明日世界が終わるなら

ギルバ

明日世界が終わるなら

 ドアを激しく殴りつける音が、何度も部屋を震わせる。

 微塵の加減も躊躇も無く、自分の体がどうなろうとお構い無しとでもいう程強い力で、全力で部屋に押し入ろうとしている。

 その小爆発のような音に混じって聞こえてくるのは、まるで獣のような低く恐ろしい呻きと叫び。

 しかしそれは、本当の獣の物ではない。

 人間、いや——かつて人間だった者の、魂無き声。

 そして奴らが求めているのは、生ある者の新鮮な血肉。動物が持つ最も原始的な本能、つまりは食欲によってのみ突き動かされ、奴らは行動しているのだ。

 もはや人間だった頃の面影などどこにも無い。例え、目の前に五十口径のライフルを突きつけられていたとしても、奴らは微塵の恐怖も躊躇も感じず、飢えを満たすためだけに真っ直ぐ向かってくる。

 そんな獰猛で無慈悲な殺戮マシーンが今、群れを成してこの部屋に侵入しようとしている。ドアの前に大量に物を置いてバリケードを作ったが、それも決して長くは持たないだろう。

 だが、他に行く場所など無い。この部屋からの逃げ道も、この絶体絶命の危機を回避する策も、何一つ無い。


 これまで必死に足掻いてきたが——もはやこれまでだ。


「パパ……」

 ついに目前に迫った死を悟ったのか、娘は私の腕の中で消え入りそうな声を上げた。

「……アビー」

 娘の名前を呼び、そっと抱きしめる。

 アビー、私の愛する娘。

 今日まで文字通り死ぬ気で守り抜いてきた、私の宝。私の命。この救いの無い世界に残された、私のたった一つの希望。

 できればいつか再び訪れるかもしれない平和な日まで、ずっと彼女の傍にいてやりたかった。大事な娘の成長を、この目で見届けてやりたかった。

 だが、おそらくそれは叶わないだろう。


 どうやらここが、私達の旅の終着点になりそうだ。



* * *



 三ヶ月前、突如として世界の秩序と平和は崩壊し、終焉を迎えた。

 ウイルステロか寄生虫による仕業か、はたまた宇宙人の侵略行為か。世間はたちまち大パニックに陥ったが、何が原因かなどどうでもいい。


 とにかくあの日、なんの予兆もなく——世界は未曾有の混沌に叩き落とされたのだ。


 人々はあらゆる理性も感情も、人間としての誇りも失い。

 腐りかけの体を引きずり、ただ獣のように人を襲い、血肉を喰らい、死体を貪るようになった。さらにはそうなった人間に噛まれた者達も、数時間後には死亡し、奴らと同じ姿になるようになってしまった。

 それはまさに、魂の抜けた亡者——屍人(ゾンビ)と呼ぶに相応しかった。

 初めは何かの冗談かと思った。街中にいて、周りで叫び声が聞こえてきても、大がかりな映画の撮影でも始まったのかと思って、さして気にもしなかった。

 だが、私や私の家族を心配してやってきた親戚の叔母が、彼女の背後から飛びかかってきた奴らに首の肉を食い千切られ、アスファルトが真っ赤に染まったのを目の当たりにして、ようやくこれが現実の出来事なのだと理解した。

 それから急いで家に帰り、家族を連れて全力で逃げている間にも、視界に入るたくさんの人が理不尽に命を奪われていった。

 警察や軍隊も、所詮生きた人間への対処法しか身につけていない組織。彼らも我々一般市民と同じように、人の姿をした怪物達にただ恐れ慄き、満足に力を振るう事もできないまま、無惨に殺されていくだけだった。

 あちこちから火の手が上がり、銃声が鳴り、爆発が起き、絶叫じみた悲鳴が耳をつんざき、どこへ逃げようとも血の臭いと腐乱臭が鼻を刺激し、みるみるうちに黒く染まっていく空が、絶望を彩るように下界を暗黒で覆っていく——

 ラジオやニュースでは“かつてない同時多発的暴動事件”などと表現されていたが、そんな生易しいものなんかじゃない。


 あの光景はまさに、悪夢そのものだった。


 かくして奴らは、その異常とも言える増殖力で一週間と経たずに地上を同族で埋め尽くし、この世を文字通りの地獄に作り変えたのだ。

 我々は成す術もなく、その阿鼻叫喚の渦中に飲み込まれるしかなかった。

 それでも私と、娘のアビゲイル——アビーは、どうにか今日まで生き延びてこれた。

 もちろん、簡単な話ではなかった。

 その気になれば救えたかもしれないいくつもの命を断腸の思いで見捨て、襲いかかってくる奴らを何十匹と殺し、物資にたかろうとすり寄ってくる人間でさえも、必要とあらば殺してきた。

 殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して——殺すという行為の重みさえわからなくなる程に、ただひたすら殺しまくった。

 全ては、愛する妻と娘のため。

 余計な感情を捨て、世界を敵に回す覚悟で、命を懸けて二人を守ってきた。



 だがついには、その妻さえも、この手にかける事となった。



 私のミスだ。

 物資確保のために侵入したデパートで、おもちゃ売り場からアビーのためにぬいぐるみを持って行こうと思い、何にしようか悩んでいた時。

 背後から忍び寄る奴らの気配に——全く気づかなかった。

 妻はそんな私を庇い、腕を噛まれたのだ。

 己の軽率さを強く恥じた。事前に入念に安全を確認していればと、周りに注意を払っていればと何度も後悔した。


 何故私ではなく妻なんだと、運命を激しく呪った。


 この感染症に治療法は無い。少しでも体のどこかを噛まれた者は、ほんの数時間足らずで例外なく奴らと同じ姿に変わり果て、本能のままに人を襲うようになる。

 そんな事態を、これまで数え切れない程目にしてきた。

 愛する妻があんな知性の欠片も感じられない醜い存在になるなんて、今まで彼女と過ごしてきた思い出の全てがあんな汚らわしい物に塗り潰されるなんて、とてもではないが耐えられなかった。彼女自身も、人間として死にたいと言って、私に銃を渡してきた。


 だから、殺すしかなかった。


 私にとっての、世界に残った僅かな希望の一つを、自らの手で葬るしかなかった。

 撃たれる直前に、アビーをお願い、と大粒の涙を流しながら懇願し、安らかな眠りに就いた彼女の顔が、今でも忘れられない。


 それが、ちょうど一週間前の出来事。


 残された私とアビーは、最愛の人を失った痛みと悲しみさえも糧にして、今日まで懸命に生きてきた。

 だが、もう無理だ。

 もう、限界だ。


 この先を生きていくには、この世界はあまりにも希望が少なすぎる。


 あまりにも、絶望が深すぎる。



* * *



「パパ……私達、死んじゃうの……?」

 私の腕の中の天使が、弱々しく問う。ドアを突き破らんとする轟音は、絶えず部屋を響かせている。

 そうだ。

 この子の言う通り、もうじき私達は、死ぬ。

 『大丈夫、パパがついているからね』『何も心配はいらないよ』——そんなありふれた安っぽい言葉で、これまで何度もアビーを元気付けてきた。同時に自分自身も奮い立たせ、心が恐怖と絶望に屈しないようにしてきた。

 しかし、今の私の口から出てきた言葉は、

「……ああ、そうだろうな」

 希望も思いやりも何一つ無い、諦めに満ちたものだった。

「そっか……」

 アビーの反応は意外にも冷静だった。この三ヶ月間の地獄が、娘の精神を少なからず逞しく成長させていたのだろう。こんな時に思うのもなんだが、親としてとても誇らしい。

 それに比べて……私はなんて情けない男だ。まだ自分の四分の一にも満たない人生しか送っていない子供に弱音を吐いて、あまつさえこんな状況で気を遣わせてしまうなんて。父親失格だ。娘を託した妻も、きっと私に失望しているに違いない。

 申し訳なくて、情けなくて、涙が零れそうになる。

「パパ?」

 一気に弱気に押し潰されそうになる私を、アビーが心配そうな顔で下から覗き込む。

 いけない、私がこんなザマではダメだじゃないか。この子を命に代えても守ると誓ったのだ、どんな時でも私がアビーの支えになってやらなくては。

 視界を曇らせる涙を引っ込ませ、大丈夫だよ、とアビーの頭を撫でる。柔らかで心地のいい慣れ親しんだ手触りが、私にまた少しの希望を与えてくれる。

 だが、現実は非情だ。実際は何も大丈夫なんかじゃない。今の私の言葉など、なんの気休めにもなりはしない。

 あと数分もすれば、間違いなく奴らはあのバリケードを押し破ってこの部屋に侵入し、私達を本能のままに食い荒らすだろう。

 改めて、現在の状況と状態を確認する。まずは手持ちの装備だ。

 そこらの死体から拝借したM92Fとデザートイーグルが一丁ずつ、銃弾各五発、それにコンバットナイフとほんの少しの食料……たったのこれだけだ。他は全て、ここまで逃げてくる時に使い切ってしまった。

