”ありがとう”の魔法(蛇足かもな改稿一回目)

 放課後のチャイムが鳴った。

 条件反射みたいに、机に出していた教科書やノートを鞄の中へ無造作に放り込んだ。いつもの繰り返しで出来た習慣みたいなものだ。何の疑いもなく、帰り支度を始めるのは。

 昨日の続きみたいに始まった一日が、今日も終わる。

 隣の席の真由美が、俺のほうへすり寄った。茶色いおさげが揺れる。人に聞かれて困るような事かとその瞬間には予測してしまう。また何か、無理難題を吹っかけてくるつもりなのかと要らぬ気を回してしまう。

 たいてい、こういう態度の時は厄介なんだ。面倒事を持ってくる予兆。

 麻由美は何気なしに近寄っただけらしい、俺が身構えた事にも気付かなかった。

「ねえ、隆司。今日、一緒に帰ってもいい? ちょっと相談したい事があるんだ。」

 いつもの、甘える時の声で麻由美は言った。

 けれどまだ油断は出来ない。相談、という単語一つだというのに過剰反応なんだろうか。

 女ってのは、こういう場合はあんまり公私の区別を付けないものらしい。二人だけの時と他人の目がある時では普通、態度に違いってのがあっていいと思うんだが。

 麻由美は誰の目も気にしてなんかいない。よそよそしい態度を貫こうとしている俺が、なんだか自分が道化のように感じてしまう瞬間だ。

「ああ、別にいいけど。クラブは無かったかな?」

「今日は木曜日で、うちのクラブは休みって決めたじゃん。」

 麻由美は俺の顔を指差してそう言った。うん、まぁ、それ決めたの俺だったけどさ。

 俺を文芸部の部長に推薦してった先輩方も、まさかこんな事になるとは思ってなかっただろう。毎日活動していた部が、週三日だけになったなんて。

 致し方ない事情だ。同じ志を持つ者同士で集まったとはいえ、部活では皆わいわい騒ぐだけでまったく手が動かないなんてヤツが沢山居たんだから。しかも有意義な論戦に花を咲かせているわけでもなく、くだらないダベり話だけなんだ。それならさっさと家に帰って各自で努力に励んだ方が、他人の邪魔をするよりは余程にマシってもんだと俺は思うわけで。だから、基本は週三、後は自由参加にしたわけだ、俺の独断で。

 この、独断、てところに色々と引っ掛かりがあったのは確かで、後々まで祟っている。

 俺の弱点になった事は確かで、誰も彼もが何かというとコイツを持ち出してくるようになった。

 麻由美は人差し指で俺の胸のあたりをぐりぐりやりながら、口を尖らせる。

「わたしは色々と聞きたいことあるのに、休みばっかりなんだもん。」

 手入れされたピカピカの爪が、そのまま制服のボタンを摘まんで引っ張った。

 俺は真面目な部長じゃない。自分でも解かってるから、こういう言い方をされるとカチンとくる。

 ヒトの制服のボタンで遊ぶ指先をやんわりと払った。

「俺に小説談義を持ちかけたって無駄だぞ? 趣味でやってる範囲で、そんな詳しくなんかないんだから。」

「うちの部で一番ちゃんとしたの書いてるじゃない。部長に推薦されたのだって、それでしょ?」

 ああ言えばこう言う、の典型だ。

 手持無沙汰なのか、麻由美の指先は今度は自分の髪をもて遊び始めた。おさげの髪が細い指にくるくると巻きつけられ、次の瞬間にはバネみたいに弾んで戻る。頬に触れそうな爪が、ぽってりした唇へと視線を誘導した。

 ヘンな気分になる前に、俺は無理やり視線を逸らす。

「ちゃんとしたのって、誰がどういう基準で決めるんだよ。バカ。」

 創作物ってのに、これといった型なんてのは無い。だから出来不出来の判断なんて、本来なら誰にも出来ないはずなんだ。そういう事を言ってるつもりだけど、なんだか言い訳じみてみっともない。

 我ながら、照れ隠しにしか聞こえない。

 一年前、付き合う前はこんな気持ちになる事もなかった。女にしては話が解かるとか、その程度に思っていた。クラブにしてもそうだ。俺は同じ間違いを繰り返した。

 引き受けた時には考えもしなかった"責任"ってヤツで、俺にはちょっと居心地が悪くなった。責められてるみたいで、そうじゃないのは解かるんだけど、やっぱり釈然としない。

 麻由美はまるで昔っからそうだったみたいに、人前でも堂々とくっつく。俺の方が女々しいのかも知れない。なんだか釈然としなくて、だけど付き合ってるのにそう思うってことが麻由美に対して悪いような気がしている。

 部長としての務めが果たせていない気がして、他の部員たちに申し訳ないような気がする。

 拘ってる俺が間違ってるんだろう、たぶん。

 付き合いだした当初は囃し立てられもしたが、今じゃ目が合った時に嫌な笑いを貼り付ける程度だ、皆。

 その程度のことなのに、どうしてか俺は釈然としないままだ。

 考え過ぎなんだろう、きっと。クラブも以前と変わらず回っている。

 教室は騒然とし始めた。皆がガタガタと移動する。クラブへ行く者が大半で、残りは俺達同様に家へ帰る者たちだ。流れのまま教室を押し出されて、二人は廊下へ出る。誰も俺達の会話に興味なんか示さない。俺が多少声を荒げても、いつもの聞き慣れた痴話喧嘩くらいにしか思わないだろう。

 廊下もやっぱり人ごみでごった返していた。一斉に各教室から吐き出された生徒の群れは、一時に集まるからものすごい数だ。担任が厳しいクラブの連中は緊張した顔してたり、絶望した顔してたりした。

 ちょっとの間黙っていた麻由美が、急に猫なで声を出した。キスをせがむ時の声と同じだ。

「ねぇ、隆司。わたしがクラブの後輩たちに指導してるのは知ってるよね?」

「ああ。暇人だなと思ってるよ。」

「それでね、言い方とかでちょっと悩んでるんだけど、それで相談したいの。」

 あっ、このヤロウ、俺の言葉は無視か。

「お前が好きでやってる事だろ。お前の気の済むようにやりゃいいじゃないか。」

 ムカついたのも相まって、少々ぶっきらぼうな言い方になった。案の定で、麻由美は嫌そうな顔をした。どうせ俺は融通の利かない、しつこい男だよ。こういう流れはそっくりそのまま、二人っきりの時も同じだ。

