか言って、どうせいやらしい写真とか動画を見たいんだよな?」

 三島くんは顔を赤くして、やめてくださいよ、恵さんのいる前で、と城島さんを睨んだ。それを見て、不動くんも一緒になって笑った。とても良いコミュニケーション空間と思った。

「そうかぁ。まずは、機械の調達から始めないといけないのか。」

 インストラクターの仕事なら簡単にできそうだったが、ゼロベースでパソコンから調達して環境を作っていくのは、なかなかに骨が折れそうだった。

「ここに来る前はスマホを使っていたんですけど、こんな田舎だと電波が弱くて速度が遅いどころか、繋がるか繋がらないかという有様なんです。幸い、通話だけはしっかり出来ますけど。」

 貧富の差というものは認識していたけれど、今まで都会に住んでいるとこのような地域の格差というのも大きな問題として立ちふさがっているんだ。仕方なく都会に出稼ぎに来ても搾取されるような賃金で、食寝だけの生活になると確かに心が病んでいって、捨て鉢になるのだろう。はじめにリヴィング・ウィルの概念を出したのは、名前も無きネットの住人と言われている。生活は苦しい。将来に希望は無い。でも生きていかないといけないがいい加減うんざりしている。でも、倫理的に自殺は怖い。だから政府は合法的に自らを抹消してくれる安楽死所を作れ、みたいな論調だった。そうした意見の極論の中には、災害を望んだり、戦争が起きてほしかったり、どうしてそんな風に考えるのだ? という意見も少なくはなかったのだ。

 しかし、国際社会の中で国の体裁を保たなくてはいけないからそんなことできるはずもない。若者の退廃的な意見は、投票率の低さとあいまって「少数意見」として切り捨てられてきたものだ。甘えとか、情けないとか、気概が無いなど経済的身体的弱者ばかりしわ寄せが来ていた。

 そこに目をつけたのが、パナマ文書のリークによって世間が富を持つものに厳しい視線を向けたその後の首相の政策だった。

 法的には合法であるが、倫理的に非難を浴びた富裕層はそもそもの拠点を海外にしてしまった。タックスヘイブンは世界的な非難により、従来のペーパーカンパニーと匿名性を維持することができなくなったが、自由な永住権というものを与える手段に出た。このことにより、国内で生産された利益はそのままタックスヘイブンに住む者に流れ、より一層歳入の低下を招いた。当然、世論の厳しい意見があったら、大資本に勝てるほどの力は無いのだ。

 苦肉の策として出されたのは、タックスヘイブンから呼び戻すための密約ともいうべきリヴィング・ウィル法であった、と情報筋は言う。

 将来戻ってくるはずのない年金や利用していない健康保険や税金など払いたくないという独りよがりな考え、あるいはその財力が無いものを解放し、団塊の世代が居なくなり超高齢化社会が解消するまでのしわ寄せとして、若者だけでなく生活困難者にもしわを寄せ、票田の多い段階層の指示を得て政治家は地位を盤石なものとし、更に富めるものは従来に比べて圧倒的に税負担が減る。さらに、タックスヘイブンも使わないほど低い税率なので、むしろ日本がタックスヘイブン化しているメリットを享受した。

 圧倒的に、弱いものを肥料にして出来上がる果実をおいしく頂くための緻密な制度だった。しかも、若者には

「将来高齢化社会が改善した時には、従来の福祉大国に戻す。」

 そんなふうなスローガンが流され、具体的なビジョンや大綱すら存在しない口約束で騙し続けている。

 根が深いのだ。どのようにして、この最後の希望の家と呼ばれる場所に本当に文化的に主張を通せる環境を作れるのか? 僕は、静かに頭のなかでそんなことを考えていた。

 

 その後、彼らのところを離れ、しばらく当たりを見回したが誰も居ないので、再び事務所に戻ることにした。時間を見ると昼の2時であり。そろそろ母のことも気にかけないと行けないな、と思ったところだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リヴィング・ウィル法 中崎 ぱけを @paquepakeo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