 本当に脱出方法は無いか? 部屋中をくまなく見回す。

 ……ダメだ……ここは高層ビルの一室、窓から飛び降りる事はもちろんできないし、通気ダクトみたいな抜け道も見当たらない。この部屋から外の世界に出る事のできる唯一の方法は、手前に化物どもがわんさか待ち構えているであろうあの扉を開く事だけだ。

 例えば火炎放射器や機関銃みたいな強力な兵器でもあれば、正面突破という一か八かの強引な手段を使えたかもしれないが、あいにくと今のこんな貧弱な装備ではそんな芸当は到底不可能だ。


 ——やはり死の運命からは逃れられないのだと、私は再確認する。


 私達の命の灯火は、私達という存在がこの世にいたという痕跡も残さず消え失せるだろう。

「……」

 私は考える。

 この残された時間、私達は何をするべきなのか。

 私は、灯火が消えるその瞬間まで、娘とどう過ごしたいのかを。

「なあ、アビー」

 優しく語りかける。

 無垢な瞳でこちらを見上げたアビーに、私は努めて穏やかに問う。


「もし、生きている人間がもうパパ達しかいなくて、パパ達が死んだらこの世界が終わってしまうとしたら……アビーは、どうしたい?」


 酷な質問だったかもしれない。それは遠回しに『どうあろうとも私達はもうすぐ死ぬ』と宣告しているものなのだから。

 しかしアビーは、まさに天使のような微笑みとともに、しっかりと答えてくれた。


「わたしは、パパといたい。ずっとパパと一緒にいたい。パパのそばにいたい。もうすぐ死んじゃうんだとしても、世界が終わっちゃうんだとしても、最後までパパと一緒がいい」


 ギュッと私の腰に腕を回して、身を預けてくるアビー。

 体の震えもなく、実に落ち着いている。言葉通り、私の感触に心から安心している様子だ。

 それがまたどうしようもなく嬉しくて、私をどうしようもなく悲しくさせる。

 この子はこんなにも優しいのに、こんなにもあったかいのに、こんなにも健やかなのに。

 どうして私はこの子を守ってあげられないんだ。どうしてこの子がこんな目に遭わなければならないんだ。どうしてこの子が死ななければならないんだ。どうして世界はこの子にこんな残酷な仕打ちをするんだ。



 どうして私は、こんなにも無力なんだ。



「アビー……」

 今一度、娘を強く抱きしめる。

 アビー、私の可愛い娘。私の天使。私と妻の愛の証。

 こんな無力でちっぽけな私に、この子を愛する事の他に、一体何ができると言うのだろうか。

 残された時間があるなら、この子をきつく抱きしめていたい。

 灯火が消え行く瞬間を、せめてこの子のぬくもりで彩りたい。

 私の結論も、娘と全く同じものだった。

「ごめんな、こんな世界に産んでしまって」

 こうして娘と話すのも、これが最後。そう思ったら、ポロポロと言葉が溢れてきた。


「こんな事にならなければ、ママと一緒にアビーを見守ってやれたのにな。アビーが毎日ママと一生懸命練習してたピアノのコンクールで優勝するとこ、見たかったな。アビーがアルバイトとか勉強とか、いろいろな事を経験しながら進学して大学を卒業する姿、見たかったな。アビーが……いつか本当に好きな人と巡り会って、その人と結婚して幸せになる姿、見たかったな……アビーの……ウェディングドレス姿……見たかっ、たな…………」


 一度言葉に出したら、あれもこれもと願いが湧いてきて。

 そしてそれは、もうどうあっても叶わない非情な現実なのだという事を思い知らされて。

 そのあまりの理不尽さに、悔しさに、涙が止まらなかった。

 私の命一つでこの子が救われて、この子の将来が約束されるのなら、喜んで死んでやる覚悟があるのに、それさえも叶わない。

 誰も、何も、こんな小さな子供一人さえ救ってくれない。


 クソッ。本当に、なんて世界だ……!