 積極的で躊躇が無い麻由美と、いつでも腰が引けてる俺と。

 劣等感、なんてのは認めるのも癪に障るから、俺は精一杯の虚勢を張る。胸をそびやかせて、部長のフリをする。

 流されるまま廊下の角を曲がれば、段々の滝が出現する。多数の黒い頭が段に合わせて降りていく。すっかり忘れていたらしい麻由美がコケそうになって、俺の腕にしがみついた。

「気を付けろよ、」

「ご、ごめん。びっくりした。……て、あれ、何言おうとしたんだっけ? あ、そうだ、後輩への個人指導よ、思い出した。」

 リズムを付けたステップで階段を降りるから、麻由美の声も心なしか弾んで聞こえる。女ってのは割と感情がコロコロと変わると思うんだけど、麻由美だけのことかも知れない。危険は去ったはずなのに、組みついた腕は放すつもりがないらしい。ついでに、俺の腕には柔らかくてふくよかな感覚がずっと押し付けられている。

 思い過ごしだと信じたいんだが、麻由美の性格を考えると信じ切れない。わざとだよな、このヤロウ。なんてあざとい女なんだ。

 俺より少しだけ背が低い麻由美が、計算したみたいな上目遣いで見上げた。こうすると瞳に影が落ちて、五割増くらいで美人になる。女はたいてい、こういう技を磨いているんだそうだ。麻由美が自分でバラした情報だ。

 そして、例の甘い猫なで声を出した。

「隆司も参加してくれたら助かるんだけど。ほら、一年生とかは段落の最初は一文字下げるなんて基本的なトコから解かってない子も多いでしょ?」

「そんな基本程度は独学で勉強するもんだと思うけどな。」

 男ってのはまた、天邪鬼に出来てるもんなのかも知れない。誘いの言葉に乗っときゃ、良い目もあるかも知れないのに、出て来るのは憎たらしい皮肉だ。しかも、我ながら冷たい響きのある声だと思う。

 麻由美はまたムッとした顔になった。そして、腕を放した。ものすごく解かりやすい女だ。けど、俺は詫びを入れるつもりはない。言い方はアレかも知れないが、俺の答えは間違ってない。何と思われようと。

 基礎の基礎くらいは、自力でやっといてくれ。調べりゃ幾らでも出てくる。部長だという事を理由にすれば、俺の時間を削るのは当然になるのか。

 俺が取った無言の態度にますます腹を立てたみたいで、麻由美の声は棘が倍増した。

「それ、本人に面と向かって言えるの? 基礎からやり直せって? 言ってよ、隆司が。」

 今度は怒ってみせる。猫なで声かと思えば、次の瞬間には腹を立てる、麻由美の常套手段だ。ころころと、声音から表情までがあっという間に切り替わった。こっちが不愉快になる瞬間だ。

 思考が飛躍してる事も、麻由美は認めたりしない。最初から、俺の返答はYESの想定で、それを外れた時の対応なんてのは頭にない。だから、うっかりと本音を漏らした。

 連中の多くが、基礎からやり直すレベルだってのは、麻由美自身も十分に解かってるって事だ。

 自分で言った言葉の意味なんて、深く考えてもいないだろうけど。

 ちょっと考えてから、俺は結論だけを口にした。

「俺は最初からそんなモン請け負う気はないぞ。」

 彼女の、請け負ってもらえるものと決めつけた物言いは、酷く苛立つ。最初に拒否した事もすっかり棚上げして、何度でも、それこそ俺が音を上げて承諾するまで繰り返すつもりなんだ。それが解かってるから、俺も退けない。

 本当に、売り言葉に買い言葉ってヤツだ。俺も大概、頑固だ。

 だけど、だんだんと何に腹が立ってるんだか、解からなくなってくる。麻由美の持ってきた厄介事か、俺を言いくるめようとする態度か。麻由美は俺の言う事を聞かない。主導権を奪いに来る女だ。

 それとも、俺自身の情けない内面が腹立たしいのか。

 従ってやってりゃ機嫌よく過ごしてくれるんだから、言いなりになってもいいんだろう。他のカノジョ持ちの連中だってそうしてる。そうするのが正しいんだろう。

 だけど俺は何となく嫌だ。ご機嫌取りみたいに、したくもない仕事を喜んだフリして引き受けるなんて嫌だ。

 そうでなきゃ喧嘩になるっていうんなら、それなら派手に喧嘩して別れたっていい。そんな譲歩は嫌だ。

 今日び、ネットを調べりゃ山ほど出てくるような知識だろうに、なんでそんな基礎の基礎を俺達が時間割いて教えなきゃいけないんだよ。家庭教師なんかは金貰ってんだろうが、こっちは無償だ。

 麻由美みたいにボランティア精神発揮して他人に尽くすのもいいけど、時間は有限ってのを忘れてるんじゃないかと常々思うんだ。いや、他人に構う暇があるなら、自分に使うべきだろう。いや、俺に使えってんだ。

 これが麻由美じゃなかったら、それこそ好きにすればいいと思うだけだけど、どうやらカノジョの事となったら話は別らしい。我ながらイライラする。惨めな気分にまでなってくる。

 こっちの気も知らず、麻由美は生意気な事を言ってますます俺を腹立たしい気分にする。

 微妙に平行線を辿っていく会話だ。

「わたしが勝手に始めたことだけどさ。けど、隆司は部長じゃないよ、どうして協力してくれないの?」

 理不尽な理屈で責められる。俺は確かに部長だけど、始めたのはお前だ。なのになんで俺が悪いみたいな言い方なんだ。俺に甘えてるんだろ、俺が言うこと聞いてくれるのが愛情だとか思ってるんだろ。それがイライラするんだよ。麻由美の要望と、俺の要望は、たいていで平行線だ。

