仮想世界の彼方

栗戸詩紘

プロローグ 仮想世界のハード

 少女は森のなかに生きていた。言語を話す事は出来ず、ただ動物たちと、化け物たちと共存していた。


 少女は服を着ていなかった。しかし、少女はそのことに恥じらいを覚えることはなかった。それは膨らみかけの胸を見せる相手はいないかったし、それを気に留める相手もいなかったからだった。そもそも、少女の中に服という概念はなかった。


 少女の髪はその森に植生していた樹木の葉を使って切られていた。その葉はよく切ることが出来るものだったが、少女に散髪の技術があったわけではないので、乱雑に肩ほどの長さにまで切られていた。しかし、少女はそのことを気にしたことはなかった。森のなかに鏡はなかったし、少女の髪型を評価するヒトもいなかった。少女にとって、髪とは邪魔なものでしか無かった。


 少女はヒトを見たことがあった。その時、少女は十メートルほどの高さの木の上でその日の夕飯を探していた。視界に兎でも現れれば、それを捕まえ、焼いて食べる。これが少女の毎日だった。


 しかし、その日、少女の眼下にいたのは兎でも鹿でもなく、化物だった。獣の顔をした二足歩行のそれは、薬草臭い臭いを辺りに蔓延させながら少女の眼下を徘徊していた。少女は様々なモノを食べてきたが、化物を食べようと思ったことはなかった。化物は様々な形していたが、どれも彼もが薬草の臭いを持っていて。少女はそれに対して生理的な嫌悪感をもっていた。


 そんな化物の前に、一人の少年が現れた。少年は服を着ていて、整った黒い髪、少女とは正反対だった。


 少女は初めて見る同類ヒトに恐怖を抱いた。少女は益々、木の上から降りることができなくなった。


 少年は化物に向かってゆっくりと近づいていった。少年の呼吸は静かだったが、化物は「あぁぅぁぅ......」と呻いていた。やがて少年が化物の間合いに入ると、弾かれた様に化物が勢いよく動いた。化物の両手は、少年の細く白い首を掴み、その少年の体を五センチほど浮かせた。少女は少年の死を確信した。


 化物は二、三十秒の間、少年の首を締め続けた。そして、少年が死んだと判断すると、両手を離して、少年の体を地面に落とした。ドサリ、という音がした。


 少女は怖くなった。自分もそうされてしまうのでは? と本能が警告していた。しかし、少女のいる場所は地上十メートルで、とても逃げ出せそうにはなかった。化物をやり過ごせないかと、少女は祈った。


 化物は少年の死体をしばらく見下ろしていた。化物は何か気になったのか、時少年の死体を足で突いたり、蹴ったりした。しかし、やがてそれにも飽きたのか、化物は少年の喉に、大きく裂けた口を近づけていった。


 化物の口が少年の喉まで後十センチというところになって、少年がの頭がムクリと起き上がり、化物の顔面に頭突きを食らわせた。少女は死んだと思った少年が動き出したことに驚いて、ヒッ、という声を漏らした。


 化物は頭突きにやられて、一歩だけ後退した。少年は今だ、というように勢いよく起き上がり、そのまま化物の顔面めがけて蹴りを飛ばした。その蹴りは化物の肉に食い込んだが、化物はそれを気にすること無く、少年の足を掴んだ。


 少女には聞こえなかったが、化物があまりにも強く少年の足を握ったため、メシメシと骨が軋む音がしていた。少年が、痛い痛い痛い、と苦しむ声は少女にも聞こえた。


 やがて、少年の足がグきりと妙な方向に曲がった。少年は痛みのあまり、短い絶叫をした。


 少女はその様子が見ていられなくなった。助けなくては、そう思った。しかし、少女には化物と戦うだけの技能も、力もなかった。


 しかし、その「助けなくては」という少女の思いは一つの現象となって現れた。少年の足を握り続ける化物の手に向かって、少女が普段、髪を切るのに使っていた樹木の葉が殺到した。黒く輝くその葉が、一点へと向けって行く様子は、コウモリの群れのように見えた。


 化物はあまりの痛みに耐えかねたのか、少年の足から手を離した。それと同時に、黒い葉は行く宛もなく地面に落ちた。少女はその様子を呆然と眺めていた。願いがかなった? 少女はそう思った。


 少年は化物に潰された足を引きずりながら、再び化物と向かい合った。少女にはこの少年が無事にいられるとは少しも思えなかったから、祈った。あの化物を殺してくれ、と。


 すると、化物の横に立っていた高さ十五メートルほどの大木が、化物の頭上めがけて倒れていった。そして、化物は地面と大木の間に挟まれて、動き出すことは無かった。


 少年が辺りを見回した。何が起こったのだろう、そう言いたげな様子だった。少女もまた、何が起こったの理解することが出来なかった。


 少年は辺りをしばらく見回した後に、「だれかいませんか?」と言った。少女にはその声が意味するモノを理解することが出来た。思い出すかの様に少年の言葉を理解した。


「いるよー!ここに」少女が掠れた声でそういった。少女はヒトの言葉を聞くのは今日が初めてだったが、何を言えばよいかは少女の記憶が教えてくれた。少女はそのことを不思議に思ったが、特に気にすることはなかった。


 その声に気が付いたのか、少年が少女の方を見た。少女は少年と目があった事を感じて、手を振った。


 少年は一瞬、迷ったような表情をした後、少女の方へと歩き始めた。少女は、足を潰されたはずの少年が歩き始めた違和感に気づかなかった。少女も少年の方に行くために木から降りていった。


「あなた、どうして服を着ていないのですか?」少年が言った。


「何か問題でも?」少女が言った。


 少年は視線を左右に泳がせて、ため息混じりに「僕はね、プローディギウムの都合で、そういう欲求なんてないから良かったですけど、普通のヒトだったら危険でしたよ」と言った。プローディギウムとはなんだろう、と少女は思ったが、あえて聞くようなことはしなかった。


「でも、私は服なんて持っていない。どうしようもないじゃないか」少女が目を剥いた。


 少年は顎を右手の親指と、人差し指の第二関節で挟んだ。そしてしばらく黙った後に、「ちょっと待ってて」と言って、木々の奥へと消えていった。そこで少女はようやく、さっき潰されたはずの少年の足が、元通りになっていたことに気がついた。


 少女はそれから五分ほど待たされる事になった。その五分間は、少女にとって永遠にすら感じられた。少年がそのまま消えてしまうのでは、と不安で仕方なかった。


 戻ってきた少年はリュックサックを背負っていた。それを地面にぞんざいに落として、幾つかの袋を引っ張りだした。地面に散らかったそれらの中から、一つを少女の方に投げた。


「その中に服が入っていますから、着てください。まぁ、僕のですけど」少年が散らかった袋をリュックサックに詰めながらそう言った。 


 少女がぎこちない動作でそれらの服に着替え終わることには、少年も散らかった袋をだいたい整理し終わっていた。


「さっきはありがとう。助けてくれたんでしょ?」と少年が言った。


「まぁ、どういたしまして。私も必死でどうやったかは分からなかったんだけどね。お願いしたら、木が化物を押しつぶしてくれたのよ」


 ところで、と少年は言った。「君の名前は?」


 少女は名前を聞かれることで、名前を思い出した。言葉を思い出した時のように、あっさりと。


 私は、亜夢叶あむと梨絵......亜夢叶、梨絵よ」


 そう、と言って少年は梨絵に手を差し出した。「僕は徹。風夢徹。よろしくね」


 

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