「大丈夫だよ、パパ」

 いつも娘を元気付けてきた言葉が、今度は私を元気付けてくる。

 見れば、アビーが泣きながら私の顔をまっすぐに見つめていた。

 愛する娘は、涙で声を震わせながらも、私に思いの丈を話してくれた。


「わたし、この世界に産まれてきてよかったって思ってるよ。だって、パパとママと出会えたんだもん。それだけで、わたしは世界で一番の幸せ者だよ。こんな風になっちゃったけど、パパとママと過ごせて、本当に楽しかったし、嬉しかった。わたしを産んでくれてありがとう、パパ」


 胸の奥が、焼け付くように熱くなる。息が詰まるような感覚に、言葉が出ない。

 世界が終わってからずっと忘れていた感情が、かつてない大きさで押し寄せてくる。


 ——私は人生最後というこの日に、生涯最高の幸福を得たのだ。


 明日本当に世界が終わってしまうのかなんて、誰にもわからないけれど。そんな事は、もうどうでもいい。

 この子と過ごせる今が、ただただ泣けるほどに愛おしい。

「……こちらこそ、産まれてきてくれてありがとう、アビー……」

 もう一度娘を力いっぱい抱きしめる。

「パパ……」

 同じように抱き返してくれる娘。

 こうしてこの子を愛する事の他に、私に何ができようか。この終わり切った世界の中で、最後の瞬間までこの子と愛し合う事ができたのだ。そこに一体なんの不満があろうか。

 それだけで、今まで生き延びてきた意味はあったのだと、なんの躊躇いもなく言える。


 私はもう、十分生きた。


「アビー?」

 腰につけていた銃を取り出して、娘に声をかける。

「っ……」

 泣き腫らした目で、私の真剣な表情と銃とを何度か交互に見て。


 アビーは優しく笑って、頷いた。


 相も変わらず、バリケードを攻撃する音はガンガン部屋に響いている。立てかけた障害物は幾度となくぶつけられた衝撃によって、少しずつ外れかかってきている。残された時間もわずかなものだろう。

 グズグズはしてられない。この子を苦しませたくない。

 私は、覚悟を決めた。

「……」

 無言でアビーを抱き寄せて、その小さな背中に銃口を押し当てる。当然、自分の心臓にも弾が当たるよう角度を調整して。

 狙いは決まった。

 後は、引き金を引くだけだ。

「パパ」

 指に力を込めようとした瞬間、アビーの一言がそれを止めさせた。

 返事もできずに固まっていると、アビーが一度私から顔を離して、曇りのない笑顔で言った。



「わたし、生まれ変わったら、またパパとママのところに産まれたい。パパ大好き。愛してる」



 再び私の腕の中に収まるアビー。

 ああ、やはり——人生は素晴らしい。

 今まで生きてきて、本当に良かった。

 もはやなんの悔いも、無い。



「パパもだよ、アビー。愛してる」



 私は、愛する天使のぬくもりを全身に感じながら。




 ゆっくりと、引き金を引いた。


* * *


 世界を破滅へと追い込んだ謎の暴動事件は、発生から四ヶ月後、その発祥と同じく突如として鎮静した。

 研究者達の調査によれば、その理由は感染者達の餓死によるものという事だった。

 感染者達が生きた人間の血肉を求めたのは、代謝速度が異常に上がる事、それによって他の思考や知能を侵食し機能停止させる程に飢餓が加速、生存本能のみが剥き出しになり暴走し——結果ゾンビのような存在となってしまう事が原因であったというのが、最も有力な説であるとされている。

 故に、食料である生者がほとんどいなくなった状態では、彼らは自らの代謝機能の速さについていけず、数週間で栄養失調を引き起こし、最終的に自滅の道を歩んで行ったのだ。

 しかしこれらはあくまでも推測であり、明確なプロセスと原因は未だに判明しておらず、解明にはもうしばらくの時間を要すると、新政府は発表した。

 いずれにせよ、人類はかろうじて救われた。たった百二十日あまりの期間に何十億という尊い命が失われたが、それでも人類は、この理不尽な惨劇から生き延びる事ができたのだ。

 ここからが、人間という種族の再スタート。苦しみと悲しみに打ちのめされ、残酷なまでの絶望を味わわされ、それでもなお耐え抜いた生物としての、真の強さが試される時。

 荒廃した街を建て直そうと励む人々を、穏やかな生温かい風が、彼らを鼓舞するように優しく吹き抜ける。



 地上に咲く二輪の花の間にできた蕾が、春の——そして人類の新しい歴史の始まりを告げていた。

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