「キリがないからだって言っただろ。基礎くらいはテメーで学んでくれ。」

 突き放すような言い方になった。俺は、しまった、なんて思っている。

 キリキリと眉を吊り上げて、麻由美はそっぽを向いた。頬が上気して、火照ったような顔に潤んだ瞳がまた、俺のどうしようもないトコロを刺激する。リップクリームでぬめった唇が、小刻みに震えていた。

 ムカついてるところに別の色んな感情が雪崩れ込む。

 自分の心と麻由美の要望に妥協点を探ってみる。喧嘩を続けるよりも、もっと有意義な道が無いかと模索する。なのに、週末まで何日だったか、小遣いの残高は幾らだったか、そんな余計な事柄ばかりが涌き出してくる。

 それどころじゃない事態が起きかけているのに、俺の頭はピンク色で埋め尽くされかけている。

 頭を振って煩悩を追い払ったら、麻由美は怪訝そうな顔をした。彼女の白い喉は、太腿あたりと同じ色だ。

 今度は俺が猫なで声を出していた。

「いいじゃないか、別に。本人は巧いつもりになって、好きなように書いてるんだ。それを他人がとやかく言う必要なんかないだろ、頼まれたわけでもないのに。友達同士で見せ合って、わいわいやる為のツールなんだよ、解かれよ。」

 余計な事なら言わなくていい。お互いおべんちゃら言いあってる連中に本当の事を言って、水を差す必要もない。本心じゃ納得の行かない上辺だけの理屈をあれこれと捻り出す。俺もなんで今、コイツの機嫌取ろうとしてんだか。

 釈然としない。本当に、釈然としないんだが、彼女の腹は寝転ぶとペタンコになるとか、今の議題にはまるで関係が無い、どうしようもない事を考えている。

 喧嘩はしたくない。けど俺が折れるのも嫌だ。

 こんな風に妥協点を探ることも、麻由美に譲ってやる計算を測ることも、これから先にずっと続いていくある種の道を示しているみたいで反発したくなる。妥協がずっと続いていくなら、絶対に認めたくなんかない。

 考え過ぎだ、バカバカしい。妙に身構えてる俺自身に苛立ってくる。

 まっすぐな麻由美の視線が痛くて、俺は前を見る素振りで目を逸らす。片隅で俺が何を考えているか、麻由美に見透かされたらどうなるだろう。適当に彼女に合わせておべんちゃら言って、聴いてやっただろうと俺の欲も満たしてもらって、それで済むならそんな簡単な事はないのに。

 ぐちゃぐちゃと考えが纏まらない、煮え切らない自分自身が一番苛立たしい。

 麻由美は拗ねた口調で、まだ話を続けようとする。俺は親身に聞いてやるフリをして、内心はうんざりと肩を竦めている。妄想が頭の中で駆け廻って、彼女の言葉を駆逐する。

 麻由美の言葉は麻由美にとってはとても重く、俺にとってはとても軽い。着地する間も無しに消えてしまう。

「でも頼まれたんだもん。"悪い点があったら教えてください、"って、持って来られたから、親身になって色々と教えてあげようと思ってさ、」

「有難迷惑ってのもあるんだよ。相手は社交辞令でそう言っただけかも知れないだろ。お互いの熱意に差があるかもなんてのは、最初から思っとけよ。」

 相談を真面目に受け止める方がどうかしてる場合だってあるんだ、そう言ったら麻由美はますます不機嫌になった。機嫌を取るつもりの言葉が、触れるべきでない所を掠めたらしい。

 なんだか、ところどころで噛み合わないような気がする。俺が何を言っても、まるで見当外れの答えを聞かされているかのように、麻由美は違うと繰り返している。言葉足らずの幼い子がやる癇癪みたいだ。

 麻由美がそこまでの不満を抱えるほどに、部活動は辛いものだったろうか。個人指導が負担になっていて、その愚痴と、助け船を俺に求めているんだよな。

 部活に出ている時の真由美に、そんな辛そうな素振りはなかったと思うんだが。

 弾みをつけて階段を一段ずつ踏みしめる。のろのろした行進はたぶん俺の気の迷いだ。いつもと同じスピードだけど、今日だけはなんだか遅く感じている。

 麻由美がこっそりと鼻を啜り上げた。俺に聞こえないようにと願ったのかも知れない。そして、また眉を吊り上げた。

「そうよね、誰も本人に本当のことなんか教えないもん。"あなたの作品は、とても読めるレベルじゃありません、"なんてね! 正直に言っちゃダメなんだってさ。ここをこうすればいいですよ、ここを直せば良くなりますよ、……そんな細かいトコをどうこうしたって、どうにもならないレベルだってのに!」

 意味が解かんねぇ。急に飛躍した。誰のこと言ってんだ?

 いや、文芸部でそんな揉め事が起きたこと、あったか? 麻由美がここまで腹を立てるような事があったってのなら、俺が知らないはずないんだが……。部活じゃないんだ。突然理解した。

