エピローグ

[35]

 本条は東京文化会館のロビーを足早に横切った。

 ホール横の分厚い扉をそっと押した瞬間、照明を落としたホールの中にヴァイオリンの静かなざわめきに続いて、チェロが奏でる朗々とした旋律が流れていた。J・S・バッハの「管弦楽組曲第3番」だった。開演には、わずかに間に合わなかった。

 本条は腰を屈める。息を止めるようにして着席している人々の前を通り、自分の席に着いた。急いで駆けつけたため、胸の動悸がなかなか収まらなかった。

 尖閣諸島沖における阻止哨戒任務からすでに、1週間が経っていた。横須賀に帰投した「ひりゅう」は第5バースに係留されたままだった。マスコミからの取材を抑えるため、「ひりゅう」は沖田艦長以下、乗組員は謹慎処分。乗組員たちは複雑な思いを抱いた。

 謹慎中の悶々とした勤務の中、本条は情報保全隊の伊東と会った。自ら横須賀に来た伊東が切り出したのは、行方不明になった伍代に関することだった。

「米軍基地の情報班から、情報提供があった。中国大使館の電話記録だ。伍代が成田から出発する当日、大使館に神保町の東栄貿易公司・・・これは国家安全部の息がかかった企業なんだが、ここから電話が入ってる。メッセージは『《ハイネ》が発送された』という内容だった」

「《ハイネ》、ですか?」

「日本で活動していると思われる、スリーパーのコードネームだ。最初に、我々の前に出現したのは8年前のことだ」

「あなた方は、真田をモグラだと疑ったんですね」

 伊東は力なくうなづいた。

「真田が退学してからも、機密の漏洩は続いていた。本当のスパイは伍代だった」

 スパイとなった理由など、本人に聞かなければ一生分からないことだろう。何よりも異様だと思ったのは、自衛官になる際は何重にも思想背景を調査され、なおかつ機密の漏洩が続いていながら結局はスパイを特定できなかった事実のほうだった。

 胸に空虚な想いが広がっていた。本条はコンサートに足を運んだ。

 ようやく息も整った本条は舞台をまっすぐ見つめた。絃楽器の中、指揮者のタクトに合わせて、左右に体を揺らしながら奏でている花菱葵の姿に吸い寄せられた。

 最後の曲が終わる。ホールを埋め尽くした聴衆から万雷の拍手が沸き起こった。本条は立ち去りがたい思いに駆られ、しばらく熱気に包まれた聴衆の中に身を置いていた。重い腰を上げた時にはホールの人影は少なかった。ロビーに出る。

「失礼ですが、1階席で遅れて来た方ですか?」

 胸に係員のリボンを付けた若い男が本条の濃紺のジャケットを見確かめるように声をかけてきた。

「そうですが・・・」

「チェリストの花菱から、メッセージを言付かっています」

 係員はロゴ入りのメモ用紙を手渡した後、慌ただしくその場を去って行った。彼女には何も連絡していないのに。不審な思いで二つ折りの用紙を開いた。

『ようこそ、楽屋においで下さいませんか』

 走り書きだが、きれいな文字だった。気持ちの整理がつかないまま、混んだ通路を人とぶつかりながら、楽屋まで歩いた。入口で来意を告げる。黒いブラウスにロングスカート姿の葵が、すぐに姿を現した。

「聴きに来て下さって、有難うございます。この後、お時間はあります?」

 演奏後の高揚した表情だった。

「でも、どうしてぼくが来ていることを・・・」

「遅れて入って来られたでしょう?舞台からだと、よく見えるんです」葵が微笑む。「せっかく来て下さったんですから、少しお話したいです」

 本条はきっぱり言った。

「胸のうちを全部、話せたら、少しは楽になるかも知れませんが、今はできません」

 葵のほっそりとした手が伸び、本条の手に重なった。

「私は本条さんが答えを出すのを、待っています」

 思いがけない言葉だった。堪えていたもので眼頭がぐっと熱くなる。本条は冷たい葵の指先を思わず両手に包み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迎撃海域 伊藤 薫 @tayki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