 熱くなって、見境いも無くなった麻由美の言葉は辛辣だ。ここぞとばかりに貯めこんだストレスをぶちまけた。収まりきらない激情が、上下する肩に見えるような気がした。

 前を行く頭も挙動不審になって、こちらを気にしている。素知らぬ顔で聞き耳を立ててる連中だ。

 麻由美が一呼吸置いたのを見計らって、俺は言葉を掛けた。前の頭をチラチラと窺って。

「誰だって最初はそんなもんだろ? お前だって、最初はヒドかったじゃないか。」

「そうよ、だから基礎からちゃんと調べた時には驚いたわよ、分厚いルールブックが一冊出来ちゃうくらいに、沢山の基本があって、途方に暮れたんだもの!」

 落ち着かせるつもりで放った俺の言葉は効果がなかった。本当にこの女は周囲を憚るって事をしない。

 麻由美がしばし黙る。言葉を探してる風に、口が時々開いては閉じた。

 緊急事態っていうのはこういう状況なのかも知れない。俺は突然に切り替わってしまった展開に付いていけず、必死に情報を整理している。

 麻由美がキレた。元から感情の隆起が激しい女だけど、キレるとこうなるんだ。一瞬だったけど、キレ状態の真由美は喚き散らすタイプと見えた。

 階段がちょうど終わって、玄関口と体育館への岐路が現れた。流れはここで二手に分かれる。俺達はもちろん、下駄箱のある玄関方面へ向かう。

 ことさらゆっくりしてたせいだろう、俺達はすでに最後尾に近かった。

 まだ言い足りないんだろう、麻由美がまた喋り出した。なんとか俺に伝えたくて仕方ないんだ。けど、何を伝えたいのか、きっと本人にも解かっていないと思う。

 俺の正面へ回り込もうとするけど、人の流れに阻止される。麻由美の顔は泣き出しそうだった。

「だって、"どこを直したらいいでしょう?"なんて聞かれてさ、なんて答えたらいいの? 基礎からやり直せって言うの? ノウハウが1から100まであるとして、まず1とか2から直していかなきゃいけないのに、相手は80とか90辺りを気にしてるんだよ? 正直、なんて答えたらいいのか解かんないわよ。」

「正直に"そこまで行ってない"でいいんじゃないのか?」

 この期に及んでなお冷たい態度を取る俺に、麻由美は嫌気が刺したかのように見えた。一瞬、虚脱して、ふてくされた目になり、そっぽを向いた。

 "自力で調べろ"の類だと思うが、実生活でそれを言ったら社会人としておしまいだ。言えない言葉をどうやって相手に伝えればいいかが、麻由美を悩ませていたのか。

 だけど、麻由美が俺に訴えたい事は、たぶん、そんな事じゃない。

 俺が下駄箱から靴を出してコンクリの床へ投げるのを、麻由美は何もせずに眺めている。口だけは動かして。自分の靴は忘れているみたいだった。周囲は人がまばらで、そいつ等はさっさと靴を突っ掛けて出て行った。

 不満をぶちまけるみたいに、麻由美の愚痴は止まらなくなった。

「普通に市販の本を読んでたら、とても読む気がしないっていうレベルの作品なんて、ネットにだって山ほどあるよ。ううん、ほとんどがそう。ただの自己満足の、井の中の蛙ってヤツ。シロウトだもん、当たり前よね。だけど、それ解かってたってさ、何て言えばいいわけ? しょうがないから基礎の講座みたいなの言って、お茶濁して。けど、読んだら解かるじゃない、もう注意すべき点がありすぎて時間が足りないよっていうかさ……、」

「おい、それ、みんなの前で言ってないだろうな?」

 堪らず、麻由美の愚痴を途中で遮った。

 麻由美は黙ってしまった。むくれた顔をしていて、反論の続きを考えてるのが丸解かりだ。

 クラブの連中に八つ当たりみたいな事してんじゃないかと心配したけど、この様子じゃそれは無さそうだ。まったく、他のトコの問題を勝手に部に持ち込んでんじゃねぇよ。

 自分で好きこのんでやってる事だろうに、覚悟もなしにやってたお前が悪い。俺はそう言ってやりたかった。

 おおよその見当は付いた感じだ。何に対して苛立ってんのか、何が彼女の問題なのか。皮肉な事に、俺には解かる事柄だった。

 ループしちまうんだ、ネットの中じゃ。結論まで出ていても、それを周知させる事は出来ない。必ず新参者が蒸し返す。延々と同じ議論は繰り返され、入れ替わり立ち替わりでやってくる質問者に、同じ文面を打ち続ける羽目になる。基礎を知らないドシロウトの一人に丁寧に教えてやっても、そのレスを読み返しもしない新たなドシロウトにまた同じことを書かなきゃならない。

 広く門戸を開いて受け入れてやりゃ、そうなっちまうのは当然だ。シロウトは次から次へと入ってくるし、書き始めの初心者だって後からどんどこ生まれて来るんだ。それを、一人一人で個人レッスンなんてやってられないくらい、麻由美にだって解かってたはずだ。解からなかったとしても、今は気付いたはずだ。堂々巡り、繰り返し繰り返しで、違うヤツ相手におんなじ事を言わされ続けるんだってことが。

 わざと聞こえるように、俺が大袈裟な溜息を吐き落したら、麻由美は怯えた目を向けた。逃げ出す素振りはないけど。俺が嫌なことしか言わないのは解かってるだろうに、意地になって引き下がれないんだろう。

「指導なんて始めたら、踏み込んで言わなきゃ伝わらないような事も出てくる。10人居れば10人がぜんぶ違う考えでこっちに話しかけてくるんだ。10人がぜんぶ、受け取り方も違う。本当のところの目的だって違うかも知れない。それぜんぶ、丁寧に扱うって? 相手を傷つけないように言葉を選んでやって? どれだけの労力を費やすつもりなんだ、お前?」

「解かってるよ……、」

 棘は無くなり、その代わりに消え入りそうになった声がぽつんと吐き出された。

 麻由美はようやく自分の下駄箱の前まで移動して、そして自分の靴を取り出した。俺みたいに投げるような事はしない。丁寧に、しゃがんで床に置いた。

「なんか疲れちゃったの。ごめんね、喋ったらすっきりした。自分で好きで始めたんだもんね、ぐちぐち言うのはみっともないよね。」

 自嘲の含みがある言い方は、少し気に入らない。根っこには、俺に聞かせようって魂胆がまだあるからだ。拗ねたみたいな口調も気に入らない。結果だけ把握して、そのくせ全然、俺の言ってる事を理解してない。

 ただ俺の追及から逃げたいだけの態度だ。

 靴の踵を踏んずけて、しゃがんだままの真由美の前へ立った。

「なぁ、麻由美。お前、ネットの批評グループに入ってるけど、あれ、辞めたほうがいいんじゃないか?」

「え、そんなの……、そっちは別に相談なんてしてないよ。」

「お前がイライラしてんの、本当はそっちが原因だろ。」

 麻由美の手が止まった。靴ひもを結ぶ手が、途中で遊びに変わった。都合の悪い方へ進み出したから、慎重になってるんだろう。俺から得られる答えが一つしかないってのも、解かってるはずだ。

 だから今まで核心からズレたところで誤魔化してたんだもんな。

「連中の"ありがとうございました。"なんて言葉には、一円の価値もないぞ。それ、お前も気付いたんだろ?」

 何にも返すつもりがない、対価どころか、誠意すら返すつもりがない時の、便利な約束手形だ。支払い期限は無限。"いつか返します"。

「感謝されたくてやってるんじゃないよ、」

 麻由美はまだ抵抗した。明らかに、俺と視線を合わせることを拒否して。

 その態度がますます俺の反抗心に火を付けて、苛立ちを加速させる。お前に信じるもんがあるように、俺にも信じるもんがある。それは逆を向いてるんだって、知らせたくなる。

「"少しでも役に立てたらと思って、"だろ? それで、相手が少しでも成長してるトコを見せてくれりゃいいけどさ、実際は"ありがとうございました、次回に必ず活かします!"って逃げちまう。こっちはどうせ本当には解かってないんだろうって、嫌な気持ちになってな。売名行為で利用されたような気がして、腹立たしくなるんだよ。そういう疑いを持つのも嫌だってのに、」

「そんな人ばっかじゃないよ!」

 あまりに強い否定に、続きは呑みこまされた。

 麻由美は乱暴に靴紐を結んで、勢いつけて立ちあがった。俺を見ることもせず、さっさと歩き出す。取り残された俺達以外には、ここには誰も居ない。校庭からは硬球を打つ音が甲高く響いてくる。

 ……ちょっと言い過ぎた。

 俺がムカついたと同じくらい、麻由美も今、俺に対してムカついてるんだろう。俺はやっぱり意気地が無くって、そうなったらなったで挽回したいとかを必死に考えてしまうヘタレだ。ほんのついさっき、喧嘩して別れたっていい、なんてカッコつけた事を思っていたのに。

 頭の中のアレコレは、どうやって麻由美の機嫌を取り戻そうかって事に侵蝕され始めている。

 大股になって追いついたら、こっちを見もせずに麻由美が言った。

「隆司って、時々、被害妄想だよね。」

「だから嫌なんだって言ってんだろが。」

 ああ、まただ。言い訳みたいな、捨て台詞みたいな、そんな言葉しか出てこない。気の利いた台詞が欲しい。

 朴念仁な俺をなじることもなく、麻由美は話題を元に戻した。

「"ありがとうございました、"って、逃げ口上って訳じゃないよ。」

 俯き加減の彼女は、いつも以上に綺麗に見えた。

 それから、言葉を切って、麻由美は俺の顔をまっすぐに見た。

「逃げ出したくなったってのはあるかも知れないけど……、鬱陶しくなったからって理由なんかじゃないよ。それに、言葉じゃなくて行動で示してくれる人だってちゃんと居るよ。」

 俺はまた反論したくなった。イイ人ばっかりみたいに言うな、って。理想主義者みたいな理屈は、大嫌いだ。

 都合の悪い部分には目を瞑って、麻由美はなおも気分よく喋り続けようとしている。俺はムカつきながら黙っている。片隅の、これ以上に麻由美の機嫌を損ねたくないって願望が強いからだ。

 麻由美は機嫌が治ったようで、口調も声も柔らかくなった。

「10人居たら10人、考え方がぜんぶ違うって言ったの隆司だよ? こっちと違う思惑でいたって、そんなの当然じゃない。"よく頑張ったね!"って賞賛されると思ってたのに、酷評貰っちゃって、びっくりしたんだよ。"ありがとうございました"で、さっさと逃げちゃうくらい、指摘されてダメ出しされるのって辛いんだよ? ものすごく心が苦しくなって、泣きたくなるもの。わたしだって知ってる。」

 ドキリとさせられる内容が含まれていた。

 綺麗事を並べ立てるのかと思ってた俺は意表を突かれて、心当たりもあってで、狼狽えていた。

「へぇ、そんな経験してたんだ。」

 挙句にマヌケな事を言った。

「ボロカスに言った張本人が忘れてるし。」

 藪蛇だ。

 やっぱり麻由美は覚えていたらしい。あの時の恨みとばかりにここへ来て引き合いに出した。子供っぽく頬を膨らませて、俺に斜めな視線を寄越す。俺の視線は泳ぎに泳ぎまくり、最終で反対方向へ向いた。辛辣だったかつての酷評が脳裏を駆け巡る。作文にもなっていないとまで言ってのけた事を思い出していた。

 フェンス越しにグラウンドを見る。危険防止で校庭と校舎からの帰宅路は隔てられている。野球部の練習風景に目を向けた。地区予選敗退って聞いたけど、頑張ってるみたいだ。

 麻由美が黙ってしまうと、会話はそのまま途切れた。硬球を打つ音だけが間延びして響いた。気まずい空間を打破するだけの勇気さえ、俺には持てない。振り回すバットもなく、ただ黙っている。

 校門に差し掛かったあたりで、逡巡のあとに麻由美が告白みたいな事を言った。

「悔しくて、もう辞めてやるって思って。だけど悔しいから、絶対見返してやるって。それで一生懸命に自力で勉強したんだよ。そしたら、隆司の言ってた事、ぜんぶその通りだった。」

「人に教えるってのは、あれで結構難しいからな。……その、ごめん。」

 難しいっていうか、途方に暮れる。言い訳じみた言葉の後には、すんなりと詫びの言葉が出た。

「謝んなくていいよ、感謝してるんだから。」

 照れ隠しみたいに頭を上げる。ぶっきらぼうな言葉の後に、麻由美は歩調を早めた。

「さっき、隆司はさ、皆なあなあで付き合ってるんだから放っとけばいいって言ってたけどさ、そんなんじゃないよ。"すっごく良かったです"、"感動しましたぁ"……それを本気で受け取れる人って、そんなに居ないと思うんだ。そんでね、隆司みたいに詳しいトコを教えてくれる人だって、そんなに居ないよ。」

 俺は詳しいわけじゃない、って、心の中では強く否定してた。お前があんまりにも出来なさ過ぎただけだって、言ってしまえばまた傷付ける気がして、黙っていた。面と向かっては言いにくい言葉ってのがある。

 それは、俺みたいに意気地がないとかそんなんじゃない。教えない優しさだとか、気を利かせた結果だとか、そういう上から目線の自己満足だ。だけど、世間はそれを優しさだと認知しているから、仕方ない。

 長い物には巻かれろ、だ。そのせいでジレンマに陥った奴は生真面目すぎたんだ。

 基礎も出来てないくせに、応用ばかり気にして見当はずれを当たってる奴は多い。1や2が出来てないなら、その先の全ても出来てないってのが解からない。指摘する側だって、それはとても言えやしないってのに。……そんな風に思っている奴らが居る。

「自分の本当のところを知るって、案外、難しいのかもな。」

 謎掛けみたいな言葉で誤魔化した。口の中でもごもごしただけだから、麻由美には聞こえなかったらしい。さっきの続きを話していた。

「誰だってさ、ぬるま湯みたいなトコでぬくぬくしてるだけで、何にも残らないような関係は嫌なんだよ。何かを得たいって、誰だって思ってる。少しでも巧くなりたいって。だから隆司みたいな、怖い人だって解かってても、おっかなびっくりで近付いてくるんじゃない。」

「怖いヒトかよ、俺は。」

「怖くないとか思ってたんだ、へぇー。」

 茶化す口調で、麻由美はその場でくるりとターンした。おさげの髪が揺れる。陽の光を受けて、綺麗な天使の輪も一緒に回る。ひだスカートが幻想みたいに丸く広がった。

 麻由美の、前向きな真っ直ぐさが、眩しくて目を細める。胸が絞られたみたいに、痛い。


 校門を出てしばらく歩く頃には、さすがに運動部の喧騒も遠くなる。

 この辺りは曲がりくねった街道筋で、古びた家々の軒が連なってもいる。軽自動車一台がやっとで通れるほどの幅しかない生活道路が続いていた。

 麻由美はまだまだ話し足りないらしくて、今日はずーっと喋りっ放しだ。駅前商店街はまだ混み合う時間帯じゃなくて、人の姿はまばらだった。シャッター街に近付いているこの付近の通りは、開いてる店舗もまばらで、店じまいの広告だってもう何年も貼られたままだ。切れかけた蛍光灯は、最後のあがきで点いたり消えたりしている。

「もー。また上の空になってる。わたしの話、そんなにつまんない?」

 いつものペースに戻ってきた麻由美の声に、意識を戻されるのはこれで何度目だろう。上の空だったのは確かだ。

「いや。て言うか、もう飽きた。」

 ズルい言い方だ、本当はこっちの心が痛くなってきて聞くのが辛い。麻由美と俺の差を、思い知らされるみたいな気がして、そんなものを気にしてる自分自身が一番痛い。なにを張り合ってんだろう、俺は。

 堂々巡りにしかならない話題も嫌で、成長しない自分を思い知らされるのも嫌で、苦痛から解放されたいと願っている。なのに、止めちまえばいいだけなのに、それも宣言出来ない。

 苦しいのに、なんで俺は自分から話題を振ろうとしてるんだろう。言えばまた苦しい時間が引き延ばされるって解かっているのに。彼女の口から何を引き出したいんだろう。

「俺が教えたことなんて、1から100までの、せいぜい10あたりまでだぞ。それ以上は俺自身があんまり自信持ってないし、そんなんで教えられるわけもないし。基礎の範疇しか教えてない。」

「ネットに載ってる基礎なんて、それで言ったら3くらいだよ? 10まで教えてくれたんだもん、上々だと思うよ。ありがとねっ。」

 笑いながら麻由美が慰めてくれて……いや、慰められてんだよな、俺。

 なんでだ、いつの間にか立場が逆転してないか?

 悩んで煮詰まってたのは麻由美の方で、俺は無理やりその鍋に放り込まれただけだったはずだ。それがいつの間にやら、ぐつぐつ煮えてんのは俺だけになっていた。

 いつもこうなんだ。いっつも。

 ありがとね、

 そんな些細な言葉一つで俺の心は幾らか軽くなったけれど。

 整然とした足音に注意を向けたのはその時だ。わいわいと喋る声もガランとした商店街にはよく響いた。

 通りの角を曲がって現れたのは、蛍光グリーンの揃いのジャンパーを羽織った一団で、談笑しながら歩いている。俺と同じように麻由美も興味を引かれたようで、出しかけた声は止まっていた。

 手にはゴミ袋とステンレストング。整然と並んでいるように見えて、割とバラバラの間隔で十数人が向かって来る。

 麻由美は俺の耳元に口を近付けた。

「ねぇ、あのヘンな服着た団体さん、何かな?」

「ヘンとか言うなよ。……ボランティアやってる人らだよ、失礼だな。」

 こそこそと、聞こえないように声を落として互いの耳の近くで囁き合って。この態度の方がよっぽど失礼かも知れない、なんて後から気付いて気まずくなった。視線が合う訳でもあるまいに、妙に警戒して俯いたりして。

 幸い、向こうの団体さんは誰もこっちに目を向けていなくて、そのまま通り過ぎて行ってくれた。

 気まずいと思ってるのは、たぶん、俺達だけなんだ。堂々と行き違う蛍光グリーンの団体と、俯いて避けて通る俺達と。完全に後ろになって、麻由美が口を開けた。

「何のためにやってるのかとか、考え出したら辞めたくなるだけじゃないかな。」

 麻由美の声は遠く、その遠くからの声が、耳を通り抜けて頭の中に響いた。

「人によってはさ、本当に真剣に頑張ってるトコ見せてくれる人だって居るよ。」

 ああ、まだ話しは続いていたんだ。さっきの集団の事かと錯覚して、奇妙なリンクにまで感心したりして。

 麻由美はボランティア団体の事なんかさっさと意識から追いやってしまっていたんだろう、俺はいつまでも気にしていて、それで齟齬が生じたってことだ。こんな具合にすれ違いってのは、起きるんだな。

 お互いの考え方が、価値観の違いが、すれ違いを生み出す。勝手な解釈が、どういうわけだか信憑性になってしまう事がある。自分を疑うことの、なんと難しいことか。

 どうせ聞く気なんかないんだろう、どうせ言ってみただけなんだろう、僻んだ気持ちが膨らんでいく。

 苛立ちが憎悪に変わる。

 内面の荒々しい怨嗟の声に被さって、絵空事みたいな女神の福音が耳に心地よく響いていた。

「ちゃんと、指摘したトコ直して、"また見てください、"って。そしたら嬉しいじゃない、とことん付き合ってあげようって気持ちになるじゃない。」

 息苦しくなって、俺は無意識に呼吸を早めていた。

 俺は、そんな風には世の中を見られないんだ。麻由美の優しい声に現れるような、そんな見方なんか。

 麻由美は商店のウィンドウを何気なく眺めて、それからまた喋る。

「……だけどさ、本当に喜んでもらえてるのかなって、心配になるんだよね。こっちが勝手に盛り上がっちゃって、むこうは重荷になってるのに、気付いてないのかも知れないじゃない? 独りよがりでさ。」

 麻由美の発した言葉が、ぜんぜん耳に入ってこない。

 麻由美の言ってる言葉の意味が、ぜんぜん解かりたいと思えない。激しい拒絶が激しい息遣いに現れるものを、懸命に抑えて噛み殺す。

 信じていられた頃は楽しかった。

 なんて言えば伝わるのか、自分はちゃんと解かってるだろうか、解かった上で言えてるんだろうか。ちゃんと伝わっただろうか。自分の善意を信じていたし、相手の熱意も信じ切っていた。

 今の自分に解かる事柄は、他人に教えてもらった言葉じゃない。自力で掴んだ事ばかりじゃないのかって、俺自身の熱意すら疑ってしまう。

 誰かが懇切丁寧に教えてくれたわけじゃなく、いや、教えてくれた時には理解しなかったことだ。今だって、本当に理解してるのかは怪しい。誰かの熱意を、俺も空回らせたかも知れない後悔がある。

 麻由美はまだ話の途中みたいだったけど、俺が遮った。

「ああだこうだ言ったって、知識で知っててもそれが血肉になってなきゃ作品に反映されるわけもないんだよな。解かった気になって、だけど本当は解かってないんだ。」

 麻由美の表情は見ないようにした。きっと意味が解らなくて戸惑った顔をしてるだろう。

 自分が井の中の蛙だってこと、実感するのは本当に辛い。だけど、それを越えたから今の俺が居る。蛙なんだって、実感しないと先に進めない。けど、それを教えることは禁じられてるようなもんだ。

 うだうだと、堂々巡りの黒いもやもやが心に広がって、答えなんて解かりきってるのに、やっぱり諦めきれなくて言い訳ばっかり考えるんだ。自分で越えるしかない、解かってる。教えてやれない。

「何様だ、とか思われるかも知れないけど、人の意見を100%でちゃんと理解出来るヤツなんて、ほとんど居やしないって思う。教えてやれる事には限界があるんだ。物わかりの悪いヤツなんかだと、なんかこっちまで面倒になってきちまうしな。"なんで俺、こんな事に貴重な時間費やしてんだろう、"なんてさ。」

 感謝されないんだからなおさらだ。"ありがとう"の魔法は解けてしまった。感謝の言葉が感謝の響きを失くしてしまった瞬間から、俺自身の考え方まで嫌なものと映った。

「なぁなぁで付き合うのが正解なんだろ? 本当の初心者に付き合って、100まで行くのか? こっちが足踏みしてまで? 何年掛かるか知れない、何人も後ろに連なってるのが見えるってのに? 俺はごめんだよ、そんな努力に回す時間があるなら、自分の実力を上げる方へ回す。」

 どうせ伝わらないって解かってる言葉をよ!

 言いたいだけ言って、覚悟決めて麻由美を見た。なんか言いたそうな目で俺を見てた。

 ああ、そうだよ。お前の通った道は、俺が通った道だよ。

 その先に何があるのかも、もう知ってるんだよ。

 麻由美は溜息を吐いた。

「そうなんだよね、キリがなくなっちゃう。」

 俺の絶望感はやっぱり麻由美に伝わることはなかった。

 軽いため息で、俺の心情の何が解かったつもりなんだよ、お前。

 もう俺は何も言わない。麻由美はまた、希望を棄てない明るい声で喋りだす。

「それはわたしも解かる。次から次から"見てください"って人は来るけど、前に書いた論評は読んでないの?って。他の人に書いた批評に書いてあるよね、って。……やっぱり無駄なのかな、わたしがやってる事。」

 拗ねたみたいに唇を尖らせて、麻由美は言葉をそれで閉じた。

 傲慢な悩みだと、聞く者によっては思うんだろう。無償奉仕で始めたくせに、対価を求めるのかって。

 受け取ってる側への非難なんて、とんと聞こえてきやしねぇ。当たり前の顔して、"ありがとう"で済ませやがる。それを感謝だなんて思ってたら大間違いだぞって、誰も言わないんだ。

 "ありがとう"の意味を誰も疑わない。

 形で受け取ったのなら形で返せって、それって間違ってるか?

 人に聞くより先にまず自力で解決しろって、なんで言っちゃいけないんだ。相手が彷徨いだすのは解かってるくせに、なぁなぁで濁して、本当のことは黙って、そのほうがよっぽど残酷じゃないのか。

 "ありがとう"で誤魔化して。薄々気付いてるから、深入りせずになぁなぁで済ます、その為に言ったくせに。相手のことなど考えてもないくせに、言わなきゃ気付かれないとか思ってるくせに。

 関わり合いになるのは嫌なくせに!

 ……ああ、だから嫌だったんだ。

 堂々巡りにしかならないんだから。自己嫌悪しか生まないんだから。

 麻由美もさすがに黙りこくって、言葉を出さなくなった。口を閉じたまま、開かれる気配はない。

 俺のこの内面の嵐なんぞ、彼女の知ったことじゃない。伝わることなどない。

 解かりきったことを、また突きつけられるだけの結末だ。

 商店街は途中からアーケードを備えた本格的なものに変わる。ざっと500メートルほどのこの道が、今日ほど長く感じられた日はない。

 いつまた、麻由美が口を開いて話を蒸し返してくるのかと、ひやひやしている。

 今日はもう一日中それの繰り返しだったような気がして、心底うんざりなんだ。

 アーケードの緩やかな坂を上ると、両側に迫っていた商店の軒が突然途切れる。急に視界が開けて、河川が現れる。小さい川だ。ちょっと洒落たデザインの橋が架かって、ちょっとした市民の憩いの場にもなっている。

 吐き気がする。また蒸し返されるのを恐れるあまりに、気分がリアルで悪くなる。

 橋の向こうは私鉄の駅舎とバスのロータリーで、タクシーが客待ちの列を作っていた。

 下の川では水草が速い流れの中で踊っている。その水草を掻き分けるみたいに、一人のおじさんが水の中に立って歩いているのが見えた。

 少しばかり白々しく、俺は呟きを落とす。

「おお、なにやってんだろ?」

 救いの神だ。

 なにやってんのかも気になるけど、無理やり話を終わらせるのには好都合の物珍しさだ。三月上旬とは言え、この寒空の下で、冷たい水の中でさ。ちらりと視線を流して麻由美の反応を窺ってしまうのは、やっぱり俺がヘタレなせいか。心から願ってしまう、もう止めよう。

 麻由美の真意は解からないけど、俺より先に欄干のほうへ近寄った。

 首を傾げて、堂々とおじさんを眺めている。

「清掃作業かな? さっきのボランティアさん達の仲間じゃないの?」

「川の中までか?」

 本当に、何をやってるんだろう?

 胴体まで覆う黒いゴムのズボンは魚屋の店主がよく着てるのと同じか。水中でもあれならさほど寒くはないのかも知れない。青いジャンパーを上から羽織り、防寒は完璧なのかも知れない。

 あの格好は他でも見覚えがあるぞ。確か……そう、テレビの何かの特番だった、底引き網の漁船か何かの船員があれと同じようなのを着てたのが映っていた。

 もしかして。そんな期待が急激に湧き上がった。

 それまで俺が知っていたこの河のリアルは、悲惨なものだったんだ。もしかして、それが知らない間に覆っていたのだとしたら?

 それまでの談義が吹っ飛ばされた。興味津々で眺めている二人の前で、おじさんは茶色いタモ網を広げた。大きく、綺麗に空中で広がって、水面へと落ちる。

 テレビじゃ何度か観た覚えもあるけど、実際に目にするのは初めてだ。なんか得した気分だ。

 やっぱり、期待は裏切られはしなかった。

 この河の悲惨さは取り除かれ、河川として立派に甦ったということなんだろう。死にかけていた河が、人の努力で生き返ったという証拠が、今、おじさんの手の中から放たれて、水面へと投げられたんだ。

 隣の真由美も声が弾んでいた。

「魚なんか獲れるのかな? ドブ川だよね、ここ。」

「いや、数年前からクリーン作戦とか言って、ボランティアの人が頑張ってた。」

 おじさんの投げた網は水中に沈み、おじさん自身はじっと何かを待つみたいに動きを止めた。テレビじゃ映らない場面にわくわくしてくる。ノーカットの映像が目の前に展開しているんだ。

 思い出して付け足した。

「市のエライ人とかも。」

 町をあげての一大活動だった。いつだったかには、市長がイベントの挨拶をしていたりもしたっけ。

 目はおじさんに釘付けで、フォローの説明とかもどうでもよくなってきたところだった。魚は住んでいるんだろうか、おじさんはそれを獲って食べるつもりだろうか、ボランティアの人たちがチラシを配っていた日の事が思い出された。

 ゴミの回収にご協力ください、募金活動にご協力ください。

 ポイ捨ては止めましょう、携帯灰皿を活用しましょう。

 こつこつ。こつこつ。

 なにか恥ずかしいものの傍を通るみたいに足を速めて通り過ぎたっけ。

 隣で麻由美が声を立てて笑った。

「ふぅん、そうなんだ。」

 ちょっと嬉しそうな、誇らしげな声だ。

 ボランティアが頑張って、この河をここまで綺麗にしてくれたって事が。

 今まで関心無かったくせに、知った途端に自分の手柄みたいな気分になるのはなんでだろう。けど、喜ばしいことを素直に喜ぶのは、別に間違いじゃないと思う。

 おじさんは、急にぴくりと動いて、そこから力強く網を引き揚げ始めた。

 ぐいぐいと、自信に満ちた両手が茶色い網を繰る。時折、銀色の光がチラチラと瞬いた。

 やっぱり、魚はこの河に戻っていた。

 慣れた手つきで作業を終えて、おじさんは岸のバケツに銀色の光を投げ入れていく。

 すぐ下の橋の影に目を移す。

 輝く水面に群れた魚影が映る。ゆったりと水草も泳いでいる。

 かつての姿は、投げ込まれた自転車が沈むヘドロだらけの黒い川だったのに。

「凄いよね、」

 麻由美が言った。

「努力が実った結果ってヤツだな、」

 俺も応えた。


 二人ともに、良い気分で電車に乗った。水を差す話題を避けて、ボランティア関連で盛り上がった。

 話はそのうち、小説談義に戻った。技巧の方面へわざと逸れていった。

 ゴツゴツしたビルの影で出来た地平線に、赤く煤けた夕日が落ちて行く。おじさんの釣果はどうだったろうとか、いつか河川沿いの散歩コースを歩いてみようとか、その時は麻由美も誘ってみようだとかを考えた。

 普段とあまり変わり映えしない心証がいつの間にか戻っていて、いつもの日常が繰り返されただけのような気がしている。遠い過去のように感じて、それよりもっと遠くへ押し流そうとしている。

 これは逃げなのかも知れないし、そうだったとしてももう考えるだけの余力はない気がしている。

 折角、気分よく一日が終わろうとしているんだから。

 努力の結果という希望を見いだせたんだから。

 これはやっぱり逃げじゃないんだろうか。

 だけど、麻由美はもう蒸し返してこないんだから、終わらせておいていいんじゃないか。

 電車は通常運行で、俺達を運んでいく。

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【文芸】”ありがとう”の魔法 柿木まめ太 @greatmanta

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